宗形神社(米子市宗像)

宗形神社(むなかたじんじゃ)は 太古 宗像氏族が九州からこの地に来着し 祖神 宗像三女神をお祀りしたのと伝わり 伝承では 素戔嗚尊が宗像から船で三女神を連れて上陸し 後に船はお船塚石と化したされます 又「天稚彦命(あめのわかひこのみこと) 高胸坂返り矢を受けた」との古事は この胸形(むなかた)として 天稚彦命を祭神する説があります

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

宗形神社(Munakata shrine)

 [通称名(Common name)]

宗形さんむなかたさん

【鎮座地 (Location) 

鳥取県米子市宗像293

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》田心姫命(たごりひめのみこと)
   湍津姫命(たぎつひめのみこと)
   市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)

天文8年(1539)洪水で社地流出(元は字屋敷前田の地に鎮座)当社に合祀
《合》経津主命,武甕槌命,日本武命

〈明治元年(1868)境外摂社 合祀〉
《合》倉稲魂命,天児屋根命,天太玉命,猿田彦命,鈿目命

〈明治元年(1868)境内末社 合祀〉
《合》阿蘇彦命,阿蘇姫命

大正6年(1917)合祀6社
住吉神社成実村大字日原字中尾山《合》表筒男命,中筒男命,底筒男命
石井神社成実村大字石井字要害《合》誉田別命
熊野神社成実村大字奥谷字谷奥山《合》伊弉諾命,伊弉冊命,大日霊尊
飯生神社成実村大字美吉字奥屋敷《合》素盞嗚命
下飯生神社成実村大字同宇屋敷前田《合》大国主命
陽田神社成実村大字長田字笠頭《合》素盞嗚命

〈その他合祀年不明〉
《合》保食神,月読命

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

武運長久海上安全

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

宗形神社
鳥取県米子市宗像二九八番地鎮座

一、御祭神

田心(タギリ)姫命、湍津(タキツ)姫命、市杵島(イチキシマ)姫命 ほか十八神

*三女神は天照大神・素盞嗚命の御子神

一、祭 日

例大祭 五月三日
例 祭 十一月三日
歳旦祭 一月一日・大祓祭 七月丗一日・新嘗祭 十一月廿三日

一、由 緒

・創建年代は不詳であるが、往古宗像氏族が、祖先神である宗像三女神を奉じて九州からこの地に来着し、これを斉祀したのが起源と伝えられている。
・平安初期の斉衡三年(八五六)に宗形の神に神階 従五位上が増叙された旨、文徳実録(日本六国史の一)に所載されている。
・醍醐天皇の延長五年(九二七)に勅撰された延喜式神祇の巻に、伯耆国六社(会見郡では胸形神社と大神山神社)の一として、国幣小社に列格されている。
・戦国時代には武将の崇敬篤く、尼子晴久は、弘治二年(一五五六)に、宮ノ谷の山頂に鎮座していた社を現在地に遷して新しく社殿を建立し、社領三百石を寄進した。吉川元春(毛利元就の二男)は、更に社領一二〇石を加増寄進すると共に、太刀及び兜(典型的桃形の逸品で社宝として所蔵)を奉納した。中村伯耆守は、社殿修造用材百本を寄進した。
・蕃政の世には、歴代の因伯藩主の崇敬篤く、当社を蕃の祈願所に指定し、制礼の建立や池田家々紋を幕・提灯に使用方を裁許し、池田慶徳は自ら社参祈願を行った。
・社名は、宗形(文徳実録)、胸形(延喜式)、宗像(明治初年まで)、宗形(明治四年以降)と変遷を重ねて現在に至る。

一、御神徳

延喜式内 郷社 宗形神社は、平安の古より国史、文献に名を連ね、千数百年の歴史を有する当地方の古社であり、会見郡の鎮守宗像庄の大社として尊崇され、海陸交通・厄除開運の守護神として御神威高く、又虫封じの神としても霊験顕著でその名が高い。

一、神社と古墳

神社を中心として周辺に密集分布する宗像古墳は、県下有数の古墳群であるが、これは当地方が、古くから神社との関り合いの中で生成発展して来たことを物語るものであり、往古の社会・文化探求上で重要遺跡として斯界の注目を集めている。

