鹿島神社(福島市岡島竹ノ内)

鹿島神社(かしまじんじゃ)は 社伝に 第13代成務天皇の御代〈130~190〉 信夫国造 久麻直命(しのぶのくにのみやつこ くまのあたいのみこと)が東北開拓祈願の爲 常陸の鹿島大神宮を高松山に勧請し 後年 社地を源氏山に遷したとあり延喜式神名帳927 AD.所載 陸奥国 信夫郡 鹿神社(かしまの かみのやしろ)の論社でもあります

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

鹿島神社(Kashima shrine)

 [通称名(Common name)]

明神様みょうじんさま
岡島鹿島神社おかじまかしまじんじゃ
岡山鹿島神社(おかやまかしまじんじゃ)

【鎮座地 (Location) 

福島市岡島竹ノ内63

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》武甕槌神(たけみかづちのみこと)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

治水農桑
悪疫退散の神

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

社伝に

成務天皇の御代 信夫国造 久麻直命(しのぶのくにのみやつこ くまのあたいのみこと)が東北開拓祈願の爲 常陸の鹿島大神宮を高松山に勧請した 後年 社地を源氏山に遷したが 醍醐天皇の延喜年間には信夫五社 の一として国史に載せられた古社である

【由  (History)】

延喜式内 鹿島神社 由緒

御祭神 武甕槌命(たけみかつちのみこと)

 人皇十三代 成務天皇の御代 信夫国造 久麻直命(しのぶのくにのみやつこ くまのあたいのみこと)が東北開拓祈願の爲 常陸の鹿島大神宮を高松山に勧請した 後年 社地を源氏山に遷したが 醍醐天皇の延喜年間には信夫五社 の一として国史に載せられた古社である 高倉天皇の安元二年(一一七六年)には勅使を御差遣せられ その後 南朝の忠臣 北畠顕家は その臣  高松近江守定隆をして再興せしめ 寛延年間 火災の爲焼失 後 規模を縮小して現在地に斎祀し 治水農桑 悪疫退散の神として郷民の信仰をあつめ今日に至った
 毎年秋季に行われる奇祭 水かけ祭は 昔 この里に悪い病が蔓延した時  神のお告げにより それの平癒を祈願して 水かけを行った処 霊験忽ち現れて悪疫は一掃された 爾来 毎年 無病息災 村中安穏を願って水かけを行い 延々八百数十年の永きに亘り継続されて来たものと伝えられる
 氏子を七組に分け 毎年各組の持廻りで祭礼が行われる これは頭屋制 と云って 神社神道以前の斎祀の在り方で 全国的にも珍らしい制度である
 福島県より重要無形民俗文化財に指定せられ 又 福島県十大祭に列し 祭礼の御神酒は特に濁酒の醸造が公許されている
平成五年八月

宮   司 四  代 阿部脩一 
元責任総代 八十三翁 宍戸二郎 撰

現地由緒石板より

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

〈境内の一画に祀られる境内社〉

青麻三光宮の石碑
八幡宮・熊野宮・青麻神社青麻神社等の石祠

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〈社頭の鳥居の横に並ぶ石碑〉

「庚申」「太神宮」「弁財」「湯殿山」「申」刻まれた石碑

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

・奥宮〈高松山の山頂〉

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承

第50代 桓武天皇 延暦元年 凶賊を征伐する事を鹿嶋神に祈り 神験あるため 勲五等及び本国の封に戸を授かったと 記されています

【抜粋意訳】

延暦元年(七八二)五月壬寅二十〉の条

○壬寅 陸奥国言 祈祷鹿嶋神 討撥凶賊 神験非虚 望賽位封 勅奉 授勲五等 封二戸

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『続日本紀』延暦16年(797)選者:菅野真道 写本 慶長19年[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)信夫郡 5座(大1座・小4座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 鹿神社
[ふ り が な ]かしまの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Kashima no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

