大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲 神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承
『古事記』は〈和銅5年(712)太安万侶(おおのやすまろ)編纂〉 第43代 元明天皇(げんめいてんのう)に献上された日本最古の歴史書とされています
構成は・序文・上巻(かみつまき)・中巻(なかつまき)・下巻(しもつまき)からなり
大国主神(おほくにぬしのかみ)が登場するのは「日本神話」とされる上巻(かみつまき)です
それでは
神話『古事記』に登場する 大国主神(おおくにぬしのかみ)の物語を 舞台に沿って訪ねていきましょう
はじまりは 稲羽之素菟(いなばのしろうさぎ)と八上比売(やがみひめ)
※各項の詳細ページには『古事記』の意訳文が載せてあります
目次
スポンサーリンク
①〈プロローグ〉
大国主神(おほくにぬしのかみ)の御祖(みおや)
次から始まる 大国主神の神話のプロローグとして 描かれる
須佐之男命(すさのをのみこと)の系譜が説かれ 大国主神の出生が紐解かれていきます
大国主神(おほくにぬしのかみ)の亦名(またのな)を 五つ挙げています
「大国主神(おおくにぬしのかみ)
亦名(またのな)は 大穴牟遅神(おほなむじのかみ)
亦名(またのな)は 葦原色許男神(あしはらしこをのかみ)
亦名(またのな)は 八千矛神(やちほこのかみ)
亦名(またのな)は 宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)
合わせて 五つの御名(みな)あり」
・刺田比古神社(和歌山市)
《主》刺国大神(大国主神の母神 刺国姫の父神)
『古事記』神話には
「此の神〈天之冬衣神〉刺国大神(さしくにおおかみ)の女(むすめ)名は 刺国若比売(さしくにわかひめ)を娶り産んだ子は 大国主神(おおくにぬしのかみ)」と記されます
・刺田比古神社(和歌山市片岡町)
詳細ページには この項の『古事記』の意訳文を載せてあります
須佐之男命(すさのをのみこと)の系譜が説かれ 大国主神の出生が紐解かれていきます 続きを見る
①〈プロローグ〉 大国主神(おほくにぬしのかみ)の御祖(みおや)
スポンサーリンク
➁稲羽之素菟(いなばのしろうさぎ)と 八上比賣(やがみひめ)
大穴牟遅神は 蒲の穂を使い病を治す医術を持つ神として 描かれる
大穴牟遅神(おほなむじのかみ)は 大勢の兄弟〈八十神(やそがみ)〉があり 彼らは 稲羽の八上比売(やがみひめ)と結婚したいと出かけて行く 大穴牟遅神は 従者として袋を負わさせ 連れて行かれた
その頃 淤岐島(おきのしま)にいた「菟(うさぎ)」は 本土に渡ろうと思い 海にいる 和邇(わに)を騙し 対岸 気多之前(けたのさき)まで並ばせ その上を踏んで走り うまい具合に進んだが 騙されたことに気付いた 和邇(わに)に捕まり 毛皮を剥がされてしまう
伏せる菟の前を 八十神が通りかかり「海水を浴び 風に当たって横たわれば良い」と言われ そのようにしてみると 皮膚が 風に吹かれて裂けた 苦しみ泣いていると 最後に 大穴牟遅神が通りかかり「すぐに河口へ行き 真水で体を洗い 蒲の花粉を敷き散らし 上に寝転がれば 必ずもとの膚のように治る」と教えた その通りにすると 元通りに治った
菟は 八上比売は 大穴牟遅神が得ることになると予言し その通りになる これが 稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)
・白兎神社(鳥取市白兎)《主》白兎神
『古事記』神話には
「これが 稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)今では 兎神(うさぎがみ)と云うなり」と記されます
・賣沼神社(鳥取市河原町)《主》八上比賣神(大国主神の妻神)
『古事記』神話には
「その兎(うさぎ)は 大穴牟遅神(おほなむじのかみ)に云いました「八十神(やそがみ)は 必ず 八上比売(やがみひめ)を得られません 袋を負っていても あなたが 獲(え)るでしょう
八上比売(やがみひめ)は 八十神(やそがみ)達に返答をしました
「わたくしは あなた方の言うことを聞けません 大穴牟遅神(おほなむじのかみ)の嫁となります」と記されます
詳細ページには この項の『古事記』の意訳文を載せてあります
スポンサーリンク
➂手間山 赤猪岩(あかいいわ)と貝女神(かいのめがみ)
大穴牟遅神は 蘇生 再生の力を持つ神として 描かれる
稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)は 八上比売(やがみひめ)は 大穴牟遅神(おほなむじのかみ)が得ることになると予言し その通りになる
八十神(やそがみ)の恨みを買い 大穴牟遅神は 手間山 赤猪岩(あかいいわ)で殺されます
母神が 天に昇り神産巣日之命にすがり請うと 貝女神(かいのめがみ)を遣わして 大穴牟遅神は生き返ります
