伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)は 紀伊国一之宮で『続日本紀』大宝二年(702)に記事が見える古社 木の国〈紀伊国〉のルーツとされ“木の神”五十猛命を祀ります 秋月(現在の日前宮鎮座地)より山東(現在の伊太祈曽周辺「亥の森」)に遷座されたと伝えられ 『延喜式神名帳927 AD.』には 紀伊国 名草郡 伊太祁曽神社〈名神大 月次 新嘗 相嘗〉と記されます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
伊太祁曽神社(Itakiso shrine)
[通称名(Common name)]
山東の宮(さんどうのみや)
【鎮座地 (Location) 】
和歌山県和歌山市伊太祈曽558
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》五十猛命(いたけるのみこと)
〈亦名-大屋毘古命(おおやびこのみこと)有功神(いさおしのかみ)〉
〈左脇宮〉
《配》大屋津比賣命(おおやつひめのみこと)
〈右脇宮〉
《配》都麻津比賣命神(つまつひめのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・殖産興業の繁栄祈願・安全祈願や、病気平癒祈願、厄除け祈願 等
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・紀伊国一之宮(きいのくに いちのみや)
・旧官幣中社
・別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
紀伊国一之宮
伊太祁曽神社の御由緒妹神 大屋津比売命
御祭神 五十猛命(大屋毘古命)
妹神 都麻津比売命五十猛命は、木の神様であり、国土緑化の神様でもあります。二柱の妹神と共に全国の山々に木を植えて、青山となされた御神徳は高く木之国の祖神と崇められ、有功之神と称えられています。
また、父神 須佐男命と共に浮宝(船)を造り、住民に漁の業を教えたことから、漁業関係者の信仰 殊に篤く 航海交通安全を司る神様でもあります。
さらに大国主命が八十神に命を狙われた時、当社に身を寄せ木の俣をくぐって難を逃れたことから「いのち神」の信仰が起こり、災難厄除の神として知らされています。
当社は五十猛命を祀る全国多数の神社の総社・一之宮として木材業・山林業など木に関係する生業の方々を始め漁師等の尊崇篤く 厄除・交通安全・病気平癒などの祈願が多く寄せられます。主な祭典
卯杖祭(1月15日)卯杖・小豆粥・粥占神事
木祭(4月第1日曜)木霊感謝・植木市
茅輪祭(7月30・31日)わくぐり・夏越祓
例大祭(10月15日)新穀感謝の秋祭・振興渡御社頭の案内板より
【由 緒 (History)】
由来
当神社創建の時期ははっきりしないが、『続日本紀』の文武天皇大宝2(702)年が初見記事となる。
当神社が現在の地に鎮まる以前には、現在の日前神宮・國懸神宮(通称:日前宮)の地にお祀りされていたと伝えられている。
日前宮の御鎮座が垂仁天皇16年と伝えられているので、その頃に秋月(現在の日前宮鎮座地)より山東(現在の伊太祈曽周辺)に遷座されたと推察されるが、当初は現在の社殿のある場所より南東に500mほど離れた「亥の森」と呼ばれる場所であった。
亥の森は、今でも田圃の真ん中にこんもりとした森で、いかにも神奈備の様相を呈している。
中には、摂社である三生神社が鎮まっている。
『延喜式神名帳』には「名神大、月次、相嘗、新嘗」とあり朝廷の尊崇が篤い大社であったことがわかる。
中世には鳥羽上皇が当荘(山東荘)を根来寺に寄進されたことから根来寺との縁が深くなるが、そのため天正年間の豊臣秀吉の根来攻めにより、当神社も戦禍に巻き込まれた。
後に、羽柴秀長によって社殿の再建が成されている。御祭神の五十猛命は素盞鳴尊の御子神様で、『日本書紀』には父神の命を受けて日本国土に木種を播き青山と成した植樹神と記されている。
このことから「木の神」として慕われ、木の神様の住む国ということでこの地は「木の国」と呼ばれ、やがて「紀伊国」と成った。