香取・鹿島の御子神(みこがみ)苗裔神(びょうえいしん)〉について

古代の日本は 尾張より東は東国で蝦夷の住む処でした 東へ拡大する大和朝廷の歴史は 東国の蝦夷との軋轢の歴史でもあります
関東地方まで勢力を伸ばした大和朝廷は 奈良時代頃~平安初期頃までには 奥州の制圧を目指し 蝦夷(えみし)征伐や移民政策を推し進め 古代日本の中央集権体制を目指しました

このことから東北地方平定には軍神」として 御神威のある香取・鹿島の神を奉じて 蝦夷征討軍が派遣されました

香取・鹿島の地は 東国〈関東〉の水上交通の拠点とされ 霞ヶ浦〈鹿島・香取の海〉から奥州〈東北地方〉開拓へ 太平洋海上を北へと遡っていったもの考えられています

こうして 香取神宮・鹿島神宮の苗裔神(びょうえいしん)御子神(みこがみ)〉が 奥州開拓の拠点として 太平洋沿岸地域および阿武隈川・旧北上川などの大河川の流域各地に祀られていきました

平安時代中期の延喜式神名帳927 AD.記載 奥州〈東北地方〉の 香取神宮・鹿島神宮の分祀と考えられる神社

大和国の東の涯(はて)に鎮座した香取・鹿島の2神宮は 古来より大和王権との繋がりが深く 平安時代中期の延喜式神名帳927 AD.には 伊勢・香取・鹿島の3神のみが“神宮”と記載されるほどの高い威を誇りました

その御神威を背景として 奥州〈東北地方制圧が行なわれていったのでしょう 香取神宮・鹿島神宮の分祀苗裔神を祀るこれらの分社 蝦夷征討軍によって分祀されたものと考えられています

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『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国香取苗裔神式内社2社の論社

〈本宮〉 香取神宮(名神大 月次 新嘗)(かとりの かむのみや) 

・香取神宮(香取市)下総国一之宮 

 

牡鹿郡(をしかの こおり)香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)

・香取伊豆乃御子神社(石巻市折浜竹沢)

・和渕神社(石巻市和渕町)

栗原郡(くりはらの こおり)香取御兒神社(かとりみこ かみのやしろ)

・香取御児神社〈旧鎮座地〉(栗原市築館久伝)

・香取御児神社〈鹿島神社に合祀〉(栗原市築館黒瀬後畑)

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『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国鹿島苗裔神式内社8の論社

〈本宮〉 鹿島神宮(名神大 月次 新嘗)(かしまの かむのみや) 

・鹿島神宮(鹿嶋市)常陸国一之宮 

黒川郡 鹿島天足別神社(貞)(かしまあまたりわけの かみのやしろ)

・鹿島天足別神社(富谷市大亀)

曰理郡 鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)

・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山) 

・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島) 

・月山神社(亘理町吉田作田)
〈亘理町吉田字作田に鎮座の鹿島社を合祀〉

曰理郡 鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)

・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山) 

・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島) 

曰理郡 鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)

・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島) 

・八雲神社(亘理町)
〈鹿島天足和気神社の旧鎮座地三門山に祀られていた石祠が境内に祀られている〉 

信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)

・鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑) 

・鹿島神社(福島市小田鹿島山) 

・鹿島神社(福島市岡島竹ノ内) 

・鹿島神社(伊達郡国見町藤田町尻二)

磐城郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)

・鹿島神社(いわき市常磐上矢田町)

牡鹿郡 鹿嶋御神社(かしまのみこの かみのやしろ)

・鹿島御児神社(石巻市日和が丘)

行方郡 鹿嶋御子神社(かしまみこの かみのやしろ)

・鹿島御子神社(南相馬市鹿島区鹿島町) 

・鹿島御子神社旧蹟碑(南相馬市鹿島区鹿島町)

『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922国立研究開発法人 科学技術振興機構〉に 記される 苗裔神(びょうえいしん)について

