吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)は 備前国一之宮で 備前国と備中国の境界ある吉備の中山(標高175m)の北東麓に東面して坐ます 太古の太陽信仰の形を留める場とされ 夏至の日に正面鳥居から差し込んだ朝陽が 祭文殿の御鏡に入る造りで 太陽を真正面から迎え鎮座するので朝日の宮(あさひのみや)とも称されます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
吉備津彦神社(Kibitsuhiko Shrine)
[通称名(Common name)]
・吉備津宮(きびつのみや)
・朝日の宮(あさひのみや)〈夏至の日 正面鳥居から差し込んだ朝陽が 祭文殿の御鏡に入る造り 故に朝日宮と称す〉
【鎮座地 (Location) 】
岡山県岡山市北区一宮1043
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)
もしくは
・天御中主大神・高御産巣日大神・神御産巣日大神
・天之常立大神・国之常立大神・伊邪那岐大神・伊邪那美大神
・天照皇大御神・月読大神・素戔嗚大神・建日方別大神
・大山津見大神・大国主大神・事代主大神・少彦名大神
・宇迦之御魂大神・天津神・国津神・八百万神
《配》吉備津彦命(きびつひこのみこと)
孝霊天皇(こうれいてんのう)
孝元天皇(こうげんてんのう)
開化天皇(かいかてんのう)
崇神天皇(すじんてんのう)
彦刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)
天足彦國押人命(あまたるひこくにおしひとのみこと)
大倭迹々日百襲比賣命(おおやまとととひももそひめのみこと)
大倭迹々日稚屋比賣命(おおやまとととひわかやひめのみこと)
金山彦大神(かなやまひこのおおかみ)
大山咋大神(おおやまくいのおおかみ)
龍王神
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・家内安全・社運隆昌・商売繁昌 等
【格 式 (Rules of dignity) 】
・備前国一之宮
・別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
御祭神
主神
大吉備津彦命(第7代孝霊天皇の第三皇子・別名 彦五十狭斧彦命(ひこいさせりひこのみこと))
相神
孝霊天皇・孝元天皇・開化天皇・崇神天皇・彦刺肩別命・天足彦国押人命・大倭迹々日百襲比売命・大倭迹々日稚屋比売命・金山彦大神・大山咋大神
由緒
古代より当社背後の吉備の中山には巨大な磐座(神が鎮座する岩)・磐境(神域を示す巨石群)が有り、山全体が神の山として崇敬されてきた。
主祭神は大吉備津彦命。命は四道将軍の一人(西道将軍)として山陽道に遣わされ「温羅(うら)」という鬼神を退治し、吉備国を平定・統治し、現人神として崇められた。御年281歳で薨去され、吉備の中山の南嶺に御陵(茶臼山古墳)を定め葬り奉っている。
仁明天皇承和10年(843)10月24日一品(いっぽん)爵位を贈送され、一品宮とも一品吉備津彦大明神とも呼ばれ、吉備国が備前・備中・備後・美作に別れると備前国一宮として崇敬された。
当社(備前国一宮 岡山市北区一宮 吉備津彦神社)
(備中国一宮 岡山市北区吉備津 吉備津神社 )
(備後国一宮 広島県福山市新市町 吉備津神社 )
中世には武家や庶民の信仰が厚かったが、日蓮宗への改宗を迫る金川城主の松田左近将監によって社殿がことごとく焼かれた。江戸時代に入ると岡山藩主池田氏は崇敬厚く、延宝5年(1677)に300石の社領を寄進、元禄10年(1697)には綱政公によって社殿が再建された。昭和3年(1928)11月10日国弊小社に列せられた。昭和5年(1930)、不慮の火災で御本殿、隋神門を除いて焼失、現在の社殿は昭和11年(1936)の再建である。
神宝類は多く、池田綱政奉納の井上眞改作の太刀一振りは“国指定重要文化財”である。“岡山県指定重要文化財”は御本殿・紙本淡彩神事絵巻(室町時代)など、“岡山市指定重要文化財”は隋神門・中門・子安神社御本殿・安政の大石燈籠がある。
祭典
御田植祭(岡山県指定重要無形民俗文化財)
8月2日 御本殿祭(田舞)・御斗代神事
8月3日 御本殿祭(田舞)・御幡献納祭
秋季例祭
