鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)

鹿島緒名太神社(かしまおなたじんじゃ)は 当初三門山山頂に延喜式神名帳927 AD.所載 陸奥国 曰理郡三社鹿伊都乃比神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)鹿緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)〉が 鹿島苗裔神(びょうえいしん)として祀られていたとされ 当社は①➁の論社で 後に現在地に遷座されたと伝わります

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

鹿島緒名太神社(Kashima onata shrine

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

宮城県亘理郡亘理町逢隈小山字西山21

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》武甕槌神(たけみかづちのかみ)

武甕槌神の御子神 緒名太神の御神名から社号とするあり

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

延喜式内社(えんぎしきないしゃ)
鹿島緒名太神社(かしまなおたじんじゃ)

平安時代に編纂された『延喜式』の神名帳に記載された亘理郡四社のうちの一社で、鹿嶋天足和氣神社 鹿嶋伊都乃比氣神社 と共に三門山山頂にあったとされている。後に現在地に遷座された。

社頭の社号柱より

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社伝に

景行天皇41年(西暦111年)辛亥8月6日、日本武尊(やまとたけるのみこと)が 勧請東北鎮護のため勅命により勧請したと伝
当所は 
三門山に鎮座していたと伝えられ 天慶4年(941)に当初地の三門山から北鹿島の樫山に遷座し 『延喜式神名帳927 AD.』に所載される
戦国時代に戦火で焼失し廃絶 その後再興され 貞享3年(1686現在地に遷座と伝わります

【由  (History)】

由緒

景行天皇41年(西暦111年)辛亥8月6日、式内鹿島神社の一つで東北鎮護のため勅命により勧請したと伝えられ、延喜の小社に班す。
明治5年村社に列す。同44年供進神社に指定された。本殿は、流造である。往古の神領地は小山一円であったが、天正年間の兵乱で廃絶するにいたった。境内に現存しあるものに寛保2年奉納の高さ三尺の奉献碑、同年の石堂、寛延2年2月3日の石堂、これらと並んで菊の紋入りの石堂も建ててある。また、昔を物語るものとして礎石、鏡石と称されているものが今に残っている。

宮城県神社庁HPより
https://www.miyagi-jinjacho.or.jp/jinja-search/detail.php?code=310010279

【境内社 (Other deities within the precincts)】

〈本殿の向かって右横に並んで祀られる石祠〉

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)は
式内社 陸奥国 曰理郡 4座(並小)の内 二つの論社になっています

鹿伊都乃比神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)曰理郡 4座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 鹿伊都乃比神社
[ふ り が な ]かしまいつのひけの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Kashima Itsunohike no kamino yashiro)

鹿緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)曰理郡 4座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 鹿緒名太神社
[ふ り が な ]かしまをなたの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Kashima  Wonata no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

香取・鹿島の御子神(みこがみ)苗裔神(びょうえいしん)〉について

古代の日本は 尾張より東は東国で蝦夷の住む処でした 東へ拡大する大和朝廷の歴史は 東国の蝦夷との軋轢の歴史でもあります
関東地方まで勢力を伸ばした大和朝廷は 奈良時代頃~平安初期頃までには 奥州の制圧を目指し 蝦夷(えみし)征伐や移民政策を推し進め 古代日本の中央集権体制を目指しました

このことから東北地方平定には軍神」として 御神威のある香取・鹿島の神を奉じて 蝦夷征討軍が派遣されました

香取・鹿島の地は 東国〈関東〉の水上交通の拠点とされ 霞ヶ浦〈鹿島・香取の海〉から奥州〈東北地方〉開拓へ 太平洋海上を北へと遡っていったもの考えられています

こうして 香取神宮・鹿島神宮の苗裔神(びょうえいしん)御子神(みこがみ)〉が 奥州開拓の拠点として 太平洋沿岸地域および阿武隈川・旧北上川などの大河川の流域各地に祀られていきました

平安時代中期の延喜式神名帳927 AD.記載 奥州〈東北地方〉の 香取神宮・鹿島神宮の分祀と考えられる神社

大和国の東の涯(はて)に鎮座した香取・鹿島の2神宮は 古来より大和王権との繋がりが深く 平安時代中期の延喜式神名帳927 AD.には 伊勢・香取・鹿島の3神のみが“神宮”と記載されるほどの高い威を誇りました

