喪山古墳(不破郡垂井町)

喪山古墳(もやまこふん)は 『日本書紀』『古事記』に記された国譲り神話(大国主命が天照大神に葦原中国を譲る話)の中に出てくる「美濃国の喪山(もやま)」〈天稚彦(あめのわかひこ)の御陵〉であると古くから言われてきました

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

喪山古墳(Moyama Kofun)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

岐阜県不破郡垂井町笹原

 [  (Google Map)]

【格  (Rules of dignity)

『古事記』に登場する神話の舞台

【創  (Beginning of history)】

垂井町指定史跡

喪山古墳(もやまこふん)

 昭和三十二年二月十五日指定

 喪山古墳(もやまこふん)は周囲(しゅうい)約二〇〇m、高さ四〇mの丘陵上に立地しており、東と西にそれぞれ高まりを持っているので、円墳(えんぷん)が二基(にき)存在するとも、山全体が前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)であるともいわれている。

 古事記(こじき)・日本書紀(にほんしょき)に記されている喪山伝説(もやまでんせつ)の天稚彦(あめのわかひこ)の墓(はか)と伝えられており、別名を葬送山古墳(そうぞうやまこふん)ともいう。

 平成二十一年三月 垂井町教育委員会

現地案内板より

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【由  (History)】

垂井町教育委員会 垂井町文化財アーカイブ
http://www.tarui-bunkazai.jp/bunkamap/shiseki/map000071.html

喪山古墳

詳細
周囲約200m、高さ約40mの瓢形の山で、別名葬送山とも呼ばれます。天稚彦伝説の喪山ともいわれ、円墳か前方後円墳ではないかと推定されています。

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

KISSOこぼれネタ VOL.64 垂井町特集号

美濃の喪山神話

〔井町府中の葬送山古墳〕

国道21号を宮代の交差点で北に折れ、県道215号線を少し行くと府中地内に葬送山古墳があります。
喪山古墳とも呼ばれ、『日本書紀』『古事記』に記された国譲り神話(大国主命が天照大神に葦原中国を譲る説話)の中に出てくる「美濃国の喪山」であると古くから言われてきました。

神話の内容を要約すると次のような話になっています。

天照大神は、大国主命が治める葦原中国(出雲国)に遣わした天若日子(アメノワカヒコ=天稚彦)が永く高天原に帰ってこないことを不審に思い、無名雉に様子を見に行かせました。
ところが天若日子は雉を弓矢で射殺し、その矢は高天原まで飛んで天照大神に届きました。
天照大神がこの矢を地上に投げ返すと天若日子に当たり、天若日子は死んでしまいました。
天若日子の葬儀に、天若日子にそっくりな阿遅志貴高日子根神が現れたので、親族は死者が生き返ったと喜びます。
死者に模されて怒った阿遅志貴高日子根神が、喪屋を剣で切り、足で蹴ると、喪屋は美濃国藍見河の河上まで飛んで喪山となりました。

喪山(葬送山古墳)
ここでいう喪山が府中の葬送山古墳であるとすると、藍見河は当然、相川に相当することになります。

〔「垂井説」と「大矢田説」〕

ところが、喪山については、他に美濃市大矢田にある大矢田神社を中心とした一帯にあるとする説もあり、この場合、藍見河は長良川か或いはその支流ということになります。

江戸時代後半には、既にこの垂井説と大矢田説の両方が知られていたようで、『美濃国古蹟考』や『美濃国名所和歌』(1746年)などに、2つの説が出ています。

本居宣長も『古事記伝』(1790~1822年刊行)において喪山の所在地は不明としながら2つの説を紹介しています。
しかし、江戸時代末期の時点では広く一般に知られていたのは垂井説で、これは『木曽路名所図会』(1805年)が垂井宿の東にある小さな山を喪山として紹介した影響が大きいとされています。

