鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)

鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)は 当初は三門山山頂に祀られていたとされ 延喜式神名帳927 AD.所載 陸奥国 曰理郡三社鹿伊都乃比神社鹿緒名太神社鹿嶋天足和氣神社の論社で 創祀は 武甕槌神だけであったが 稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)を左殿に 猿田彦命(鹿島緒名太神社)を右殿に奉斎して鹿嶋三社大明神と称し 後に現在地に遷座と伝わります

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

鹿島天足和気神社(Kashima Amatarashiwake shrine)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

宮城県亘理郡亘理町逢隈鹿島字宮前97

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》武甕槌神(たけみかづちのかみ)
   経津主神(ふつぬしのかみ)
   幸魂(さきみたま)

《配》稜威雄走神(いつのおはしりのかみ)〈鹿伊豆神社
   猿田彦命(さるたひこのこみこと)〈鹿緒名太神社
   誉田別尊(ほんだわけのみこと)〈八幡神社〉
   天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)〈倉庭嶺神社〉

拝殿の由緒貼紙より

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【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

鹿島(かしま)天足和氣(あまたらしわけ)神社

御祭神
 武甕槌神(たけみかづちのかみ)
 稜威雄走神(いつのおはしりのかみ)
 猿田彦命(さるたひこのこみこと)
 鹿島の八幡神社・倉延嶺神社を合祀(明治四十一年)

祭 日
歳旦祭 一月一日
祈年祭 二月十一日紀元祭
例 祭 四月八日第三日曜日
昭和祭 四月二十九日
夏越祭 七月三十一日(近い日曜日)
秋 祭 十月十九日
新嘗祭 十一月二十三日

 
景行四十一年(一一一)辛亥八月六日 三門山頂に日本武尊の勧請と伝える。
延暦元年(七八二)五月朔日 征夷に神験があったので勲五等二戸加封された。
貞観四年(八六二)六月十五日 官社「鹿島宮」となり、六月十八日従四位上を賜った。
天慶四年(九四一)北鹿島樫木山頂に再興した。

天文年間(一五五二頃)十六代領主 亘理兵庫守元宗公より神領寄附あった。
古来、神領地は神宮寺村と鹿島村であったが、天正の乱で廃絶した。
貞亨三年(一六八六四月六日 現在地に伊達実氏(さねうじ)〈亘理邑主五代再再興した。
寛政二年(一七九〇)三月二十四日伊達村氏(むらうじ)〈亘理邑主十四〉神輿新造した。

明治五年(一八七)郷社に列した。
明治八年(一八七五四月八日 北海道伊達に伊達邦成公鹿島国足神社を分祀した。
明治十一年(一九〇八)現社殿建築する。
明治四十四年(一九一一)神饌幣帛供進社に指定された
昭和六年(一九三一)伊勢の皇大神宮御神材の払い下げを受けた。

現地案内板より

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拝殿の由緒貼紙より

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【由  (History)】

延喜式内社(えんぎしきないしゃ)
鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ

 平安時代に編纂された延喜式神名帳』に記載されている神社で創建時三門山頂あったが天慶四年(九四一)に北鹿島に遷され、貞亨三年(一六八六亘理伊達家五代 伊達実氏によって現在地遷された。寛政二年(一七九〇)に建立された拝殿が、現在の御輿殿である。

社頭の標柱より

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由緒

景行41年(111)辛亥8月6日、神宮寺村の三門山頂に、日本武尊の創祀と伝えられます。
創祀は、武甕槌神だけであったが、稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)を左殿に、猿田彦命(鹿島緒名太神社)を右殿に奉斎して鹿嶋三社大明神と称した。

神領地は、神宮寺村と鹿島村に2500束あったが、天正の乱で喪失したといわれる。
延暦元年(782)壬戌5月朔日、鹿島神を祈りて凶賊を討伐するに神験顕著なるもの有り、望むらくは位封を賽せんと勅して、勲五等封二戸を授けた。(続日本紀・社蔵文書)。これより、封戸65戸に加えて67戸となった。
貞観4年(862)壬午6月15日、官社に列し鹿島宮と称した。同月18日従四位上に陞叙した。

貞観8年(866)正月20日、常陸国鹿島大神の宮司、延暦以来封物を割いて奉幣していたが、弘仁後一時絶えた。嘉祥元年になり再び奉幣しようとしたが、聴許されなかったために、神の祟り止まなかったと言われる。
延長5年(927)延喜式の神名帳に載っている、亘理郡四座のうちの1つの式内社です。

