喪山天神社(美濃市大矢田)

喪山天神社(もやまてんじんしゃ)は 『古事記』『日本書紀』に記された国譲り神話(大国主命が天照大神に葦原中国を譲る神話)の中に出てくる「美濃国の喪山(もやま)」とされ 天若日子(あめのわかひこ)を祀り鎮座されます

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

喪山天神社(Moyama Tenjinsha)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

岐阜県美濃市大矢田1260-1

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天若日子(あめのわかひこ)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

大矢田神社の境外摂社
・『古事記』に登場する神話の舞台

【創  (Beginning of history)】

喪山(もやま)神話」について

天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、大国主命(おおくにぬしのみこと)の治める葦原中津国(あしはらなかつくに)(出雲の国)を自分の子どもに治めさせるために、先ず天穂日命(あめのほひのみこと)を遣わしましたが、大国主命(おおくにぬしのみこと)に媚びて三年たっても戻りませんでした。
そのため今度は天若日子(あめのわかひこ)に天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)と天之波波矢(あめのははや)を持たせて遣わしました。しかし天若日子は、大国主命の娘の下照比売(したてるひめ)と結婚し、八年戻りませんでした。

 天照大御神は、いつまでも戻らない天若日子の様子を伺う為に雉鳴女(きじなきめ)を遣わしました。雉鳴女は湯津楓(ゆづかつら)の上で伝言を伝えましたが、天探女(あめのさぐめ)が「この鳥の鳴き声は不吉です。すぐに射殺してしまってください。」と天若日子をそそのかしたため、天若日子は、先にもらった弓矢で雉鳴女を射殺してしまい、その矢は天照大御神のところまで飛んでいきました。

 天照大御神は「もし天若日子が、この矢を悪い事に使ったなら、この矢に当たって死んでしまえ。」と言って投げ返したところ、天若日子はこの矢に当たり死んでしまいました。
 天若日子の死を下照比売をはじめ遺族達が「喪屋(もや)」を作って嘆き悲しんでいるところへ、天若日子と大変容姿の良く似た友人の、阿遅志貴髙日子根神(あじしきたかひこねのかみ)が弔いに訪れました。遺族達は、天若日子が生き返ったと喜んですがりつきましたが、死人と間違われた阿遅志貴髙日子根神は大変怒って、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜き「喪屋(もや)」を切り伏せ、蹴飛ばしました。そのときの「喪屋」が飛んでいって、この地の「喪山」となったのです。

喪山(もやま)神話」伝承遺蹟の説明

喪山(もやま)
・・・阿遅志貴髙日子根神(あじしきたかひこねのかみ)の蹴った「喪屋」が飛んで行った所「この地」です。天若日子を祀る。

➁雉射田(きじいだ)
・・・天若日子が、射落とした雉が落ちた場所。

➂かつら洞
・・・雉鳴女がとまった、「湯津楓」の木があったとされる場所。

④矢落街道(やおちかいどう)(日室坂(ひむろざか)ともいう)
・・・天照大御神からの、返し矢が落ちて来た場所。日室とは、喪山から見て太陽の射す方向を言う。

➄渡来川(わたらいがわ)
・・・返し矢が流れて来た川。

⑥大矢田(おやた)
・・・大きな矢の落ちた田と云うと言い伝えから大矢田の地名となる。

➆誕生山(たんじょうさん)
・・・天若日子の召使いの神、天探女(あめのさぐめ)を祀る。(現在は、極楽寺の八幡神社に合祀している)

現地案内板より

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【由  (History)】

『大矢田村天王山禅定寺記』より抜粋

喪山は 天若日子の廟所で 大矢田の地名は「返り矢」が落ちたことに由来

孝霊天皇の時代 深山に悪龍が棲みつき村を荒らし 困り果てた村人喪山の天若日子廟所(現・喪山天神社)に加護を祈ると 神は建速須佐之男命祀れと神託を告げる その時 村人皆にも同じ霊夢告があった
八岐大蛇伝承に基づき 建速須佐之男命を天王山に祀るべきだという意見が出た その時 喪山が鳴動し 神人が現れて 悪龍を退治した
神人は「自分は建速須佐之男命である」と 里人に明かし 里の守護を告げる 里人は 建速須佐之男命と天若日子命を祀る祠を建立し 鎮守神とした