昭59.7.1 宗像 佐々木恵美子

現地案内板より

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【由  (History)】

伝承による由緒
 当神社の創建年代は不詳であるが、往古、宗形氏族が海路この地に来着して居を定め、その祖神である三女神を奉斎して、神社を創建したものと伝えられている。
祭神 御着船の地は、米子市長砂町小林(当時この辺りは入江であった。)であって 祭神の御乗船は のちに石に化したと伝えられ、この所を御船塚と称していた。この船塚は、明治の末頃には、茅などの生えた100坪ほどの広い砂丘であったものが、昭和の始め頃には、田圃の中に、一抱えほどの石のある葦などの生い茂った、一坪ばかりの砂地として残されていたが、終戦後切り崩され、更に埋め立てて宅地とされ、今では何等昔をしのぶよすがもない。

2.国史・文献による由緒
 文徳実録ー平安朝初期の斎衡3年(856)に、宗形ノ神に神位 従五位上が加上されたことが記されている。当時 宗形神社は、大神山神社と供に、当地方の大社として 上下の信仰が篤かった。
延喜式ー醐醍天皇の延喜22年(922)に勅撰された、延喜式神祇の巻に、伯耆国の六社として、会見郡から、胸形神社と大神山神社の二社のみ国幣の小社として所載されている。
神祇管領の勘文ー神祇管領ト部兼文が奏上した勘文に、宗形神社は 伯耆国の第三鎮守である旨が記されている。
以上の如く、宗形神社は平安朝の初期から国史に所載されており、千数百年の歴然たる歴史と伝統を有し、その御神威は赫々と当地を照らしつヽ今日に至っている。

2.武将等の崇敬ー戦国時代になってからは、尼子・毛利・中村氏等の崇敬篤く、特に尼子晴久は、弘治2年に社地を宮ノ谷から現在地に移して社殿を建立し、社領300石を寄進
・吉川元晴は、更に社領120石を加増寄進すると供に、太刀及び兜を奉納した。又 中村伯耆守も社殿修造用材百本を寄進している。
鳥取藩主 池田氏は、当社を祈願所に指定し、祭礼には必ず幣使を参向させ、当時では、容易に許されなかった境内取締りの禁制の制札建設を、正徳五年に裁許し、池田家の家紋を幕・灯燈に使用することをも許された。
更に池田慶徳候は、明治三年、自ら当社に参拝し、金百疋を献納するなど、武将や藩主の崇敬が極めて篤かった。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【境内社 (Other deities within the precincts)】

荒神宮《主》素盞嗚命

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伯耆国 6座(並小)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)会見郡 2座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 形神社
[ふ り が な ]むなかたの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Munakata no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

神社名称の変遷について

「むなかた」の読みは 一貫して変化はありませんが 表記には変化あり
延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.』の神社名には 形神社の文字(胷は胸の古形)を採用しています

明治四年(1872)宗像を宗形に改め 郷社に列しています

一般に「むなかたの神」三女神祀るとされますが 胸形として天稚彦命(あめのわかひこのみこと) 高胸坂返り矢を受けた」との古事は この胸形(むなかた)として 天稚彦命を祭神する説があります

『伯耆民談記(hoki mingenki)〈寛保2年(1742年)〉』には
「祭る所の神は 天ノ稚彦命なり この命は天照大神の勅使として下界に降臨し玉ひぬ 大己貴命の姫 下照姫を娶り 名無雉を射殺し給ふ 依之大己貴命の神系に入れ給うなり」と記されます

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「むなかたの神」〈宗像神〉について

『日本書紀』『古事記』神話で
天照大神(あまてらすおおみかみ)と素戔嗚尊(すさのをのみこと)が おこなった誓約(うけい)によって 生まれた三女神を「むなかたの神」としています

この誓約(うけい)では 五男神が一緒に出生していて 八王子として祀られている場合があります 八王子を祀る場合は「むなかたの神」とは呼びません

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宗像 三女神の呼び方

『日本書紀』神代紀 第六段 本文によれば

田心姫(たごりひめ)・湍津姫(たぎつひめ)・市杵島姫(いちきしまひめ)】

『日本書紀』神代紀 第六段 第一の一書によれば

 瀛津嶋姫(おきつしまひめ)湍津姫(たぎつひめ)田心姫(たごりひめ)

