泊神社(新島村式根島)〈『延喜式』久爾都比咩命神社〉

泊神社(とまりじんじゃ)は 天然の良港 泊浦に鎮座 祭神 泊御途口大后明神(とまりみとのくち おほきさきみょうじん)を祀ります 『三宅記』に「あたら島〈新島〉に置來らせ みちのくの大后」とあり 『延喜式』に載る 伊豆國賀茂郡 久爾都比咩命神社(くにつひめのみことの かみのやしろ)とされます

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name)】

泊神社(Tomari shrine

【通称名(Common name)】

【鎮座地 (Location) 】

東京都新島村式根島80-2

【地 図 (Google Map)】

【御祭神 (God's name to pray)】

《主祭神
 泊御途口大后明神(とまりみとのくち おきさきみょうじん)久爾都比咩命

合祀神明治45年合併合祀
 野伏若御子明神(のぶしわかみこみょうじん)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創 建 (Beginning of history)】

泊神社

 この神社は、七島の開祖神、事代主命の后神で久爾都比咩命(くにつひめのみこと)を祀ってあり、泊御途日大后明神と称し、住占より式根島泊浦に鎮座する式内の古社である。

 貞亨年(一六八七)社殿を造営し、その後 元禄年(一六九三)、文化年(一八一三)、嘉永年(一八五一)に再建している。

 明治四十五月、野伏若御子明神(のぶしわかみこみょうじん)を合祀し、現在地へ転社新造営をして、さらに昭和二十八年には、社名を泊神社と改めた。昭和三十五年以降は、拝殿の大修理、社務所の改築、神楽殿の新築、境内整備、また末社大王神社の新築を完成し、神社の形態を整えた。

 これより北方に御池(みいけ)、泊御途口など、神話に語られる広大な神域かある、十一月八日が例大祭で、古来より村の鎮守として親しまれている。
新島村教育委員会

現地案内板より

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由緒

 往古より式根島字泊浦に鎮座。貞享4年社殿造営、その後 元禄6年、文化10年、嘉平4年再建、更に明治39年、昭和43年社殿再建、境内整備。

明治45年、野伏若郷明神を合併合祀する。祭神、泊御途口大后明神(久爾都比咩命)式内社。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【由 緒 (History)】

泊神社 とまりじんじゃ

伊豆七島の開祖神である事代主命(ことしろぬしのかみ)の后神、久爾都比(くにつひめの)命を祀った、島内で一番大きな神社。

1687年に造営されたが、途中何回かの再建を経た後、明治45年 に他の神様を合祀し、現在の場所に移転した。

「泊神社」という名前が使われるようになったのは昭和28年からで、昭和35年以降拝殿の修理や神楽殿の新築 などを順次行い、現在のような形態に整備された。

毎年11月8日が例大祭となっている。

一般社団法人 式根島観光協会HPより
https://shikinejima.tokyo/learn/historic/historic_place/1062/

『伊豆七島志』巻上(1901年)に記される内容

泊神社明治45年合併合祀〉された「野伏若御子ノ神社」についても 記されています (現 野伏港)野伏浦神山に〔社域一千二百坪 官有地〕とあり 大きな敷地を有していた事がわかります

【抜粋意訳】

新島 神祠

泊途ノ口(トマリ ミチノクチ)大后神社〔〇泊大后明神〕

式根嶼(シマ)泊浦 鎮座

 祭神 久爾都比咩命ナル可シ

 式内 久爾都比咩命神社なる可し 三宅記に 三島ノ神 諸島に 后神を置給ふ事を記して 新島には「ミチノクチノ御門(ミト)ノ大后」を置き参らすとあるは 蓋 此 比咩神ならむ 本社もと社殿なくして拜破華表のみ建てりしに 貞享四年始て祠宇を設けたり 海島の旧社 此類多し〔社域一千八百坪 官有地〕

野伏若御子ノ神社〔〇野伏明神〕

式根嶼(シマ)野伏浦 神山

 鎮座 祭神不祥

〔社域一千二百坪 官有地〕

【原文参照】

秋山章, 萩原正夫 纂輯『伊豆七島志』巻上,萩原正夫,1901. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991431

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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】

泊神社 社殿

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・二の鳥居

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・御神楽殿

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・手水舎

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・境内

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・参道

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・境内入口 鳥居

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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・〈境外末社〉大王神社

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称

・『日本書紀』養老4年(720)完成
『續日本紀』延暦16年(797)完成
『日本後紀』承和7年(840)完成
『續日本後紀』貞観11年(869)完成
『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
『日本三代實録』延喜元年(901)完成

〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆國 92座(大5座・小87座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)

