寒川神社(さむかわじんじゃ)は 約1600年以上の歴史を持つとされ 古くは朝廷から さらに歴代の武将〈源頼朝公 武田信玄公 徳川将軍家など〉や 民間からも幅広い信仰がありました 今でも 八方除の守護神〈全国唯一〉として 全国各地から参拝者が絶えない 相模國一之宮です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
寒川神社(Samukawa Shrine)
(さむかわじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
神奈川県高座郡寒川町宮山3916
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》寒川比古命(Samukawahiko no mikoto)
寒川比女命(Samukawahime no mikoto)
※二柱の神を祀り 寒川大明神と奉称
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・八方除の守護神
The guardian deity that protects the eight directions around us.
If you pray to God, you can rule out the wrong direction.
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社(名神大)
・ 相模国一之宮(Sagami no kuni ichinomiya)
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
社伝によれば 第21代 雄略天皇(在位457~479年)の御代に奉幣 神亀4年(727)社殿建立と伝え 約1600年以上前の創建
御由緒
御祭神 寒川比古命 寒川比女命 寒川大明神と総称する
例祭日 9月20日
前日祭 9月19日 流鏑馬(やぶさめ)神事当神社の創始は古く日本総国風土記によれば 今より約千五百年前 雄略天皇の御代 朝廷より奉幣のことが記されており 当時 朝野遠近の敬篤く著名の大社であつたことが知られる
其後 桓武天皇の延暦7年を始めとして 歴代奉幣のことがあり 亦 仁明天皇 承和13年以来 数次に亘り神階を奉授せられ 更に醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳に相模国の名神大社と定められ幣帛を奉せられており この地方の庶民信仰の中心をなしていた
後世 源頼朝 小田原北条氏累代 社殿造営社領の寄進等あり 武田信玄の信仰も特に篤く 徳川時代に至っては 徳川氏 社殿再建のこと 亦 社領の寄進等 古家武門武将の崇敬は鄭重きわめるものがあった
明治4年3月 官国幣社制度の制定せられるや国幣中社に列せられ 国費を以て幣帛料御奉納あらせられたるも 昭和20年12月神道指令により神社の国家管理を廃止され 現在は神社本庁の神社として全国崇敬者より御神徳を敬仰されている境内案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
御祭神 寒川比古命、寒川比女命
御祭神 二柱をたゝえて寒川大明神又は、寒川大神と奉称している。御神徳
寒川大明神は 太古草昧の時代、相模国・武蔵国を中心に広く関東地方を御開拓になられ、農牧・殖林治水・漁猟・商工・土木建築・交通運輸その他あらゆる殖産興業の途を授け、衣食住等人間生活の根源を開発指導せられた所謂関東文化の生みの親神である。
この地方に生を享ける者としては、夢寐にも忘れることのできない一切生業の大恩神にましますのである。
而して悠久幾千年、国土国民、一切生業の守護神として、あらゆるものゝ生成化育発展充実を理想へと導びかせ給い、わけても古来唯一の八方除の守護神として、御霊験あらたかにましまし、地相・家相・方位・日柄・厄年等に由来するすべての悪事災難をとり除かせられ、福徳開運をもたらし、生活々動に限りなき恩恵をかがふらせ給うなど、御神徳は実に広大無辺にあらせられる。
因みに、
当社の追儺祭に用いた弓箭は、五穀の豊穣・除災招福・健康長寿或いは子供の夜泣きに霊威あらたかなりと信ぜられ、
武佐弓祭の神的に掛けた麻は、妊婦の安産・土木建築に、
斎竹は水利水運・漁業航海に御加護しるく
流鏑馬の的は、当るとの意味から、商売繁昌、勝負事の必勝に冥助を戴けると伝えられ、
さては末社に白豆腐を供えて祈ると母乳に恵まれると云われ、
御本殿裏の難波の小池を渫って雨乞をすると、慈雨降らざるなしと信ぜられている等、
