志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

志等美神社(しとみじんじゃ)は 豊受神宮(外宮)摂社として『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』延暦23年(804)〉に゛蔀野井庭(シトミノヰバ)神社゛と載り 延喜式神名帳927に伊勢國 度會郡 志等美神社しとみの かみのやしろ所載ある古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

志等美神社(Shitomi shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市辻久留1-172-2

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》久久能智神(くくのちのかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
〈豊受神宮(外宮)摂社〉

【創  (Beginning of history)】

『神宮要綱』昭和3年〉に記される内容

【抜粋意訳】

攝社末社所管社 豊受大神宮攝社 志等美神社

鎭座地 宇治山田市大字辻久留町

殿舎
正  殿 神明造、板葺、南面・・・壹宇
玉垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
玉  垣 連子板打・・・壹重
鳥  居 神明造・・・壹其
右神宮司廰造替

志等美(シトミ)神社も亦、延喜大神宮式及び神名式に載す。儀式帳には蔀野井庭(シトミノヰバ)神社に作り、類聚神祇本源所載大治・天喜・延久の記錄には志止見名神・志止見社等に作る。神名祕書及び神祇本源所引の社記に祭神を木神 久々能智(ククノチ)神とし、沼木郷山幡村に坐すと爲す。又神祇本源に大治三年六月十日宮川堤防の守護神として、正五位下 志止見名神・同打懸名神・大河内神に竝に從四位下の神位を奉らるゝ事見えたり。神宮の諸社中 神階あるは、此の三社あるのみ。思ふに三社は古來 宮川の畔近く鎭座せらるるを 以て特に此の典あるならん。宮川の氾濫が神境の大患たりしことは、記錄上に幾多の徵證あり。彼の土宮の宮號宣下の如きは、其の最も顯著なるものなり。中世以後三社退轉し社地明かならず。寛文三年 大宮司精長 攝末社再興の時 舊地を索めて得ざりしを以て、假りに岩戸坂に志等美・大河内二社を建立せしが、元祿五年大宮司長春の攝末社造替に際し、乏を宇治山田市の西南端なるヤバコ山の上に移造す。然れども其の地猶 舊地にあらざりしかば、明治十六年更に神宮司廳に於て研究の結果、之を現地に奉遷するに至れり。

【原文参照】

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

【由  (History)】

『大神宮叢書』前篇昭和7-9年〉に記される内容

【抜粋意訳】

神宮典略三 外宮宮社   所攝神社 蔀野井庭神社

此社は帳に蔀野井庭神社、大神宮式に志等美社と出たり。は倭名鈔に、周禮注云蔀、和名之度美、とあり。式にも志度美とあれば野は之度美乃と訓べし。〕
此 野は地名なるべし。〔今は此地の在處知がたし。高向郷に下野村と云はあり。よく似れる村名にてあらず。〕
神名祕書に、志等美社、一名野井庭社、とあるは誤なり。〔元々集にも是説によれり。〕
井庭は井處といはんが如し。井とは河にまれ、井にまれ、汲て炊く料に用ふる水をいへば、此地に清水ありて御饌炊く料に用ひし事も在て、其處の神を祭りしか。又井神をも祭るにも有べし。〔神名祕書•元々集に、此神社を木神 句々廻馳神な祭るとあるは、いと誤なり。〕