[名神大 大 小] 式内

[旧 神社 名称 ] 久爾都比咩命神社
[ふ り が な ](くにつひめのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Kunitsuhime no mikoto no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『三宅記(miyakeki)』に記される「伊豆諸島の命名・各后と御子」の伝承

〈『三宅記』は 原本は鎌倉時代末期に完成したと見られています〉

三島大明神によって 焼き出された伊豆諸島 各々の島の命名 又 三島大明神によって 各々の島に置かれたとする「后(きさき)」と その「王子(みこ)」の名が記されています

【抜粋意訳】

三島大明神〔三嶋大社の祭神〕は 考安天皇の二十一年に島を焼き始めました

・・・
・・・

明神は この島々に名前を付けられた

一番の島を はじめの嶋(はしめの嶋)〈初島〉と名付けて この島にタミの種を植えた
二番の島を 島々の中に焼き出した そこに神達が集まり 島々を焼き出す話しをしたので 神あつめ嶋〈神津島〉と名付けた

三番の島を 大きい島なので大嶋〈大島〉と名付けた

四番の島は 潮の泡を集め焼いた島の色が白かったので あたら嶋〈新島〉と名付けた
五番の島をば 家が三つ並ぶ様子に似ており 三宅嶋〈三宅島〉 と名付けた
六番の島をば 明神の倉にすると作り 御倉嶋〈御蔵島〉と名付けた
七番の島を はるかな澳にあるので 澳の嶋〈沖の島(八丈島)〉と名付けた
八番の島をば 小嶋〈八丈小島〉 と名付けた
九番の島をば 嶋の姿が王の鼻に似ており わ(お)うこ嶋〈青ヶ島〉と名付けた
十番の島をば としま〈利島〉と名付けた

大明神は この島に通って遊ばれた 中でも 大嶋 三宅嶋 あたら嶋 の三所に 常におられました

さもあらんと 三宅嶋〈三宅島〉に宮造りをされて大明神と申された

そして見目(みるめ)〔火戸寄神社の祭神〕と若宮(わかみや)〔若宮神社の祭神〕に申された
「后を作ろう 島々に一人ずつ置くとしよう」

見目と若宮は 申し上げて「天竺の「大明神のご子息の母御前〕はいかがですか」
「それは父の王の妻 できない 」

「それでは」と見目と若宮は出かけた どういう方かはわからぬが 五人の后を伴い 帰ってきたので
大明神は 大いに喜悦された

一人を 大嶋〈大島〉に置かれ その后の御名を はふの太后 と名づけた波布比咩命神社の祭神
その御腹に 王子が二人あって
一人は 太郎の王子 おほひ所 と名付けた大宮神社の祭神
一人は 次郎の王子 すくない所 と名付けた波治加麻神社の祭神

また 一人の后をば あたら島〈新島〉に置來らせ みちのくの大后 と申された〔泊神社の御祭神〕
その御腹に 王子が二人あって
一人を 大宮の王子 〔大三王子神社の祭神〕
一人を 第三乃(ていさん)王子と申した〔大三王子神社相殿の祭神〕
この二人の王子には 剣の御子 を添わせた差出神社の祭神

神あつめの嶋〈神津島〉におさまる后の御名は 長濱の御前 と申し〔阿波命神社の祭神〕
その御腹に 王子が二人あって
一人をば たたなひ 〔物忌奈命神社の祭神〕
一人をば たふたい と申した〔日向神社の祭神〕
この王子には 天竺から来た左大臣を付け置かれた 名前をば ぬく嶋の大別当 と申された その女房を ふとおまゑ(仏御前) と申した

又 三宅嶋〈三宅島〉に置かれた后の名をば 天笠いま后 と申し〔富賀神社の祭神〕
その御腹に 王子が二人あって
一人をば あん祢ひこ(安寧子) 〔飯王子神社の祭神〕
一人をば まん祢いこ(満寧子)と申した〔酒王子神社の祭神〕

又 澳の嶋〈沖の島(八丈島)〉に置かれた后をば いなはゑ と申し〔優婆夷宝明神社の祭神〕
その御腹に 王子が五人あって
その后が亡くなると 長男と次男は手に手を取り合って思い死に終り 石となり おとあにの御子 として立っておられる
あと二人は まだ幼い頃に亡くなってしまった
それで 五郎の王子のみが 澳の嶋〈沖の島(八丈島)〉におられます〔優婆夷宝明神社の祭神〕