何れも古くから巷間に根強い信仰を繋いでいるが、これらはすべて涯しなき御神威の一端をそれぞれの由縁に因んで敬仰したものであって、ともあれ、いやちこにおはします御神徳の片鱗を物語るものである。更に、
御鎮座地が、
関東の中心東京の都心からまさしく西南坤の方角、いわゆる正裏鬼門に当っており 更にその御本殿の正面が、西南方に向っていられることも神社建築中 他に例の無い特異な存在として世に知られてるが、いずれも尊い御神慮によることと仰がれる。
即ち東京都を中心とする関八州を背後にしてその裏鬼門の鎮めとなられて、この地に神鎮り給うのであって、目に見えるこの一事を以てしても御神慮のほどが偲ばれ心打たれるものがある。御由緒
関八州鎮護の神として古くからこの地方の名祠とあがめられている。即ち 総国風土記によると、約1500年前 雄略天皇の御代に幣帛を奉納せられたとあるので、当時 既に関東地方に於ける著名の神社として遠近に知られていたことが明らかであり、従って創建の極めて古いことと、往古から朝野の崇敬殊に厚いこととが知られる。
以後 桓武天皇の延暦7年5月をはじめとして、御歴代 奉幣、勅祭を行わせられたことは史上枚挙に遑まがない。仁明天皇 承和13年以来、数次に神階の奉授があり、
更に醍醐天皇の御代に制定された延喜式では、相模国内唯一の国幣の大社と定められ、特に名神祭に預る名神大社にも列せられた。
斯く皇室の御尊崇厚きは勿論、一千数百年の昔から相模国の一の宮、総鎮守として士民信仰の中心となり、源頼朝・北条義時・同重時等屡々社参神宝を奉納し、小田原 北条氏も累代 社殿の造替、社領の寄進等怠りなく、武田信玄の信仰も殊に厚かった。
後年 徳川氏も亦 代々社殿を再建、社領を奉る等武家の崇敬奉祀も鄭重を極め、明治初年、官国幣社の制定定まるや明治4年5月、国幣中社に列格せられた。
昭和20年12月15日、神道指令により官国幣社の制度は廃止され、現在は神社本庁の別表に掲げる神社として崇敬されている。神域 現境内の総面積は14285坪余りである。
因みに 往古の神領は 現今の藤沢・茅ケ崎・寒川・海老名の3市1町に及び広大なものであった。御社殿
御社殿造営の沿革として記録に残っているのは、聖武天皇の神亀4年、称徳天皇の天平神護元年等で、今から1200余年前のことである。
その後 仁明天皇の承和元年 及 高倉天皇の治承3年等に造替せられ、更に源頼朝・北条氏綱・北条氏康等によって改築のことあり、以来 徳川幕府や氏子崇敬者の寄進によって間断なく造替修復が行なわれ、往時の社頭の規模頗る広壮雄大であった。
現在の社殿及工作物は、国費と氏子崇敬者の浄財とによって、大正14年1月着工、昭和7年3月竣工したもので、御本殿以下建物21棟、神橋その他の工作物33件を数える。
尚 現在の
一ノ鳥居は 昭和4年 相模鉄道株式会社の寄進によるものであり、
二ノ鳥居は、明治5年、老朽し撤去したものを明治改元百年記念事業として、氏子崇敬者の浄財により昭和41年9月、再建され、高さ、16米・幅13米・直径1.6米の鉄筋コンクリート造りで関東一といわれている。宝物
社蔵の宝物には、古文書・御神宝・武器・什器等多数あるがそのうち主なるものを挙げると、
「武田信玄寄進の兜」永禄12年秋、武田信玄、小田原征めの時に参拝奉納したもので、明珍房宗の作、いわゆる62間筋兜で、重要美術に指定されている
「龍面」木彫彩色、古色蒼然刀法の冴えを見せた名作である。(牡牝2面)
「棟札」5枚のうち有名なのは 大永2年9月吉日、北条新九郎氏綱と、天文15年3月吉日、平氏康と銘のあるもので何れも4百余年前のものである。
「薙刀」伝早良親王御奉納の薙刀(約1200年前)
「翁の古面」古式田打舞神事の祭具であって、福徳円満形相秀美希代の逸品と称せられる。
「一之宮引付書」相模国の一之宮であることを証明したもので、往古より社蔵の重要文書である。
「神領寄進状」天正19年11月、徳川家康から先例により神領百石を寄進した朱印状である。尚その後 歴代将軍のこれを認証した安堵状も悉く残っている。
「古墳発掘品」大神塚(おおじんずか)から発掘した鏡・曲玉・金環・直刀・鏃等多数あるが、何れも古代文化の研究資料として貴重視されている。祭典
恒例臨時の祭儀が一年を通じて数多く行われるが、その中には当社特有の古式祭として由緒深い祭儀も少なくはない。
その主なるものを挙げると、
「月次祭」毎月1日・20日厳修。
「八方除祭・元旦祈祷祭」1月1日 午前零時、授与される八方除神札を神前に献備して、古儀によって祭事が行われ、続いて年のはじめに当り氏子崇敬者並び社会の福祉と平和とを祈る元旦祈祷祭が厳修される。