『古事記』神代巻 によれば

 多紀理毘売命(たぎりひめ) 別名 奥津島比売命(おきつしまひめ)市寸島比売命(いちきしまひめ) 別名 狭依毘売(さよりめ) 多岐都比売命(たぎつひめ)

宗像大社の社伝』 によれば

田心姫(たごりひめ)神・湍津姫(たぎつひめ)神・市杵島姫(いちきしまひめ)神】とされます

全国の「むなかたの神」を祀る神社について

「むなかた」という呼称は 肩・胷形宗形宗像・宗方 等と表記されます

現在
これらの「むなかた」の呼称名を表記する全国の神社は 69社
「むなかたの神」を主祭神として祀る神社は 約950社程度
単純に合祀神なども含めると※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]参照すると「むなかたの神」を祀る神社は 全国に3532社あります

延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載の
「むなかたの神」を祀る神社と その論社について

【総本社】

筑前國宗像郡 宗像神社三座 並名神大

・宗像大社 沖津宮(沖之島)〈一般参拝は不可〉

・宗像大社 中津宮(宗像市大島)

・宗像大社 辺津宮(宗像市田島)

【畿内】

山城國葛野郡 櫟谷神社

・櫟谷宗像神社(嵐山中尾下町)

大和國葛上郡 高天彦神社 名神大

・高天彦神社(御所市)

大和國城上郡 宗像神社三座 並名神大

・宗像神社(桜井市外山)

【東海道】

尾張國海部郡 藤嶋神社

・藤島神社(あま市七宝町)

 

尾張國中嶋郡 宗形神社

・宗形神社(国府宮 別宮)

 

・天神社(治郎丸天神)〈論社〉

 

【東山道】

近江國蒲生郡 大嶋神社

・大嶋奥津嶋神社(近江八幡市北津田町)

・日牟禮八幡宮(近江八幡市宮内町)

近江國蒲生郡 奥津嶋神社 名神大

・奥津嶋神社(近江八幡市沖島町)

・大嶋奥津嶋神社(近江八幡市北津田町)

下野國寒川郡 胷形神社

・胸形神社(小山市寒川)

 

・網戸神社(小山市網戸)

 

陸奥國安積郡 隠津嶋神社

・隠津島神社(喜久田町堀之内宮)

・木幡山隠津島神社(二本松市木幡治家)

・隠津島神社(湖南町福良)

【北陸道】

能登國鳳至郡 奥津比咩神社

・奥津比咩神社(海士町舳倉島)

・伊勢神社(海士町舳倉島)

・奥津姫神社 里宮(輪島市鳳至町)

能登國鳳至郡 邊津比咩神社

・姫瀧神社(能登町藤ノ瀬)

・重蔵神社(輪島市河井町)

・穴水大宮(穴水町大町)

・奥津姫神社・白山神社(輪島市名舟町)

越中國礪波郡 比賣神社

・比賣神社(小矢部市宮中)

・比賣神社(砺波市柳瀬)

・比賣神社(砺波市下中条)

・比賣神社(南砺市高宮)

・宮島神社(小矢部市了輪)

・岩抱きのけやき(小矢部市了輪)

【山陰道】

丹波國桑田郡 桑田神社

・桑田神社(亀岡市篠町山本北条)

・桑田神社(亀岡市篠町馬堀東垣内)

因幡國法美郡 手見神社

・手見神社(鳥取市国府町)

伯耆國會見郡 胷形神社

・宗形神社(米子市宗像)

出雲國意宇郡 布辨神社

・布辨神社

・宇波神社

出雲國出雲郡 同社坐神魂御子神社

・神魂御子神社

出雲國出雲郡 御碕神社

・日御碕神社

・神蹟 隠ヶ丘

【山陽道】

播磨國賀茂郡 石部神社

・石部神社(加西市上野町)

備前國赤坂郡 宗形神社

・宗形神社(赤磐市是里)

備前國津高郡 宗形神社

・宗形神社(岡山市北区大窪)

安藝國佐伯郡 伊都伎嶋神社 名神大

・厳島神社(廿日市市)安芸国一之宮

【南海道】

紀伊國名草郡 志磨神社 名神大

・志磨神社(和歌山市中之島)

淡路國津名郡 岸河神社

・岸河神社(洲本市上内膳)

・山王神社(洲本市納)

讃岐國三野郡 大水上神社

・大水上神社(三豊市高瀬町)

伊豫國越智郡 姫坂神社 名神大

・姫坂神社(今治市宮下町)