喪山について初めて本格的な論証を試みたのは川上内郷(?~1857)で、著書『美濃喪山考』で大矢田説を採っています。
神話世界と実在する事物を結びつける作業は、明治以降も盛んに行なわれ、喪山伝説についても様々な比定がなされてきました。
神話と史実がはっきりと区別され、神蹟の所在を特定することがそれほど意味を持たなくなるのは20世紀になってからのことです。

■参考文献
「新修 垂井町史」 通史編 昭和58年 垂井町発行
「泳宮と喪山」 羽賀祥二(名古屋大学文学部研究論文)
「岐阜県の地名」 平凡社発行

国土交通省 中部地方整備局 木曽川下流河川事務所
〒511-0002 三重県桑名市大字福島465  TEL:0594-24-5711(代表) FAX:0594-21-4061(代表)

国土交通省 中部地方整備局 木曽川下流河川事務所HPより
https://www.cbr.mlit.go.jp/kisokaryu/KISSO/kobore64.html

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

喪山(もやま)の伝承地は 美濃国(みののくに)に 二ヶ所あります

①喪山天神社(美濃市大矢田) 

➁喪山古墳(不破郡垂井町) 

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR垂井駅から 旧中山道東へ 県道215号線との交差点「追分」左折〈北上〉して200m程で左折すると 住宅に近接して見える小山が古墳です

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古墳南側に登り口案内板あります

喪山古墳(不破郡垂井町)に参着

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登り口から直ぐに お地蔵さま が祀られています
お祈りをします

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古墳の頂上へと 遊歩道が整備されています 頂上には英霊碑祀られています

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古墳に一礼をして 山を下ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承

【抜粋意訳】

天若日子(あめのわかひこ)の妻 下照比売(したてるひめ)の泣く声が 風に乗り響き 天まで届きました

天に在る 天若日子(あめのわかひこ)の父親 天津国玉神(あまつくにたまのかみ)と その妻子が 聞き 降りて来て 嘆き悲しみました

そこに 喪屋(もや)を作り 川雁(かはがり)を死人の食物を持つ役とし 鷺(さぎ)を箒(ほうき)持ちの役とし 翠鳥(かわせみ)を御料理人役とし 雀(すずめ)を碓女(うすめ)〈碓をつく女〉役とし 雉(きじ)を哭女(なきめ)役とし そのように定めて 八日八夜の間 踊り食べて飲み遊び 死者を弔いました

この時 阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)が 弔問においでになられた時に
天から降って来た 天若日子(あめのわかひこ)の父や妻が 泣いて言うには
「わたしの子は死んでいなかった」「わたしの君は死ななかった」と
阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)の手足にすがり 嘆き悲しみました 
このように 父と妻が 天若日子(あめのわかひこ)と 阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)の二柱を間違えたのは この二柱がとても似ていたからです

阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)は とても怒りました
「わたしは 愛しい友だから 弔いに来た どうして私を 穢れた死者と比べるのか」と言い 佩(は)かれていた十拳剣(とつかのつるぎ)を抜いて 喪屋(もや)を切り伏せ 足で蹴り飛ばしてしまいました

これが 美濃国(みののくに)の藍見河(あいみがわ)の河上の「喪山(もやま)」になりました
そのときに持って切った太刀の名は「大量(おおばかり)」といい 亦名(またのな)は 神度剣(かんどのつるぎ)ともいいます

阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)が 怒り飛び去ったとき その伊呂妹(いもうと)の高比売命(たかひめのみこと)が その御名を明かそうと 歌を詠うと

"天上の機織女(はたおりめ)の首に懸けている珠(たま)の飾り その珠(たま)のように 谷二つを一度に渡られるような 阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)でございます"
と歌いました この歌は夷振(ひなぶり)といいます

【原文参照】

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

喪山古墳(不破郡垂井町)に (hai)」(90度のお辞儀)

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⑯阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)高比賣命(たかひめのみこと)戻る

”時の架け橋” 大国主神(おほくにぬしのかみ)
『古事記』に登場する神話の舞台 に戻る

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