・赤猪岩神社(南部町)《主》大國主神
『古事記』神話には
「八十神(yasogami)達は怒って 大穴牟遅神(onamuji no kami)を殺そうと思い 皆で話し合いました
そして伯耆国(hoki no kuni)の手間山(tema no yama)の麓(fumoto)に至って 言いました
「この山には 赤い猪(inoshishi)がいるらしい
我々が 赤い猪(inoshishi)を追い立てるので お前は 麓(fumoto)で待ち受けて捕らえなさい もし待ち受けて捕らえないなら 必ずお前を殺す」
猪(inoshishi)に似た「大きな石」に火をつけ 転がし落としましたので
麓(fumoto)で落ちてきた石を捕らえた時 すぐに焼け死んでしまいました」と記されます
・〈出雲大社 境内摂社〉伊能知比売神社(天前社)
《主》蚶貝比賣命 きさがいひめのみこと 蛤貝比賣命 うむがいひめのみこと
『古事記』神話には
「神産巣日之命(かみむすひのみこと)は 蚶貝比賣(きさがいひめ)と蛤貝比売(うむがいひめ)を大穴牟遅神(おほなむじのかみ)のもとに向かわせて 神を活かし(蘇生)ました」と記されます
・加賀神社(松江市)
《主》支佐加比売命(大国主神を蘇生した蚶貝比賣)
『古事記』神話には
「蚶貝比賣(kisagai hime)は 貝殻を削り 粉末にして 蛤貝比売(umugi hime)は その粉をハマグリの出す汁と一緒に溶いて
母の乳汁のように塗りつけたところ 〈大穴牟遅神(onamuji no kami)は〉立派で壮健な男となって 元気に蘇りました」と記されます
・法吉神社(松江市)
《主》宇武加比比賣命(大国主神を蘇生した蛤貝比賣)
『古事記』神話には
「蚶貝比賣(kisagai hime)は 貝殻を削り 粉末にして 蛤貝比売(umugi hime)は その粉をハマグリの出す汁と一緒に溶いて
母の乳汁のように塗りつけたところ 〈大穴牟遅神(onamuji no kami)は〉立派で壮健な男となって 元気に蘇りました」と記されます
詳細ページには この項の『古事記』の意訳文を載せてあります
スポンサーリンク
④木國(きのくに)大屋毘古神(おおやびこのかみ)
大穴牟遅神は 再び蘇生し 木の股をくぐり 難を逃がれ 厄難除けの力を持つ神として 描かれる
蘇生した大穴牟遅神(おほなむじのかみ)は 八十神(やそがみ)によって再び殺ろされます 又も 母神によって再び蘇生されて 木國(きのくに)〈和歌山県〉の大屋毘古神(おおやびこのかみ)の所へと逃されます
しかし 八十神は追い続け 矢を向けたので 大屋毘古神の助言で〈大穴牟遅神は〉木の股をくぐり 難を逃がれました
そして〈大穴牟遅神は〉須佐之男命(すさのをのみこと)の坐(ましま)す 根堅州国(ねりかたすくに)に参向(まいいでる)ことになります
・伊太祁曽神社(和歌山市)《主》五十猛命〈大屋毘古神〉
『古事記』神話には
「御祖命(みおやのみこと)〈母神〉が「お前はここに居たら 八十神(やそがみ)に滅ぼされる」そして 木國(きのくに)〈紀伊国〉大屋毘古神(おおやびこのかみ)のもとに遣わしました」と記されます
詳細ページには この項の『古事記』の意訳文を載せてあります
➄根堅州國(ねのかたすくに)の試練
葦原色許男神は 女性に好かれ 試練を乗り越える力を持つ神として描かれる
〈大穴牟遅神が〉根堅州国(ねりかたすくに)に到着すると すぐに須佐之男命(すさのをのみこと)の女(むすめ)須勢理毘売(すせりびめ)と恋に落ち 結婚をします
〈須勢理毘売(すせりびめ)〉「麗しい神〈大穴牟遅神〉が来られました」と父に報告をする 父の須佐之男命(すさのをのみこと)は これを見て「これは 葦原色許男(あしはらしこを)という神ぞ」と言われ 数々の試練を与えます しかし 妻の須勢理毘売に助けられて その試練を乗り越える
・那賣佐神社(出雲市東神西町)《主》葦原醜男命《配》須勢理姫命
『出雲国風土記』には
〈大国主命が 須佐之男命の御子で この里の岩坪で生誕せられたという須勢理姫(すせりひめ)命を娶り 通(かよ)い坐(まし)ました所〉と記されます
・岩坪明神〈神霊は 平安時代 那賣佐神社に合祀〉岩坪明神の旧鎮座地
詳細ページには この項の『古事記』の意訳文を載せてあります
⑥大国主神(おおくにぬしのかみ)と名乗る
大穴牟遅神は 愛と力を手に入れ 大国主神(おほくにぬしのかみ)として 国を造る神として描かれる
大穴牟遅神は 妻の須勢理毘売と須佐之男命の宝物の弓・矢・琴を持って 根堅州国から逃亡
須佐之男命(すさのをのみこと)は 追いかけて来て 言われました「お前が持つ 弓・矢で八十神(やそがみ)を追い伏せ 大国主神(おほくにぬしのかみ)と名乗れ
そして 我が娘 須勢理毘売(すせりびめ)を 妻と迎え 盤石の岩盤に太い宮柱を立て 天高く棟木を立て 宮殿を造れ こやつ」
大国主神は その大刀と弓を持って 八十神(やそがみ)を追避(おいさけ)て 国を作り始められた
・來次神社(雲南市木次町)《主》大己貴命
『出雲国風土記』には