・姫坂神社(今治市町谷)

・三嶋神社(今治市上徳甲)

伊豫國越智郡 多伎神社 名神大

・多伎神社(今治市古谷甲)

【西海道】

筑前國宗像郡 織幡神社 名神大

・織幡神社(宗像市鐘崎)

豊前國宇佐郡 比賣神社 名神大

・宇佐神宮(比売大神)の旧鎮座地 奥宮とされる 大元神社

・宇佐神宮

肥前國松浦郡 田嶋坐神社 名神大

・田島神社(唐津市)

薩摩國出水郡 加紫久利神社

・加紫久利神社(出水市下鯖町)

對馬嶋上縣郡 和多都美神社 名神大

・和多都美神社(対馬 仁位)

・海神神社(対馬 木坂)

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

山陰道米子南ICからR181を南へ約1Km 車5分程度
R181号の宗形神社の交差点を右折 加茂架かる橋を渡ると正面に鳥居が建ち 左に社号標「宗形神社」
宗形神社(米子市宗像)に参着

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神社の裏山には「宗像古墳群」があり 3つの前方後円墳と22の円墳が見つかっています 古代より栄えていた地域であることが伺い知れます
宗形神社のもともと鎮座地古昔 鎮座の地は 現社地より北三丁(約327m)余の 宮の谷といふ所にして 本宮と呼ぶ」と伝わり 神社の裏300m程の所辺りでしょう
長い歴史を物語るように「宗形神社 千二百年記念碑」が建ちます

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石段を上がり 鳥居に一礼をして くぐり抜けます

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すぐに注連縄の懸かる 隋神門があります

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隋神門を抜けると 広い参道の先に 社殿の建つ 一段高い社地へと階段が続いています

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拝殿にすすみます 向拝の破風入りには彩色された龍彫刻

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扁額には「宗形神社」
賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥 透き塀に囲まれた本殿檜皮葺の大社造

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本殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

お船塚御祭神が海路 米子に御着船の地について

お船塚

東郷町に伯耆一宮の倭文しどり神社がありますが、この神社のご祭神の1人に安産の神として崇められる下照姫したてるひめ命がおられます。
この神が出雲から海路を東郷に来られた時、乗られた船が石になって東郷湖畔に残っているそうです。

米子にも同じような話が伝わっています。

宗像むなかたにある宗形神社は、延喜年間(901から922年)に定められた法令(「延喜式」)に書かれたほどの由緒ある神社(「式内社」といい、尾高の大神山神社も式内社)です。
宗形神社のご祭神は、九州の宗像大社と同じく田心姫たぎりひめ命・湍津姫たぎつひめ命・市杵島姫いちきしまひめ命の3人の女の神様です。
この3人の女神が九州から米子に来られるのに、陸路ではなく日本海沿いに船で来られたそうです。冬の荒海を越えてではなく、おそらく暖かく波穏やかな、夏のこの季節に来られたものと思います。その頃は米子も宗像のあたりまで入海だったようで、神社の近く、今の長砂と宗像の境で神様方は船を降りられました。
その船が、長い年月の間に石になったと伝えています。
石になった船があった場所を「お船塚」とか「茅かや島」といって江戸から明治の頃までは田の中に、一抱えほどの船石を囲んで茅の生い茂る100坪ほどの小さな丘だったそうです。
昭和の初期には、石の周りに葦の生い茂る一坪ばかりの砂地になっておりました。
それが終戦後、砂地は切り崩され、肝心の船石は埋められ、残念ながら今は見ることができません。

この伝説は、古代の米子についていろいろ教えてくれそうです。

まず、古代の米子には、宗像神を信仰する九州の人が大勢移住して来たであろうこと。
移住して来た年代は、地球の温暖期で氷河が溶けだし、海が広がっていた時だったであろうこと。
少なくとも延喜年間よりかなり以前のことだった。といえば、それも伝説と笑われますかナ。
平成14年7月号掲載

米子市公式HP秘書広報課米子の民話散歩」よりhttps://www.city.yonago.lg.jp/9667.htm

『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承

伯耆國の神々とともに 神階の奉授が記されます

【抜粋意訳】

斉衡三年(856)八月(五)乙亥の条

伯耆國(はうきのくに)