「追儺祭」1月2日 祭典は午後八時にはじまり続き社頭並に近隣の燈火を悉く消して、神職・副士日蔭蔓の兜を冠り、太刀・金木(かなてぎ)を帯び拝殿に進み追儺板を打つこと数百度、次に宝物数えの行事の後太鼓の音に合わせて『難波の小池』と高唱しながら社殿を三周して終り邪気災厄をはらう。神前に供えた黒木の弓・葦の矢は災難厄除の御守として遠近の参拝者競ってこれを戴く。
「武佐弓(むさゆみ)祭」1月8日 神前の儀に続き、斎場に懸けた古式の的に向い祢宜が神歌を微唱して、3度矢を射り今年の吉凶を占う神事。
「節分祭」2月節分の日 追儺板を打ち古式による神事が神前に於て行われ、続いて年男年女によって福豆と多数の福物とが撒かれ、参拝者争ってこれを戴き盛観である。
「紀元祭」2月11日 日本国の建国を祝い、民族の興隆と発展を祈る。
「田打舞神事」2月17日 五穀の豊穣と産業の振興とを祈る春祭に続いて、社人が伝来の翁の古面を被り、耕田種蒔の形容をしながら神楽歌を謡って舞い豊年を祈願す。一名福種蒔とも云う。
「年参講大祭」4月上旬 御神徳を慕い講員一同相携えて参拝、御神徳を感謝し更に一層の御加護を祈る祭典で、奉納演芸等の催もあり折から境内の桜も咲きほこり連日社頭は殷賑を極める。
「国府祭(こうのまち)」5月5日 一名端午祭。当社2大神幸祭(浜降祭・国府祭)の一つで、中郡国府神揃山(かみそりやま)の祭場へ神輿渡御、早良親王夷賦征討の祈願に発し、
一之宮寒川神社。二之宮川匂神社(かわわ)。三之宮比々多神社。四之宮前鳥神社(さきとり)。五之宮八幡神社の五社が参集し、各社粽その他の神饌を供え国家安泰、五穀豊穣の祈願を行う。祭儀中の古式「座問答」は有名である。昭和41年神奈川県無形民俗資料に指定された。
「夏越の祓」6月30日 神前に設けた茅輪をくぐり罪穢を除き、心身の清浄ならんことを祈る。氏子崇敬者は人形を納め夏越祓を受ける。
「浜降祭」7月15日 「みそぎ」とも云う。午前3時に社頭発輿、途中加わる近郷各神社の供奉 神輿20余基と共に茅ケ崎南湖海岸に渡御、暁の渚に列をなして渡り、折からの旭光を浴びて壮観極まりなし。日の出に祭典を行って即日還幸。神奈川県無形民俗資料に指定されている。
「流鏑馬神事」9月19日 鎌倉時代より連綿の家柄の者が奉仕して来たが、昭和41年より武田流司家、金子有鄰氏が奉納。現在金子家教氏が継承し奉納する。
神事は、武田流の流鏑馬に則って、天長地久の式、鏑矢奉献の式を行った後馬場に於て直垂装束で馬に乗り馳け抜けながら式の的を射ぬき、「天下泰平」「五穀豊穣」を祈願する。古くから「宮山のまち」と称し参拝者群参して雑踏する。
「例大祭」9月20日 寒川大明神の由緒ある日で、氏子・崇敬者は、御神徳を讃え日頃の御神恩に感謝する祭典であって神社本庁より遣幣使が参向し厳修される。当日は献華・献茶・献句・武道・演芸等の奉納があり、多数の参拝者で賑わう。
「秋祭」11月23日 新穀を神前に奉献し勤労感謝のまことを捧げる祭儀である。
「師走大祓」12月31日 悪事災難を祓い清めて新年の幸福と繁栄を祈願する。氏子崇敬者はこぞって人形を納め大祓を受ける。八方除について
寒川神社は唯一の八方除守護神として、地相・家相・方位・日柄・厄除等に由来する一切の災禍を除かせ給う御霊験を戴かれるよう八方除神札の授与と、八方除特別御祈念とを行っております。
蓋し八方とは、東(卯)西(酉)南(午)北(子)の四方と、東北(艮)東南(巽)西北(乾)西南(坤)の四隅のことで、古来からこの八方を基本にして、これに陰陽五行、十干十二支九星八宮等を配当して、住居、方角運勢等の吉凶を判断しております。即ち家相方位の吉方に合するか、凶方に傾向するかによって、禍を転じて福となり、徳を滅して災を蒙る等、人生の寿夭、禍福、盛衰はすべてこの家相方位の吉凶順逆に支配されるのであります。
しかし 住居は科学的見地に則したものでなければなりませんが、種々の条件によって不可能な場合もあり、又 家相学上 理想的な建築は容易ではなく、ましてや既設の住宅に居住 又は 移転する場合 いちいち家相方位に拘泥している訳にはまいりません。
又 九星五行循環の条理によって 人各々年により、本命殺・暗剣殺・八方的殺(八方塞)・金神(こんじん)・鬼門塞り・歳破・的殺等の方位の祟り障りがあり、月により日によって吉凶があり、これらが人事百般の吉凶を支配して、人生の禍福・盛衰を将来すると云っても、あわただしい現代社会に生活する者にとっていちいちこれらの法則に従って、行動することは、むしろ不可能と云わなければなりません。