10月第三土曜日 宵宮
翌 日曜日 御本殿祭・流鏑馬神事(岡山市指定重要無形民俗文化財)
子安神社(岡山市指定重要文化財)
古より祀られる子安神社を慶長14年(1609)池田照直が光政誕生を祝って新築し、寛文12年(1672)健康が優れなかった藩主池田光政の平穏祈願のため、生母の福生院が祈願したところ光政の病気が全快した。健康祈願、家内安全、子授成就、安産祈願で有名である。
※5月5日(こどもの日)鯉のぼりを多数あげ、子供神楽など催す。
安政の大石燈籠(岡山市指定文化財)
高さ11m、六段づくり、笠石の大きさは八畳敷。文政13年から安政4年(1830~1857)にかけて地元有志が発起人となり、天下泰平・国家安全・万民豊楽・五穀豊穣などを祈願し、備前一円と浅口郡の合計1670余人から5676両の寄付が寄せられ、安政6年(1859)に完成した。各段には寄進者の名前が刻まれている。幅広い信仰の証である。境内案内板より
御祭神・由緒
桃太郎伝説と神楽・備前刀のふるさとの一宮の吉備津彦神社は「吉備の中山」の麓に鎮座する。ご祭神は「桃太郎」のモデルとしても有名な大吉備津日子命。大和朝廷の命により吉備の国を平定したといわれ、吉備の国を治めた屋敷跡にご社殿が建てられたのが当神社の始まりとされている。平安時代より代々の国司に崇敬され、皇室を始め旧岡山藩主池田家のご信仰篤く、境内には輝武命(池田信輝公)と火星輝命(池田輝政公)をお祀りしています。
吉備津彦神社HPより
https://www.kibitsuhiko.or.jp/about.html
【由 緒 (History)】
由緒
当社は昔、太陽、月、星、磐座、巨木を仰ぎ山は神体山にして天津磐座磐境を有し、境内10万町歩といわれ、
朝日の宮(夏至6月21日の日出には、太陽が正面向いの山の中心より昇り御鏡に入る)と称され、本州一宮、吉備之国一品一宮、国の宗祖神を祀るお社として吉備社、吉備津神社、吉備津宮といわれ崇められてきました。亦 大吉備津日子命は 吉備之国及び周辺の地を平定永住され諸民を愛撫仁政を敷かれ、命が崇神天皇の60年に神去りまして 吉備中山の宗廟の東麓、屋敷跡に社を建て吉備津彦宮又、吉備津彦神社ともいい崇められて来ました。
後 佛教が入り正宮本宮攝末社合せて51宇を具へ 神宮寺 神力寺常行堂法華堂も建てられ 総括して吉備津宮と称され 朝廷直屬1品1宮吉備津大明神として朝廷始め武門武将庶民に至る迄 崇敬頗る厚く
社傳によれば 神功皇后三韓征伐の際は 御座船を当國、牛窓港に寄せ給い勅使を差遣され、戦捷を祈り奉幣を奉りし由、爾来奉幣使絶えず、仁明天皇 承和10年10月24日、神階1品を賜り、一条天皇の長保6年に大介大江清通勅命を奉じて 社殿を造營し、白河、鳥羽、高倉、後堀川、後深草、亀山、後宇多の各天皇何れも勅宣を以て、修補せられ、中国地方稀有の壮観たりと云われていた。
足利尊氏 京へ攻め入る時、又 天正10年彼の高松城水攻の際 羽柴秀吉、当社へそれぞれ戦捷祈願、毛利、吉川等諸豪族も頗る崇敬厚かりき、
古代の社殿は 永録5年(1562)、松田左近将監の部下により火をかけられ焼失した。
其後 慶長2年(1597)には 宇喜多秀家、翌慶長6年(1601)には小早川秀秋により再建に着手9年に51宇復元、慶長年間 池田公、岡山の地に封ぜられるや、翌年、池田照直公 社領300石を本社に寄進し 爾後 累代変る事なく崇敬厚かりしが 池田光政公は 佛教的建築が神社にあるのを嫌い51宇及御釜殿も廃除し 現在の地に昔の熱田神宮様式にて社殿建築に着手し綱政公の時完成造営された。不幸にして昭和5年12月14日、本殿隨神門を残して全部焼失いたしましたが、昭和11年 飛鳥時代社寺建築の粋を集め、現在の荘厳華麗なる将来昭和の国宝とも言われる風聞高き立派な神殿を、国費又皆様方の御寄進により再建され現在に至っています。
(附記)古代の当神社宮司、難波王藤内(現在の大藤内大守先祖)は 吉備之国の田使首として備前、備中、備後、美作、伯耆、四国、兵庫の一部を含む吉備の国の長として 各地の神社の祭祀及び諸業に至るすべてを司どり、吉備神道の元祖であったとも言われています。
童話の桃太郎さんは、御祭神 大吉備津彦命のことです。邪馬台国女王とは当社 御祭神 大倭迹迹日百襲比賣、大倭迹迹稚屋比賣だとも傳へられています。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