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ 『三宅記』鎌倉時代末期 [書誌事項]写本 ,明治04年[旧蔵者]教部省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F1000000000000040542&ID=&LANG=default&GID=&NO=&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf&CN=1画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ 『三宅記』鎌倉時代末期 [書誌事項]写本 ,明治04年[旧蔵者]教部省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F1000000000000040542&ID=&LANG=default&GID=&NO=&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf&CN=1画像利用

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国立公文書館デジタルアーカイブ 『三宅記』鎌倉時代末期 [書誌事項]写本 ,明治04年[旧蔵者]教部省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F1000000000000040542&ID=&LANG=default&GID=&NO=&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf&CN=1画像利用

式根島の歴史について

神話ではなく 考古学上の歴史では 14000年前頃 式根島火山が噴火して 島となる

約8500年前の縄文時代早期に 神津島の黒曜石を求めて縄文人が丸木舟で到来して 住み着いたことが 島内に点在する遺跡で多数確認されています
遺跡からは 海獣葡萄鏡をはじめ 祭祀に用いる須恵器などが発掘されています

中世以降は 真水が得られなかったことから 江戸時代まで定住者は居なかった

明治時代の明治21年(1888)に式根島への定住が行われて 以降 開発が行われるようになっていきました

泊神社(新島村式根島の周囲に集落が無く 氏神様の廻りに人々がいないことが不思議でしたが 理解できました

新島と式根島の地続きであったとする説について

江戸時代の元禄大地震(1703年)の大津波によって新島から分離されたという説があります

この説では 元々は新島と式根島は 一つの島であったとするもので 『三宅記』の一説とも一致する内容です

 一人の后をば あたら島〈新島〉に置來らせ みちのくの大后 と申された〔泊神社の御祭神〕
その御腹に 王子が二人あって
一人を 大宮の王子 〔大三王子神社の祭神〕
一人を 第三乃(ていさん)王子と申した〔大三王子神社相殿の祭神〕
この二人の王子には 剣の御子 を添わせた〔差出神社の祭神〕

ただし、ウキペディアによれば
「しかし、前年の1702年に作成された古地図(新島村博物館所蔵)には新島と鋪根島(式根島)がはっきり分かれて描かれている(新島村編纂の「式根島開島百年史」にも同様の記述がある)逆に元禄大地震で両島が分離されたことを記した古文書は現在まで見つかっておらず、元禄大津波が原因で新島と式根島が分離されたと断定することはできない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%8F%E6%A0%B9%E5%B3%B6

とあります

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

新島の黒根港をジェット船で出航すると15分ほどで式根島に着きます

出港してすぐに地内島と大平島があります

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すると大平島の岩礁辺りで 式根島から出港した東海汽船の「さるびあ丸」と行き交います

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すぐに式根島に到着します

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野伏港に入港

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ジェット船は湾内に接岸します

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大型のさるびあ丸等は外海側に接岸します

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式根島 野伏港の東海汽船乗降口から野伏港の防波堤を進むと野伏港内にある東海汽船の発券所 兼 待合室があります
ちょうど 目指す泊神社は この建物の裏手の山上に鎮座しています

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式根島の主要道路 都道237号があり 右方向 泊海岸の方向へ上って行きます
距離は750m程ですが 上っているので15分~20分程度か

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対岸は新島 野伏港のコンテナ置き場を過ぎていきます

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港から少し上がった辺り 見えている島は「新島」 右手の小さな島は「早島」です

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海水は透明で綺麗です

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都道237号を進みます

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坂を上り切った感じで 道は平坦な感じです

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坂上からはすぐに 鳥居が建っている社頭に着きました

泊神社(新島村式根島に参着

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港から坂道を上がり 上がり切ると直ぐです
今来た道です

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泊神社の案内板です

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一礼をしてから鳥居をくぐり抜けて境内へ進みます

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参道をすすむと 境内広場の手前に 祭時などに幟旗をたてる足場だろうと想います

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向って左手に手水舎があります

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境内の広場の正面には 西を向いて御神楽殿
北を向いて 二の鳥居が建ちます

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二の鳥居に向います

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一礼をして 二の鳥居をくぐり

殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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境内には 境内社は祀られていません

しかし 玉垣に囲まれている本殿の建つ神域には 四隅に「石」が祀られています

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社殿に一礼をして 境内広場へと戻ります

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境内広場から参道へと戻ります

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鳥居を抜けて 都道237号へ出ます

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この島には 約8500年前の縄文時代早期に 神津島の黒曜石を求めて縄文人が丸木舟で到来して 住み着いたことが 島内に点在する遺跡で多数確認されていて すぐ傍に「吹之江遺跡」もあり 海獣葡萄鏡をはじめ 祭祀に用いる須恵器などが発掘されています

