月山神社(つきやまじんじゃ)は 以前は月山大権現と称し下大畑の龍光寺〈現 亘理町立吉田小学校の地〉に祀られていた 文久元年(1861)6月に現社内に移転し 明治2年(1869)月山神社と改称 明治43年2月 作田の民有地に祀られていた小祠の鹿島社〈延喜式内社 鹿島伊都乃比気神社の論社〉と八幡神社を合併奉祀し現在に至ります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
月山神社(Tsukiyama shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
宮城県亘理郡亘理町吉田字作田98
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》月讀命(つきよみのみこと)
《配》鹿島伊都乃比気神社の御祭神
八幡神社の御祭神
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社〈合祀の鹿島社〉
【創 建 (Beginning of history)】
社伝によれば
勧請の年代は定かではない明治2年月山神社と改称し
明治43年2月 延喜式内社 鹿島伊都乃比気神社及び八幡神社を合併奉祀し現在に至る
【由 緒 (History)】
由緒
勧請の年代は定かではないが、以前は月山大権現と称し下大畑の龍光寺に祀られていたが、文久元年6月に現社内に移転して、明治2年月山神社と改称した。
明治6年1月村社に列せられ、同43年2月 延喜式内社、鹿島伊都乃比気神社及び八幡神社を合併奉祀し現在に至る。
本殿は、流造である。現存されている奉納品の鰐口には「宝暦8年」と記銘され、また昭和46年7月の本殿解体新築の折には、蟇股に「文化十一年云々」と奥書されていた。戦時中はお百度参りで郡内外からの参拝者もあったが、終戦後は神輿の渡御は勿論暁参り等も半減している。宮城県神社庁HPより
鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)社伝や宮司の話
社伝や宮司の話によれば、
鹿島天足和気神社の相殿神として鹿島緒名太神社と鹿島伊都乃比気神社を合祀しているのは、日本武尊が三門山に鹿島天足和気神社を創建した 当時は三座を一社にまとめていたためということである。
その後、鹿島天足和気神社は 平安時代に北鹿島地区に遷座し、江戸時代に現在の鎮座地へと再遷座した。
他の二社もそれぞれ、鹿島緒名太神社は 逢隈地区小山へ、鹿島伊都乃比気神社は 吉田地区作田へと遷座したという。by ウィキペディア
【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)は 合祀した鹿島社が
式内社 陸奥国 曰理郡 4座(並小)の内 鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)の論社になっています
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)曰理郡 4座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 鹿嶋伊都乃比氣神社
[ふ り が な ](かしまいつのひけの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kashima Itsunohike no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
香取・鹿島の御子神(みこがみ)〈苗裔神(びょうえいしん)〉について
古代の日本は 尾張より東は東国で蝦夷の住む処でした 東へ拡大する大和朝廷の歴史は 東国の蝦夷との軋轢の歴史でもあります
関東地方まで勢力を伸ばした大和朝廷は 奈良時代頃~平安初期頃までには 奥州の制圧を目指し 蝦夷(えみし)征伐や移民政策を推し進め 古代日本の中央集権体制を目指しました
このことから東北地方平定には「軍神」として 御神威のある香取・鹿島の神を奉じて 蝦夷征討軍が派遣されました
香取・鹿島の地は 東国〈関東〉の水上交通の拠点とされ 霞ヶ浦〈鹿島・香取の海〉から奥州〈東北地方〉開拓へ 太平洋海上を北へと遡っていったものと考えられています
こうして 香取神宮・鹿島神宮の苗裔神(びょうえいしん)〈御子神(みこがみ)〉が 奥州開拓の拠点として 太平洋沿岸地域および阿武隈川・旧北上川などの大河川の支流域の各地に祀られていきました
平安時代中期の『延喜式神名帳927 AD.』に記載 奥州〈東北地方〉の 香取神宮・鹿島神宮の分祀と考えられる神社
大和国の東の涯(はて)に鎮座した香取・鹿島の2神宮は 古来より大和王権との繋がりが深く 平安時代中期の『延喜式神名帳927 AD.』には 伊勢・香取・鹿島の3神のみが“神宮”と記載されるほどの高い神威を誇りました
その御神威を背景として 奥州〈東北地方〉制圧が行なわれていったのでしょう 香取神宮・鹿島神宮の分祀〈苗裔神を祀るこれらの分社〉は 蝦夷征討軍によって分祀されたものと考えられています
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『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国〈香取苗裔神〉式内社2社の論社
〈本宮〉 香取神宮(名神大 月次 新嘗)(かとりの かむのみや)
・香取神宮(香取市)下総国一之宮
牡鹿郡(をしかの こおり)香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)
・香取伊豆乃御子神社(石巻市折浜竹沢)
・和渕神社(石巻市和渕町)
栗原郡(くりはらの こおり)香取御兒神社(かとりみこ かみのやしろ)
・香取御児神社〈旧鎮座地〉(栗原市築館久伝)
・香取御児神社〈鹿島神社に合祀〉(栗原市築館黒瀬後畑)
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『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国〈鹿島苗裔神〉式内社8社の論社
〈本宮〉 鹿島神宮(名神大 月次 新嘗)(かしまの かむのみや)
・鹿島神宮(鹿嶋市)常陸国一之宮