また、家や船は木材より作られたことから、家屋の神、浮宝(船)の神としても慕われている。『古事記』では大屋毘古神の御名で登場するこの神様は、大国主神を災厄から救った神話(因幡素兎の次の段)が記されており、このことから「いのち神」「厄難除けの神」という信仰もある。
今日でも泉南地区(大阪府)の漁師が大漁祈願に、高野口方面(和歌山県)や河内長野方面(大阪府)の人々が病気平癒祈願に多く参拝されている。
近年、地球環境の温暖化対策に樹木の役割が大きいと注目され、植樹運動が活発に行われてゆく中、環境問題に関心を持つ人の参拝も増えている。
和歌山県神社庁HPよりhttps://wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=1050
由緒
伊太祁曽三神は「木の神」であられる。
日本書紀神代巻上には「父神素戔嗚尊と共に新羅に降られ、曽戸茂梨という所に居られたがのちに我が国全土に樹種を播かれて大八州国をすべて青山となされた。その神業に依りて有功神と称された。即ち紀伊国まします大神が是れである。」と記されている。
全国を緑化せられて最後に鎮座せられた地を木の国(のちに紀伊の国)と称するので緑化の神様であり、紀伊の国の祖神様である。
延喜式内社で「明神大・月次・新嘗・相嘗に預る」とされ、後に明治18年国幣中社、大正七年官幣中社に列せられた。
御祭神は播種され育てられた各種の樹について例えば檜は瑞宮をつくる。杉、樟は浮宝(船)をつくる。柀(MAKI)は葬具の材などとそれぞれ用途まで示されたので以後、林業・木材業・建築業の祖神と仰がれている。
また、浮宝の神として漁業航海方面の信仰も強く、
また大国主命が何回もの厄難をうけられる毎に、(稲葉の白兎で有名)この大神にたよられ難を免がれたので、「いのち神」として古来大難病難を除ける信仰がつづいている。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・氣生神社《主》五十猛命の荒御霊(あらみたま)
・蛭子神社《主》明治の合祀令によって近隣の神社〈22社〉が合祀
蛭子神社
伊太祁曽神社の氏子区域内に祀られていた産土神を国の方針でここに合祀されました。
二十二の神社があり それぞれの神社名とお祀りされていた場所は掲示のとおりです 社務所
現地案内板より
・櫛磐間戸神社(門神社)〈一の鳥居横に鎮座〉
《主》櫛磐間戸神(くしいわまどのかみ)豊磐間戸神(とよいわまどのかみ)
・祇園神社《主》素戔嗚尊《配》天照皇大神 埴安比売神
祇園神社
祭神 須佐男命(すさのおのみこと)
天照大神(あまてらすおおみかみ)
埴安姫命(はにやすひめのみこと)この祇園神社は 伊太祁曽神社の祭神 五十猛命の父神様である須佐男命等をお祀りしています。
神社合祀令により氏子区域内に祀られていた祇園社四社(塩ノ谷・明王子・山東中・奥須佐)も明治42年にここに合霊されました。
現社殿は平成23年9月に改築されました。現地案内板より
・御井社《主》弥都波能売神
御井社
御祭神 弥都波能売神(みづはのめのかみ)
御井神(みいのかみ)(この先50メートル)
神社の前の井戸より湧く水は絶える事無く 古くから「いのちの水」として多くの人々に敬われてきました。飲むと活力を得ると伝えられ、飲料水や料理用にと遠方より汲みに来られる人もあります。
殊に病気の人には元気を取り戻す霊力があると信じられ、春秋を通じてこの社を訪れ、水を汲みに来る人も絶える事がありません。神様に手を合わせてから、「お水を戴き」ましょう現地案内板より
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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
〈境外摂社〉・丹生神社〈奥宮〉
《主》丹生津彦命 丹生津比売命《配》天照皇大神
〈境外摂社〉・三生神社(みぶじんじゃ)〈亥の森 旧鎮座地〉
《主》五十猛命 大屋津比売命 都麻津比売命
三生神社の記事を参照ください
・三生神社〈亥の森:伊太祁曽神社 旧鎮座地〉(和歌山市伊太祈曽)
-
三生神社〈亥の森:伊太祁曽神社 旧鎮座地〉(和歌山市伊太祈曽)