〈大原郡 来次郷の条に 來以郷(きすきのさと)は 大己貴命が 八十神(やそがみ)を追廃(おいしりぞける)故事から 名付けられた〉と記されます
・三屋神社 旧跡地〈松本古墳群〉《主》大己貴命
『出雲國風土記733 AD.』には
「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)〈大国主大神〉の御門 すなわち此の処にあり 故に三刀矢(みとや)と云う」とあり 大国主大神が八十神を追い払い 宮居を定め国土経営を始められた所で 飯石郡 神祇官社「御門屋社(みとや)のやしろ」とされます
・三屋神社(雲南市三刀屋町給下)《主》大己貴命
現在 三屋神社(雲南市三刀屋町給下)の鎮座地は 松本古墳群の北に鎮座します
詳細ページには この項の『古事記』の意訳文を載せてあります
➆木俣神(きのまたのかみ) 亦名(またのな)は 御井神(みいのかみ)
稲羽の八上比売(やがみひめ)と大穴牟遅神(おほなむじのかみ)の御子神
大穴牟遅神(おほなむじのかみ)は 婚約していた 稻羽(いなば)の八上比売(やがみひめ)を出雲へと率いて来られた しかし〈八上比売は〉正妻 須勢理毘売(すせりびめ)を恐れて 生まれた子供を木の股に挟んで〈木俣神(きのまたのかみ)〉〈稲羽へ〉引き返されました
・御井神社(斐川町直江)《主》木俣神 (大国主神の御子神)
『古事記』神話には
「〈八上比売〉は 鏑妻(かひめ)〈正妻〉須勢理毘売(すせりびめ)を恐れて 生まれた子供を木の股に挟んで 引き返されました
故に その子は 木俣神(きのまたのかみ) 亦名(またのな)は 御井神(みいのかみ)とも申す」と記されます
詳細ページには この項の『古事記』の意訳文を載せてあります
⑧八千矛神(やちほこのかみ)の妻問い〈沼河比賣(ぬなかわひめ)〉
八千矛神(やちほこのかみ)は 武神〈いくさがみ〉でありながら 愛の歌を詠む 知性と教養のある神として描かれる
八千矛神〈大国主神〉が 高志国(こしのくに)に 美しく賢い女性〈沼河比売(ぬなかはひめ)〉が居ると聞き 結婚しようと通いました そして 求婚し 結ばれるシーンが 優雅な恋歌によって描かれます
これは 当時 祭祀〈政治(まつりごと)〉を司る上で 「玉(ぎょく・たま)」は 大変に貴重なもので 材料は 上質の翡翠(ヒスイ)原石であった 産出地の高志国〈王女 沼河比売〉は 重要な拠点とされていた これを 出雲〈八千矛神〉の勢力下へ併合する為に 婚姻関係を迫った時の 両国の駆け引きの様子が 〈王と王女の〉優雅な恋歌によって描かれたものとされます
・天津神社・奴奈川神社(糸魚川市)《主》奴奈川姫命 八千矛神
『古事記』神話には
「この 八千矛神(やちほこのかみ)高志国(こしのくに)沼河比売(ぬなかはひめ)と結婚しようと行かれた時 沼河比売(ぬなかはひめ)の家に着き 歌を詠まれた」と記されます
・白山神社(糸魚川市能生)
・奴奈川神社(糸魚川市田伏)
詳細ページには この項の『古事記』の意訳文を載せてあります
➈神語り(かむがたり)八千矛神(やちほこのかみ)と須勢理毘賣(すせりびめ)
武神の八千矛神(やちほこのかみ)は 夫婦円満の和合の神として 描かれる
八千矛神(やちほこのかみ)の御神名は 出雲の勢力を拡大した武神〈いくさがみ〉の神威を表します 婚姻関係が結ばれて 併合した各国には 各々の妻を持っていた
そこで 嫉妬(しっと)深い お妃(きさき)須勢理毘売(すせりびめ)と歌を交わした〈この歌は 神語り(かむがたり)〉とされ 仲睦まじく 酒盃を交わし 互いに手を掛け合い 今に至るまで出雲に 鎮(しずまり)坐(まします) と記されます
・大神大后神社(出雲大社 境内 御向社)《主》須勢理毘売命
『古事記』神話には
「お妃(きさき)須勢理毘売(すせりびめ)と歌を交わし 仲睦まじく 酒盃を交わし 互いに手を掛け合い 今に至るまで 鎮坐(しずまりまします)」と記されます
詳細ページには この項の『古事記』の意訳文を載せてあります
⑩大国主神(おおくにぬしのかみ)系譜〈迦毛大御神(かものおほみかみ)〉
大国主神は 偉大な神々「迦毛大御神・事代主神など」の御祖神(みおやのかみ)として 描かれる
大国主神(おおくにぬしのかみ)の子孫は やがて 大和国の創成期の皇室に絶大な影響をあたえることになります
『延喜式』〈延長5年(927)〉巻八
『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)』に現れる 皇御孫命〈天皇〉の守護神
「その時 大穴持命は
御自分の和魂を 倭の大物主なる櫛厳玉命と御名を唱え 大御和の社〈大神神社〉に坐(ましま)す
御自分の御子 阿遅須伎高孫根命(あぢしきたかひこねのみこと)の御魂を 葛木の鴨の社〈高鴨神社〉に坐(ましま)す
御自分の御子 事代主命(ことしろぬしのみこと)の御魂を 宇奈提〈河俣神社〉に坐(ましま)す
御自分の御子 賀夜奈流美命の御魂を 飛鳥の社〈飛鳥坐神社〉に坐(ましま)す
〈御自分の和魂と三柱の御子神を〉皇御孫命〈天皇〉の守護神として置かれた