そこで 吾々が知らず知らずの間に、又 知りながらも所謂方位を犯して旅行などし 又 日常生活を営み、家相に合わない家屋に居住し、転宅する場合等の一切の災厄祟禍を除かせ給うべく、寒川大明神に、御祈念を捧げ、八方除御神札を戴いて奉斎することによって、その家その家族の家相・方位・日柄等に基づく一切の悪事災難を免がれ、普請造作・縁談縁組・転宅旅行・開業就職・開墾種蒔その他何事によらず万事意の如く明朗快活な日々を送り、家業繁栄、福徳開運を招くことができるのであります。
八方除祈念には、小式以上永代式まで六式階がありそれぞれの式次第によって御祈念を厳修しております。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・宮山神社《合》大物主神,須佐之男神,建御雷之男神,大雀命,聖神,宇迦之御魂神
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
スポンサーリンク
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Myojin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える寒川(サムカハノ)神社 一座 相模国
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)相摸国 13座(大1座・小12座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)高座郡 6座(大1座・小5座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 寒川神社(名神大)
[ふ り が な ](さむかはの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Samukaha no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
スポンサーリンク
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の
「寒川神社(サムカワノカミノヤシロ)」が下総国にも鎮座しています
相模国の一之宮との関連性については不明です
「相模國 高座郡 寒川神社 名神大」
・寒川神社(寒川町)相模國一之宮
「下總國 千葉郡 寒川神社」の2つの論社
・二宮神社(船橋市三山)
・寒川神社(千葉市中央区寒川町)
スポンサーリンク
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR相模線 宮山駅から南へ約550m 徒歩7分程度
社号標「相模國 一之宮 國幣中社 寒川神社」が立ち 神池橋の先に三の鳥居が建ちます
寒川神社(Samukawa Shrine)に参着
整備された参道を進みます
かつての 一の鳥居の笠木 が参道の脇に 案内板とともに設置されています
一ノ鳥居 記
この鳥居は 当神社の一ノ鳥居で 寛政八年(西暦1796年)木内善次郎の寄進により参道に建立されたもの。安政2年江戸大地震、大正12年関東大震災、二度にわたり倒壊した。高さ一丈一尺(約3.3m)柱間一丈(約3m)明神鳥居。当時をしのびここに設置する。
(寒川神社社務所)
参道の左手に手水舎があり清めます
正面には立派な神門が建ち その右手には御祈祷の受付があります 寒川神社は 全国でも 昇殿参拝者の数が多いことでもよく知られています
神門の前には 巨大な狛犬が構えています
神門をくぐると 正面には拝殿が建っています
ご神域は 廻廊で囲まれた境内に 砂利が敷き詰められています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
やはり 大勢の方々が 昇殿参拝をされておられます
ご神域から 神門へと戻り 振り返り一礼をします
参道を戻ります
スポンサーリンク
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『続日本後紀(Shoku nihon koki)』〈貞観11年(869)完成〉に記される伝承
無位の寒河神(サムカワノカミ)に神階の奉授が記されています
【意訳】
承和13年(846)9月8日(丙午)の条
奉(タテマツル)授(サズク)に
常陸国 勲10等 薩都神
相摸国(サガミノクニ)无位(ムイ)寒河神(サムカワノカミ)
並(ナラビ)に 従5位下
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=
