粟鹿神社(但馬国一之宮)

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粟鹿神社は 社伝によれば 粟鹿の名の由来として 鹿が粟をくわえて 粟鹿山から現れて 人々に農耕を教えたと伝えます その鹿が祀られているとも伝わる但馬国随一の古社です 2000年以上の歴史とも云われます 

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name)】

  粟鹿神社(awaga shrine)
       (あわがじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

 【鎮座地 (location) 】

 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152

 [地 図 (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天美佐利命(ameno misari no mikoto) 大国主命の御子
《主》日子坐王(hikoimasu no mikoto) 開化天皇の第三皇子
《主》日子穂穂手見尊(hiko hohotemi no mikoto) 古事記に傳へる山狭知昆古

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
・ 但馬国一之宮

【創 建 (Beginning of history)】

和銅元年(708)に祭神や歴代祭主などを詳細に記した粟鹿大明神元記の写本が残る(宮内庁所蔵)

当社は但馬国最古の社として国土開発の神と称す。国内はもちろん、付近の数国にわたって住民の崇敬が集まる大社であり、神徳高く延喜の制では名神大社に列せられた。

人皇第10代崇神天皇の時、第9代開化天皇の第三皇子日子坐王が、四道将軍の一人として山陰・北陸道の要衝丹波道主に任ぜられ、丹波一円を征定して大いに皇威を振るい、天皇の綸旨にこたえた。

粟鹿山麓粟鹿郷は、王薨去終焉の地で、粟鹿神社裏二重湟堀、現存する本殿後方の円墳は王埋処の史跡である。旧県社。

兵庫県神社庁HPより

【由 緒 (history)】

神社配布由緒書より

 【境内社 (Other deities within the precincts)】

 ・茗荷(myoga)神社
 《主》草野姫命(kayanohime no mikoto)

・床浦(tokora)神社
 《主》大己貴神(onamuchi no mikoto)

・猿田彦(sarutahiko)神社
 《主》猿田彦神(sarutahiko no kami)

・稲荷(inari)神社
 《主》保食神(ukemochi no kami)

・厳島(itsukushima)神社
 《主》市杵島姫命(ichikihime no mikoto)

・天満(temman)宮
 《主》管原道眞公(sugawara no michizane ko)

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)但馬国 131座(大18座・小113座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)朝来郡 9座(大1座・小8座)
[名神大 大 小] 式内 名神大社

[旧 神社名 ] 粟鹿神社(名神大)
[ふ り が な  ](あはかの かみのやしろ みょうじんだい)
[How to read ](ahaka no kamino yashiro myojindai ) 

国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

御祭神の「日子坐王(彦坐王)(hikoimasu no mikoto)」について

第9代「開化天皇」の第三皇子とされています
・『古事記』では「日子坐王」・『日本書紀』では「彦坐王」と表記されます

『古事記』では 開化天皇と丸邇臣(和珥臣に同じ)祖の日子国意祁都命の妹の意祁都比売命(oketsuhime no mikoto)との間の皇子です

社伝では 粟鹿神社(awaga shrine)本殿後方の円墳(後方の丘)は 日子坐王埋処の史跡(御陵)であるとしています

『古事記(kojiki)』中巻 崇神天皇の条では 将軍の派遣として記されています

第10代「崇神天皇」の異母弟にあたるのが「日子坐王」です

『日本書紀』では 崇神天皇が 「彦坐王」の子「丹波道主命」を四道将軍の一人として丹波に派遣しています
『古事記』では 崇神天皇が 日子坐王に 丹波の国の土蜘蛛退治を命じたとあり 次のように短い記載があります

意訳
「また日子坐の王を 丹波の国に遣して 玖賀耳之御笠(kugamimi no mikasa)を殺さしめたまひき 」

【原文参照】『古事記』刊本 明治03年選者:太安万侶/校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『古事記(kojiki)』中巻にある 日子坐王の子 と子孫について

日子坐王の子孫達は 天皇の子孫と同様にしっかりと記されていて 王族として 諸氏族の祖であると記されています

『古事記』では 末裔の氏族として記しているのは
・伊勢之品遅部君・伊勢之佐那造・比売陀君・当麻勾君・佐佐君・日下部連・葛野之別・近淡海蚊野之別・若狹之耳別・三川之穂別・近淡海之安直・長幡部連・吉備品遅君・針間阿宗君ら

