鹿島御子神社旧蹟(かしまみこじんじゃ きゅうせき)は 大同元年(西暦806)に現在の社地に社殿を造営し遷座するまでの旧鎮座地です 社伝に「日本武尊命御東征の時 此の鹿島御子神社に武運長久の祈願ありて、其の霊験に依り、乱臣賊子は速やかに征服し得て、其后益々 御子神社は特に軍神として武人崇敬の神となれり」とあるのはこの旧蹟地になります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
鹿島御子神社旧蹟(Old ruins of Kashima Miko Shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
福島県南相馬市鹿島区鹿島町158
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の旧鎮座地
【創 建 (Beginning of history)】
社伝に「日本武尊命御東征の時 此の鹿島御子神社に武運長久の祈願ありて、其の霊験に依り、乱臣賊子は速やかに征服し得て、其后益々 御子神社は特に軍神として武人崇敬の神となれり」とあるのはこの地になります
【由 緒 (History)】
鹿島御子神社 由緒
延喜式内
畏くも畏き当神社御祭神天足別命は常陸の鹿島神宮の御祭神武甕槌命の御子神にして常陸鹿島神宮の苗裔なるを以て此の地を鹿島と謂い、当神社を鹿島御子神社と称す所以此處に在り。
天足別命は往時 武甕槌命、経津主命と共に邪気を討攘せる神にして 特に奥州は僻遠の地なれば邪気再び起こらん事を慮り奥州の討攘に専念せし神なり。
第12代景行天皇の御宇 日本武尊命御東征の時 此の鹿島御子神社に武運長久の祈願ありて、其の霊験に依り、乱臣賊子は速やかに征服し得て、其后益々 御子神社は特に軍神として武人崇敬の神となれり。
第51代平城天皇の御宇 大同元年(西暦806)当今の社地に社殿を造営し、当地社僧神官等多数ありて神領17石を有し、常陸の鹿島神宮より年々幣帛を領されたという。
第60代醍醐天皇の御宇 延喜5年(西暦905)当時軍神、鎮火神、医術の神として崇敬者多く、由緒深きを嘉せられ且つ当時大社として神社界の中枢として活動するところの延喜式内社に列せられた。醍醐天皇自ら武運長久を祈願し、御神体を式内社たる当神社に納められ、磐城国行方郡における延喜式内社の中の一社として現在に至っている。
又 其后 年は移り変わりて社殿は改変せられ今日に至も天暦5年の御棟札(これに準ずるもの数体)並びに樹齢1000余年の御神木大欅2本(福島県緑の文化財指定)が現存するを以て其の由緒古きを伺うことができる。
特殊神事
鎮火祭-正月14~15日
御祭神天足別命が鹿島の稚児沼に仮宮された時、此の地方に大六天魔王という賊徒が横行していた。或る朝未明 賊徒が命の仮宮を襲い火を放った、命は直ちに「火伏せの神事」を以て四方八方に拡がった猛火を鎮めた。其の時、鹿島の大神のお使いである鹿が多数現われ、川より濡れた笹を銜えて仮宮を潤し火の再発を防いだという。その後命の御神徳に依りて賊徒横行することがなくなり安泰な日が続いたと謂う。
現在は古事に因み、正月14日夜、神霊神水を町中に奉じる法被姿の若者達の威勢の良い掛け声で「火伏せ祭り」が始まり、翌朝未明御神歌と共に神楽を奏し、高々と天燈籠を掲げ旧社地に至りて神事を行いその後、沿道の氏子有志が神官に浄水を掛けて祝う。神官は衣冠氷結のまま社殿に上がり、天下の罪穢を祓い氏子の1年の全ての祈願を斎行する奇祭である。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・現在の鎮座地
・鹿島御子神社(南相馬市鹿島区鹿島町)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)行方郡 8座(大1座・小7座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 鹿嶋御子神社
[ふ り が な ](かしまみこの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kashima no miko kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
香取・鹿島の御子神(みこがみ)〈苗裔神(びょうえいしん)〉について
古代の日本は 尾張より東は東国で蝦夷の住む処でした 東へ拡大する大和朝廷の歴史は 東国の蝦夷との軋轢の歴史でもあります
関東地方まで勢力を伸ばした大和朝廷は 奈良時代頃~平安初期頃までには 奥州の制圧を目指し 蝦夷(えみし)征伐や移民政策を推し進め 古代日本の中央集権体制を目指しました