〈御自分は〉杵築宮〈出雲大社〉に坐(ましま)す」と記されます
『古事記』にある数々の神々の中で 神名に「大御神(おほみかみ)」と称する神は 二柱のみ
皇祖 天照大御神(あまてらす おほみかみ)と 迦毛大御神(かもの おほみかみ)
大国主神(おおくにぬしのかみ)の子孫は なだたる神々が記されますが
中でも 阿遅鋤高日子根神(あぢしきたかひこねのかみ)は 迦毛大御神(かものおほみかみ)とされ 『古事記』では 皇祖 天照大御神と同様の〈大御神(おほみかみ)〉の神名を称号されます
初期の朝廷〈第9代開化天皇(かいかてんのう)までの葛城王朝とも〉を支えたのは 古代豪族 葛城(かつらぎ)の鴨氏(かもうじ)とされ 葛城山麓の高天原(たかまのはら)に居て その御祖(みおや)は〈迦毛大御神〉であり 彼らは 弥生中期頃に平坦地に降り 水稲農耕を営み 田の神として 事代主神(ことしろぬしのかみ)を祀っていました
・高鴨神社(御所市鴨神)《主》味耜高彦根命(迦毛之大御神)
『古事記』神話には
「大国主神(おおくにぬしのかみ)が 胸形(むなかた)〈宗像〉の奥津宮(おきつみや)に坐(ましま)す 多紀理毘売命(たきりびめのみこと)を娶り産んだ子は
阿遅鋤高日子根神(あぢしきたかひこねのかみ)
次に妹の高比売命(たかひめのみこと) 亦名(またのな)は 下光比売命(したてるひめのみこと)
阿遅鋤高日子根神(あぢしきたかひこねのかみ)は 今は 迦毛大御神(かものおほみかみ)と申す神なり」と記されます
詳細ページには この項の『古事記』の意訳文を載せてあります
大国主神(おほくにぬしのかみ)の子孫は やがて 大和国の創成期の皇室に 絶大な影響をあたえていきます 続きを見る
⑩大国主神(おおくにぬしのかみ)系譜〈迦毛大御神(かものおほみかみ)〉
⑪小名毘古那神(すくなひこなのかみ)と久延毘古(くえびこ)
大国主神と小名毘古那神の二柱の神は 並んで
この国〈日本〉を作り堅めた "国造りの神"として 描かれる
大国主神(おおくにぬしのかみ)が 出雲の御大御埼(みほのみさき)にいた時 小名毘古那神(すくなひこなのかみ)が 海の彼方から天羅摩船(あまのかがみのふね)に乗って寄り帰り来た
この神のことは 誰もわからなかったが 久延毘古(くえびこ〈山田の案山子〉が知っていて 神産巣日神(かみむすひのかみ)の手の股またからこぼれて落ちた御子神と知ることになった
神産巣日神の命令により 大国主神と小名毘古那神の二柱の神は 並んで〈共に偉大な神として〉 この国〈日本〉を作り堅めました
その後 小名毘古那神は 常世(とこよ)に渡られました
・天神社(あまつかみのやしろ)《主》少彦名命(すくなひこなのみこと)
『古事記』神話には
「大国主神(おおくにぬしのかみ)が 出雲の御大の御前〈美保岬〉にいたときに波立つ上に 天の羅摩船(あめのかがみのふね)に乗りて小名毘古那神(すくなひこなのかみ)が寄られた」と記されます
・粟嶋神社(米子市 彦名町)《主》少彦名命
『古事記』神話には
「その後 その 小名毘古那神(すくなひこなのかみ)は 常世国(とこよのくに)へと渡られました」と記されます
・手間天神社(松江市竹矢町)《主》少名毘古那神
『雲陽志(unyo shi)』には
「竹屋「手間天神」 少彦名神の神廟なり 本社南向 寛文三年(1663)太守源直政公造営棟札ありと記され
『古事記』に記される少名毘古那神が 手間天神と呼ばれる由来〈神産巣日神(カミムスビカミ)の手の股またからこぼれて落ちた子ども〉が描写され 菅原道真公を祀る菅原天神とは誤りである 出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)の「塩盾島(しおたてしま)」とある と記しています
・目久美神社(米子市目久美町)《主》素盞鳴尊(すさのをのみこと)久延毘古命(くえびこのみこと)《合》菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
『古事記』神話には
「この 小名毘古那神(すくなひこなのかみ)のことを申し上げた 久延毘古(くえびこ)〈案山子〉というのは 今 山田の曽富騰(そほど)〈山田の案山子〉といいます この神は 足では歩あるきませんが 天下のことをすっかり知っている神です」と記されます
・久延彦神社(桜井市三輪)〈大神神社 末社〉《主》久延毘古命(くえびこのみこと)
『大神神社史〈1975年 大神神社社務所発行〉』によれば 〈久延彦神社(くえひこじんじゃ)は〉神代よりこの地に祀られると伝わります
詳細ページには この項の『古事記』の意訳文を載せてあります
⑫幸魂奇魂・御諸山(みもろやま)に坐(ましま)す神
御諸山(みもろやま)に 坐(ましま)す神は
大和国(やまとのくに)を治める神 として描かれる
〈小名毘古那神(すくなひこなのかみ)が 常世に渡られてしまい〉大国主神(おほくにぬしのかみ)は 一人で国造りをすることとなり 憂いていると 海を光(てら)して 依来(よりくる)神があった これが 大和国(やまとのくに)御諸山(みもろやま)に 坐(ましま)す神 とされます