伯耆神 大山神 國坂神 並びに加ふ 正五位下を
倭文神 宗形神 大帯孫神 並びに 従五位上

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本文徳天皇実録』元慶3年(879年)完成 選者:藤原基経/校訂者:松下見林 刊本 ,寛政08年 10冊[旧蔵者]農商務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047714&ID=M2018040912122716848&TYPE=&NO=

『伯耆民談記(hoki mingenki)〈寛保2年(1742年)〉』に記される伝承

祭神を 天稚彦命(あめのわかひこのみこと)記しています
天稚彦命が 高胸坂返り矢を受けた」との古事は この胸形(むなかた)によるものとする説があり これは胸坂(むなさか)と胸形(むなかた)の近似音から出た説とされています 

【抜粋意訳】

宗像ノ神社 會見郡宗像村

祭る所の神は、天ノ稚彦命(あめのわかひこのみこと)なり、此命は天照大神の勅使として下界に降臨し玉ひぬ、大己貴命の姫 下照姫を娶り、名無雉を射殺し給ふ、依之 大已貴命の神系に入れ給ふ也、

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『伯耆民談記』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185168出版 大正3年(1914)松岡布政著 音田忠男訳 出版者 因伯叢書発行所

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

神社名に 形神社の文字(胷は胸の古形)を採用しています

【抜粋意訳】

形神社

形は 牟奈加多と訓べし
〇胸形村に在す

神位
文徳実録 斉衡三年(856)八月(五)乙亥 伯耆國 宗形神 従五位上

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

神社名に 形神社の文字(胷は胸の古形)を採用しています

【抜粋意訳】

形神社 (明細帳に宗形神社とあり)

祭神 田心姫命
   湍津姫命
   島姫命

神位
文徳天皇 斉衡三年(856)八月(五)乙亥 伯耆國 宗形神 従五位上

祭日 四月十月十五日
社格 郷社
所在 宗像村字向(西伯郡成寶村大字宗像)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

「旧記を按ずるに、往時当地方一帯の入海なりし頃、宗形神船に乗り給ひて此地に御著ありて、やがて鎮座せられたり、其御船を留め給ひし処を御船塚と称し、今尚其名を存す」と この地が入江であったこと 祭神が船で当地に入られたことが記されています

【抜粋意訳】

O鳥取縣伯耆國西伯郡成實村大字宗像字向塔

郷社 宗形(ムナカタノ)神社

祭紳
田心姫命(たごりひめのみこと)
湍津姫命(たぎつひめのみこと)
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
経津主命,武甕槌命,日本武命

合祭
倉稲魂命、天児屋根命,天太玉命,猿田彦命,鈿目命,阿蘇彦命,阿蘇姫命,保食

創立年代詳ならず、旧紀を按ずるに、往時 当地方一帯の入海なりし頃、宗形神(ムナカタノカミ)船に乗り給ひて此地に御着ありて、やがて鎮座せられたり、其の御船を留め給ひし所を御船塚と称し、今宵其名を存す、

而して当時の社地は、現今の地より三丁北にして、宮ノ谷と称する處なりしと云ふ、山頂に清水あり、老松繁茂せる官林にして、尊厳犯す可からざる霊地なりしが、明治二年民有地に編入せられたるは、惜しむぺきなり、其後今の地に奉遷す、

文徳実録に文徳天皇 斉衡三年(856)八月(五)乙亥 当国諸神と共に従五位上を授けられ給ひ、
延喜の制 式内小社に列せられ、実に当国六座の一に坐す、
古来 宗像庄の大社にして、当国第三鎮守たり、世々国守領主の崇敬する所なりしが、戦國時代に至り、武門武将の帰依する者甚だ多く、尼子晴久の如き、社領三百石を寄せ奉り、後吉川元春更に百二十石を増進し、太刀三振冑一刎を寄進せり、〇社伝 当時社領の田を神子田(ミコデン)と称し、当村にありしが、後向田と称し今尚存せり、後世戦乱の為め、一時衰運に向ひしが、国主定まるに至り、社頭の事一に国主領主の弁ずる所たりき、中村氏の如き旧會見郡中の高割を以て、当社の営繕修理をなし.旧藩主池田康徳幕其他を寄進す、

