出雲國風土記神名帳

伊賀多氣神社(奥出雲町横田)

伊賀多氣神社(いがたけじんじゃ)は 神代以来の旧祠とされ『出雲國風土記733 AD.』所載の仁多郡 神祇官社「伊我多氣社(いがたけ)のやしろ」の論社です 13世紀後半より衰微〈横田八幡宮が横田庄の一之宮となり〉さらに兵火により廃頽 天文二十年(1551)再建されて現在に到ります

獄神社(雲南市大東町上久野)

獄神社(だけじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の大原郡 不在神祇官社「春殖社(はるえ)のやしろ」の論社の一つです 境内には 須佐之男命と 御子 五十猛尊に木種を蒔かれるように願い出た大木奴主命(おおきのぬしのみこと)を祀る大木奴主命神社があります

春殖神社(雲南市大東町大東下分)

春殖神社(はるえじんじゃ)は 元は 現在地の東方 山田川を隔てた対陵(たいりょう)に鎮座 後世 八幡宮をこの地に勧請し合祀されます 明治四年 村社となり八幡宮を改め「春殖神社」と称して今に至ります 『出雲國風土記733 AD.』所載の大原郡 不在神祇官社「春殖社(はるえ)のやしろ」の論社の一つです

岩根神社(雲南市大東町山田)

岩根神社(いわねじんじゃ)は 天平元年(729)信濃國 樋浦郷 葦原邑(あしはらむら)より御神霊を迎え 高ノ峯(こうのみね)(当社奥宮)に社殿を創建したと伝えられ 古くは三体妙現宮と称しました 『出雲國風土記733 AD.』所載の大原郡 不在神祇官社「春殖社(はるえ)のやしろ」の論社の一つです

宮津日社〈子安八幡宮 境内〉(雲南市木次町山方)

宮津日社(みやつひのやしろ)〈子安八幡宮 境内〉は もと舟木山(ふなきやま)の山上に鎮座 その後 子安八幡宮に合祀され 今は 境内社として祀られています 『出雲國風土記733 AD.』所載の大原郡 不在神祇官社「宮津日社(みやつひ)のやしろ」とされます

阿用神社(雲南市大東町東阿用)

阿用神社(あようじんじゃ)は 推定樹齢800年の御神木〈タブの木の荒神〉があり 滝戸大明神 又は 剣大明神とも称されました 『出雲國風土記733 AD.』所載の大原郡 不在神祇官社「阿用社(あよ)のやしろ」とされます

幡屋神社(雲南市大東町幡屋)

幡屋神社(はたやじんじゃ)は 本社と八幡宮境内 若宮神社の双方が『出雲國風土記733 AD.』所載の大原郡 不在神祇官社「幡屋社(はたや)のやしろ」論社となっています 古代出雲の忌部氏には二流あり 一方は玉湯町玉造を中心に曲玉制作を手がけ もう一方は ここ幡屋において機織りに携わったとされ この忌部一族によって創建されたと伝えられます

日原神社(雲南市大東町中湯石)

日原神社(ひはらじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の大原郡 不在神祇官社「日原社(ひはら)のやしろ」の論社です 御祭神 天之日腹大科度美神(あめのひばらおおしなどみのかみ)は この地「日の原」にて御誕生になり この地に御鎮まりになった と伝えられています

大森神社(雲南市木次町東日登)

大森神社(おおもりじんじゃ)は 八岐大蛇を退治された素戔嗚尊が 稲田姫命を伴い須賀に赴かれる途中 暫し宿られ 御大婚の準備された所と伝わり その後 大己貴命の孫神 天日腹大斜戸美神(あめのひはらおほしなどみのかみ)が 赴かれ給える所とされます 『出雲國風土記733 AD.』所載の大原郡 不在神祇官社「日原社(ひはら)のやしろ」の論社です

布須神社(雲南市加茂町延野)