・大神神社(桜井市三輪)《主》大物主大神《配》大己貴神 少彦名神
『古事記』神話には「私を 大和国(やまとのくに)を 青々と取り囲んでいる山々 その東の山上に斎(いつ)き 祀れ と答えられた
これが 御諸山(みもろやま)に坐(ましま)す 神なり」と記されます
詳細ページには この項の『古事記』の意訳文を載せてあります
⑬大年神(おおとしのかみ)・羽山戸神(はやまとのかみ)の系譜
大年神(おおとしのかみ)・羽山戸神(はやまとのかみ)の系譜
〈大国主神が 耕作の神として 時間・空間を越えた支配と統治を神格化したものか〉
〈穀物神〉大年神(おほとしのかみ)は 『古事記』には 須佐之男命と神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の御子神と記されます 兄弟神には 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)があり これも〈穀物神〉です
さらに 大年神と香用比売(かぐよひめ)の御子神に〈穀物神〉御年神(みとしのかみ)が続きます
羽山戸神(はやまとのかみ)は 山の麓の神で 耕作から収穫までの一年の農耕の模様を意味する神とされます
・大歳社〈出雲大社 境外末社〉《主》大歳神(おほとしのかみ)
素戔鳴尊(すさのをのみこと)の御子神 五穀を守護される神
〈耕作に関する大国主神の支配する時間・空間の神格化とする説があり〉
・葛木御歳神社(御所市東持田)《主》御歳神(みとしのかみ)
詳細ページには この項の『古事記』の意訳文を載せてあります
⑭豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)
天照大御神は この 葦原中国(あしはらのなかつくに)は 我が子が 治める所の国であると定めた
〈神産巣日神の命令により 大国主神と小名毘古那神の二柱の神は 並んで この国〈日本〉を作り堅めた時〉
天照大御神(あまてらすおほみかみ)は この 葦原中国(あしはらのなかつくに)は 我が子 正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)が 治める所の国であると定めた と命を下された
天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が 天浮橋(あまのうきはし)に立たれて 下界を眺めると「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみずほのくに)は ひどく騒がしく有るな」と言われた
そこで 神々が集い 思金神(おもいかねのかみ)が考え 天菩比神(あめのほひのかみ)を 遣(つかわ)しましたが 大国主神(おほくにぬしのかみ)に 媚(こび)て 三年経っても返事もありませんでした
・英彦山神宮(福岡県田川郡添田町大字英彦山)
《主》正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)
御由緒書きには
英彦山は 古来から神の山として信仰されていた霊山で 御祭神が天照大神(伊勢神宮)の御子 天忍穂耳命であることから「日の子の山」即ち「日子山」と呼ばれていました とあり
一つの伝承には
英彦山は 祭神 忍骨命〈天忍穂耳命〉の降臨された地〈天下りした山〉で 山上に一祠が建てられたのが 神社の起源と伝わる
・天穗日命神社(鳥取市福井)《主》天穗日命
『古事記』神話には
「思金神(おもいかねのかみ)と八百万神(やおよろずのかみ)は 話し言い合い
「天菩比神(あめのほひのかみ)を 遣(つかわ)すのがよい」
そこで 天菩比神(あめのほひのかみ)は 遣(つかわ)されましたが すぐに大国主神(おほくにぬしのかみ)に 媚付(こびへつらい)三年経っても御返事申し上げませんでした」と記されます
出雲国造家から見た 天穂日命(あめのほひのみこと)について
『記紀神話』〈大和朝廷〉では 天菩比神(あめのほひのかみ)は 国土平定の第一の使者に選ばれ天上から派遣されるが 葦原中国で大国主神に媚付(こびへつらい)三年経っても復命しなかった 背信者として語られます
一方 出雲国造〈現在まで出雲大社に奉仕する氏〉は 御祖神(みおやのかみ)として 天穂日命(あめのほひのみこと)を祀っていて 正反対の立場にあります
『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)』には
天神の使者となり 地上の様子を視察し 子の天夷鳥命と布都怒志命を派遣し 荒ぶる神々を鎮圧し 大国主神を媚び鎮めて〈神意に沿った祭りを行い 神の御心を鎮めて〉国譲りを誓わせた 使命を遂行した平定の功労者として語られます
・天穗日命社〈出雲國造家鎮守社〉(出雲市大社町杵築東)《主》天穗日命 は 千家家 北島家にあり
『延喜式』〈延長5年(927)〉巻八『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)』には