養老二(718)年 泰澄が この社に参籠して厚く尊仰し 天王山を開基 七堂伽藍を有する天王山禅定寺を開いた その社頭は「牛頭天王社」と称された

慶長年間15961615年里人は それまで二回六月 九月)の大祭を九月八日の一度のみにした この時 神は怒り 喪山が鳴動する
里人は 喪山山上に神明社を建てて謝罪 神事の際には 近隣の村から二羽の矢が奉納され

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

向かって 右が本社 本殿

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本殿の向かって左 中央の祠
神明神社〈稲荷神社〉

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本殿の向かって左端の祠
多度神社

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

KISSOこぼれネタ VOL.64 垂井町特集号

美濃の喪山神話

〔井町府中の葬送山古墳〕

国道21号を宮代の交差点で北に折れ、県道215号線を少し行くと府中地内に葬送山古墳があります。
喪山古墳とも呼ばれ、『日本書紀』『古事記』に記された国譲り神話(大国主命が天照大神に葦原中国を譲る説話)の中に出てくる「美濃国の喪山」であると古くから言われてきました。

神話の内容を要約すると次のような話になっています。

天照大神は、大国主命が治める葦原中国(出雲国)に遣わした天若日子(アメノワカヒコ=天稚彦)が永く高天原に帰ってこないことを不審に思い、無名雉に様子を見に行かせました。
ところが天若日子は雉を弓矢で射殺し、その矢は高天原まで飛んで天照大神に届きました。
天照大神がこの矢を地上に投げ返すと天若日子に当たり、天若日子は死んでしまいました。
天若日子の葬儀に、天若日子にそっくりな阿遅志貴高日子根神が現れたので、親族は死者が生き返ったと喜びます。
死者に模されて怒った阿遅志貴高日子根神が、喪屋を剣で切り、足で蹴ると、喪屋は美濃国藍見河の河上まで飛んで喪山となりました。

喪山(葬送山古墳)
ここでいう喪山が府中の葬送山古墳であるとすると、藍見河は当然、相川に相当することになります。

〔「垂井説」と「大矢田説」〕

ところが、喪山については、他に美濃市大矢田にある大矢田神社を中心とした一帯にあるとする説もあり、この場合、藍見河は長良川か或いはその支流ということになります。

江戸時代後半には、既にこの垂井説と大矢田説の両方が知られていたようで、『美濃国古蹟考』や『美濃国名所和歌』(1746年)などに、2つの説が出ています。

本居宣長も『古事記伝』(1790~1822年刊行)において喪山の所在地は不明としながら2つの説を紹介しています。
しかし、江戸時代末期の時点では広く一般に知られていたのは垂井説で、これは『木曽路名所図会』(1805年)が垂井宿の東にある小さな山を喪山として紹介した影響が大きいとされています。

喪山について初めて本格的な論証を試みたのは川上内郷(?~1857)で、著書『美濃喪山考』で大矢田説を採っています。
神話世界と実在する事物を結びつける作業は、明治以降も盛んに行なわれ、喪山伝説についても様々な比定がなされてきました。
神話と史実がはっきりと区別され、神蹟の所在を特定することがそれほど意味を持たなくなるのは20世紀になってからのことです。

■参考文献
「新修 垂井町史」 通史編 昭和58年 垂井町発行
「泳宮と喪山」 羽賀祥二(名古屋大学文学部研究論文)
「岐阜県の地名」 平凡社発行

国土交通省 中部地方整備局 木曽川下流河川事務所
〒511-0002 三重県桑名市大字福島465  TEL:0594-24-5711(代表) FAX:0594-21-4061(代表)

国土交通省 中部地方整備局 木曽川下流河川事務所HPより
https://www.cbr.mlit.go.jp/kisokaryu/KISSO/kobore64.html

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

喪山(もやま)の伝承地は 美濃国(みののくに)に 二ヶ所あります

①喪山天神社(美濃市大矢田) 