このことから東北地方平定には「軍神」として 御神威のある香取・鹿島の神を奉じて 蝦夷征討軍が派遣されました
香取・鹿島の地は 東国〈関東〉の水上交通の拠点とされ 霞ヶ浦〈鹿島・香取の海〉から奥州〈東北地方〉開拓へ 太平洋海上を北へと遡っていったものと考えられています
こうして 香取神宮・鹿島神宮の苗裔神(びょうえいしん)〈御子神(みこがみ)〉が 奥州開拓の拠点として 太平洋沿岸地域および阿武隈川・旧北上川などの大河川の支流域の各地に祀られていきました
平安時代中期の『延喜式神名帳927 AD.』に記載 奥州〈東北地方〉の 香取神宮・鹿島神宮の分祀と考えられる神社
大和国の東の涯(はて)に鎮座した香取・鹿島の2神宮は 古来より大和王権との繋がりが深く 平安時代中期の『延喜式神名帳927 AD.』には 伊勢・香取・鹿島の3神のみが“神宮”と記載されるほどの高い神威を誇りました
その御神威を背景として 奥州〈東北地方〉制圧が行なわれていったのでしょう 香取神宮・鹿島神宮の分祀〈苗裔神を祀るこれらの分社〉は 蝦夷征討軍によって分祀されたものと考えられています
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『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国〈香取苗裔神〉式内社2社の論社
〈本宮〉 香取神宮(名神大 月次 新嘗)(かとりの かむのみや)
・香取神宮(香取市)下総国一之宮
牡鹿郡(をしかの こおり)香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)
・香取伊豆乃御子神社(石巻市折浜竹沢)
・和渕神社(石巻市和渕町)
栗原郡(くりはらの こおり)香取御兒神社(かとりみこ かみのやしろ)
・香取御児神社〈旧鎮座地〉(栗原市築館久伝)
・香取御児神社〈鹿島神社に合祀〉(栗原市築館黒瀬後畑)
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『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国〈鹿島苗裔神〉式内社8社の論社
〈本宮〉 鹿島神宮(名神大 月次 新嘗)(かしまの かむのみや)
・鹿島神宮(鹿嶋市)常陸国一之宮
黒川郡 鹿島天足別神社(貞)(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
・・鹿島天足別神社(富谷市大亀)
曰理郡 鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)
・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)
・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
・月山神社(亘理町吉田作田)
〈亘理町吉田字作田に鎮座の鹿島社を合祀〉
曰理郡 鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)
・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
曰理郡 鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
・八雲神社(亘理町)
〈鹿島天足和気神社の旧鎮座地三門山に祀られていた石祠が境内に祀られている〉
信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)
・鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑)
・鹿島神社(福島市小田鹿島山)
・鹿島神社(福島市岡島竹ノ内)
・鹿島神社(伊達郡国見町藤田町尻二)
磐城郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)
・鹿島神社(いわき市常磐上矢田町)
牡鹿郡 鹿嶋御兒神社(かしまのみこの かみのやしろ)
・鹿島御児神社(石巻市日和が丘)
行方郡 鹿嶋御子神社(かしまみこの かみのやしろ)
・鹿島御子神社(南相馬市鹿島区鹿島町)
・鹿島御子神社旧蹟碑(南相馬市鹿島区鹿島町)
『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922〈国立研究開発法人 科学技術振興機構〉に 記される 苗裔神(びょうえいしん)について