「高天原の神王 高御魂命(たかみむすひのみこと)が 皇御孫命(すめみまのみこと)〈瓊瓊杵尊〉に 天下の大八嶋国の国譲りを仰せになられました時
出雲臣達の遠祖 天穂日命(あめのほひのみこと)を国土の形成を覗う為にお遣わしになられました 時に 幾重にも重なった雲を押し分けて 天を飛翔し 国土を見廻られて 復命して申し上げられました事は「豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)は 昼は 猛烈な南風が吹き荒れるように荒ぶる神々が騒ぎ 夜は 炎が燃えさかるように光り輝く恐ろしい神々がはびこっております 岩も樹木も青い水の泡までもが 物言い騒ぐ荒れ狂う国でございます
然れども これらを鎮定服従させて 皇御孫命には 安穏平和な国として御統治になられますようにして差し上げます」と申されて
御自身の御子 天夷鳥命(あめのひなとりのみこと)に布都怒志命(ふつぬしのみこと)を副へて 天降しお遣わしになられまして 荒れ狂う神々を悉く平定され 国土を開拓経営なされました大穴持大神を 媚ひ鎮めて〈神意に沿った祭りを行い 神の御心を鎮めて〉大八嶋国の統治の大権を 譲られる事を誓わせになられました」と記されます
・出雲〈千家〉國造家鎮守社(大社町杵築東)
・出雲〈北島〉國造家鎮守社(大社町杵築東)
・氏社(北)〈出雲大社 境内社〉 《主》天穗日命
出雲大社の境内「北側のお社」の御祭神は 天穂日命(ameno hohi no mikoto)をお祀りしています
天照大御神(amaterasu omikami)の御子神で 大御神から 出雲大社(izumo ooyashiro)の祭祀を司るように命じられます
以来 その神裔の「出雲国造千家家」が 現在に至るまで「大国主大神(okuninushi no okami)」にお仕えしています
・出雲大社(出雲市)【後編】に記載
詳細ページには この項の『古事記』の意訳文を載せてあります
⑮天若日子(あめのわかひこ)・雉(きじ)の鳴女(なきめ)
葦原中国(あしはらのなかつくに)を獲ようとした天若日子
〈葦原中国(あしはらのなかつくに)への使者として 天菩比神(あめのほひのかみ)を 遣(つかわ)しましたが すぐに大国主神(おほくにぬしのかみ)に 媚付(こびへつらい)三年経っても返事をしませんでした〉
新たに 天若日子(あめのわかひこ)を 遣(つかわ)せましたが 大国主神の娘 下照比売(したてるひめ)を娶り その国を獲(え)ようと企(たくら)み これも八年経っても 返事することもありませんでしたので 雉(きじ)の鳴女(なきめ)を使いとして 差し向けます しかし 天若日子は これを矢で射殺してしまい 天からの返し矢によって命を落とします
・宗形神社(米子市宗像)《主》天ノ稚彦命
『伯耆民談記(hoki mingenki)〈寛保2年(1742年)〉』には
「祭る所の神は 天ノ稚彦命なり この命は天照大神の勅使として下界に降臨し玉ひぬ 大己貴命の姫 下照姫を娶り 名無雉を射殺し給ふ 依之大己貴命の神系に入れ給うなり」と記されます
天若日子(あめのわかひこ)・雉鳴女(きじのなきめ)・天佐具売(あめのさぐめ)の伝承地〈美濃国(みののくに)喪山(もやま)〉
美濃国(みののくに)喪山(もやま)の伝承地のひとつ 喪山天神社の近辺には 「喪山(もやま)神話」伝承遺蹟があります
「喪山(もやま)神話」伝承遺蹟の説明
①喪山(もやま)
・・・阿遅志貴髙日子根神(あじしきたかひこねのかみ)の蹴った「喪屋」が飛んで行った所「この地」です。天若日子を祀る。
➁雉射田(きじいだ)
・・・天若日子が、射落とした雉が落ちた場所。
➂かつら洞
・・・雉鳴女がとまった、「湯津楓」の木があったとされる場所。
④矢落街道(やおちかいどう)(日室坂(ひむろざか)ともいう)
・・・天照大御神からの、返し矢が落ちて来た場所。日室とは、喪山から見て太陽の射す方向を言う。
➄渡来川(わたらいがわ)
・・・返し矢が流れて来た川。
⑥大矢田(おやた)
・・・大きな矢の落ちた田と云うと言い伝えから大矢田の地名となる。
➆誕生山(たんじょうさん)
・・・天若日子の召使いの神、天探女(あめのさぐめ)を祀る。(現在は、極楽寺の八幡神社に合祀している)
・喪山天神社(美濃市大矢田)
詳細ページには この項の『古事記』の意訳文を載せてあります
⑯阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)高比賣命(たかひめのみこと)
阿遅志貴高日子根神 天若日子(あめのわかひこ)は とても良く似ていた二柱の神
天にいる 天若日子(あめのわかひこ)の父親と その妻子が 八日八夜の間 踊り食べて飲み遊び 死者を弔いをしている時
阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)が 弔問においでになられると 天若日子の父親と その妻子が 阿遅志貴高日子根神を天若日子と間違えます この二柱がとても似ていたからです