悪路王(あくろおう) 鎌倉時代に記された東国社会の伝承に登場する陸奥国の〈実在とも伝説上とも〉人物とされます
別名として 悪来王 悪毒王 阿久留王などとも記されています

鎌倉時代以降の 鹿島神宮や鎌倉幕府など東国社会の文献に 名前が登場し『鹿島神宮文書』では「悪来王」が藤原頼経によって討たれたと記され
『吾妻鏡』では「悪路王」は蝦夷(えみし)の賊首で 赤頭とともに坂上田村麻呂と藤原利仁によって征伐されたと記されます

文中に「常陸の鹿島郡 鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實と 下総香取大神と並び 苗裔の諸多く奥州に祀らるる〈38社〉」と 三代実録 貞観八年正月の条を紹介し 現在〈1922〉は その陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず と記されています

【抜粋意訳】

常陸の鹿島郡に鎮まります鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實なりとす。言ふを要せず、神代の時 荒振神たちをことむけたまひし 縁由ある鹿島大神は中古 征夷の陸奥に邁進せらるるに伴ひて 其の神威を此方面に被及し 其の同功 一體の徳を伝ふる
下総香取大神と並び、苗裔の諸多く奥州に祀らるるに至り「貞観八年正月 鹿島神宮宮司の奏詞に大神苗裔の神 陸奥に在る者三十八社 弘仁以来幣を奉らざるを以て神崇大に著はる」との事、三代実録に見ゆ。
(所謂 陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず。延喜式神名帳に見ゆる 黒川郡 鹿島天足別(カシマアマタラシワケノ)神社・亘理郡 鹿島伊都乃比氣(カシマイツノヒケノ)神社・同郡 鹿島緒名太(カシマヲナタノ)神社・同郡 鹿島天足和氣(カシマアマタラシワケノ)神社・信夫郡 鹿島神社・磐城郡 鹿島神社・牡鹿郡 鹿島御兒(カシマミコノ)神社・行方郡 鹿島御子(カシマミコノ)神社は正さしく其の一部なるべく
又 香取大神の苗裔と認むべきは 牡鹿郡 香取伊豆乃御子(カトリイツノミコノ)神社・栗原郡 香取御兒(カトリミコノ)神社とす

祭頭祭に就きて新編常陸國志補に曰く・・・・・・・・

【原文参照】

『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922国立研究開発法人 科学技術振興機構〉より

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR東北本線 福島駅から 阿武隈川沿いに県道309号を北東へ 約8km 車17分程度

社号標 鹿島神社

鹿島神社(福島市岡島竹ノ内)に参着

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階段下に建つ 鳥居に一礼をして 参道を上がります
しかし 階段には 何かがいます

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石段を上がると それが猫だとわかります
しかし 変わった猫でこちらを見続ける 鳴きもせず ただ見つめています

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石段の上は 整地された境内となっていて 正面には社殿が建ちます
夕暮れの参拝でしたので 社殿には明かりが灯されています

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拝殿にすすみます

扁額の字は霞んでいますが 鹿島神社と記されています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥は 一段高い境内地なっていて 本殿が建てられ祀られています

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境内 社殿〈南西を向く〉に向かって右側〈南東側〉には おそらく「岡山の水かけ祭り」の水屋だと思います

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参考 環境省HPより

参道の左手〈境内の北東〉には 境内社の石祠が祀られている檀があり お参りをします 石燈籠の脇には 先程の猫がまだ 私を見つめています

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社殿に一礼をして 参道を戻ると猫が参道に移動してきます

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私が石段に差し掛かると 猫は石段の中央に進み まるで私の参拝を見守って よく参った と云っているかのようで 想わず会釈

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たぶん 神遣い猫なのだろう それとも ご近所の猫? どちらにしても 美しい顔立ちしていましたので 一礼をして御礼を述べておきました

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参道の石段を下ります

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鳥居をくぐり 振り返り一礼をします
猫は消えていました

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阿武隈川造形し福島の街へと下りながら 向かいます

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 信夫郡 鹿島神社について 所在は 小倉〈現 鹿島神社(福島市小田鹿島山)〉と記しています

