粟嶋神社(米子市 彦名町)

粟嶋神社(あわしまじんじゃ)は 粟茎に弾かれて常世(tokoyo)へ渡った少彦名命を祀ります 木々に覆われた長い石段を登り抜けた 粟嶋の頂上は 天空の輝きを纏い 尋常ではない神々しさを放ちます ひょっとすると この神域は「常世の国」に通じている空間?なのでしょうか

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ご紹介(Introduction)

【神社名】(Shrine name)

粟嶋神社(Awashima shrine)
( あわしまじんじゃ)

【通称名】(Common name)

【鎮座地】(location)  

 鳥取県米子市彦名町1404番地

【地 図】(Google Map) 

【御祭神】(God's name to pray) 

《主》少彦名命 sukunahikona no mikoto
《配》大己貴命 oonamuchi no mikoto
《配》神功皇后 jingu kougo

【御神格】(God's great power)

・難病苦難を救う Save intractable disease and difficulties
・婦人の病気平癒 Healing of women sickness
・安産 Healthy birth
・子授 Children will be born as desired
・交通安全 Traffic safety 
・等 etc

【格式】(Rules of dignity)

伯耆風土記逸文でも記載されている由緒ある場所

【創建】(Beginning of history)

不詳

Shrines are very old, from the age when the gods flourished
And the faith is still going on

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【由緒】(history)

山頂の当神社に鎮まります少彦名命は、遠く神代の昔、大巳貴命即ち大国主命と共に力を合せ心を一つにしてこの国を御経営になり、又、医療の法を教え、禁厭の術を授け、人々を万病よりお救いになった神徳無比の功労神であり、その尊い御神徳は古事記、日本書紀に記されている通りであるが、常世の国にお渡りになったその最後の記念地がこの粟嶋である。

創建年代は不明だが、古代より神奈備山としての信仰があり、神功皇后・後醍醐天皇御祈願の伝承、戦国時代尼子氏の寄進、江戸時代米子城主代々の崇敬等記録に残されている。

山頂の御社殿は、大正11年焼失し、昭和11年2月再建のものであり、総台湾桧造りで屋根は銅板葺き、弓浜半島随一を誇る。御神徳 難病苦難をお救いになる祖神様であらせられ、殊に婦人の病気平癒、安産、子授、交通安全等の祈願多く、氏子はもとより古来広範囲にわたる庶民の篤き崇敬をあつめている。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【境内社】(Other deities within the precincts)

・荒神宮  《主》須佐之男大神 susanoonoookami
・豊受宮  《主》豊受大神toyoukenoookami
・御岩宮  《主》少彦名命sukunahikonanomikoto
・八百姫宮《主》八百姫命yaohimenomikoto

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【この神社の予備知識】(Preliminary knowledge of this shrine)

鎮座地は「米子市 彦名町」という地名で まさしく御祭神「少彦名命sukunahikonanomikoto」を祀る由緒を物語ります

何故なら 少彦名命が「常世の国」から「この世」に辿り着いた地とされていて 「常世の国」へ戻られた地とも つまり行き帰りの伝承を持つ地です

境内には「御岩宮祠」(おいわきゅうし)という小祠があり
ここは 少彦名命が粟嶋に舟で到着され 最初に上陸された場所であって 極めて霊験あらたかな聖地とされています

『伯耆国風土記』(逸文)733年(天平5年)には次のように記されています

「粟島、相見(アフミ)の郡。
郡役所の西北方に余戸(アマリベ)の里がある、粟島がある。
少彦名命が粟を蒔いてよく実ったとき、 その粟にのぼり弾かれて常世国にお渡りになられた、それゆえ粟島という」

『日本書紀』には 同様の神話がありスクナビコナノミコトが淡島(粟島)で粟茎に弾かれて常世へ渡ったと記されています

少彦名命の上陸地は『古事記』に「御大(美保)の岬に現れた」とあるだけですが 幾つかの候補地の中でも 御祭神の重要ポイントであることは間違いありません

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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)

粟嶋は 今は米子と陸続きですが かつては 中海に浮かぶ文字通り小島だったと伝わります

古代から 中海に浮かぶ秀麗な島の姿は 人々の信仰の対象になっていて
江戸時代には 参拝者は渡し舟で粟嶋に渡り  賃が3文「3文渡し」の船着き場があったそうです

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【神社にお詣り】(Pray at the shrine)

鳥居をくぐり進みます 参道の右側に手水舎があり 清めます 
左側には社務所があり 少彦名命のお守りや絵馬などもあり ご神職に色々とお話を伺いながら 授与して頂きます

さらに 左手の先に由緒の案内看板 です

そのまま二の鳥居をくぐれば かつての島であった 今は海抜38mの小高い丘があり
その頂きに続く188段の長い石段を見上げることになります
麓でお詣りをする人の為にお賽銭箱もあります