此神は神祇本源に、為に防河堤守護一授に神位、とあるを思ふべし。〔此神位の事は下文に云べし。〕
此社地は沼木郷山幡村に在といへり。されば此地の字に蔀野てふ名はなきか、よく尋ぬべし。
寬文三年九月十三日攝社再興の時、此社の舊地山幡といふ處詳ならざりし故に、大司精長朝臣 神宮人と議りて岩戸坂に建たり、と継彦日次記にしるせり。其後、元祿五年二月十四日、大司長春 今の地に建たりといへり。こは攝社引付に、大司長吞朝臣檢に見 山幡村社地云々、自に上三郷出に案内、田畠之間無に可レ立レ社之地、於レ之以に字山幡之東山 新定に社地、と委しく出たり。〔此 山幡の地は、雑例集の外宮四至の條に、西限云々、山幡淵、光朋寺所藏の古券に、正應二年枯券、壹段在に度會郡沼木郷上山幡村宮道御蘭壹處、外宮神領納所帳に、上山幡收納使下山幡納使とありて、古より名高き地なり。神名祕書に、雑例集に、外宮四至、西限に云々、山幡淵、以レ之考則知山幡村為に神宮西宮川内、且據に畠券有に山幡者、とおづめかしくしるしたり。元禄五年攝社引付に、十一月九日 ,自に司中以に成胤申に送于三方會所云、沼木郷山幡村、寬文之時未レ詳に其地、今如に風聞者 ,宮川邊沼木郷内有に田畠、稱に字山幡云々、彼地古券等可に尋給云々、とありて、十二月廿日、自に上郷 寛文以來 山幡畠沽券九通爲來之問、自に三保會合達に于司廰、件古券社地之考檢無に可レ據之文、仍不レ載レ之、とあり。同五年二月十四日、大司長春其地を檢考せしこと、本文に見えれる如し。此時より山幡の地詳かにしられたり。猶神宮家名考、二宮四至考にいへるをも考ふべし。今小川村の南東の山畠はみな山幡の地なり。俗に八幡といへり。〕 

【原文参照】

神宮司庁 [編]『大神宮叢書』前篇,内外書籍,昭和7-9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1212315

神宮司庁 [編]『大神宮叢書』前篇,内外書籍,昭和7-9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1212315

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

同じ境内地に祀られる豊受大神宮(外宮)の攝社・末社

・志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉《主》久久能智神(くくのちのかみ)

・大河内神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉《主》大山祗神(おおやまづみのかみ)

・打懸神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉《主》打懸名神(うちかけみょうじん)

上社(伊勢市辻久留)は 豊受大神宮(外宮)の攝社・末社の旧跡です

・上社(伊勢市辻久留)
志等美神社・大河内神社・打懸神社の旧跡〉

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

志等美神社は 豊受神宮(外宮)摂社です

・豊受神宮(外宮)

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)について

延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)は 伊勢神宮の皇大神宮(内宮)に関する儀式書『皇太神宮儀式帳』と豊受大神宮(外宮)に関する儀式書『止由気宮儀式帳』(とゆけぐうぎしきちょう)を総称したもの
平安時代成立 現存する伊勢神宮関係の記録としては最古のものです

両書は伊勢神宮を篤く崇敬していた桓武天皇の命により編纂が開始され
両社の禰宜や大内人らによって執筆されました
皇大神宮と豊受大神宮から 神祇官を経由して太政官に提出されて
延暦23年(804)に成立しました

志等美神社〈豊受神宮(外宮)摂社〉『止由気宮儀式帳』(とゆけぐうぎしきちょう)延暦23年(804)〉に゛蔀野井庭(シトミノヰバ)神社゛と載る古社です

『延喜式Engishiki)』巻4神祇四 伊勢太神宮

「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています

゛神宮の諸社が 祈年 神嘗祭並預゛と記されます

【抜粋意訳】

伊勢太神宮

太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。

荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。

伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座

月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座

瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】

瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】

伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。

度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。

多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】

諸社卌座

太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社

度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社 山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社

右諸社,並預祈年、神嘗祭

以下略

【原文参照】
国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 志等美神社
[ふ り が な ]しとみの かみのやしろ
[Old Shrine name]Shitomi no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

上社(伊勢市辻久留)は 豊受大神宮(外宮)の攝社・末社の旧跡です

『宇治山田市史』下巻〈昭和4年〉に記される内容

上社(かみのやしろ)は 往古に 外宮攝社 志等美(しとみ)神社・大河内(おうがうち)神社・末社 打懸(うちかけ)神社が 鎮座していた所であると記し

現在 外宮攝社 志等美神社外二社が 現在の上社 入口の右方に鎭座しているのは 明治以後 種々の考証の結果 明治十六年(1883)に 當社の域内を舊地と定めて再興されたものであると記しています

