鹿児島県
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千尋嶽神社(屋久島町原)&千尋の滝
千尋嶽神社(せんぴろだけじんじゃ)は かつて はるお(原)集落のモッチョム岳〈千尋嶽〉への岳参り(たけめ)の山口のお札所とされ 一般の人たちは ここより奥へは迎えに入ることは許されませんでした 現在も奥岳に参詣できない場合は この場所から参拝祈願し 奥岳への参詣の代りとしています
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益救神社(屋久島町原)
原益救神社(はるおやくじんじゃ)は 往古は旧県社 益救神社の末社であったとも 益救神社(やくじんじゃ)そのものであったとも伝わります 益救神社は 長い歴史を持ち 元々は屋久島中央部の三岳(宮之浦岳・永田岳・栗生岳)の神を祀ったものと云われます
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薩摩国 式内社 2座(並小)について
薩摩国(さつまのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 薩摩国 2座(並小)の神社です
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牛床詣所(うしどこもいしょ)
牛床詣所は 屋久島中央部の三岳(宮之浦岳・永田岳・栗生岳)の神の遥拝所です 里人が山に守られている畏怖の念と感謝をお山に詣でて お伝えする原初の山岳信仰の形式を今に伝えています 標高1936mの宮之浦岳は益救神社の奥宮で かつては毎年春と秋の2回 男衆の「嶽参り(たけまいり)」があり 牛床詣所で女子供は山に参った男達を出迎えた里人の聖地とされています
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益救神社(屋久島町宮之浦)
益救神社(やくじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される 全国の式内社「2861社」の中で 最南端の屋久島に鎮座します 長い歴史を持ち 元々は屋久島中央部の三岳(宮之浦岳・永田岳・栗生岳)の神を祀ったものとも云われ 当神社の奥宮は 宮之浦岳の山頂に鎮座しています
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加紫久利神社(出水市下鯖町)
加紫久利神社(かしくりじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の式内社で 薩摩国の二ノ宮とされる古社です 社名は元宮とされる「箭筈嶽〈加紫久利山〉」 薩摩國の建国と同時(702年)に肥後との国境にそびえる 加紫久利山からの由来と伝わります
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韓国宇豆峯神社(霧島市国分上井)
韓國宇豆峯神社(からくにうづみねじんじゃ)は 隼人の乱(720)に関わる創建の歴史を持つ式内社となります 律令体制の支配強化のため九州南部に大隅国設置(713)した大和朝廷は 豊前國から200戸(約5000人)の民を隼人を教導するため移住させた 彼らが奉斎する韓国神も遷座して建立したものと伝えています その後に自治を求める隼人族の大規模な反乱が起こります
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宮浦宮(霧島市福山町)
宮浦宮(みやうらぐう)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の式内社で大隅五社の一つです 境内の夫婦銀杏は 樹齢千年を越えており 初代 神武天皇が東征前の仮の宮居であったことを記念して お手植えになったものに後世植え継いだとされています
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大穴持神社(霧島市国分広瀬)
大穴持神社(おおなむぢじんじゃ)は 天平宝字8年(764)噴火によって3島が出現した時 噴火で島を造った神の名は「大穴持神」とされ 宝亀9年(778)官社となりました『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載社〈式内社〉です 大己貴命がマムシに咬まれ忌み嫌ったので この地区にはマムシがおらず まむし除けの信仰の社としても有名です
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石體神社(鹿児島神宮の元宮)
石體神社(しゃくたいじんじゃ)は 遠く神代の頃 天津日高彦穂穂出見尊が 築かれた都「高千穂宮」の正殿跡と伝わります 皇后の豊玉比売命のお産の故事にあやかり 古くから安産の神として 篤い信仰があります 飛鳥時代 和同元年(708)に この地から遷座したのが 現在の鹿児島神宮と云われていて その元宮であるとされます