布須神社(ふすじんじゃ)は 後方の山を御室山といい 麓に「フス池」〈須佐之男命が逗留の際 用いられた清水〉があり 神社東方約1Kmの所には「赤池」〈八岐大蛇を斬られた剣を洗われ 池の水が赤色に変わったと云う〉がありました 『出雲國風土記733 AD.』所載の大原郡 神祇官社「布須社(ふす)のやしろ」の論社の一つです

布須神社(雲南市木次町宇谷)

布須神社(ふすじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の大原郡 神祇官社「布須社(ふす)のやしろ」の論社の一つです 社殿は 室山の南半腹の急斜面に造営されていて 御本殿はなく 室山そのものご神体として崇拝する「神奈備」式のお社として祀られています

三澤神社(奥出雲町三沢)

三澤神社(みさわじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の仁多郡 神祇官社「弎澤社(みさわ)のやしろ」とされます 三津郷(みさわのさと)の条には 大穴持命が願をかけ 言葉を発しなかった御子 阿遅須枳高日子根命(あぢすきたかひこねのみこと)が 口をきく夢をみます すると御子は 初めて「三澤」と口をきいた と記されています

須我非神社(奥出雲町三所)& 天照神社

須我非神社(すがひじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の仁多郡 不在神祇官社「須我乃非社(すがのひ)のやしろ」とされ 菅火野(すがのひの)山の峯に神社(かみのやしろ)があり と記されています その後 山城の築城に伴い 現在地に遷座したと伝わります

狩山八幡宮(雲南市大東町下佐世)

狩山八幡宮(かりやまはちまんぐう)は 社伝に 聖武天皇の御宇元年〈大宝元年〉(701)九州宇佐八幡宮を勧請し創建とあります 字清水に鎮座した月根尾神社〈『出雲國風土記733 AD.』所載の大原郡 神祇官社「佐世社(させ)のやしろ」の論社〉を大正8年(1919)12月に合祀しています

佐世神社(雲南市大東町下佐世)

佐世神社(させじんじゃ)は 『雲陽志』に「里人は「白神明神」を本宮と号す」「白神八幡」は「当国 八所八幡宮 第八番なり」とあり 2社が別々に記されています 『出雲國風土記733 AD.』所載の大原郡 神祇官社「佐世社(させ)のやしろ」の論社とされています

來次神社(雲南市木次町木次)

來次神社(きすきじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』に「こすきのかみのやしろ」『出雲國風土記733 AD.』には「支須支社(きすき)のやしろ」と記され 來以郷(きすきのさと)は 大己貴命が 八十神(やそがみ)を追廃(おいしりぞける)た故事から 名付けられたと記されています

西利太神社(雲南市大東町清田)

西利太神社(せりたじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の大原郡 神祇官社「世裡陀社(せりた)のやしろ」とされます 江戸期には「辛大明神(かのとみょうじん)」又「十二所権現」と称していました 明治初期に延喜式の「西利太神社」に改称しました

須美禰神社(雲南市加茂町立原)

須美禰神社(すみねじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の大原郡 神祇官社「汗乃遅社(うのぢ)のやしろ」とされ 古くから現在の宇能遅神社(宇治)と深い関係があり 社伝では 宇治村より須美禰神社を立原の地に再興したものとされます 創立された年代は不詳です 

奥田神社(雲南市大東町中湯石)

奥田神社(おくだじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』に「この地まで その海潮(うしお)が至りました 故に 得塩(うしお)と云う」と記す海潮郷の入口に鎮座します 『延喜式神名帳927 AD.』出雲國 大原郡「海潮神社 うしほの かみのやしろ」の論社です 

飯石神社(雲南市三刀屋町六重)

飯石神社(いいしじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』に 伊毘志都幣命(いひしつべのみこと)が 坐(まし)ますので 飯石郷(いひしのさと)という と記されています 飯石郡 不在神祇官社「飯石社(いひし)のやしろ」とされます

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