【抜粋意訳】

信夫郡五座 大一座小四座

信夫は 志乃不と訓べし 和名鈔 郡名信夫 假字上の如し
二十二 民部拾芥抄 國郡部 信夫

〇舊事紀 国造本紀 信夫國造 志賀高穴穂朝御世 阿波国造同祖 久志伊宇命孫 久麻直定賜国造

鹿島神社

鹿島は 加志麻と訓べし
〇祭神 武甕槌命
小倉村に在す 参拝参考

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 信夫郡 鹿島神社について 所在は 小倉〈現 鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑)〉と記しています

【抜粋意訳】

鹿島神社

祭神 武甕槌命
祭日 九月九日
社格 村社
所在 鳥谷野村〇鹿島森 今 岩代國(信夫郡杉妻村大字鳥谷野)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 信夫郡 鹿島神社について 所在を鳥谷野村鹿島〈現 鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑)〉と記しています

【抜粋意訳】

信夫五座(大1座・小4座)

鹿島(カシマノ)神社

今、鳥谷野村鹿島にあり陸奥式社考 福島縣神社調 武御雷命を祀る、日本書紀、延喜式、本社伝説
桓武天皇延暦元年壬戌勅して 勳五等 封充奉る 是よりさき凶賊

を撥時、鹿島神に祈るに神験虚しからさりしを以てなり・・

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

岡山の水かけ祭 について

福島市岡島の鹿島神社800年以上続く神事岡山の水かけ祭」は 地区内の婿は3年間 入り婿なら7年間の男性酒席の後に水をかけて祝うことから始まった火伏せと厄落としの神事 無病息災を願い 水を掛け合う

岡山の水かけ祭
https://www.fukushima-cci.or.jp/photo/photo/photodisp.php?id=417&season=&sub=0&keyword=

福島県指定重要無形文化財

岡山の水かけ祭り

昭和五十七年三月三十日指定

鹿島神社で秋の祭礼として十月の第四日曜日に行われるこの祭りは、頭前(とうまえ)(さて嶺の主宰者)を守り伝え、古来八百年余の伝統を有している。
祭礼当日には、社殿で祭式を執り行ってご神体を神輿に移し、頭前の家まで渡御する。頭前の家では祭式に続いて神楽を二座舞い、再び神社に戻り水祝いを行う。水屋には氏子総代・中老・世話人が着座し、謡曲「高砂」を謡い、神酒二献が回ると水かけになる。
 境内では、若者が大桶と小桶に水を入れて待つ。氏子総代と若者の「水だー」の掛け声で一斉に水かけが始まり、水屋からも応援する。世話人が切餅をまき、水がなくなると頭前や杜氏新婿などが藁と一緒に大桶に入れられ、万歳三唱をし水祝いは終了する。
 水祝いが終わると、水屋で新旧の両頭前が、三三九度の盃を交わし、ご神体を引き継ぐ。新頭前はご神体を自宅の神棚に安置して、これから一年間、供物を供えて奉仕する。
 この祭りは、東北地方に少ない頭前制が継承され、若者の組織も維持されているところに高い価値がある。

福島市教員委員会
岡山鹿島神社水かけ祭保存会

現地案内板より

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鹿島神社(福島市岡島竹ノ内)に (hai)」(90度のお辞儀)

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陸奥国 式内社 100座(大15座・小85座)について に戻る

・香取・鹿島の苗裔神(びょうえいしん)について

 

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」でありますので 各郡の条に「〇〇郡 神社」として 神社名の所載があります
『風土記(fudoki)』が編纂(733年)された 当時の「出雲の神社(399社)」を『出雲國風土記 神名帳(izumo no kuni fudoki jimmeicho)』として伝える役割をしています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷で 出雲国造が その任に就いた時や遷都など国家の慶事にあたって朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
-,

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