長崎県
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壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について
壱岐島(いきのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 壹岐嶋 24座(大7座・小17座)の神社です
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對馬嶋 式内社 29座(大6座・小23座)について
對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています
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都々地神社(対馬 今里)
都々智神社(つつちじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載「對馬嶋下縣郡 都々智神社」の論社です 本来の 参拝路は 海路になっていて 通常は 尾崎漁港から船で詣でることになります あえて陸路の場合は 山道を越えて向かうところに鎮座します
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多久頭魂神社(対馬 豆酘)対馬特有の天道信仰の中心地
多久頭魂神社(たくづだまじんじゃ)は 天神地祇を祀る神体山「龍良山」の遥拝所〈豆酘の里人が遠くからお祈りをする処〉で 古くは『延喜式神名帳』所載の由緒ある古社です 平安期より 神仏習合時して 対馬特有の天道信仰の中心地でした 中世以降は 豆殴御寺と称しましたが 明治に現社号に復しています しかし 境内には未だに神仏混合の名残りがあり 社殿も旧観音堂を使用しています
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白嶽神社(対馬 洲藻)神の宿る霊峰「白嶽」の遥拝所
白嶽神社(しらたけじんじゃ)は 御神体である霊山「白嶽(シラタケ)」の遥拝所として鎮座しています 古来より 白嶽(シラタケ)は 神聖視され 近づくこともタブーの聖域とされていて みだりに登ることは出来ませんでした その為 こちらの遥拝所から 遠く霊山「白嶽」に祈りを捧げていました
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美女塚(対馬 豆酘)語り継がれる美女物語「鶴王御前」の悲しい伝承
美女塚の碑は 豆酘(ツツ)の美女の悲しい伝承が記されています 昔 豆酘(ツツ)天神山の麓に 鶴王(ツルオウ)という美しい娘が暮らしていた 年老いた母親をとても大事にして「美しい孝行者の 鶴王御前(ツルオウゴゼン)」との評判が 都に伝わり 采女(ウネメ)として 召し出されることになった時・・ 豆酘に向かって南下する県道24号線の沿道にあります
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神住居神社(対馬 豆酘)神功皇后(ジングウコウゴウ)の「行宮(あんぐう/ゆきみや)」と伝わります
神住居神社(かみずまいじんじゃ)は 〈第14代 仲哀天皇の皇后〉神功皇后(じんぐうこうごう)[摂政の御代〈在位201~269年頃〉]が 三韓征伐で渡航されるとき「行宮(あんぐう/ゆきみや)」とされていた処と伝わり 例祭「豆酘の船浮神事〈カンカン祭り〉」は 神功皇后の出船の祭りであり かつては「さかのぼり」神事〈赤船と白船のお供の人が 分かれて子供たちを捕らえる神事〉があり これは神功皇后が 新羅の軍勢を捕虜にした伝承 に因んでいるとも伝わります
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島大國魂神社(対馬 御岳)
島大國魂神社(しまおおくにたま じんじゃ)は 御岳(ミタケ)の山頂に磐座(イワクラ)があり かつては禁足地でした 山岳信仰〈修験道〉の霊場とされ た対馬北部の上県町「御岳(ミタケ)」は ・雄岳・雌岳・平岳が連なり 御岳と呼ばれます 対馬南部の「白嶽(シラタケ)」と並んで古くから知られた修験道の聖地です
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都々地神社〈銀山上神社 境内摂社〉(対馬 久根田舎)
都々地神社(つつちじんじゃ)は「社伝では 当初 矢立山の山頂に神籬あり その後 遷座す」とあり 遷座後は 対馬で一番高い山 矢立山(648m)の遥拝所であると伝わり 現在は 矢立山の西に位置する集落 久根田舎(クネイナカ)の銀山上神社の境内社となっています 対馬の異伝承では 矢立山は「第11代 垂仁天皇の皇后 狭穂姫(サホヒメ)が 隠れ たまわれた所で 元矢立 あるいは 矢干山の元山 と称する」と云われ謎を持ちます 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の論社でもあります
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敷島神社(対馬 加志)
敷島神社(しきしまじんじゃ)は 日本の正史とされる六国史の一つ『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)(901年)』に「敷嶋神(シキシマノカミ)」として記され 又『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される由緒ある古社です 鎮座地は 美津島町 加志(カシ)で すく傍には 式内社で 名神大社の太祝詞神社も鎮座しています