【抜粋意訳】

第十一節 村社 上社

上社(かみのやしろ)

所在 辻久留町字辻久留

祭神  久々能智神、大山祇神、埴安神、宇迦之御魂神
   以上古來奉祀する所

宇迦之御魂神四座、菅原道眞、天忍漁人(あめのおしあま)命、譽田別尊、不詳二座、以上明治四十二年三月七八日合祀 

 當社地は往古、外宮攝社志等美(しとみ)神社、大河内(おうがうち)神社、末社打懸(うちかけ)神社の鎭坐ありし所であるが、戰國時代久しく殿舎の造営もなくして廃退となって居た所を、後世に至りて附近の住民が産土神と崇めたものらしい。古記に境内社並社は打懸神社の舊地で同明神を奉祀し、同神社は大河内神社の舊地で大山祇神を奉祀したとあるから恐らく當社地は昔の志等美神社の舊跡であらうと思はるる。

社名は永正十六年〔二一七九〕九月の畠券には二俣社と稱し、大永六年〔二一八六〕十二月の田券には二俣八王子社とあり、天文六年〔二一九七〕十一月の畠券には牛頭社としてある。

 然るに明治三年十月、神佛混淆之儀を止め佛号の神社名は改むべき由の布令によって、同月上ノ社と改稱し、同四年十一月二日郷社に列せられたが同五年十月村社格に更められ、同三十九年十二月神饌幣帛料供進社に指定せられた。又同四十一年四月二十一日許可を得て、同四十二年三月七日には浦口町無格社稻荷社・同土井稻荷社・同大杉稻荷社、二俣町無格社二俣菅原社・同田村社を、同八日には、境内社稻荷社・同山神社、中島町無格社小川社・同稻荷社・同掃守社・同八幡社・同浅間社を並社に合祀し、同月十日、再び並社を本社に合祀する許可を受け、同月十二日に合祀した、

前述の外宮攝社 志等美神社外二社は、現時の上社の入口の右方に鎭座あるが、これは明治十六年の遷移に係る。その以前三社荒廃の後、寬文三年 再興の際には舊社地不明の故を以て假に岩戸山に建立せられ、元祿五年には辻久留町の南方山上に新地を選んで移轉せられたが、明治以後、種々考証の結果、同十六年に至り當社域内を以て舊地と定められ、爰に復古せられたのである
・・・・
・・・・

【原文参照】

宇治山田市 編『宇治山田市史』下巻,宇治山田市,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1266086

同じ境内地に祀られる豊受大神宮(外宮)の攝社・末社

・志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉《主》久久能智神(くくのちのかみ)

・大河内神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉《主》大山祗神(おおやまづみのかみ)

・打懸神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉《主》打懸名神(うちかけみょうじん)

内宮・外宮の別宮・攝社・末社・所管社について

お伊勢さん125社について

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

伊勢市駅から県道37号経由で西へ約2.7km 車7分程度

上社(伊勢市辻久留)に参着

一礼をして一の鳥居をくぐると 社号標があり゛上社゛と刻字

石垣に囲まれた参道が左右に各々あり
左の参道には 狛犬が座し 鳥居が建てられています

こちらが上社(伊勢市辻久留)への参道です 一礼をして鳥居をくぐり参道を進みます

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・上社(伊勢市辻久留)
志等美神社・大河内神社・打懸神社の旧跡〉

境内の東南に入り口があります
向かって 右の石垣の内には 豊受大神宮(外宮)の攝社・末社の3社が祀られています

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その奥側には
社殿は 南向き 同じ玉垣内に攝社2社〔志等美神社・大河内神社〕が祀られています

志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉に参着

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玉垣内の攝社の正殿が2宇
向かって左 志等美神社
向かって右 大河内神社

2宇の殿にすすみ お祈りをしま
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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大河内神社については

・大河内神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉《主》大山祗神(おおやまづみのかみ)