阿遅志貴高日子根神は 死者と間違えられて怒り 喪屋(もや)を切り伏せ 足で蹴り飛ばしてしまいました
阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)が 怒り飛び去ったとき 妹の高比売命(たかひめのみこと)が その御名を明かそうと 歌を詠います
・阿須伎神社(出雲市)《主》阿遅須伎高比古根神
『古事記』神話には
「その伊呂妹(いもうと)の高比売命(たかひめのみこと)が その御名を明かそうと 歌を詠うと
天上の機織女(はたおりめ)の首に懸けている珠(たま)の飾り その珠(たま)のように 谷二つを一度に渡られるような 阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)でございます
と歌いました この歌は夷振(ひなぶり)です」と記されます
・倭文神社(湯梨浜町)〈伯耆国の一之宮〉
《主》建葉槌命 下照姫命 事代主命 建御名方命 少彦名命 天稚彦命 味耜高彦根命
社伝には
「大国主命の娘神 下照姫命(したてるひめのみこと)が 一匹の海亀の導きによって 宇野の海岸に着船して この小高い丘からの眺めに癒され 住居を定め 農業指導や 医薬普及に努め人々から敬われた」と伝わります
詳細ページには この項の『古事記』の意訳文を載せてあります
⑰天鳥船神(あめのとりふねのかみ)建御雷神(たけみかづちのかみ)
葦原中国(あしはらのなかつくに)への最終使者
天照大御神(あまてらすおほみかみ)は 次なる 葦原中国(あしはらのなかつくに)への使者として 天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を 建御雷神(たけみかづちのかみ)に添えて 遣(つかわ)しました
・鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)《主》武甕槌大神
『古事記』神話には
「天照大御神(あまてらすおほみかみ)は 次なる 葦原中国(あしはらのなかつくに)への使者として 伊都之尾羽張神(いつのをはばりのかみ)がよろしい もし この神でなければ その神の子 建御雷之男神(たけみかづちのかみ)を遣(つかわ)すべきでしょう
しかし 天尾羽張神(あめのをはばりのかみ)は 天安河(あめのやすのかわ)の水を塞(せ)き止め 逆流させ 道を塞ぎ 他の神では進めませんので 天迦久神(あめのかくのかみ)〈鹿神〉を 遣(つかわ)してみましょう」と記されます
・石船神社(茨城県東茨城郡城里町)《主》鳥之石楠船神〈天鳥船神〉
『古事記』神話には
「そこで 天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を 建御雷神(たけみかづちのかみ)に添えて 遣(つかわ)しました」と記されます
詳細ページには この項の『古事記』の意訳文を載せてあります
⑱国譲り(くにゆずり)伊那佐之小浜(いなさのおはま)
国譲りの舞台〈伊那佐の小浜〉から 出雲大社(いずものおほやしろ)〈多芸志之小浜(出雲大社のご鎮座地の古名)〉の建立
天照大神の使いとして 天鳥船神(あめのとりふねのかみ)と建御雷神(たけみかづちのかみ)が 出雲国の 伊那佐の小浜(いなさのおはま)に降り立ち 大国主神(おおくにぬしのかみ)に 国譲り(くにゆずり)を迫ります
大国主神は 我が子 八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)に聞けと申されたので
使いの 天鳥船神は 御大御前(みほのさき)〈美保関〉に釣りに出かけられていた 事代主神を迎えに行き「伊那佐の小浜(いなさのおはま)」に連れ帰り問います
事代主神は 天照大神へ国を献上することを承諾し 船を「青柴垣(あおふしがき)」に変化させ その中に籠ります
大国主神(おおくにぬしのかみ)には もう一人の意見を云う子 建御名方神(たけみなかたのかみ)があり 使いの 建御雷神(たけみかづちのかみ)に対して力比べを挑みます しかし 建御雷神に敗れ敗走し 諏訪の海〈長野県 諏訪湖〉のほとりへ追い詰められ 国譲りを承諾します
これにより 大国主神は 二つの条件付きで国譲りを承諾します
条件 その一は 底津石根〈地底〉に太い柱を立て 空に高々とそびえる神殿を建てれば 遠い幽界に下がる
条件 その二は 我が子の百八十神〈大勢の神〉は 八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)が 神々の前に立てば 背く神は居ない
そうすれば 自らも国を譲ることを承諾する というもの
天神は 出雲国の多芸志の小浜(たぎしのおはま)〈出雲大社のご鎮座地の古名〉に 大国主神のための 神聖な宮殿を造りました
櫛八玉神(くしやたまのかみ)が 料理人として 神聖な神饌を献上する様子がしるされています
・因佐神社(出雲市)《主》建御雷神
『古事記』神話には
「天鳥船神(あめのとりふねのかみ)と建御雷神(たけみかづちのかみ)は 出雲国の 伊那佐の小浜(いなさのおはま)に降り立ち 大国主神(おおくにぬしのかみ)に 国譲り(くにゆずり)を迫りました」と記されます