黒川郡 鹿島天足別神社(貞)(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
・・鹿島天足別神社(富谷市大亀)
曰理郡 鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)
・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)
・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
・月山神社(亘理町吉田作田)
〈亘理町吉田字作田に鎮座の鹿島社を合祀〉
曰理郡 鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)
・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
曰理郡 鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
・八雲神社(亘理町)
〈鹿島天足和気神社の旧鎮座地三門山に祀られていた石祠が境内に祀られている〉
信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)
・鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑)
・鹿島神社(福島市小田鹿島山)
・鹿島神社(福島市岡島竹ノ内)
・鹿島神社(伊達郡国見町藤田町尻二)
磐城郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)
・鹿島神社(いわき市常磐上矢田町)
牡鹿郡 鹿嶋御兒神社(かしまのみこの かみのやしろ)
・鹿島御児神社(石巻市日和が丘)
行方郡 鹿嶋御子神社(かしまみこの かみのやしろ)
・鹿島御子神社(南相馬市鹿島区鹿島町)
・鹿島御子神社旧蹟碑(南相馬市鹿島区鹿島町)
『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922〈国立研究開発法人 科学技術振興機構〉に 記される 苗裔神(びょうえいしん)について
悪路王(あくろおう)とは 鎌倉時代に記された東国社会の伝承に登場する陸奥国の〈実在とも伝説上とも〉人物とされます
別名として 悪来王 悪毒王 阿久留王などとも記されています
鎌倉時代以降の 鹿島神宮や鎌倉幕府など東国社会の文献に 名前が登場し『鹿島神宮文書』では「悪来王」が藤原頼経によって討たれたと記され
『吾妻鏡』では「悪路王」は蝦夷(えみし)の賊首で 赤頭とともに坂上田村麻呂と藤原利仁によって征伐されたと記されます
文中に「常陸の鹿島郡 鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實と 下総香取大神と並び 苗裔の諸神多く奥州に祀らるる〈38社〉」と 三代実録 貞観八年正月の条を紹介し 現在〈1922〉は その陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず と記されています
【抜粋意訳】
常陸の鹿島郡に鎮まります鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實なりとす。言ふを要せず、神代の時 荒振神たちをことむけたまひし 縁由ある鹿島大神は中古 征夷の陸奥に邁進せらるるに伴ひて 其の神威を此方面に被及し 其の同功 一體の徳を伝ふる
下総香取大神と並び、苗裔の諸神多く奥州に祀らるるに至り「貞観八年正月 鹿島神宮宮司の奏詞に大神苗裔の神 陸奥に在る者三十八社 弘仁以来幣を奉らざるを以て神崇大に著はる」との事、三代実録に見ゆ。
(所謂 陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず。延喜式神名帳に見ゆる 黒川郡 鹿島天足別(カシマアマタラシワケノ)神社・亘理郡 鹿島伊都乃比氣(カシマイツノヒケノ)神社・同郡 鹿島緒名太(カシマヲナタノ)神社・同郡 鹿島天足和氣(カシマアマタラシワケノ)神社・信夫郡 鹿島神社・磐城郡 鹿島神社・牡鹿郡 鹿島御兒(カシマミコノ)神社・行方郡 鹿島御子(カシマミコノ)神社は正さしく其の一部なるべく
又 香取大神の苗裔と認むべきは 牡鹿郡 香取伊豆乃御子(カトリイツノミコノ)神社・栗原郡 香取御兒(カトリミコノ)神社とす)祭頭祭に就きて新編常陸國志補に曰く・・・・・・・・
【原文参照】
『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922〈国立研究開発法人 科学技術振興機構〉より
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR常磐線 浜吉田駅から西へ約5.3km 車10分程度
常磐自動車道 山元ICからR6号を北上 約5km 車8分程度
R6号を仙台岩沼方面へ暫らく進み 左折〈西〉の山並みにある作田地区に向かいます
果実園の坂道を上って行くと 猪or鹿 獣除けの柵で一般車両は進めなさそうなので こちらで駐車 振り返ると 吉田から太平洋までが見渡せます
道路を歩いて進むとすぐに右側に東南を向いて鳥居が建っています
鳥居の上に太陽があり 中々良い気持ちで 鳥居に一礼をして進みます
しかし 月山神社なので 月読神を祀るので 太陽で良かったのか?とか思いながら進みます
月山神社(亘理町吉田作田)に参着
鳥居の横の案内板には 黒森山入口とあるので 鎮座する山は 黒森山と呼ばれているようです
鳥居扁額には「月山神社」(つきやまじんじゃ)と読みます 月山信仰(がっさんしんこう)ではあると想います
すぐ先には 沢に橋が架かりますので 他の道からは行けないのでしょう
参道の草などはなく 綺麗な参道です しかし私の頭の中には 先程の獣除けの柵が頭をよぎっています 日も傾いていて 猪やらの群れが出てくる もしかしたら熊がとか 勝手に気になっています
木が伐採された広々とした空間が現れ 獣の不安は消えて参道を進みます 振り返ると 美しい景色でしばらく見とれます
参道は再び 杉林の中へと通じています
参道の先に 拝殿が見えてきました
何とも神聖な雰囲気が漂う空間でした
進むと 社殿の奥に沈めかけている夕日がありました