気持ちよく 階段を登りきると随神門があり 鎮座する随神は「櫛櫛岩窓・豊櫛岩窓の二柱」御神像を拝み
拝殿本殿に進みます

隋神門をくぐると あきらかに 境内の空気が違います
おそらく この神域は「常世の国」に通じている空間 ? と感じます

ここは 木々に覆われた長い石段を登り抜けた 粟嶋の頂上は
天空の輝きを纏い 尋常ではない神々しさを放ちます

鎮まる 御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち ご神威に添い給うよう願いながら祈ります

参道を戻ろうとしましたが
本殿も見ておきたく 裏手に回ると 出雲大社や伊勢への遥拝所もあり

そこから 奥へと進めば 息を飲む「中海」を一望する絶景が待っていました

景勝地として「粟嶋の秋月」「錦海八景(きんかいはっけい)」ともよばれていて
粟島の山頂から落陽を映して輝く錦海……というわけです

今の中海の古い呼び名が「錦海」で 神の宿る島から一望するその神々しい絶景は 言葉では表せません

ちょうど 夕日に巡り合った写真・昼間の穏やかな中海の写真を掲載しておきます

ゆっくりと 表参道の長い階段を下ると 
中程に小さな「荒神宮 蝮蛇神祠」という凄い名前の祠がありますが 御祭神は須佐之男大神(すさのおのおおかみ)です
粟嶋の中腹に鎮座して この島を鎮める もしくは 粟嶋全体がとぐろを巻いた蛇神体なのかもしれません

参道の石段を降りて 粟嶋の山麓を廻るように進むと

・「御岩宮祠」(おいわきゅうし)があり

・「静の岩屋」(しずのいわや)  の「祠」と「岩屋」があります

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【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)

「御岩宮祠」(おいわきゅうし)

先程 ご紹介した通り 少彦名命が「常世の国」から粟嶋に舟で到着され 最初に上陸された場所と伝えられ 通称“お岩さん”と呼ばれ極めて霊験あらたかな聖地とされています

案内板によれば  次のようにあります

「『お岩さん』と呼ばれるこの大岩は、その昔、神が海からおいでになると信じた古代人たちが『海から辿り着かれた神様が、やれやれ着いたと真っ先に抱きつかれた岩』 すなわち“神の依代”として、古くから信仰されてきました。 岩は石と同じで、石は“セキ”と読めるところから、風やセキによく効く神としてお参りする人が多く、又、古来、難病に霊顕あらたかな神であり、満願成就のお礼としてま寄進・奉納の記録も多い」

こちらも只ならぬ霊氣を発しております

さらに奥へ進むと

「静の岩屋」(しずのいわや)

悲しい伝承が“八百比丘尼の伝説”(はっぴゃくびくに のでんせつ)と朱書きされています

案内板によれば 

「昔、この辺りに11軒の漁師があり、粟島神社の氏子として毎月一回“講”の集まりをもっていた。あるとき一人の漁師が引っ越しをしてきて、講の仲間に加えてもらった。

一年後、この漁師が当番になった時、今までのお礼にと皆を船に乗せ、龍宮のような立派な御殿に案内してもてなした。
何日かたって帰るとき、最高のご馳走として人魚の料理(肉)が出されたが、誰もが気味悪がって食べず、たもとに隠して帰る途中で海に棄てた。

 ところが、一人の漁師が海に棄てるのを忘れたため、その家の18才になる娘が、父の着物をたたむ時に見つけ、知らずに食べてしまった。

 それから後、娘は不老不死の体になり、何年経っても年を取らず、いつまでたっても18才の娘のままだったので、かえってこの世をはかなみ、尼さんになって自ら、この洞穴に入り干柿を食べ、鉦を鳴らしつつ息絶えたという。

 この時、娘の年齢は八百歳になっていたので、村人達はこれをあわれんで、この娘のことを『八百比丘尼さん』(はっぴゃくびくにさん)とか『八百姫さん』(やおひめさん)と呼んで、ていねいに祀ったという。

 今でも長寿のご利益があるとして、広く信仰をあつめている 」

と何とも悲しい岩屋の伝説が記されています

又 この岩屋には別の伝承もあります

万葉集(巻3・355番)の歌

「生石村主真人(オイシノスグリ マヒト)の歌一首
大汝 少彦名の いましけむ 志都(シツ)の岩屋は 幾代経ぬらむ」

(大国主命と少彦名命が住んでいらっしゃったという 志都の岩屋は 幾代を経たことだろう)

8世紀末に編纂された万葉集の頃には 都人も知る名所となっていたのですね
タイムスリップ感覚を味わいながら 鳥居をくぐり 一礼をして感謝

神功皇后(第14代仲哀天皇の皇后)や後醍醐天皇(第96代天皇および南朝初代天皇)などもご参拝に訪れたとされる

「粟嶋神社」には もう一度 訪れたいと願ってしまう「ご神威」があります

”時の架け橋” 大国主神(おほくにぬしのかみ)
『古事記』に登場する神話の舞台 の記事を見る 

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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