その御神威を背景として 奥州〈東北地方制圧が行なわれていったのでしょう 香取神宮・鹿島神宮の分祀苗裔神を祀るこれらの分社 蝦夷征討軍によって分祀されたものと考えられています

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『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国香取苗裔神式内社2社の論社

〈本宮〉 香取神宮(名神大 月次 新嘗)(かとりの かむのみや) 

・香取神宮(香取市)下総国一之宮 

 

牡鹿郡(をしかの こおり)香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)

・香取伊豆乃御子神社(石巻市折浜竹沢)

・和渕神社(石巻市和渕町)

栗原郡(くりはらの こおり)香取御兒神社(かとりみこ かみのやしろ)

・香取御児神社〈旧鎮座地〉(栗原市築館久伝)

・香取御児神社〈鹿島神社に合祀〉(栗原市築館黒瀬後畑)

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『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国鹿島苗裔神式内社8の論社

〈本宮〉 鹿島神宮(名神大 月次 新嘗)(かしまの かむのみや) 

・鹿島神宮(鹿嶋市)常陸国一之宮 

黒川郡 鹿島天足別神社(貞)(かしまあまたりわけの かみのやしろ)

・・鹿島天足別神社(富谷市大亀)

曰理郡 鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)

・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山) 

・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島) 

・月山神社(亘理町吉田作田)
〈亘理町吉田字作田に鎮座の鹿島社を合祀〉

曰理郡 鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)

・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山) 

・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島) 

曰理郡 鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)

・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島) 

・八雲神社(亘理町)
〈鹿島天足和気神社の旧鎮座地三門山に祀られていた石祠が境内に祀られている〉 

信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)

・鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑) 

・鹿島神社(福島市小田鹿島山) 

・鹿島神社(福島市岡島竹ノ内) 

・鹿島神社(伊達郡国見町藤田町尻二)

磐城郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)

・鹿島神社(いわき市常磐上矢田町)

牡鹿郡 鹿嶋御神社(かしまのみこの かみのやしろ)

・鹿島御児神社(石巻市日和が丘)

行方郡 鹿嶋御子神社(かしまみこの かみのやしろ)

・鹿島御子神社(南相馬市鹿島区鹿島町) 

・鹿島御子神社旧蹟碑(南相馬市鹿島区鹿島町)

『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922国立研究開発法人 科学技術振興機構〉に 記される 苗裔神(びょうえいしん)について

悪路王(あくろおう) 鎌倉時代に記された東国社会の伝承に登場する陸奥国の〈実在とも伝説上とも〉人物とされます
別名として 悪来王 悪毒王 阿久留王などとも記されています

鎌倉時代以降の 鹿島神宮や鎌倉幕府など東国社会の文献に 名前が登場し『鹿島神宮文書』では「悪来王」が藤原頼経によって討たれたと記され
『吾妻鏡』では「悪路王」は蝦夷(えみし)の賊首で 赤頭とともに坂上田村麻呂と藤原利仁によって征伐されたと記されます

文中に「常陸の鹿島郡 鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實と 下総香取大神と並び 苗裔の諸多く奥州に祀らるる〈38社〉」と 三代実録 貞観八年正月の条を紹介し 現在〈1922〉は その陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず と記されています

【抜粋意訳】

常陸の鹿島郡に鎮まります鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實なりとす。言ふを要せず、神代の時 荒振神たちをことむけたまひし 縁由ある鹿島大神は中古 征夷の陸奥に邁進せらるるに伴ひて 其の神威を此方面に被及し 其の同功 一體の徳を伝ふる
下総香取大神と並び、苗裔の諸多く奥州に祀らるるに至り「貞観八年正月 鹿島神宮宮司の奏詞に大神苗裔の神 陸奥に在る者三十八社 弘仁以来幣を奉らざるを以て神崇大に著はる」との事、三代実録に見ゆ。
(所謂 陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず。延喜式神名帳に見ゆる 黒川郡 鹿島天足別(カシマアマタラシワケノ)神社・亘理郡 鹿島伊都乃比氣(カシマイツノヒケノ)神社・同郡 鹿島緒名太(カシマヲナタノ)神社・同郡 鹿島天足和氣(カシマアマタラシワケノ)神社・信夫郡 鹿島神社・磐城郡 鹿島神社・牡鹿郡 鹿島御兒(カシマミコノ)神社・行方郡 鹿島御子(カシマミコノ)神社は正さしく其の一部なるべく
又 香取大神の苗裔と認むべきは 牡鹿郡 香取伊豆乃御子(カトリイツノミコノ)神社・栗原郡 香取御兒(カトリミコノ)神社とす