三生神社(みぶじんじゃ)は 亥の森(いのもり)とよばれる伊太祁曽神社の旧鎮座地の森に鎮座します 御祭神は本社と同じ 五十猛命(いたけるのみこと)大屋津比賣命(おおやつひめのみこと)都麻津比賣命神(つまつひめのみこと)を祀ります
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Myojin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座 大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)紀伊国 31座(大13座・小18座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)名草郡 19座(大9座・小10座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 伊太祁曽神社〈名神大 月次 相嘗新嘗〉
[ふ り が な ](いたきその かみのやしろ)〈みょうじんだい つきなめ あいなめ にいなめ〉
[Old Shrine name](Itakiso no kamino yashiro)
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
御祭神 五十猛命(いたけるのみこと)
〈亦名-大屋毘古神(おおやびこのかみ)有功神(いさおしのかみ)〉について
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に 素戔嗚尊(すさのをのみこと)の段に その御子神として その功績は「日本に木々の種を蒔いて 青々とした国土を造られた」と記されるように 大きな功績を讃えて 有功神(いさおしのかみ)との別名があります
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に 大屋毘古神(おおやびこのかみ)として登場し 大国主神(おおくにぬしのかみ)が 八十神(やそがみ)に生命を狙われる災難から助けた神様と記されています
”時の架け橋” 大国主神(おほくにぬしのかみ)
『古事記』に登場する神話の舞台 の記事を見る
御祭神 五十猛命(いたけるのみこと)は イタテの神 とも呼ばれます
イタテの神を祀る神社〈全国に約300社程〉
その総本社は 伊太祁曽神社(和歌山市伊太祈曽)とされています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載「イタテの神」を祀る神社について
延喜式の社名 & 現在の論社で かつ イタテの神を祀る神社
紀伊国 名草郡 伊太祁曽神社〈名神大 月次 新嘗 相嘗〉
・伊太祁曽神社(和歌山市伊太祈曽)
紀伊国 名草郡 伊達神社〈名神大〉
・伊達神社(和歌山市園部)
丹波国 桑田郡 伊達神社
・伊達神社(亀岡市余部町)
・伊達神社(亀岡市宇津根町)
陸奥国 色麻郡 伊達神社〈名神大〉
・伊達神社(色麻町四竈町)
出雲國 意宇郡 同[揖夜神]社 韓國伊大弖神社
・韓國伊太氐神社〈揖夜神社境内社〉(松江市東出雲町)
出雲國 同[玉作湯神]社坐 韓國伊太氐神社
・玉作湯神社(松江市玉湯町)〈玉作湯神社 に合祀〉
・玉造天満宮(松江市玉湯町)〈韓国伊太氐神社の旧地〉
出雲國 意宇郡 同[佐久多神]社坐 韓國伊太弖神社
・嘉羅久利神社(安来市広瀬町)
・来待本宮(松江市宍道町)
・佐久多神社(松江市宍道町)
出雲國 出雲郡 同[曽枳能夜神]社坐 韓国伊大氐奉神社
・韓国伊大氐奉神社(出雲市斐川町)〈曽枳能夜神社 境内社〉
出雲國 出雲郡 同[阿須伎神]社 神韓國伊大弖神社
・阿須伎神社(出雲市大社町)〈阿須伎神社に合祀〉
出雲國 出雲郡 同[出雲神]社 韓國伊大弖神社
・素鵞社(出雲市大社町)〈出雲大社 境内〉
・諏訪神社(出雲市別所町)
播磨國 揖保郡 中臣印達神社〈名神大〉
・中臣印達神社(たつの市揖保町中臣)
・林田八幡神社(姫路市林田町)
播磨國 餝磨郡 射楯兵主神社 二座
・射楯兵主神社(姫路市総社本町)
・行矢射楯兵主神社(姫路市辻井)
・廣峯神社(姫路市広嶺山)
山城國 愛宕郡 伊多太神社
