埼玉県
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下総国 式内社 11座(大1座・小10座)について
下緫国(しもふさのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 下緫国の 11座(大1座・小10座)の神社です
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武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について
武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 武蔵国の 44座(大2座・小42座)の神社です
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久保島大神社(熊谷市久保島)
久保島大神社(くぼじまだいじんじゃ)は 明治42年(1909)政令により『一村一社』とする為 久保島村にあった 二柱神社 及び 神明社をはじめとする無格社7社をそれらの境内社と共に 村で規模が最も大きい 山神社 に合祀して 山神社を村社に昇格の上 改称して 久保島大神社が誕生しました この山神社は 式内社の参考論社でもあります
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楡山神社(深谷市原郷)
楡山神社(にれやまじんじゃ)は 創建年代等は不詳ですが 第5代 孝昭天皇の御代〈紀元前〉の御鎮座という言い伝えがあり 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 四座」のうちの一社「楡山神社」の論社です
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東別府神社(熊谷市東別府)
東別府神社(ひがしべっぶじんじゃ) は 創建年代等は不詳です 鎮座地 別府の地名由来は 平安末期頃 国府の支庁である別府が置かれていた為 又は 別府小太郎清重の在名から名付けられた地名とも云われ 居城の東別府城には 別府氏(藤原氏)の氏神 奈良の春日大社から分祀し 天正18年(1590)の落城まで 城の鎮守であったと伝わります 跡地には 明治42年に埋鳥の村社 榛名神社を合祀して 東別府神社と改称しました『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載「武蔵国 幡羅郡 白髪神社」の論社とされています
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白髪神社(熊谷市妻沼)
白髪神社(しらかみじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 白髪神社」の論社です 社伝によれば「継体天皇(ケイタイテンノウ)勅し 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)而して 毎州祭に白髪神社」とあります 又 第22代 清寧天皇〈即位480~484年頃〉の白髪部との係わりがあるとされます
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知形大神社(深谷市田中)
知形大神社(ちかたじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「武蔵国 幡羅郡 田中神社」の3つの論社のひとつです 『大日本地名辞書』〈明治40年(1907)〉には 鎮座地の田中の地名について 知形明神が式内社の田中神社なので 田中という村名となっていると記しています
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三ヶ尻八幡神社(熊谷市三ケ尻)
三ヶ尻八幡神社(みかじりはちまんじんじゃ)は 天喜4年(1056)に鎮守府将軍 源頼義と嫡男 八幡太郎義家が 奥州出陣〈前9年の役〉にあたり 戦勝祈願したとされる古社です 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 田中神社」の論社とも云われています
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八幡塚旧跡〈白幡八幡社 旧鎮座地〉(寄居町赤浜)
八幡塚旧跡は 井椋神社に合祀された 字栗坪にあった祠「白旗八幡社」の旧鎮座地の跡になります 従って『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社の跡地ですが 延喜式の時代(927年)には 当地に鎮座していたことになります
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塚田三嶋神社(寄居町赤浜)
塚田三嶋神社(つかだみしまじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 稲乃賣神社」の論社です 神社に伝わる鰐口は「武藏国男衾郡塚田宿三嶋宮鰐口 応永2年(1395)乙亥3月27日」とあり 塚田は中世に鋳物業が盛んであったと伝えられ この鰐口も地元在住の鋳物師によって造られたものと考えられています