⑥大国主神(おおくにぬしのかみ)と名乗る

大穴牟遅神は 愛と力を手に入れ 大国主神(おほくにぬしのかみとして 国を造る神として描かれる

大穴牟遅神 妻の須勢理毘売須佐之男命の宝物の弓・矢・琴を持って 根堅州国から逃亡すると

須佐之男命(すさのをのみことは 追いかけて来て われました「お前が持つ 弓・矢で八十神(やそがみ)を追い伏せ 大国主神(おほくにぬしのかみ)と名乗れ
そして 我が娘 須勢理毘売(すせりびめ 妻と迎え 盤石の岩盤太い柱を立て 天高く棟木を立て 宮殿を造れ こやつ

大国主神は その大刀と弓を持って 八十神(やそがみ)追避(おいさけ)て 国を作り始められた

來次神社雲南市木次町《主》大己貴命

『出雲国風土記』には
大原郡 来次郷の条に 來以郷(きすきのさと)は 大己貴命が 八十神(やそがみ)を追廃(おいしりぞける)故事から 名付けられたと記されます

・三屋神社 旧跡地〈松本古墳群〉《主》大己貴命

『出雲國風土記733 AD.』に
「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)〈大国主大神〉の御門 すなわち此の処にあり 故に三刀矢(みとや)と云う」とあり 大国主大神が八十神を追い払い 宮居を定め国土経営を始められた所で 飯石郡 神祇官社「御門屋社(みとや)のやしろ」とされます

・三屋神社(雲南市三刀屋町給下)《主》大己貴命

現在 三屋神社(雲南市三刀屋町給下)の鎮座地は 松本古墳群の北に鎮座します

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『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承

【抜粋意訳】

Please do not reproduce without prior permission.

ここに〈大穴牟遅神が〉その〈寝ている須佐之男命の髪を握りながら 室(むろ)〈部屋〉の垂木(たるき〈柱〉ごとに結付け 五百引石(いほびきいわ)〈500人で引くような大岩〉で その室(むろ)の戸口を(ふさ)

その 須勢理毘売(すせりびめを背負い 取って持ったのは 大須佐之男命の生大刀(いくたち)生弓矢(いくゆみや)天詔琴(あめののりこと

しかし 逃げ出す時に 天詔琴(あめののりこと)が 樹(き)に触れて 地が 鳴動(とどろき)ました

その所に寝ていた 須佐之男命 驚いて立ち上り その室(むろ)が引き倒されました
しかし 柱に結ばれた髪をほどく間に〈大穴牟遅神は〉遠くへ逃げてしまわれた

須佐之男命黄泉比良坂(よもつひらさか)まで追い至り 遥かに望むと 大穴牟遅神(おほなむじのかみを呼び 言いました
「お前が持つ 生大刀(いくたち)生弓矢(いくゆみや)を以って
お前の 庶兄弟(あにおとうとども)を 追い伏せ また 川の瀬に追い払い 
意礼(おれ)大国主神(おほくにぬしのかみ)となり また 宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)となりて 
その我が娘 須勢理毘売(すせりびめ 妻と嫡(め)して迎え
宇迦(うかのやま)山本(やまもと)〈麓〉 底津石根(そこついわね)〈盤石の岩盤〉 宮柱布刀斯理(みやばしらふとしり)〈太い柱を立て〉 高天原(たかまのはら)に氷椽多迦斯理(ひぎたかしり)〈天高く棟木を立て〉居れ〈そこにおれ〉 是奴(こやつ)」と言われました

大国主神その大刀と弓を持って 八十神(やそがみ)追避(おいさける)時に 坂の御尾〈坂下〉に追伏せ 河の瀬に追払い 国を作り始められた

【原文参照】

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

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木俣神(きのまたのかみ 亦名(またのな)は 御井神(みいのかみ) に進む

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”時の架け橋” 大国主神(おほくにぬしのかみ)
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