出雲國風土記神名帳
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那賣佐神社(出雲市東神西町)
那賣佐神社(なめさじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』に二つある神門郡 神祇官社「奈賣佐社(なめさ)のやしろ」の両方の論社です 大国主命が 須佐之男命の御子で この里の岩坪で生誕せられたという須勢理姫(すせりひめ)命を娶り 通(かよ)い坐(まし)ました所とされます
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佐伯神社(出雲市神西沖町)
佐伯神社(さえきじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「波加佐社(はかさ)のやしろ」とされます 中古から近世にかけて那賣佐神社に合祀され衰徴してしまった 貞享四年(1678)に始った神西沖町の干拓により里人が 日御碕神社の祭神を奉齋し これを佐伯神社として復活しました
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佐志武神社(出雲市湖陵町差海)
佐志武神社(さしむじんじゃ)は 社伝によれば『日本書紀』にある「高天原から葦原中国を平定するため 経津主神(ふっつぬしのかみ)と武壅槌神(たけみかずちのかみ)が遣わされた」その二神が降り立った地であると伝えます 『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「佐志牟社(さしむ)のやしろ」とされます
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富能加神社(出雲市所原町)
富能加神社(ほのかじんじゃ)は 元社地は 星神山(鉾山)〈現社地の北 約1km〉中腹の巌窟に社があって 山麓に拝殿を設けて祭事を執行していました 星神大明神と称し『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「保乃加社(ほのか)のやしろ」の論社です 明治44年に現在の小野山麓〈小野神社の社地〉に遷座し 明治49年 小野神社を合祀して今に至ります
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市森神社(出雲市稗原町)
市森神社(いちもりじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載・神門郡 神祇官社「保乃加社(ほのか)のやしろ」・神門郡 不在神祇官社「加夜社(かや)のやしろ」の二つの論社の合祀社で かつて薭原両社とも称され一つの拝殿に御本殿は「星宮大明神」「市森大明神」の同形同大の二社であったと伝わります
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多伎神社(出雲市多伎町多岐)
多伎神社(たきじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』神門郡 多伎郷(たきのさと)の条に「所造天下大神(あめのしたつらししおおかみ)の御子(みこ)阿陀加夜努志多伎多伎吉比賣命(あだかやぬし たききひめのみこと)が坐(ましま)す 故に 多吉(たき)という」とあり 神門郡 神祇官社に二つある「多吉社(たき)のやしろ」両方の論社となっています
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三谷神社〈阿須利神社の古社地〉(出雲市大津町 字西谷)
三谷神社(みたにじんじゃ)は 約500年前に紀州熊野(和歌山県東牟婁郡)から勧請し 上来原の大神谷の山上に祀られました 元禄5年(約300年前)池ノ内の干拓があり それまで同地 杓子山にあった式内社〈阿須利神社の古社地〉を三谷山上に遷した機会に いっしょに三谷の地に奉遷し合祀したので 式内 三谷大明神と呼ばれました 明治5年(1872)阿須利神社は独立し分離 その後 昭和37年に現在地に遷座して今日に至っています
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阿須利神社(出雲市大津町)
阿須利神社(あすりじんじゃ)は もともとは 現在のように八幡宮と一所ではなく 阿世理池(あせりのいけ)の杓子山といふ小丘に鎮座していました 明治五年(1872)『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「阿須理社(あすり)のやしろ」を八幡宮と共に 龍王社〈現社地〉に合祀せよ との県庁の指令により現在の神社となりました
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國村神社(出雲市多伎町久村)
國村神社(くにむらじんじゃ)は 社伝によれば 垂仁天皇(紀元前28年)の御代 出雲宿祢(いずものすくね)が建立したのが初めとされ 『出雲國風土記733 AD.』によれば 御祭神「八束水臣津努命(やつかみずおみづぬのみこと)」が「国引き神話」の時に用いた「綱」が 鎮座地「薗の長浜(そののながはま)」になったと記されています
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阿利神社跡(出雲市塩冶有原町)
阿利神社跡(ありじんじゃ あと)は 『出雲國風土記733 AD.』神門郡 高岸の郷(たかぎしのさと)に記される 御祭神 阿遅須枳高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)の住居された高崖(たかぎし)の阿利原(ありはら)〈現 塩冶有原町〉の地にお祀りしたと伝わります 明治15年(1882)に故あって現在地 (出雲市塩冶町)に移遷されました
