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村国神社 御旅所(各務原市)
村国神社 御旅所(むらくにじんじゃ おたびところ)は 『延喜式神名帳 AD.927』に 美濃国各務郡 村國神社 二座とあり 一座は 村国神社 もうひとつ一座が 村國連男依命の墳墓の地 と云われており 現在の御旅所になります
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尾張大國霊神社(稲沢市国府宮)〈尾張国総社〉
尾張大國霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)は 尾張地方の総鎮守神 農商業守護神 厄除神として広く信仰される神社です 奈良時代に国衛(こくが)に隣接して御鎮座していたので尾張国の総社と定められ 国司 自らが祭祀を執り行っていたので 一般には「国府宮神社」「国府宮」と呼ばれるようになり 通称「国府宮」として広く知られます
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村国真墨田神社(各務原市鵜沼山崎町)
村国真墨田神社(むらくにますみたじんじゃ)は 「美濃国一之宮 南宮大社」と「尾張国 一宮 真清田神社」を合祀 その後 天武元年(672)に起こった壬申の乱で功績をあげた゛村国男依(murakuni no oyori)゛を 祭神として合祀した由緒を持ちます 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の美濃国 各務郡 村国真墨田神社(むらくにますみたの かみのやしろ)に比定されます
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氷川女體神社(さいたま市緑区宮本)
氷川女体神社(ひかわにょたいじんじゃ)は 武蔵国有数の古社で 見沼に突き出た小舌状台地の上に鎮座しています 一説では 当社(女體社)と 大宮区高鼻町の大宮氷川神社(御祭神:須佐之男命・男体社)と 見沼区中川の中山神社(御祭神:大己貴命・王子社)の三社を合わせて 武蔵国一之宮と称されていたとも伝えられています
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〈尾張國一之宮〉真清田神社(一宮市真清田)〈尾張開拓の祖゛天火明命゛を祀る〉
真清田神社(ますみだじんじゃ)は 尾張国一之宮として2600有余年の歴史を誇ります 社伝によれば 尾張氏の祖神とされる「天火明命」が 大和国「葛城の高尾張邑」(現・奈良県葛城地方)を出て 神武天皇33年3月3日に 当地で鎮祭されたのが始まりとしています
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大神神社(一宮市花池)〈延喜式内 名神大社・尾張国一之宮〉
大神神社(おおみわじんじゃ)は 社伝によれば 大和系の人々が大神神社と同じ「三輪の神」を祀ったとされます 奈良時代には 尾張国司が赴任の際 国中の神社を代表する総社には 国府宮の尾張大国霊神社を指定し 次いで 花池の「大神神社」と「真清田神社」をまとめて「相殿・対の宮」として「尾張国一之宮」に指定したと伝えています
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宇都宮二荒山神社(宇都宮市)
宇都宮二荒山神社(うつのみや ふたあらやま じんじゃ)は 宇都宮市の中心部 明神山(臼ヶ峰、標高約135m)山頂に鎮座します 大変歴史が古く 創建は 第10代 崇神天皇の御代に遡ると云われます 戦災で多くの資料を喪失し 現存の社記には 第16代 仁徳天皇の御代(約1600年前)毛野国が下野国と上野国の二国に分割された時 下野国国造に任じられた奈良別王(ならわけのきみ)が 曽祖父・豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を氏神として祀ったのに始まると記されます
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宇都宮二荒山神社 下之宮(宇都宮市)
二荒山神社 下之宮は 宇都宮二荒山神社の旧 鎮座地に祀られる元宮です 御祭神の4世の孫 奈良別王が 第16代 仁徳天皇の御代(1600年程前)に下野の初代国造となり 国を治めるに当たり 御神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀り合せたとされます その後 神社は 平安時代前半の承和5年(838)に臼ヶ峰(現在地)に還座しましたが 下之宮は発祥の聖地に鎮座するとして永く奉斎されてきました 1995年以後の再開発の際に現在地に再建されました
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奈良神社【旧跡】& 横塚山古墳(熊谷市)
奈良神社【旧跡】は 社伝にある「奈良神社の境内から忽然として水が湧き出し これにより600余町歩が水に恵まれた水田となった」と伝わる場所(本殿から東北500m程)に石碑「延喜式内 奈良神社 和銅四年 涌泉地 舊蹟」が残っています 又 社伝には 奈良別命の墓所であるという伝承が残る古墳(本殿から東北1km程)があります
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奈良之神社(熊谷市中奈良)
奈良神社(ならじんじゃ)は 御祭神「奈良別命(ならわけのみこと)」の名残りから 鎮座地も中奈良(熊谷市)といいます 創建は 第16代 仁徳天皇の卸代〈1600年程前〉奈良別命は 下野国の国造の任の後 この地に その徳によって荒地を拓き美田を墾し 人々の発展と安住の地を造られた そのため郷民がその徳を偲んで建立したと伝わります その後中世に 熊野社に社名を変えて存続 江戸後期になり 王政復古の思想興隆により 社名を古代の奈良神社に復したとあります
