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両神社(下田市須崎)

両神社(りょうじんじゃ)は 伊豆半島 下田の須崎港に鎮座します 須崎には 古代祭祀遺蹟の残る恵比寿島があり 伊豆半島の三島信仰の聖地ともされいて 当社も 江戸期には「両社明神」と呼ばれ「薬師堂」が祀られ「三島明神」であるとされていました こうしたことから『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社となっています

湯船神社(三宅島 神着)

湯船神社(ゆぶねじんじゃ)は 三宅一周道路 神着のバス停 湯舟グラウンドの横に鎮座しています 元々の鎮座地は「東郷の湯池の湖畔」に鎮座していましたが 明治7年(1874年)7月3日正午頃より始まった噴火により 東郷集落が埋没焼失したため この地に遷座しました

神澤神社(三宅島 伊豆)

神沢神社(かんざわじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「弖良命神社(Tera no mikoto Shrine)」に比定される格式の高い由緒ある神社です 三宅島の伊豆にある神座山の太古の森の中に 静かに鎮座しています

祖師堂(三宅島 神着)【御笏神社(Oshaku Shrine)旧鎮座地】

祖師堂(そしどう)は  一説には 御笏神社(Oshaku Shrine)の旧鎮座地で 現在の祖師堂(観音堂)の場所であったとされています 御笏神社(Oshaku Shrine)の東北100m程のところ 三宅一周道路に面しています

三ノ朔幣神社 旧鎮座地(三宅島 神着)

三ノ朔幣神社 旧鎮座地は 御笏神社(Oshaku Shrine)の東北100m程に鎮座します 三宅島 神着の南方にある南子山に鎮座する「南子神社(Nago Shrine)」の遥拝所であったとも 三宅島 阿古に鎮座する「富賀神社(Toga Shrine)」の遥拝所であったとも伝わります 現在は 御笏神社(Oshaku Shrine)に合祀されています

飯王子神社・酒王子神社(三宅島 神着)

飯王子神社「安寧子」・酒王子神社「満寧子」は 『三宅記(miyakeki)』に記される「大蛇退治」(三宅島の大蛇の伝説)の伝承にまつわる神を祀る神社です 伝説によれば 三宅島の「天地今垢(伊古奈比咩命)」の御子神「安寧子」・「満寧子」の二神が 酒と飯を大蛇に与えて眠むらせます そして新島の二人の王子と後見の「剣の御子」が 大蛇を切り退治したとされています

南子神社(三宅島 神着)

南子神社(なごじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の格式の高い由緒のある神社です 御笏神社の祭神「佐岐多麻比咩命(sakitamahime no mikoto)」の一番目の王子とされる「南子命(Nago no mikoto)」を御祭神として祀ります 神着の南方にある 南子山の原生林の中に鎮座しています 

御笏神社(三宅島 神着)

御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です

片菅神社(片瀬白田)〈延喜式内社 片菅命神社の論社〉

片菅神社(かたすげじんじゃ)は 徳治2年(1307)創始と伝えますが この説は 若宮八幡神を合祀勧請した時のものとされ 別の説では 片菅神社の創祀は さらに以前であって 三宅島に鎮座する片菅神社を分霊したもので 伊豆地方では「若宮」とは「三島神の御子神」を意味し 7番目の御子名「かたすけ」とされます

若宮神社(三宅島 伊豆)(后神社の境外 末社)

若宮神社は 后神社の境外社です 三宅一周道路から 伊豆岬灯台へと下る道路の左側 道路と海の間にある藪の中に に小さな祠が鎮座しています

片菅神社(三宅島 神着 美茂井)

片菅神社(かたすげじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)にも所載されて 由緒(格式ある歴史)を持っています 『三宅記(みやけき)』(鎌倉時代末期の作)によれば 三女〈三島大明神の后神(佐岐多麻比咩命(さきたまひめのみこと〉のお産みになられた 7番目の御子の名が「かたすけ」と呼ばれ この御子神が 当社の御祭神「片菅命(かたすげのみこと)」であるとされています

優婆夷宝明神社(八丈島 八丈町大賀郷)

優婆夷宝明神社(うばいほうめいじんじゃ)は 八丈島・八丈小島・青ヶ島の総鎮守として 御島神(みしまのかみ)の后「いなはゑ后=(優婆夷命)」と その子「五郎の王子(許志伎命=宝明神)」が祀られています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の2つの式内社〈・優波夷命神社(うはいのみことの かみのやしろ)・許志伎命神社(こしきのみことの かみのやしろ)〉に該当する格式の高い由緒ある神社です

古烏神社(阿南市宝田町大字下荒井字川原)〈延喜式内社〉

古烏神社(こがらすじんじゃ)は 現在 阿南市宝田町に鎮座する正八幡神社の境外社です 927年12月編纂の『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』には 阿波国に50座が所載されますが その内の1座「建比賣神社(Takehime no kamino yashiro)」に比定されている格式高い神社です

中山神社(氷川簸王子神社)

中山神社(なかやまじんじゃ)〈氷川簸王子神社〉は 大宮氷川神社(大宮区)・氷川女体神社(緑区)とともに 3神社で一体の氷川神社を形成していたという説があります ちょうど3社の中間に鎮座するので かつては別称として中氷川神社とも呼ばれました

多氣比賣神社(桶川市)

多氣比売神社(たけひめじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが 社伝によれば 第3代安寧天皇の御代の創建と伝えられます とすれば2500年程は前の鎮座となります 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の武蔵国足立郡「多氣比賣神社」に比定される格式の高い古社です

村国神社(各務原市)

村国神社(むらくにじんじゃ)は 社伝によれば 飛鳥時代(592~710年)この地一帯を治めていた村国氏の祖が天之火明命(ameno hoakari no mikoto)と御子 石凝姥命(ishikoridome no mikoto)を御祭神として創建したと伝えます その後「壬申の乱(jinshin no ran)」(672)で勲功のあった村國連男依が 祭神としてこの神社に祀られました

天神社 (治郎丸天神)

治郎丸天神社(Jiromaru tenjinsha)は 『尾張国地名考(owarinokuni chimeiko)』著者の津田正生は『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』尾張国 中島郡「宗形神社(貞)(Munakata no kamino yashiro)」は 治郎丸村の「天神の森是なり(現 治郎丸天神社(Jiromaru tenjinsha))」としています

修理若御子社(稲沢市松下)

修理若御子社(すりわかみこしゃ)は 御祭神の修理若御子命(Suriwakamiko no mikoto)について 尾張大国霊神(国府宮の御祭神)の国内修理をお助けになった神で 天香山命の御子「天村雲命(あめのむらくものみこと)」だと伝えます 『尾張国地名考』著者の津田正生は『延喜式神名帳』の大御霊神社(おほみたまの かみのやしろ)であるとしています

宗形神社〈尾張大國霊神社 別宮〉(稲沢市国府宮)

宗形神社は 「尾張大國霊神社(Owari okunitama Shrine)」を本宮として その別宮であるとされます 別宮はもう一つ「大御霊神社」があります この3神社は「国府宮三社」とも呼ばれていて いずれも格式ある『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)の所載社とされています

大御霊神社(国府宮 別宮)

大御霊神社(おおみたまじんじゃ)は 「尾張大國霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)」を本宮として その別宮であるとされます 別宮はもう一つ「宗形神社(むなかたじんじゃ)」があり この3神社は「国府宮三社」とも呼ばれていて いずれも格式ある『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の所載社です

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