天慶4年(941)に、北鹿島の樫木山に遷祀され、さらに貞享3年(1686)丙寅年4月6日、亘理舘主5代伊達実氏公北鹿島に鹿島御殿を建てることになり、現在地に遷し鹿嶋大明神と称した。
舘主伊達氏累代の崇敬篤く、寛政2年(1790)庚戌3月24日、舘主10代伊達村氏公が、南面であった社殿を、鳥の海を向く東面に建て替えた。祭事には、家来を遣わし祭の興隆に努めました。

明治5年(1872)郷社に列せられた。
明治41年に鹿島村の八幡社、高屋村の高屋神社、八幡神社の三社、明治42年に神宮寺村の春日神社、八雲神社の二社を合祀した。

明治41年(1908)現在のような社殿改築に当たり、今まで拝殿にしていた建物を切り離して、南向きに向きを変え神輿殿にしている。明治44年(1911)神饌幣帛料供進社に指定され、祈年祭や例祭に逢隈村長が幣帛を奉った。
明治時代までは、4月8日春の例祭典・御神幸祭には、鹿島吹田の下木戸になる御腰掛場で、田沢の安福河伯神社の御神輿と合流して、二基の御神輿が亘理の町並みを南に進み、山下の八手庭から東方太平洋の吉田浜海岸まで浜降りなされて、高屋の神休場で休んでから二基の神輿が、鹿島吹田の下木戸まで西進し、お腰掛場で盛大に分列式を挙げた後、それぞれの鎮座地である西の鹿島社と北の安福河伯神社にお還りになったと伝えられている。
平成11年11月、拝殿の前に小舞を付け現在の社殿になった。

宮城県神社庁HPより

【境内社 (Other deities within the precincts)】

〈写真向かって左から〉

鹿島緒名太神社・鹿島伊都乃比気神社の石祠
要石(かなめいし)
痘神社

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拝殿の貼紙 参拝案内より

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境内に並ぶ 多くの石祠

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)は
式内社 陸奥国 曰理郡 4座(並小)の内 三つの論社になっています
鹿伊都乃比神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)
鹿緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)曰理郡 4座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社


[旧 神社 名称 ] 鹿伊都乃比神社
[ふ り が な ]かしまいつのひけの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Kashima Itsunohike no kamino yashiro)


[旧 神社 名称 ] 鹿緒名太神社
[ふ り が な ]かしまをなたの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Kashima  Wonata no kamino yashiro)


[旧 神社 名称 ] 鹿嶋天足和氣神社
[ふ り が な ](かしまあまたりわけの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Kashima  Amatariwake no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

香取・鹿島の御子神(みこがみ)苗裔神(びょうえいしん)〉について

古代の日本は 尾張より東は東国で蝦夷の住む処でした 東へ拡大する大和朝廷の歴史は 東国の蝦夷との軋轢の歴史でもあります
関東地方まで勢力を伸ばした大和朝廷は 奈良時代頃~平安初期頃までには 奥州の制圧を目指し 蝦夷(えみし)征伐や移民政策を推し進め 古代日本の中央集権体制を目指しました

このことから東北地方平定には軍神」として 御神威のある香取・鹿島の神を奉じて 蝦夷征討軍が派遣されました

香取・鹿島の地は 東国〈関東〉の水上交通の拠点とされ 霞ヶ浦〈鹿島・香取の海〉から奥州〈東北地方〉開拓へ 太平洋海上を北へと遡っていったもの考えられています

こうして 香取神宮・鹿島神宮の苗裔神(びょうえいしん)御子神(みこがみ)〉が 奥州開拓の拠点として 太平洋沿岸地域および阿武隈川・旧北上川などの大河川の流域各地に祀られていきました

平安時代中期の延喜式神名帳927 AD.記載 奥州〈東北地方〉の 香取神宮・鹿島神宮の分祀と考えられる神社

大和国の東の涯(はて)に鎮座した香取・鹿島の2神宮は 古来より大和王権との繋がりが深く 平安時代中期の延喜式神名帳927 AD.には 伊勢・香取・鹿島の3神のみが“神宮”と記載されるほどの高い威を誇りました

その御神威を背景として 奥州〈東北地方制圧が行なわれていったのでしょう 香取神宮・鹿島神宮の分祀苗裔神を祀るこれらの分社 蝦夷征討軍によって分祀されたものと考えられています

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『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国香取苗裔神式内社2社の論社

〈本宮〉 香取神宮(名神大 月次 新嘗)(かとりの かむのみや) 