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磐裂神社(足尾鎮守)
磐裂神社(いわさくじんじゃ)は 文化~文政年間 (1804~30) には 修験の山「庚申山」への登拝口 一丁目とされていました 秩父の妙見・相馬の妙見・足尾の妙見を関東三妙見と称したと云います その歴史は古く 大同3年(808)「足尾5氏(神山、星野、倉沢、斉藤、亀山または細内)」と言われる一族14人が 日光から移住してきた時 妙見宮の分身を拝受し足尾郷14ケ村の鎮守と定めたとされます 明治11年(1878)古河市兵衛が足尾銅山を再開した際 磐裂神社と改称されました
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青龍神社(日光西町五社)
青龍神社(せいりゅうじんじゃ)は 日光西町五社の一つです 弘法大師(空海)が滝尾・寂光を開いた時に弟子が ご加護を祈って京都醍醐の青龍神を移し祀ったと伝わります 明治維新以前には「青龍大権現」と称していました 本町の氏神様で 東照宮・二荒山神社の大祭の前には晴天を祈って祈晴際が行われます
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瀧尾神社(日光市山内)〈弘仁11年(820)弘法大師空海が創建 日光瀧尾女躰権現〉
滝尾神社(たきのおじんじゃ)は 弘仁11年(820)弘法大師空海(くうかい)が創建したと伝え 江戸時代までは 日光山を信仰する三社の1つとして 日光三社権現(にっこうさんしゃごんげん)(滝尾権現・新宮権現・本宮権現)と呼ばれていました 女峰山を御神体山と仰ぎ 田心姫命(たごりひめのみこと)を祀り「女体中宮」とたたえます
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本宮神社(日光発祥の地)
本宮神社(ほんぐうじんじゃ)は 神護景雲元年(766年)勝道上人(shodo shonin)が「山菅の蛇橋」(現在の神橋)を渡りこの地(日光)に神仏を祀り 庵を結んだのが始まりとされています ここは日光の原点であり 二荒山神社発祥の地であり 開運の神社と言われます 古くは 新宮(現在の二荒山神社)と滝尾神社と共に 日光三社と呼ばれていました
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若子神社(日光市)& 池石(生石)(ikeishi)
若子神社(じゃっこじんじゃ)は 弘仁11年(820)日光を訪れた弘法大師(空海)が 「白糸の滝」で修行し滝尾神社(たきのおじんじゃ)を開き 次いで この「寂光の滝」で修行した時 夢の中で女神のお告げを受け ここに祠を建てたと伝えられます 往時は神仏習合し 寂光権現と称していましたが 明治以降「若子神社」と改められます 境内の直下には日光八景に数えられる「寂光の滝」があります
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滝尾稲荷神社(日光市 滝尾神社境内)
瀧尾稲荷神社(たきのおいなりじんじゃ)は 弘仁11年(820年)弘法大師(空海)が 滝尾神社と共に開いたと伝わる古社です 「昔 瀧尾上人が朝のお供えを忘れると 稲荷の神が化けて出ては 催促した」という伝説が残っています 東照宮ができる以前は 日光山として仏教の栄えた聖地「白糸の滝」がある滝尾神社本殿奥の境内に鎮座します
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瀧尾高徳水神社(日光市)
瀧尾高徳水神社(たきのお たかとく すいじんじゃ)は 奥吉野(奈良県吉野郡東吉野村)の水の宗社「丹生川上神社 中社(にうかわかみじんじゃ ちゅうしゃ)」の御祭神 罔象女命(みずはめのみこと)の御分霊を勧請し 昭和52年(1977)11月26日 当時の栃木県知事 横川信夫氏 より藤原町高徳の鬼怒川沿いに鎮座していましたが 1998年(平成10年)道路拡幅のため現在地に遷座しました
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北野神社(日光市)
北野神社(きたのじんじゃ)は 日光二荒山神社(Nikko Futarasan Shrine)の末社です 寛文元年(1661)大宰府天満宮(福岡県)の別當である大鳥居氏の一族「大僧都法印(Daisozu hoin)菅原信祐(Sugawara no shinyu)」(亀戸天神の創建者)が 天神信仰を広めるために「社殿建立の志」を立てて諸国を巡った時 大宰府天満宮よりこの地に勧請された由緒を持つ神社です
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多田神社(小浜市)
多田神社(ただじんじゃ)は 『延喜式神名帳』では若狭国遠敷郡の筆頭に挙げられる「多太神社(Tata no kamino yashiro)」の比定社です 元は 多田大明神 多田明神 多太明神社と呼ばれていました 「社伝に 天平神護二年(766年)創建すと傳ふ」と記されている古社です
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小浴神社(小浜市金屋)
小浴神社(こあみじんじゃ)は 『延喜式神名帳』の論社とされる古社です 鎮座地の小浜市金屋は かつての若狭国府の故地とされていて 小浴神社には かつての「惣社」が合祀された その惣社には 国宝級の絵巻が伝わっている新八幡宮(もともとあった小浜八幡に対して「新」八幡)が含まれていたのであろうと言われています