・伊多太神社(左京区上高野西明寺山)〈崇道神社境内〉
尾張國 春日部郡 伊多波刀神社
・伊多波刀神社(春日井市上田楽町)
伊豆國 賀茂郡 伊大氐和氣命神社
・稲根神社(東京都御蔵島村)
伊豆國 賀茂郡 阿豆佐和氣命神社
・來宮神社(熱海市西山町)
常陸國 那賀郡 青山神社
・青山神社(東茨城郡城里町)
詳しくは
「イタテの神」を祀る神社〈『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載〉
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伊太祁曽神社の遷座(せんざ)について
①日前神宮・国懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかがすじんぐう)〈通称:日前宮 にちぜんぐう〉の現在の社地に 鎮座されていた
日前宮の鎮座は 垂仁天皇16年〈紀元前14年〉と伝えられていて その頃に秋月(現在の日前宮鎮座地)より山東(現在の伊太祈曽周辺)〈亥の森〉に遷座されたと推察される
・日前神宮・國懸神宮(和歌山市)
➁「亥の森」に遷座〈現在の鎮座地より南東に500m程〉
亥の森は、今でも田圃の真ん中にこんもりとした森で、いかにも神奈備の様相を呈して 現在 境外摂社として 三生神社(みぶじんじゃ)〈亥の森 旧鎮座地〉《主》五十猛命 大屋津比売命 都麻津比売命 が祀られています
・三生神社〈亥の森:伊太祁曽神社 旧鎮座地〉(和歌山市伊太祈曽)
-
三生神社〈亥の森:伊太祁曽神社 旧鎮座地〉(和歌山市伊太祈曽)
三生神社(みぶじんじゃ)は 亥の森(いのもり)とよばれる伊太祁曽神社の旧鎮座地の森に鎮座します 御祭神は本社と同じ 五十猛命(いたけるのみこと)大屋津比賣命(おおやつひめのみこと)都麻津比賣命神(つまつひめのみこと)を祀ります
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➂現在地に遷座〈二通りの説あり〉
⑴大宝二年(702)二月 巳未ノ日 とする説
『続日本紀(Shoku Nihongi)』文武天皇 大宝二年(702)二月 巳未
「〈勅命〉この日 伊太祁曽 大屋都比賣 都麻津比賣 を分遷〈分けて遷座〉し 三つの神社とした」に記される
⑵和銅六年(713)十月 初亥ノ日 とする説
『寛永記』に「伊太祁曽明神ハ 和銅六年十月初亥ノ日 当所に遷リ給フ」と記される
④『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に「伊太祁曽神社」が一座として所載
伊太祁曽神社〈名神大 月次 相嘗新嘗〉
(いたきその かみのやしろ)〈みょうじんだい つきなめ あいなめ にいなめ〉
と朝廷の崇敬が篤い大社として記されています
➄中世 神仏習合期の奥宮と奥之院
奥宮とされる「丹生神社」に隣接して 覚鑁上人〈1095年7月21日~1144年1月18日〉が建立した「傳法院」があった 傳法院は 伊太祁曽神社の奥之院としたと伝えられている〈現在は廃寺〉
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR和歌山駅から わかやま電鉄 貴志川線 に乗り換え 20分ほど乗車すると伊太祈曽駅に到着
伊太祈曽駅から 神社までは 北へ約350m 徒歩5分程度
一の鳥居
伊太祁曽神社(和歌山市)に参着
鳥居の横には 石燈籠があり 参道が続いています
右手に朱色の神橋が見えて来て 二の鳥居が建ちます
神橋を渡ります
神橋を渡ると手水舎があります
常磐殿と御神木〈落雷で枯れた〉
御神木の大杉
木の神 五十猛命を祀る 当社の御神木として永くこの地を聳え、その樹齢は千年とも云われてきました。昭和37年 落雷により炎上、それが原因で枯れるに至る。
昭和40年代に若杉を植樹 割拝殿に古幹を保存 大国主命の生命を助けた神話(古事記)に因み「木の股くぐり」を体験してみて下さい 社務所現地案内板より
おそらく この横長の建物が割拝殿 そこを抜けて 社殿へと向かいます
割拝殿の壁には 天皇陛下より賜わった 幣帛料 幣饌料 の木札が数枚が掲げられています その先には 拝殿があります