・大穴持伊那西波岐神社(出雲市大社町鷺浦)《主》稲背脛命
『古事記』神話の「天鳥船神(あめのとりふねのかみ)」と『日本書紀』の「稲背脛(いなせはぎ)」は同じ役割を果たしています
『日本書紀』には
「事代主神(ことしろぬしのかみ)は 出雲美保崎(みほのさき)に居て 釣りを楽しまれていた あるいは鳥を射ちに行っていた
そこで 熊野の諸手船(もろたぶね)に 使者として 稲背脛(いなせはぎ)を乗せて向かわせた そして 高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の言葉を事代主神にお伝えし そのお返事を尋ねた」と記されます
・美保神社(美保関町美保関)《主》三穂津姫命 事代主神
『古事記』神話には
「ここに 大国主神(おほくにぬしのかみ)は「私は返答を申し上げません 私の子 八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)がご返答をするでしょう しかし 今 鳥を狩ったり 魚を取ったり 美保の岬(みほのみさき)に出掛けていて まだ帰って来ておりません」と申し上げました
そこで 建御雷神(たけみかづちのかみ)は 天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を遣わして 八重事代主神を呼び寄せて その意向をお尋ねになった時に 八重事代主神は 父の大国主神に語って「畏れ多いことでございます この葦原中國(あしはらのなかつくに)は 天神(あまつかみ)の御子孫に奉りましょう」と言って
ただちに船を踏んで傾けて 天の逆手(あまのさかて)という柏手をして 船を青柴垣に変えさせ その中にご鎮座されました」と記されます
・諏訪大社 上社 前宮(茅野市)《主》建御名方神 八坂刀売神
『古事記』神話には
「建御名方神が〈建御名方神を〉追つて 科野国の州羽の海〈長野 諏訪湖〉に追い詰めて 殺そうとしたとき 建御名方神(たけみなかたのかみ)の申されるには「恐れ多いこと 私をお殺しなさいますな この諏訪の地から 他の土地には出まい また 私の父 大國主神の言葉に背きますまい この葦原中国(あしはらなかつくに)は 天神(あまつかみ)の御子の仰せにまかせて献上致しましよう」と記されます
・湊社(出雲市)《主》櫛八玉神(水戸神の孫)〈出雲大社の境外摂社〉
『古事記』神話には
「大国主神(おほくにぬしのかみ)のための神聖な宮殿を造りました その時
水戸神(みとのかみ)の孫 櫛八玉神(くしやたまのかみ)を 料理人として 神聖な神饌を献上する時に
祝詞を唱えて 櫛八玉神が 鵜(う)の姿となって 海底にもぐり 海底の粘土を咥えてきて それで 神聖な平たい土器(皿)をつくり 海草の茎を刈り取って 火を切り出す燧臼(ひきりうす)を作り
また 別の海藻の茎で 火をきりだす燧杵(ひきりきり)を作り 神聖な火をきりだして言いました「私がきりだした火は 高天原の神産巣日御祖の命(かみむすひのみおやのみこと)の立派な宮殿の煤(すす)が 長々と垂れ下がるまで 焚き上げ 大地の下は 地底の岩盤に届くまで焚き固まらせて
長い長い楮(こおぞ)の木の皮で作った 釣縄を(延縄漁のように)海中に打ち延ばして 海女(あま)が釣り上げた 口が大きく尾鰭も大きい立派な鱸(すずき)をざわざわと賑やかに引き寄せて上げて 鱸(すずき)を載せる台が たわむくらいに沢山盛って 神聖な魚の料理を奉ります」と申し上げました」と記されます
・出雲大社(出雲市)《主》大国主大神
『古事記』神話には「大國主神に問われた「あなたの子 事代主神・建御名方神 お二柱の神は 天神の御子の仰せに従うと申しました あなたの心はどうですか」
そこでお答え申しますには
私の子どもの二柱の神の申し上げた通りに 私も誓ってはそむきません この葦原中国(ashihara nakatsukuni)は 仰せの通りに献上いたします
ただし 私の住むところは 天つ神の御子が 天つ日嗣(amatsu hitsugi)を継がれて 天照大御神の御心のままに納められている立派な神殿のように
地底の岩盤に届くほどに太い宮柱を立てて 高天原に届くように千木を高々とつけて 神殿を建てるならば
多くの曲がり角を 曲がり曲って 私は遠い幽界(yukai)に隠れておりましょう
また 私の子どもの「百八十神(yaso gami)」たちは 八重事代主神「(yae kotoshironushi no kami)」が 先頭に立てば また しんがりとなって お仕えしたならば 背く神は 一神も居ないでしょう」と申し上げました
このように大国主神(okuninushi no kami)が申し上げて
「出雲国の多芸志の小浜(tagishi no obama)」(出雲大社のご鎮座地の古名)に大国主神(okuninushi no kami)のための神聖な宮殿を造りました」と記されます
詳細ページには この項の『古事記』の意訳文を載せてあります