・香取神宮(香取市)下総国一之宮 

 

牡鹿郡(をしかの こおり)香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)

・香取伊豆乃御子神社(石巻市折浜竹沢)

・和渕神社(石巻市和渕町)

栗原郡(くりはらの こおり)香取御兒神社(かとりみこ かみのやしろ)

・香取御児神社〈旧鎮座地〉(栗原市築館久伝)

・香取御児神社〈鹿島神社に合祀〉(栗原市築館黒瀬後畑)

『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国鹿島苗裔神式内社8の論社

〈本宮〉 鹿島神宮(名神大 月次 新嘗)(かしまの かむのみや) 

・鹿島神宮(鹿嶋市)常陸国一之宮 

黒川郡 鹿島天足別神社(貞)(かしまあまたりわけの かみのやしろ)

・・鹿島天足別神社(富谷市大亀)

曰理郡 鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)

・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山) 

・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島) 

・月山神社(亘理町吉田作田)
〈亘理町吉田字作田に鎮座の鹿島社を合祀〉

曰理郡 鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)

・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山) 

・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島) 

曰理郡 鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)

・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島) 

・八雲神社(亘理町)
〈鹿島天足和気神社の旧鎮座地三門山に祀られていた石祠が境内に祀られている〉 

信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)

・鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑) 

・鹿島神社(福島市小田鹿島山) 

・鹿島神社(福島市岡島竹ノ内) 

・鹿島神社(伊達郡国見町藤田町尻二)

磐城郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)

・鹿島神社(いわき市常磐上矢田町)

牡鹿郡 鹿嶋御神社(かしまのみこの かみのやしろ)

・鹿島御児神社(石巻市日和が丘)

行方郡 鹿嶋御子神社(かしまみこの かみのやしろ)

・鹿島御子神社(南相馬市鹿島区鹿島町) 

・鹿島御子神社旧蹟碑(南相馬市鹿島区鹿島町)

『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922国立研究開発法人 科学技術振興機構〉に 記される 苗裔神(びょうえいしん)について

悪路王(あくろおう) 鎌倉時代に記された東国社会の伝承に登場する陸奥国の〈実在とも伝説上とも〉人物とされます
別名として 悪来王 悪毒王 阿久留王などとも記されています

鎌倉時代以降の 鹿島神宮や鎌倉幕府など東国社会の文献に 名前が登場し『鹿島神宮文書』では「悪来王」が藤原頼経によって討たれたと記され
『吾妻鏡』では「悪路王」は蝦夷(えみし)の賊首で 赤頭とともに坂上田村麻呂と藤原利仁によって征伐されたと記されます

文中に「常陸の鹿島郡 鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實と 下総香取大神と並び 苗裔の諸多く奥州に祀らるる〈38社〉」と 三代実録 貞観八年正月の条を紹介し 現在〈1922〉は その陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず と記されています

【抜粋意訳】

常陸の鹿島郡に鎮まります鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實なりとす。言ふを要せず、神代の時 荒振神たちをことむけたまひし 縁由ある鹿島大神は中古 征夷の陸奥に邁進せらるるに伴ひて 其の神威を此方面に被及し 其の同功 一體の徳を伝ふる
下総香取大神と並び、苗裔の諸多く奥州に祀らるるに至り「貞観八年正月 鹿島神宮宮司の奏詞に大神苗裔の神 陸奥に在る者三十八社 弘仁以来幣を奉らざるを以て神崇大に著はる」との事、三代実録に見ゆ。
(所謂 陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず。延喜式神名帳に見ゆる 黒川郡 鹿島天足別(カシマアマタラシワケノ)神社・亘理郡 鹿島伊都乃比氣(カシマイツノヒケノ)神社・同郡 鹿島緒名太(カシマヲナタノ)神社・同郡 鹿島天足和氣(カシマアマタラシワケノ)神社・信夫郡 鹿島神社・磐城郡 鹿島神社・牡鹿郡 鹿島御兒(カシマミコノ)神社・行方郡 鹿島御子(カシマミコノ)神社は正さしく其の一部なるべく
又 香取大神の苗裔と認むべきは 牡鹿郡 香取伊豆乃御子(カトリイツノミコノ)神社・栗原郡 香取御兒(カトリミコノ)神社とす

祭頭祭に就きて新編常陸國志補に曰く・・・・・・・・

【原文参照】

『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922国立研究開発法人 科学技術振興機構〉より

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR常磐線 亘理駅から西へ2.5km 車5分程度
佐藤製線スポーツパークわたり(亘理公園)西です