拝殿にすすみます 拝殿は横に長く 三柱の神が祀られています
中央本殿 五十猛命(いたけるのみこと)
〈左脇宮〉大屋津比賣命(おおやつひめのみこと)
〈右脇宮〉都麻津比賣命神(つまつひめのみこと)
三殿に
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿から御垣が廻っていて その中の御神域に〈本殿〉〈左脇宮〉〈右脇宮〉が鎮座します
伊勢の方角を向いて 神宮遥拝所(じんぐうようはいじょ)
割拝殿の中には 落雷で倒れたご神木をお祀りしてあります その穴をくぐる「木の俣くぐり」には厄難除けのご利益があるとされます
『古事記』神話で 大国主神が くぐったとされる「木の俣くぐり」を体験することができます
社殿に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承
伊太祁曽神社の御祭神 五十猛命(いたけるのみこと)〈亦名-大屋毘古神〉が 木國(きのくに)〈和歌山〉大屋毘古神(おおやびこのかみ)として記されています
【抜粋意訳】
これを見て〈蘇生した大穴牟遅神(おほなむじのかみ)〉 八十神(やそがみ)は また欺(あざむ)いて山に連れて入り 大樹を切り倒し 楔(くさび)を打ち開き その中に入らせ そして 楔(くさび)を引き抜き 打ち殺してしまいました
そこで 御祖命(みおやのみこと)〈母神〉が 泣いて探し求め 見つけ出し その木を折(さ)いて取り出し 活(い)かし助けて その子に言いました
「お前はここに居たら 八十神(やそがみ)に滅ぼされる」
そして 木國(きのくに)〈和歌山〉大屋毘古神(おおやびこのかみ)のもとに遣わしましたところが 八十神(やそがみ)が 探し追い至り 弓に矢を刺す時に 木の股から〈大穴牟遅神(おほなむじのかみ)を〉逃がしました
御祖命(みおやのみこと)〈母神〉が 子に云うには
「須佐之男命(すさのをのみこと)の坐(ましま)す 根堅州国(ねりかたすくに)に参向(まいいで)よ
必ず その大神(おほかみ)が 謀(はかりごと)をして下さるでしよう」と言われました
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
伊太祁曽神社の御祭神〈五十猛命(いたけるのみこと)大屋津姫命(おおやつひめのみこと)抓津姫命(つまつひめのみこと)〉について
素戔嗚尊(すさのをのみこと)の段に その御子神として その功績は「日本に木々の種を蒔いて 青々とした国土を造られた」記されています
【抜粋意訳】
第八段一書(第四)
別の言い伝え(第四)によると 素戔嗚尊(すさのをのみこと)の行いは酷いものでした
そこで神々は 千座の置戸(ちくらのおきど)の罪を科せ 追放したこのとき素戔嗚尊は その子 五十猛神(いたけるのかみ)を率い 新羅国(しらぎのくに)に降り 曽尸茂梨(そしもり)に辿り着いた
そこで素戔嗚尊は 不服を言われた
「この地に 私は居たくない」それで土で舟を作り それに乗って東の方に渡り 出雲の簸川(ひのかわ)の上流にある 鳥上之峯(とりかみのみね)に着いた
そのとき その土地には 人を吞む大蛇(おろち)がいた
素戔嗚尊は 天蠅斫之剣(あめのははきりのつるぎ)をもって その大蛇を斬った このときに蛇の尾を斬って刃が欠けた
そこで尾を割いてご覧になると 尾の中に一つの神剣があった素戔嗚尊は言われた
「これは 私の物にはできない」そこで 五世孫の天之葺根神(あめのふきねのかみ)を遣わし 天に奉られた
これが今いわれる 草薙剣(くさなぎのつるぎ)であるはじめ五十猛神が 天降られるとき たくさんの樹の種をもって下られた
しかし 韓地(からくに)には植えず すべてを持ち帰り 筑紫(ちくし)からはじめて 大八洲国(おおやしまのくに)の中に播きふやし 日本に青々としていない山は無いこのため五十猛命を称して 有功之神(いさおしのかみ)とする
紀伊国(きいのくに)に坐(ましま)す大神はこれなり
【抜粋意訳】
第八段一書(第五)
別の言い伝え(第五)によれば 素戔嗚尊(すさのをのみこと)が言われた
「韓郷(からくに)の島には金銀がある もし我が子孫の治める国に 浮宝〈舟〉がなければ 困る」そこで