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
文久元年(1861)6月に現社内に遷座とありますので 江戸時代からこの地に鎮座する 月神と合祀される式内社 鹿島伊都乃比気神社の神 八幡神の祀られる社殿に一礼をして参道を戻ります
先程の木が伐採された箇所に戻ってきます 古代から 海の幸 山の幸に恵まれた豊かな土地であろうと 想いを巡らせながら 参道を下ります
鳥居まで戻ってきました そういえば帰りは獣がいるかと不安もなく怖くなかった
鳥居を抜けて 振り返り一礼をして 車まで戻ります
車に戻ると農作業をされていた里人が珍しそうに 私を見ていたので
式内社の参拝に訪れた旨を話すと 笑顔で ご苦労様です と答えて頂き
明治43年2月に合祀された〈延喜式内社 鹿島伊都乃比気神社の論社〉は 作田の里人の土地に祀られていた小祠であったが 延喜式内社の小祠として 合祀されたようだと伝え聞いていると話しておられました
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 鹿島伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)
式内社 鹿島緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
式内社 鹿島天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
この三社の所在について 鹿島村〈現 鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)〉と記しています
【抜粋意訳】
鹿島伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)
鹿島は 加志麻と訓べし 伊都乃比氣は假字なり
〇祭神明らかなり 鹿島の斎神なるべし
〇鹿島村に在す 参拝記鹿島緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
鹿島は前に同じ 緒名太は假字なり
〇祭神明らかなり 鹿島の斎神なるべし
〇在所前に同じ鹿島天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
鹿島は前に同じ 天足は阿麻多良志と訓べし、和氣は假字なり
〇祭神明らかなり 鹿島の斎神なるべし
〇鹿島村に在す 参拝記〇当国 黒川郡 鹿島天足別神社もあり
雑事
朝野群載云、康和五年(1103)六月十日、奏亀卜、御體御卜、中略 坐ニ陸奥國 島天足別神社、云々、社司等依過穢神事祟給、遣使料中祓 可令祓清奉仕事、下略 宮主従五位下 行少祐卜部宿祢兼良、中臣従五位上・・・・
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 鹿島伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)
式内社 鹿島緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
この両社の所在について 小山村〈現 鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)〉と記しています
式内社 鹿島天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
の所在について 鹿島村〈現 鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)〉と記しています
【抜粋意訳】
鹿島伊都乃比氣神社
祭神 建御雷神
祭日 三月二十八日
社格 村社
所在 小山村 〇今称 磐城國(亘理郡逢隈村 大字小山)鹿島緒名太神社
社格 村社
所在 小山村 鹿島伊都乃比氣神社同殿
〇今称 磐城國(亘理郡逢隈村 大字小山)鹿島天足和氣神社
祭日 四月六日至八日
社格 郷社
所在 鹿島村
〇今称 磐城國(亘理郡逢隈村 大字鹿島)
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 鹿島伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)の所在について 小山村〈現 鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)〉と記しています
式内社 鹿島緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
鹿島天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
の所在について 鹿島村〈現 鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)〉と記しています
ある説として「鹿島苗裔神、本郡に一社にして、延喜式四座を記し」と紹介していて 鹿島三社は 三座で一社である との説を取り上げています
【抜粋意訳】
鹿島伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)
今、小山村鹿島山に在り、
伊都乃比氣神を祀る、蓋 鹿島大神 苗裔の神なり 三代実録 延喜式鹿島緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
今、鹿島村にあり、鹿島大明神と云ふ、
緒名太神を祭る、蓋 鹿島大神 苗裔の神なり 三代実録 延喜式鹿島天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
今、鹿島村にあり、
天足和氣神を祭る、蓋 鹿島大神 苗裔の神なり 三代実録
〇按 本書載する所 鹿島苗裔神、本郡に一社にして、延喜式四座を記し、磐城郡十一座にして、式に鹿島神社一座を挙るかの如き、彼比異同あるものは、郡境の分合に古今の別あり、三十八社 苗裔の神にも、又 式内式外の差あるを以たり、姑附て後考を俟つ凡 毎年四月六日、鹿島祭、七日 禍神鎮、八日 鳥屋崎神幸の祭を行ふ
【原文参照】
月山神社(亘理町吉田作田)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)