その後 『古事記』の中巻で 歴代の天皇と強く絡み合っていきます

『古事記(kojiki)』によれば 日子坐王の妃は 4人

・山代の荏名津比売(enatsu hime)別名を苅幡戸辨(karihatatobe)
・沙本之大闇見戸売(saho no okuramitome)
・息長水依比売(okinaga mizuyorihime)
・袁祁都比売(woketsu hime)

『古事記(kojiki)』によれば 日子坐王の御子は 合わせて15人 王子は 12人 姫が3人が記されています 
『古事記』中巻 第11代「垂仁天皇」の条では 日子坐王の子孫が登場します

・「垂仁天皇」の皇后 沙本毘売命(sahohime no mikoto)
日子坐王と沙本之大闇見戸売(saho no okuramitome)との間に生まれた皇女

・沙本毘古王(sahohiko no miko)
日子坐王と沙本之大闇見戸売(saho no okuramitome)との間に生まれた皇子

「垂仁天皇」への反乱で沙本毘売命(sahohime no mikoto)と共に討たれます

・旦波比古多々須美智宇斯王(taniwa no hikotatasumi no ushi no miko)の娘 兄比売(ehime)・弟比売(otohime)

沙本毘売命(sahohime no mikoto)は 兄の反乱の際 自分の代りに「旦波比古多々須美智宇斯王(taniwa no hikotatasumi no ushi no miko)の娘を皇后にするよう天皇に勧めます この丹波比古多多須美知能宇斯王も 日子坐王と息長水依比売(okinaga mizuyorihime)との間に生まれた子です

従って 孫が 垂仁天皇の妃となります
孫:比婆須比売命(日葉酢媛命)垂仁天皇の後皇后 景行天皇の母
孫:真砥野比売命(真砥野媛) 垂仁天皇妃
孫:弟比売命 垂仁天皇妃

・息長水依比売(okinaga mizuyorihime)との子5人の中には 神大根王(kamuone no miko)があり この娘は 倭建命(yamato takeru)の兄 大碓命(osu no mikoto)の妃となります

・本牟都和気命(homutsuwake no mikoto)「もの言わぬ皇子」の出雲訪問に同行した曙立王と莬上王の兄弟

日子坐王と山代の荏名津比売(enatsu hime)との間に生まれた大俣王(omata no miko)の子です

・袁祁都比売(woketsu hime)との間に生まれた 山代之大筒木真若王(yamashiro no otsutsukimawaka no miko)は 神功皇后の曽祖父に当たります

神功皇后の祖先について

日子坐王は 神功皇后の父方祖先になります

【神功皇后の母系】
天日矛-多遅摩母呂須玖-多遅摩斐泥-多遅摩比那良岐-多遅摩比多訶-葛城高額媛

【神功皇后の父系】
開化天皇-日子坐王-山代之大筒木眞若王-迦邇米雷王-息長宿祢王

粟鹿神社(awaga shrine)社伝には 神功皇后は 新羅遠征(363年)の際に神助があったので 凱旋後に奉幣使を立てたと伝わります

日子坐王(彦坐王)(hikoimasu no mikoto)のもう一つの御陵は 伊波乃西神社(岐阜県岐阜市岩田西)にある日子坐命墓(hikoimasu no mikoto no haka)に宮内庁により治定されています

伊波乃西神社の記事もご覧ください

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

北近畿豊岡自動車道 山東IC下車 750m 車 約2分
粟鹿山の麓に開けた土地があり 粟鹿です

盆地の中に小島のように見える「古墳」は粟鹿神社の鎮守の杜です
粟鹿神社では
 御祭神の日子坐王(hikoimasu no mikoto) 開化天皇の第三皇子の古墳と伝わります 

粟鹿川に掛かる御神橋のような橋を渡れば 鎮守の杜の北側に鳥居が建ち 駐車場となっています

粟鹿神社(awaga shrine)に到着

北側に建つ白色の「鳥居」と社号標と扁額には「粟鹿神社」とあります
鳥居の台石の前には「一対の榊が円錐形の盛土に挿し祀られています」
とても神聖な心持になります 一礼して鳥居をくぐります