『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)』〈元慶3年(879年)完成〉に記される伝承
寒河神(サムカワノカミ)に神階の加授が記されています
【意訳】
斉衡元年(854)3月14日(戊戌)の条
加(クワウル)に
相摸国(サガミノクニ)
寒河神(サムカワノカミ)に 従4位下を
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本文徳天皇実録』元慶3年(879年)完成 選者:藤原基経/校訂者:松下見林 刊本刊本 ,寛政08年 10冊[旧蔵者]農商務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047714&ID=M2018040912122716848&TYPE=&NO=
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』〈延喜元年(901年)成立〉に記される伝承
寒川神・寒河神(サムカワノカミ)に神階の奉授が記されています
【意訳】
貞観11年(869)11月19日(壬申)の条
授(サズク)に
武蔵国 従4位下 氷川神に 正4位下
相摸国(サガミノクニ)
従4位下 寒川神(サムカワノカミ)に 従4位上
従5位下 有鹿神に 従5位上
元慶8年(884)9月21日(戊寅)の条
授(サズク)に
相摸国(サガミノクニ)
従4位上 寒河神(サムカワノカミ)に 正4位下
淡路国 従5位下 湊口神 久度神に 並びに 従5位上
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
六国史の神階の奉授と 鎌倉時代の吾妻鏡の引用から 相模国の一之宮と記しています
【意訳】
寒川(サムカハ)神社 名神大
続日本後紀
承和13年(846)9月8日(丙午)の条 ・・従5位下
文徳天皇実録
斉衡元年(854)3月14日(戊戌)の条・・従4位下
日本三代実録
貞観11年(869)11月19日(壬申)の条・・従4位上
元慶8年(884)9月21日(戊寅)の条・・正4位下儀式帳 寒川比古命 寒川比女命
和抄 佐無加波(サムカハ)
総風 足軽郡東隈寒川西岸云々
〇鈴木氏云々 神社は一宮の宮山村にあり 御朱印100石
吾妻鏡 一宮 佐河大明神 云々 同書 建久8年7月28日相州一ノ宮百姓云々
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
祭神を八幡大神として
鎌倉時代の吾妻鏡には 一宮 佐河大明神 と記されているとあります
【意訳】
寒川神社 名神大
寒川は 佐無加波(サムカハ)と訓ずべし
和名鈔 郷名部 寒川 仮字上の如し〇祭神 八幡大神 一宮記
〇宮山村に在す 地名記
〇当国 一之宮なり 一宮記
〇式三巻 臨時祭 名神祭285座 中略 相模国 寒川神社一座
〇総国風土記 相模国高座郡 寒川神社 所 祭菊理媛なり 中略 雄略天皇16年9月 初奉 幣帛 古来 侶俗之談莫 詣 熊野多賀 則有 この社 往昔 東奥之俗多詣 この社
〇東鑑12云 建久3年8月9日 早旦 以後 御壺所 御産氣 云々 相模国 神社 仏寺 奉る神馬云々 一宮 佐河大明神神位
続日本後紀
承和13年(846)9月8日(丙午)の条 ・・従5位下
文徳天皇実録
斉衡元年(854)3月14日(戊戌)の条・・従4位下
日本三代実録
貞観11年(869)11月19日(壬申)の条・・従4位上
元慶8年(884)9月21日(戊寅)の条・・正4位下社領 当代 御朱印高 100石
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
社格は國幣中社で ご祭神は 寒川比古命 寒川比女命と記しています
【意訳】
寒川神社 名神大
祭神 寒川比古命 寒川比女命
神位
仁明天皇
承和13年(846)9月8日(丙午)の条 ・・従5位下
文徳天皇
斉衡元年(854)3月14日(戊戌)の条・・従4位下
清和天皇
貞観11年(869)11月19日(壬申)の条・・従4位上
陽成天皇
元慶8年(884)9月21日(戊寅)の条・・正4位下祭日 5月5日
社格 國幣中社
所在 宮山村(高座郡 寒川村 大字 宮山)
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』1 『特選神名牒』2
寒川神社(Samukawa Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)