現在は三門山の麓 亘理公園の傍に鎮座していますが 当初は三門山頂に坐していたと伝わります

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社号標には 延喜式内 鹿島天足和氣神社 と刻されています

鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)に参着

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一礼をして 鳥居をくぐり 参道石段を上がります

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石段を上がると 小さな狛犬が置かれていて 左手に手水舎 右手に御輿殿〈寛政二年(一七九〇)に建立された拝殿〉 正面には現在の拝殿

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拝殿にすすみます
扁額には 郷社 鹿島神社記されています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 朱色の透塀が廻され 幣殿 本殿が鎮座します

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本殿向かって 右側には 向かって左から〉

鹿島緒名太神社・鹿島伊都乃比気神社の石祠
要石(かなめいし)
痘神社

本殿に配祀神とされているのに石祠があるのは〈鹿島緒名太神社・鹿島伊都乃比気神社の石祠〉は 三門山頂に祀られていたものか?

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 鹿伊都乃比神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)
式内社 鹿緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
式内社 鹿天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
この三社の所在について 鹿島村〈現 鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)〉と記しています

【抜粋意訳】

鹿伊都乃比神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)

鹿島は 加志麻と訓べし 伊都乃比氣は假字なり
〇祭神明らかなり 鹿島の斎神なるべし
〇鹿島村に在す 参拝記

鹿緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)

鹿島は前に同じ 緒名太は假字なり
〇祭神明らかなり 鹿島の斎神なるべし
〇在所前に同じ

鹿天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)

鹿島は前に同じ 天足は阿麻多良志と訓べし、和氣は假字なり
〇祭神明らかなり 鹿島の斎神なるべし
〇鹿島村に在す 参拝記

〇当国 黒川郡 鹿島天足別神社あり

雑事
朝野群載云、康和五年(1103)六月十日、奏亀卜、御體御卜、中略 坐ニ陸奥國 島天足別神社、云々、社司等依過穢神事祟給、遣使料中祓 可令祓清奉仕事、下略 宮主従五位下 行少祐卜部宿祢兼良、中臣従五位上・・・・

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 鹿伊都乃比神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)
式内社 鹿緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
この両社の所在について 小山村〈現 鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)〉と記しています

式内社 鹿天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
所在について 鹿島村〈現 鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)〉と記しています

【抜粋意訳】

鹿伊都乃比神社

祭神 建御雷神

祭日 三月二十八日
社格 村社
所在 小山村 〇今称 磐城國(亘理郡逢隈村 大字小山

鹿緒名太神社

社格 村社
所在 小山村 鹿伊都乃比神社同殿 
〇今称 磐城國(亘理郡逢隈村 大字小山

鹿天足和氣神社

祭日 四月六日至八日
社格 郷社
所在 鹿島村
今称 磐城國(亘理郡逢隈村 大字鹿島

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 鹿伊都乃比神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)の所在について 小山村〈現 鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)〉と記しています

式内社 鹿緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
鹿天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
の所在について 鹿島村〈現 鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)〉と記しています

ある説として「鹿島苗裔神、本郡に一社にして延喜式四座記し」と紹介していて 鹿島三社は 三座で一社である との説を取り上げています

【抜粋意訳】

鹿伊都乃比神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)

今、小山村鹿島山に在り、
伊都乃比氣神を祀る、蓋 鹿島大神 苗裔の神なり 三代実録 延喜式

鹿緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)

今、鹿島村にあり、鹿島大明神と云ふ、
緒名太神を祭る、蓋 鹿島大神 苗裔の神なり 三代実録 延喜式

鹿天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)

今、鹿島村にあり、
天足和氣神祭る、蓋 鹿島大神 苗裔の神なり 三代実録
〇按 本書載する所 鹿島苗裔神、本郡に一社にして延喜式四座記し磐城十一座にして式に鹿島神社一座挙るかの如き、彼比異同あるものは、郡境の分合に古今の別あり、三十八社 苗裔の神にも、又 式内式外の差あるを以たり、姑附て後考を俟つ

毎年四月六日鹿島祭、七日 禍神鎮、八日 鳥屋崎神幸の祭を行ふ

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)に (hai)」(90度のお辞儀)

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陸奥国 式内社 100座(大15座・小85座)について に戻る

・香取・鹿島の苗裔神(びょうえいしん)について

 

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷で 出雲国造が その任に就いた時や遷都など国家の慶事にあたって朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉としていて 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
-,

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