悪路王(あくろおう)とは 鎌倉時代に記された東国社会の伝承に登場する陸奥国の〈実在とも伝説上とも〉人物とされます
別名として 悪来王 悪毒王 阿久留王などとも記されています
鎌倉時代以降の 鹿島神宮や鎌倉幕府など東国社会の文献に 名前が登場し『鹿島神宮文書』では「悪来王」が藤原頼経によって討たれたと記され
『吾妻鏡』では「悪路王」は蝦夷(えみし)の賊首で 赤頭とともに坂上田村麻呂と藤原利仁によって征伐されたと記されます
文中に「常陸の鹿島郡 鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實と 下総香取大神と並び 苗裔の諸神多く奥州に祀らるる〈38社〉」と 三代実録 貞観八年正月の条を紹介し 現在〈1922〉は その陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず と記されています
【抜粋意訳】
常陸の鹿島郡に鎮まります鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實なりとす。言ふを要せず、神代の時 荒振神たちをことむけたまひし 縁由ある鹿島大神は中古 征夷の陸奥に邁進せらるるに伴ひて 其の神威を此方面に被及し 其の同功 一體の徳を伝ふる
下総香取大神と並び、苗裔の諸神多く奥州に祀らるるに至り「貞観八年正月 鹿島神宮宮司の奏詞に大神苗裔の神 陸奥に在る者三十八社 弘仁以来幣を奉らざるを以て神崇大に著はる」との事、三代実録に見ゆ。
(所謂 陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず。延喜式神名帳に見ゆる 黒川郡 鹿島天足別(カシマアマタラシワケノ)神社・亘理郡 鹿島伊都乃比氣(カシマイツノヒケノ)神社・同郡 鹿島緒名太(カシマヲナタノ)神社・同郡 鹿島天足和氣(カシマアマタラシワケノ)神社・信夫郡 鹿島神社・磐城郡 鹿島神社・牡鹿郡 鹿島御兒(カシマミコノ)神社・行方郡 鹿島御子(カシマミコノ)神社は正さしく其の一部なるべく
又 香取大神の苗裔と認むべきは 牡鹿郡 香取伊豆乃御子(カトリイツノミコノ)神社・栗原郡 香取御兒(カトリミコノ)神社とす)祭頭祭に就きて新編常陸國志補に曰く・・・・・・・・
【原文参照】
『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922〈国立研究開発法人 科学技術振興機構〉より
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
鹿島御子神社(南相馬市鹿島区鹿島町)から 南へ170m 徒歩2分
県道267号沿いに 石碑が立ち「延喜式内 鹿島御子神社旧蹟」と刻されています
鹿島御子神社旧蹟碑(南相馬市鹿島区鹿島町)に参着
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
社伝に「日本武尊命御東征の時 此の鹿島御子神社に武運長久の祈願ありて、其の霊験に依り、乱臣賊子は速やかに征服し得て、其后益々 御子神社は特に軍神として武人崇敬の神となれり」とあるのは この旧蹟地になります
ここ〈現在の鹿島町〉は 太古 大和王権の支配のもとで地域を治めた豪族(首長)が築いた数多くの古墳が残されています 又 製鉄の遺跡〈金沢製鉄(かねざわせいてつ)遺跡群7~9世紀〉〈横大道製鉄(よこだいどうせいてつ)遺跡8~9世紀〉もあり 太平洋から真野川を四キロほど遡った距離で 海運にも適していた 早くから開けたこの平地には 日本武尊命も この地を目指して来たであろうことが推測できます
『万葉集(Manyo shu)〈7世紀前半~759年頃〉』に詠まれる歌「真野(まの)のかや原」について
万葉集に歌われた「真野(まの)のかや原」とは 真野古墳(まのこふん)群周辺のことと云われています
【抜粋意訳】
巻3-396 雑歌 作者 笠女郎(かさのいらつめ)
原文 陸奥之 真野乃草原 雖遠 面影為而 所見云物乎
訓読 陸奥の 真野の草原 遠けども 面影にして 見ゆといふものを
仮名 みちのくの まののかやはら とほけども おもかげにして みゆといふものを
意訳 奥州の真野の草原が あんなに遠くても面影に見えてくると申しますのに
(近くにおいでになる あなたを 恋しく思わないはずはありません)
【原文参照】
鹿島御子神社旧蹟碑(南相馬市鹿島区鹿島町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)