中世以降は 真水が得られなかったことから 江戸時代まで定住者は居なかったらしく 明治時代の明治21年(1888)に式根島への定住が行われて 以降 開発が行われるようになっていったとのことで 泊神社(新島村式根島の周囲に集落が無く 氏神様の廻りに人々がいないことが不思議でしたが 理解できました

そんなことを考えながら都道237号を下りながら 港に向います

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行きは気にしなかったのですが 泊海岸とあり 駐車スペースなどもあり 整備された空間に立ち寄りました

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式根島の北部 深い入り江で外海の影響を受けにくい泊浦は 昔 風待ちの港だったとのこと

古には 貴重な風邪除け港だったと思います

泊浦の形が 口をすぼめたような形で 祭神名 泊御途口大后明神(とまりみとのくち おきさきみょうじん)久爾都比咩命と呼ばれた訳が良くわかります

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名勝 泊浦

 神話のなかや、出土する遺物で、この入江は古くから利用されたと推測されます。江戸時代、三宅島や八丈島へ向かう御用船や廻船などは、中の浦やこの泊浦などで風待ちをしました。近くにある帆縫原(ほぬいばら)は、当時、帆の修理をした場所だと言われています。

 慶長5年(1600)、関が原の合戦で西軍の敗将、宇喜多秀家は、八丈島へ流罪となりましたがその時この浦で、幾日か風待ちをしました。左側の山は、当時、風向きや海の様子など日和を見る場所として使われ、今も、「物見処(もろみど)」の地名が残っています。

 明治以降も千葉、神奈川、静岡等、近県の漁船が避難港として、多く利用されてきましたが、このことが無人の島だった式根島の開島を早めることになり、ついに明治21年(1888) 新島から4戸8名が式根島に移住することになりました。

 明治42年(1909)には、農商務省の補助で、日本最初の漁港整備工事が完了しましたが当時の「なまこ型」桟橋や、石張りの船揚場の一部が今も見ることができます。

新島村教育委員会

現地案内板より

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この泊浦は「海の綺麗ランキング日本一」に選ばれた海水浴場とのこと

日付は6/30 駐車場から海岸を見下ろすと 水遊びしている家族がいました

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野伏港へと都道を下っていくと

港には神新汽船 あぜりあ丸が着岸していました

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野伏港に戻ってきました

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ところで 泊神社明治45年合併合祀〉された「野伏若御子ノ神社」について (現 野伏港)野伏浦神山に〔社域一千二百坪 官有地〕とあり 伝わっています

神山とは何れの山か わかりませんが 周囲を見渡すと 異様な神秘性を感じさせる港に面したこの山でしょうか?

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外海を見ると 新島があります
本日は 利島はうっすらとしか見えていません

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神津島からの 帰りのジェット船が新島との間に見えてきました

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 久爾都比咩命神社について 所在は在所詳ならず゛〈所在は不明〉と記しています

【抜粋意訳】

久爾都比咩命神社

久爾都比咩は字也

〇祭神明か也

〇在所詳ならず

連胤按るに、伊豫國風早郡 國津比古命神社あり、共に三島の裔神なるべし、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 久爾都比咩命神社について 所在は゛今 新島の式根島にあり、泊大明神と云、゛〈現 泊神社(新島村式根島〉と記しています

【抜粋意訳】

久爾都比咩命(クニツヒメノミコトノ)神社

 新島の式根島にあり、泊大明神と云、〔伊豆式社考證〕

久爾都比咩命を祀る、〔延喜式〕美知能久能御門能大后と申す、蓋 三島神の后神也、〔三宅記〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 久爾都比咩命神社について 所在は゛(伊豆國 新島属 式根島) 新島之内 式根島゛〈現 泊神社(新島村式根島〉と記しています

【抜粋意訳】

久爾都比咩命神社  泊大明神

祭神 久爾都比咩命

 今按 此神は三宅記に三島大神 島々に后神を置玉ふ事を記して 新島に置給ふをば みちのくちの御門の大后 とぞけるとみえて 三島大后神にます事明か也 さて みちのくちのクチは 久爾都音相近きを以て同神なること知られたり 社攷證に久留都は地名より起りたると聞ゆるが 後に訛り 久知となり久知の御門などの稱は起こりたるかと思はれ 亦 此地は所謂 泊とも門とも云 嶴(しょうおう)なるが奇左右に壁立して海は狭窄なるより 口津の意にて久知とも久津とも通はし云るには 非じかと云も由あり 附て後考に

祭日 四月八月十一月十八日

社格 (無格社)

所在 (伊豆 新 式根島) 新島之 式根島

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

泊神社(新島村式根島 (hai)」(90度のお辞儀)

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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