祭頭祭に就きて新編常陸國志補に曰く・・・・・・・・

【原文参照】

『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922国立研究開発法人 科学技術振興機構〉より

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

阿武隈川河口には 鳥の海という天然の良港があり 古代の海上交通の拠点であったとされています
鎮座地は 阿武隈川が蛇行して太平洋に注ぐ手前 阿武隈川〈福島から郡山方面へ〉と白石川〈白石市方面へ〉の分岐点にあり 現在の福島県中通り(なかどおり)へ進行する 大平洋海上からの入口に当たります

こうしたことから 大和朝廷にとって 奥州制圧の要衝であったことは確かで この地には 鹿島神の苗裔神(びょうえいしん)〉として 式内社3社〈鹿嶋伊都乃比氣神社鹿嶋緒名太神社鹿嶋天足和氣神社〉が祀られています
しかし 廃絶したり 再興後も三社ともに 鹿嶋大明神と号していたり 実際には特定〈比定〉が出来ていません

JR東北本線 槻木駅から 東南方向へ 阿武隈川を渡ったところの七峰山の北斜面に南向きに在るが 一の鳥居は 山の反対側〈東面〉にあり 少しわかり難い
道路沿い 亘理町消防団ポンプ置場の横に 朱色の鳥居が建っています

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鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)に参着

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一礼をして 鳥居をくぐると すぐに山の麓になり 再び 朱色の鳥居が建ちます 参道は笹竹などが綺麗に刈られていて 清掃がなされていて 里人の信仰心の篤さを感じながら 一礼をして 二の鳥居をくぐります

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山裾の参道を進むと 暫くして 鹿島緒名太神社の案内板が立てられています

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この案内板を曲がると 石段の上に社殿が見えてきます

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石段を上がります 枯れ枝も階段から除かれていて 歩きやすい感謝

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石段を上がると 整地された境内地は二段となっていて 下の檀に拝殿 上の檀に本殿 その脇に境内社の石祠が祀られています 拝殿の脇には御神木

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拝殿にすすみます
扁額には 式内 鹿島緒名太神社 と記されています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 一段高く本殿が祀られ 幣殿によって拝殿と繋がっています 本殿には 覆屋が建てられています

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社殿に一礼をして 参道石段を戻ります

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二の鳥居が見えて来て その先に阿武隈川が創ったであろう逢隈の平地が見えます

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 鹿伊都乃比神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)
式内社 鹿緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
この両社の所在について 鹿島村〈現 鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)〉と記しています

【抜粋意訳】

鹿伊都乃比神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)

鹿島は 加志麻と訓べし 伊都乃比氣は假字なり
〇祭神明らかなり 鹿島の斎神なるべし
〇鹿島村に在す 参拝記

鹿緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)

鹿島は前に同じ 緒名太は假字なり
〇祭神明らかなり 鹿島の斎神なるべし
〇在所前に同じ

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 鹿伊都乃比神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)
式内社 鹿緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
この両社の所在について 小山村〈現 鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)〉と記しています

【抜粋意訳】

鹿伊都乃比神社

祭神 建御雷神

祭日 三月二十八日
社格 村社
所在 小山村 〇今称 磐城國(亘理郡逢隈村 大字小山

鹿緒名太神社

社格 村社
所在 小山村 鹿伊都乃比神社同殿 
〇今称 磐城國(亘理郡逢隈村 大字小山

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 鹿伊都乃比神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)の所在について 小山村〈現 鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)〉と記しています

式内社 鹿緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)の所在について 鹿島村〈現 鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)〉と記しています

【抜粋意訳】

鹿伊都乃比神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)

今、小山村鹿島山に在り、
伊都乃比氣神を祀る、蓋 鹿島大神 苗裔の神なり 三代実録 延喜式

鹿緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)

今、鹿島村にあり、鹿島大明神と云ふ、
緒名太神を祭る、蓋 鹿島大神 苗裔の神なり 三代実録 延喜式

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876] https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)に (hai)」(90度のお辞儀)

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陸奥国 式内社 100座(大15座・小85座)について に戻る

・香取・鹿島の苗裔神(びょうえいしん)について

 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
-,

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