⑯阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)高比賣命(たかひめのみこと)

阿遅志貴高日子根神 天若日子(あめのわかひこ)は とても良く似ていた二柱の神

天にいる 天若日子(あめのわかひこ)の父親と その妻子が 八日八夜の間 踊り食べて飲み遊び 死者を弔いをしている時
阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)が 弔問においでになられると 天若日子の父親と その妻子が 阿遅志貴高日子根神を天若日子と間違えます この二柱がとても似ていたからです

阿遅志貴高日子根神は 死者と間違えられて怒り 喪屋(もや)を切り伏せ 足で蹴り飛ばしてしまいました

阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)が 怒り飛び去ったとき 妹の高比売命(たかひめのみこと)が その御名を明かそうと 歌を詠います

阿須伎神社(出雲市)《主》阿遅須伎高比古根神

『古事記』神話には
その伊呂妹(いもうと)の高比売命(たかひめのみこと)が その御名を明かそうと 歌を詠うと
天上の機織女(はたおりめ)の首に懸けている珠(たま)の飾り その珠(たま)のように 谷二つを一度に渡られるような 阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)でございます
と歌いました この歌は夷振(ひなぶり)です」と記されます

倭文神社(湯梨浜町)伯耆国の一之宮
《主》建葉槌命 下照姫命 事代主命 建御名方命 少彦名命 天稚彦命 味耜高彦根命

社伝には
大国主命の娘神 下照姫命(したてるひめのみこと)が 一匹の海亀の導きによって 宇野の海岸に着船して この小高い丘からの眺めに癒され 住居を定め 農業指導や 医薬普及に努め人々から敬われた」と伝わります

・高鴨神社(御所市鴨神)

《主》阿遅志貴高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)
 迦毛之大御神〉〈かものおほみかみ〉

《配》事代主命(ことしろぬしのみこと)
《配》阿治須岐速雄命(あじすきはやをのみこと)
《配》下照姫命(したてるひめのみこと)
《配》天稚彦命(あめのわかひこのみこと)
《配》七十五座(神名秘伝)

由緒

御祭神 味鋤高彦根命は、出雲の大国主神の御長男に座し、遠い神代の昔、御父神を援けて、諸国を廻り、山野を開拓して、人民に農業の道を教え、我が国文化の発展に大きな功績を残し給うた神でありますが、その御神徳の広大なことは、その御神名によるも、充分拝察されるのであります。

而して大神は、その後御父神にすすめて、天孫に此の国土を奉り給ひ、御親らは、皇室の近き守り神として、大和の葛城の鴨の地に御鎮りになりました。

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『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承

【抜粋意訳】

天若日子(あめのわかひこ)の妻 下照比売(したてるひめ)の泣く声が 風に乗り響き 天まで届きました

天に在る 天若日子(あめのわかひこ)の父親 天津国玉神(あまつくにたまのかみ)と その妻子が 聞き 降りて来て 嘆き悲しみました

そこに 喪屋(もや)を作り 川雁(かはがり)を死人の食物を持つ役とし 鷺(さぎ)を箒(ほうき)持ちの役とし 翠鳥(かわせみ)を御料理人役とし 雀(すずめ)を碓女(うすめ)〈碓をつく女〉役とし 雉(きじ)を哭女(なきめ)役とし そのように定めて 八日八夜の間 踊り食べて飲み遊び 死者を弔いました

この時 阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)が 弔問においでになられた時に
天から降って来た 天若日子(あめのわかひこ)の父や妻が 泣いて言うには
「わたしの子は死んでいなかった」「わたしの君は死ななかった」と
阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)の手足にすがり 嘆き悲しみました 

このように 父と妻が 天若日子(あめのわかひこ)と 阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)の二柱を間違えたのは この二柱がとても似ていたからです

阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)は とても怒りました
「わたしは 愛しい友だから 弔いに来た どうして私を 穢れた死者と比べるのか」と言い 佩(は)かれていた十拳剣(とつかのつるぎ)を抜いて 喪屋(もや)を切り伏せ 足で蹴り飛ばしてしまいました

これが 美濃国(みののくに)の藍見河(あいみがわ)の河上の「喪山(もやま)」になりました
そのときに持って切った太刀の名は「大量(おおばかり)」といい 亦名(またのな)は 神度剣(かんどのつるぎ)ともいいます

阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)が 怒り飛び去ったとき その伊呂妹(いもうと)の高比売命(たかひめのみこと)が その御名を明かそうと 歌を詠うと

"天上の機織女(はたおりめ)の首に懸けている珠(たま)の飾り その珠(たま)のように 谷二つを一度に渡られるような 阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)でございます"
と歌いました この歌は夷振(ひなぶり)といいます

【原文参照】

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

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喪山(もやま)伝承地について

古事記にある

阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)は とても怒りました
「わたしは 愛しい友だから 弔いに来た どうして私を 穢れた死者と比べるのか」と言い 佩(は)かれていた十拳剣(とつかのつるぎ)を抜いて 喪屋(もや)を切り伏せ 足で蹴り飛ばしてしまいました

これが 美濃国(みののくに)の藍見河(あいみがわ)の河上の「喪山(もやま)」になりました

喪山(もやま)伝承地は 美濃国(みののくに)に 二ヶ所あります

喪山天神社美濃市大矢田 

喪山古墳不破郡垂井町 

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天鳥船神(あめのとりふねのかみ)建御雷神(たけみかづちのかみ) に進む

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”時の架け橋” 大国主神(おほくにぬしのかみ)
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