境内は綺麗に掃き清められていて 清々しいです 参道右手には土塀が御垣となっていて内境内です 手前が勅使門です

「勅使門(chokushi mon)」の前にも「一対の榊が円錐形の盛土に挿し祀られています」

朝廷の信頼が厚く 国の大難には 四回の勅使参考参向があったと記録が残るが 創建年は不詳 応仁の乱(1467~1478年)では 拝殿・本殿などは 兵火で焼失しましたが この門は免れたそうです

参道の 左手は社務所です 神札授与所で ご朱印なども拝領します

参道の右手「随神門・木造著色随神倚像 一対二体」 が建ちます
こちらにも「一対の榊が円錐形の盛土に挿し祀られています」

随神門をくぐり 振り返りますと 丁度 随神の背後には 実に見事な「木造著色狛犬像」が一対座しています

すぐ右には 竹筒から水が滴り榊が備えられている これも美しい「手水舎」があり 清めます

左手には 境内社がありお詣りです
・天満(temman)宮

 《主》管原道眞公(sugawara no michizane ko)

境内の中央には 土俵があり その向こう側に社殿が建ちます

拝殿の右脇に境内社がありお詣りです
・猿田彦(sarutahiko)神社

 《主》猿田彦神(sarutahiko no kami)

厳かな拝殿が建ちます

狛犬は 阿吽の位置が通常とは左右逆です 左側は子を抱いています
狛犬の前に前にも「一対の榊が円錐形の盛土に挿し祀られています」

拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

向かって左手から本殿を仰ぎます
本殿の後ろの円墳が 御祭神「日子坐王」の御墳墓といわれています

本殿左に境内社がありお詣りです こちらからも御墳墓が見えます
・床浦(tokora)神社

 《主》大己貴神(onamuchi no mikoto)

拝殿の左に境内社がありお詣りです

・厳島(itsukushima)神社
 《主》市杵島姫命(ichikihime no mikoto)

その裏手の丘にある 鳥居をくぐって急な山道を登り境内社にお詣りです

・稲荷(inari)神社
 《主》保食神(ukemochi no kami)

稲荷神社の鳥居横の境内社にお詣りです
・茗荷(myoga)神社

 《主》草野姫命(kayanohime no mikoto)

粟鹿神社の御神紋「抱き茗荷」は この茗荷(myoga)神社からくるとのこと

境内が苔生しているのは 雨が多いのでしょうか
以前にお詣りの際は 大雨でした

拝殿前から 参道を戻ると 土俵越しに天満宮があり 土塀の向こうに社務所があります

隋神門をくぐり 振り返り一礼

社務所にて ご神職と談話の後 参道を戻り 鳥居をくぐり振り返り一礼

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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

各書の記載では845年~874年の間で 神階を上げています

『続日本後紀(shoku nihon koki)』に記される伝承

『続日本後紀(shoku nihon koki)』は 第54代仁明天皇の代(833年~ 850年)の18年間を扱う

意訳
「 承和12年(845)7月16日 丹波国「出雲神」 但馬国「出石神」「養父神」「粟鹿神」 美濃国「伊奈波神」 並び無位から従五位下 」

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』に記される伝承

平安時代(延喜元年(901年)成立)に編纂された歴史書 六国史の第六
天安2年(858)8月~仁和3年(887)8月の30年間を扱う

意訳
「 貞観10年(868)12月27日  但馬国「出石神」「養父神」「粟鹿神」並びに 従五位上から正五位下 」

「 貞観16年(874)3月14日 但馬国「出石神」「養父神」「粟鹿神」並びに 正五位下から正五位上 」

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本三代実録』(901)延喜元年成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=

2000年以上の歴史とも云われます 社伝によれば 粟鹿の名の由来として 鹿が粟をくわえて 粟鹿山から現れて 人々に農耕を教えたと伝えます その鹿が祀られているとも伝わる但馬国随一の古社です

粟鹿神社(awaga shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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