攝社2社が祀られている玉垣が向かって左側
その玉垣の向かって右手にもう一つ見えている 独立した玉垣は 打懸神社です

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打懸神社については

・打懸神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉《主》打懸名神(うちかけみょうじん)

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 志等美神社について 所在は 舊廃亡して 神宮西宮川邊に在す〈現 志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉〉と記しています

【抜粋意訳】

志等美神社

志等美は假字也

○祭神 木神神名秘書

趾廃亡す、今神宮西宮川邊に在す、神名略記

〇式四、伊勢大神宮〕度會宮所十六座の第七に載す、
神祇本源云、在沼木郷山幡村、東大河内、中志等美、西打懸、志等美、打懸同玉垣、」
神名略記云、山幡村今則亡、故寛文以社地難知、假建之宮山中、
神宮雑例集云、外宮遠四至、西限山幡淵、以之考則知、山幡村神宮西宮川内、且處に畠券有山幡者、而元禄遷此社于神宮西宮川邊山幡畠上山、然趾猶未著、同略記に、祭鹿葦津姫命木神  志等美葦津女之略語、〕と云へり、

連胤按るに、鹿葦津姫命とも差定めがたくや、神名秘書に、蔀野社木神、清野社草神とあれど、御鎮座本紀、清野社、屋船命、草木霊、とみるを見れば混らはしけれど、は木神なる事明か也、然れば蔀野社こそ草神にて、草野姫命なるべけれ、猶考ふべし、

神位
神祇本源云、大治日、奉授從四位下、爲防河堤守護也

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 志等美神社について 所在は 昔 沼木郷山幡村にあり舊は不明 近世に神宮宮川の邊 山幡畠上山に遷す〈現 志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉〉と記しています

【抜粋意訳】

志等美(シトミノ)神社

又 蔀野井庭神社と云、〔延暦儀式帳、〕
昔 沼木郷山幡村にあり〔神祇本源、神名秘書、〕
後 舊址詳ならず、近世 之を神宮宮川の邊 山幡畠上山に遷す、〔神境紀談、神名略記、〕

醍醐天皇 延喜の制、祈年神嘗祭に預る、〔延喜式〕

崇徳天皇 大治三年六月癸亥、正五位下 志等美明神に従四位下を授く、河堤守護の為也、〔神祇本源、〕
凡己上四座、及 山末、大河内、並 度會宮所攝十六座の神也、〔延喜式〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 志等美神社について 所在は宇治山田市大字辻久留町〈現 志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉〉 『神社覈録』に舊は不明との説もあるが 度會縣注進狀には 旧跡は度會郡山田辻久留町上社〈現 上社(伊勢市辻久留)〉と記されている と記しています

【抜粋意訳】

志等美神社

祭神
 今按 儀式帳に蔀野井庭社とある是なり

祭日 六月九月十二月並十八日
社格 外宮所攝十五所之ー(外宮攝社 )

所在 三重縣沼木郷山田上三郷領也婆古山(宇治山田市大字辻久留町)

今按 覈録に寬文三年宮山岩戸坂に造立し 元祿五年今の地に遷せるなれど 舊地は上郷の産神社也と云り 度會縣注進狀に度會郡山田辻久留町上社あり 元牛頭社と云 こは志等美神社 大河内神社 打懸神社 以上三社の舊地と云傳ふ 何頃よりか社號を牛頭社と稱す俚言にがふづと唱ふ 即かふちの訛言にして大河内社なる證とすべし 此三社ヲ神名秘書 神祇本源に在に沼木郷山幡村とのす 山幡村は今亡と雖 牛頭社邊より南へかけ 山上山下廣き土地を云か 雑例集延長四年神祇官符に西限に栗尾岡  山幡淵とあり 此栗尾岡は 今久留山と唱ふ 山幡の淵は上社の北に掘の如き川筋の跡存せりと云る者 即檢錄に云る地と同處也姑附て考に備ふ

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

志等美神社〈豊受神宮(外宮)摂社〉 (hai)」(90度のお辞儀)

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お伊勢さん125社について

伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

 

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8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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