➁喪山古墳(不破郡垂井町) 

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

東海北陸自動車道の美濃ICから 県道94号を西へ 約4.3km 車10分程度
長良川を渡り 大矢田地区で大矢田小学校を目指して 右折〈北上〉すると 日本神話に登場する喪山(もやま)があり その面に鎮座します

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喪山の東には 道樹寺があり 駐車スペースあり 東側からの喪山

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南面は 正鳥居もあり 拝殿の正面ですが 表参道では無いようです

喪山天神社(美濃市大矢田)に参着

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玉垣沿いに境内の西側へ進むと 社号標もあり こちらが表参道のようです

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一礼をして 鳥居をくぐります 扁額には「喪山天神社」とあります

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「史跡 喪山」の石碑があり
右側面には「古事記 日本書紀 記載之地 神代之巻」
左側面には「美濃市重要文化財 史跡 喪山神話伝承之地 昭和四十四年四月一日」と刻まれています

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境内の山裾に建つ石碑には「美濃國藍見川之上喪山是也」

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案内板にも喪山(もやま)神話」について記されています 里人の「喪山(もやま)神話」への愛の深さを感じます

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拝殿にすすみます 

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拝殿の奥に回り込むと 石段があります

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石段の上に玉垣が廻されていますので 登ってみます

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上がってみると 祠が三つ並んで鎮座します 向かって右手の祠が大きいので本社だろうと思います

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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境内社にも お祈りをします

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祠と祠の間には 塚だろうか 石が祀られています
天若日子廟所とも伝わりますので お祈りをします

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石と祠に一礼をして 参道を戻ります

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境内の東側には 特になにも祀られている様子はありません

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西側の表参道に向かいます

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承

【抜粋意訳】

天若日子(あめのわかひこ)の妻 下照比売(したてるひめ)の泣く声が 風に乗り響き 天まで届きました

天に在る 天若日子(あめのわかひこ)の父親 天津国玉神(あまつくにたまのかみ)と その妻子が 聞き 降りて来て 嘆き悲しみました

そこに 喪屋(もや)を作り 川雁(かはがり)を死人の食物を持つ役とし 鷺(さぎ)を箒(ほうき)持ちの役とし 翠鳥(かわせみ)を御料理人役とし 雀(すずめ)を碓女(うすめ)〈碓をつく女〉役とし 雉(きじ)を哭女(なきめ)役とし そのように定めて 八日八夜の間 踊り食べて飲み遊び 死者を弔いました

この時 阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)が 弔問においでになられた時に
天から降って来た 天若日子(あめのわかひこ)の父や妻が 泣いて言うには
「わたしの子は死んでいなかった」「わたしの君は死ななかった」と
阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)の手足にすがり 嘆き悲しみました 
このように 父と妻が 天若日子(あめのわかひこ)と 阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)の二柱を間違えたのは この二柱がとても似ていたからです

阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)は とても怒りました
「わたしは 愛しい友だから 弔いに来た どうして私を 穢れた死者と比べるのか」と言い 佩(は)かれていた十拳剣(とつかのつるぎ)を抜いて 喪屋(もや)を切り伏せ 足で蹴り飛ばしてしまいました

これが 美濃国(みののくに)の藍見河(あいみがわ)の河上の「喪山(もやま)」になりました
そのときに持って切った太刀の名は「大量(おおばかり)」といい 亦名(またのな)は 神度剣(かんどのつるぎ)ともいいます

阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)が 怒り飛び去ったとき その伊呂妹(いもうと)の高比売命(たかひめのみこと)が その御名を明かそうと 歌を詠うと

"天上の機織女(はたおりめ)の首に懸けている珠(たま)の飾り その珠(たま)のように 谷二つを一度に渡られるような 阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)でございます"
と歌いました この歌は夷振(ひなぶり)といいます

【原文参照】

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

喪山天神社(美濃市大矢田)に (hai)」(90度のお辞儀)

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⑯阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)高比賣命(たかひめのみこと)に戻る

”時の架け橋” 大国主神(おほくにぬしのかみ)
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