髯を抜いて放つと 杉の木になった胸の毛を抜いて放つと 桧になった
尻の毛を抜いて放つと 稹(まき)になった
眉の毛は 樟(くすのき)になった
そしてその用途を決め
「杉と樟は この二つの木は舟をつくるのによい
桧は 宮殿をつくるのによい
槇は 人民の奧津棄戸(おきつすたえ)〈棺桶〉によい
その他の食べる八十木種(やそこたね)〈沢山の種子〉はよく蒔き育てなさい」と言われたこの素戔嗚尊の子を 名づけて五十猛命(いたけるのみこと)という
妹の 大屋津姫命(おおやつひめのみこと)
次に 抓津姫命(つまつひめのみこと)この三柱の神は よく種子を播き 紀伊国にお祀りしている
その後 素戔嗚尊が熊成峯(くまなりのみね)に出て やがて根の国にお入りになられた
【原文参照】
『続日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承
伊太祁曽神社の国史への初見記事です
伊太祁曽神社 大屋都比賣神社 都麻津比賣神社は 元々一つの神社であったことが 判ります
【意訳】
文武天皇 大宝二年(702)二月 巳未
〈勅命〉
歌斐国(かいのくに)献じる梓弓 五百張 大宰府より以って充てる〈勅命〉
この日
伊太祁曽 大屋都比賣 都麻津比賣 を分遷〈分けて遷座〉し 三つの神社とした
【原文参照】
『紀伊国名所図会(kiinokuni meisho zue)』〈文化9年(1812)〉に記される伝承
【意訳】
伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)
祀神(まつるかみ)三座(さんざ)
五十猛命(いたけるのみこと)
大屋都比賣命(おおやつひめのみこと)
都麻津比賣命神(つまつひめのみこと)山東荘(さんとうしょう)の生土神(うぶすな)にして 例祭(れいさい)毎年(まいねん)九月十五日 巳の刻 同郷 矢田村 伝流院の寺内に御旅所へ神輿渡幸の式あり・・・・・・云々
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
「續日本紀 大寶二年二月巳未 遷 伊太祁曽 大屋都比賣 都麻津比賣 三神社とあるを参へ考えるに
大寶以前は 三神同殿に合祭り奉れるを 此二年より 今の如く各社に分ち祭られたりとみえたり」と元々は 三社は合祭されていたが 分祀されたと記しています
【意訳】
伊太祁曽神社〈名神大 月次 相嘗新嘗〉
祭神 五十猛命
紳位
文徳天皇 嘉祥三年十月壬午授 紀伊國 伊太祁曽神 従五位下
清和天皇 貞観元年正月廿七日甲申奉授 紀伊國 従五位下動八等 伊太祁曽神 従四位下
陽成天皇 元慶七年十二月廿八日庚申 紀伊國 従四位下動八等 伊太祁曽神 授従四位上
醍醐天皇 延喜六年二月七日授 紀伊國 伊太祁曽神 正四位上今按 日本書紀 神代巻一書に
素戔嗚尊は その子 五十猛神(いたけるのかみ)を率い 新羅国(しらぎのくに)に降り 曽尸茂梨(そしもり)に辿り着いた 云々
はじめ五十猛神が 天降られるとき たくさんの樹の種をもって下られたしかし 韓地(からくに)には植えず すべてを持ち帰り 筑紫(ちくし)からはじめて 大八洲国(おおやしまのくに)の中に播きふやし 日本に青々としていない山は無い
又
素戔嗚尊の子を 名づけて 五十猛命(いたけるのみこと)という
妹の 大屋津姫命(おおやつひめのみこと)
次に 抓津姫命(つまつひめのみこと)この三柱の神は よく種子を播き 紀伊国にお祀りしている
また旧事紀に 五十猛命 亦云う 大屋毘古神 次 大屋津姫神 次 抓津姫神已上三柱並坐 紀伊國則 紀伊國造斉祠神也とみえ
續日本紀 大寶二年二月巳未 遷 伊太祁曽 大屋都比賣 都麻津比賣 三神社とあるを参へ考えるに
大寶以前は 三神同殿に合祭り奉れるを 此二年より 今の如く各社に分ち祭られたりとみえたり祭日 九月十五日(十月十五日に改む)
社格 縣社(明治十八年四月二十二日 國幣中社に列す)
所在 伊太祁曽村
【原文参照】
江戸時代の国学者 本居宣長先生 の詠んだ伊太祁曽神社の和歌
“朝もよし 紀路のしげ山わけそめて 木種まきけん神を思ほゆ”
伊太祁曽神社(和歌山市)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)