明治四年(1872)宗像を宗形に改め郷社に列す。

社殿は本殿.幣殿.拝殿.其他神楽殿.神輿殿、隋神門、祭器庫等を備へ、境内は千八百六十三坪(官有地第一種)当村南方の高丘にして、四面皆山を巡らし、宗像の清流前面を流れ、全山老杉古松森然として蓋猶瞰し、春時に至れば、櫻花爛漫としで緑葉の間に棚引き、秋候は、楓樹紅葉して峯に満ち、佳境として称せらる、宝物としては空海の奉納せりと称する書一幅、吉川元春の寄進せる冑及長船秀光の太刀一振あり。

祭神中 経津主命,武甕槌命,日本武命の三神は、元と字屋敷前田の地に鎮座せられしが、天文八年の洪水にて社地流失し、為めに当社に奉祀せり、合祭神 倉稲魂命 以下五神は境外摂社、同 阿蘇彦命以下二神は境内末社なりしが、明治元年藩命に依り当社に合祭せり、

例祭日 四月十五日

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

『鳥取県神社誌(Totoriken jinjashi)〈昭和10年(1935)〉』に記される伝承

古昔 鎮座の地は 現社地より北三丁(約327m)余の 宮の谷といふ所にして 本宮と呼ぶ」と記しています

【抜粋意訳】

宗形神社

祭神 田心姫命,湍津姫命,市杵島姫命経津主命,武甕槌命,日本武命,表筒男命,中筒男命,底筒男命,誉田別命,伊弉諾命,伊弉冊命,大日孁,素盞嗚,大国主命,天児屋根命,天太玉命,猿田彦命,鈿目命,阿蘇彦命,阿蘇姫命,保食神,月読命

由緒
創立年代詳ならざれども、
文徳實録に 齊衡三年八月乙亥 伯耆國 從五位下 宗形神 從五位上とあり、
延喜神名式に伯耆國 倉見郡 胸形神社とある旧社にして、古來上下の崇敬殊に篤く、弘治二年 尼子晴久 社殿を建立し 社領高三百石を寄進せりといふ、其の後 吉川元春 右の社領の外に百二十石を寄進し、大刀二振 兜一刎を寄進せしが、中村伯耆守一忠 當國を領するに及び 社領悉く没収せらる、旧藩主 池田慶徳幕提燈を寄進せられ、慶応三年には親しく参拝せらる、旧藩時代には社殿の修理営繕に際しては 曾見郡内の高割を以てなせり、

明治初年 郷社に列せられ、同四十年二月三日 神饌幣帛料供進神社に指定せらる

古昔 鎮座の地は 現社地より北三丁(約327m)余の 宮の谷といふ所にして 本宮と呼ぶ、本殿ありしと傳ふる山頂の地には数多の小石あり、中腹に清泉ありて ごふ井戸といひ 断水することなし、弘治二年四月 現社地に奉遷せしものなり、

大正六年四月三日
成実村大字日原字中尾山 鎭座 無格社 住吉神社(祭神 表筒男命、中筒男命、底筒男命)
同村大字石井字要害 鎮座 無格社 石井神社(祭神 誉田別尊)
同村大字奥谷字谷奥山 鎮座 無格社 熊野神社(祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、大日霊尊)
同村大字美吉字奥屋敷 鎖座 無格社 上飯生神社(祭神 素盞鳴命)
同村大字同宇屋敷前田 鋲座 下飯生神社(祭神 大国主命)
同村大字長田字笠頭 鎮座 無格杜 陽田神社(祭神素盞鳴命)
の六を合併す。

古昔 当社の祭神 今の大字長田に(宗像と隣接せる所にして 當時この邊迄 入海なりしと云ふ)海路 御來着 宗像の地に鎮座せられしと云ひ。御着船の地を今に船塚と称へ御舟は石に化したりと云ひ伝ふ。

例祭日 四月十五日
建造物 本殿、幣殿、拝殿、神楽殿、祭器庫、隋神門
境内坪数 千八百録十二坪
氏子戸数 二百三十戸

【原文参照】

『鳥取県神社誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050476出版 昭和10年(1935)著者 鳥取県神職会 編 出版者 鳥取県神職会

『鳥取県神社誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050476出版 昭和10年(1935)著者 鳥取県神職会 編 出版者 鳥取県神職会

宗形神社(米子市宗像)に (hai)」(90度のお辞儀)

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”時の架け橋” 大国主神(おほくにぬしのかみ)
『古事記』に登場する神話の舞台 の記事を見る 

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