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阿利神社(出雲市塩冶町)
阿利神社(ありじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』と『延喜式神名帳927 AD.』の論社です 旧社地は 御祭神の阿遅須枳高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)の住居されたところにお祀りしたものとされますが 明治15年(1882)に故あって現在地に移遷されました
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佐支多神社(斐川町荘原)
佐支多神社(さきたじんじゃ)は 江戸時代には「諏訪明神」と呼称されていました 建御名方命とその妃 八坂豆賣命の二柱を祭神とする神社は 島根県では邑智郡石見町の諏訪神社と本社の二社だけで 明治期以降に『出雲國風土記733 AD.』所載の出雲郡 不在神祇官社「佐支多社(さきた)のやしろ」の論社とされています
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原鹿神社(斐川町原鹿)
原鹿神社(はらしかじんじゃ)は 現在地に鎮座していた榎神社〈『出雲國風土記733 AD.』所載の出雲郡 不在神祇官社「間野社(まの)のやしろ」の論社〉に 明治40年(1907)1月14日 原鹿字前久庁に鎮座の熊野神社を合祀し 社号を原鹿神社と改称しました
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赤秦神社(雲南市加茂町大竹)
赤秦神社(あかはだじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の大原郡 不在神祇官社「赤秦社(あかはた)のやしろ」とされます 古老の伝えに 御神体の「石体」は 年を経る毎に段々大きくなり ついに本殿に納まらなくなり「若隠居さん」「隠居さん」と呼んで境内に祀られたと伝わります
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波迦神社(斐川町三絡)
波迦神社(はかじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』に 鎮座地の健郡郷(たけるべのさと)とは 第12代 景行天皇の勅(みことのり)により 御子の倭健命(やまとたけるのみこと)の御名を忘れることのないようにと健郡をお定め給われたとあり 出雲郡 不在神祇官社「波如社(はね)のやしろ」とされます
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比那神社(出雲市姫原)
比那神社(ひなじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「比奈社(ひな)のやしろ」・『延喜式神名帳927 AD.』所載の神門郡「比那神社 ひなの かみのやしろ」とされます この地域が「姫原(ひめばら)」と呼ばれるのは「比奈原」が訛ったからと云われています
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八野神社(出雲市矢野町)
八野神社(やのじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「矢野社(やぬ)のやしろ」とされ その御祭神と八野の地名の起こりについて「八野若姫命(やぬのわかひめのみこと)」は 須佐能表命(すさのをのみこと)の御子で 大国主命が 姫と婚姻のために屋を建てられたことから「やぬ」と呼ぶ と記されています 現在も古来のままの御祭神と社地とを保ち続けていると伝わります
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阿禰神社(出雲市湖陵町二部)
阿禰神社(あねじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「阿如社(あね)のやしろ」とされます 現社地には 江戸時代に大きな八幡宮(氏神)が鎮座し 阿禰神社は 姉谷の里の奥 小祠に鎮座していましたが 明治二十四年(1891)現在地に遷座し 八幡宮は阿禰神社に合祀され 現在に至ります
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阿弥陀堂〈保知石の比布智神社旧跡〉(出雲市芦渡町)
阿弥陀堂(あみだどう)は 芦渡 保知石(ふぢし)の比布智神社旧跡で 神仏習合時代の神宮寺の跡とされます 比布智神社は それ以前は 保知石谷(ふぢしだに)の山奥にあった小祠に鎮座と伝わり それから この地に鎮座されましたが その後 寛永九年~十三年(1632~1636)にかけて現在地(出雲市下古志町)に遷座しました
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比布知神社(出雲市下古志町)
比布智神社(ひふちじんじゃ)は もともとは芦渡 保知石(ふぢし)に旧跡があり その後 寛永九年~十三年(1632~1636)にかけて現在地に遷座しました 『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「比布知社(ひふち)のやしろ」・「又比布知社(またひふち)のやしろ」の論社とされます