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【境内社 (Other deities within the precincts)】
・楽御崎神社(らくおんざきじんじゃ)〈本殿両脇 本殿に向い鎮座〉
北側《主》楽楽森彦命(ささもりひこのみこと)
南側《主》楽楽与里彦命(ささよりひこのみこと)
・尺御崎神社(しゃくおんさきじんじゃ)〈御垣内奥両脇 本殿に向い鎮座〉
北側《主》夜目山主命(やめやまぬしのみこと)
南側《主》夜目麿呂命(やめまろのみこと)
・岩山神社(いわやまじんじゃ)〈本殿に向かい左側 石祠〉
《主》建日方別命(たけひかたわけのみこと)
・子安神社(こやすじんじゃ)
《主》伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)木花佐久夜姫命(このはなさくやひめのみこと)玉依姫命(たまよりひめのみこと)
岡山市指定重要文化財
子安神社社殿
昭和49年4月11日指定子安神社は、吉備津彦神社の摂社であり、元禄10年(1697)に再建された現在の吉備津彦神社本殿よりも、古い建物である。
「吉備津彦神社社記」などによれば、晩年の池田光政は健康がすぐれず、その健康祈願のため、娘の六姫が発願し、光政の生母福照院の手によって、寛文12年(1672)7月備前一宮の境内に建立された。
本殿は、桁行一間、梁間一間、檜皮葺で流造りの屋根の前後に延びたゆるみない曲線、五七桐や蟇股の形状、高欄柱の擬宝珠の姿などに、なお桃山朝の様式を残している。外装に丹や胡粉を塗るなど、全体を華麗な社殿に仕上げている。
拝殿は、桁行三間、梁間二間、入母屋造り銅板葺の建物で、正面には「子安宮」と金文字で書いた神号額が掲げられている。
平成22年3月 岡山市教育委員会現地案内板より
七つの末社〈子安神社の北側に鎮座〉(・下宮・伊勢宮・幸神社・鯉喰神社・矢喰神社・坂樹神社・祓神社)
・下宮(しものみや)
《主》倭比賣命(やまとひめのみこと)
・伊勢宮(いせのみや)
《主》天照大神(あまてらすおおみかみ)
・幸神社(こうじんじゃ)
《主》猿田彦命(さるたひこのみこと)
・鯉喰神社(こいくいじんじゃ)
《主》楽楽森彦命荒魂(ささもりひこのみことのあらみたま)
・矢喰神社(やぐいじんじゃ)
《主》吉備津彦命御矢(きびつひこのみことのおんや)
・坂樹神社(さかきじんじゃ)
《主》句句廼馳神(くくのちのかみ)
・祓神社(はらいじんじゃ)
《主》祓戸神(はらえどのかみ)
・天満宮(てんまんぐう)
《主》 菅原道真公(すがわらみちざねこう)
天満宮
御祭神 菅原道真公
例祭日 9月25日
菅原道真公(贈太政大臣正一位朝臣)は延喜元年(901年)大宰府に赴く道中当社に立ち寄られたという由縁があり、学問の太祖として当社境内にも天満神社が建てられていました。
今でもその由緒にちなみ吉備中山の麓には「一宮 字 天満平」という地名が残っています。社殿の老朽化により明治42年以降は境内末社に合祀されていましたが、平成17年11月此所に再建されました。現地案内板より
・稲荷神社(いなりじんじゃ)
《主》倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
《合》温羅属鬼和魂,菅原神,伊弉諾命,素盞嗚尊
・卜方神社(うらかたじんじゃ)
《主》卜方神〈輝武命(てるたけのみこと)火星照命(ひほしてるのみこと)〉
・温羅神社(うらじんじゃ)
《主》温羅の和魂(うらのにぎみたま)
三つの末社(・十柱神社・牛馬神社・祖霊社)
・十柱神社(とはしらじんじゃ)
《主》十柱神〈吉備海部直祖 山田日芸丸 和田叔奈麿 針間字自可直 夜目山主 栗坂富玉臣 忍海直祖 片岡健命 八枝麿 夜目丸〉
・牛馬神社(ぎゅうばじんじゃ)
《主》保食神(うけもちのかみ)
・祖霊社(それいしゃ)
《主》社家の祖霊
・鶴島神社(つるしまじんじゃ)〈神池に浮かぶ鶴島に鎮座〉
《主》住吉神〈 底筒男命(そこつつのおのみこと)中筒男命(なかつつのおのみこと)表筒男命(うわつつのおのみこと)神功皇后(じんぐうこうごう)〉
・亀島神社(かめしまじんじゃ)〈神池に浮かぶ亀島に鎮座〉
《主》市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)
・龍神社(りゅうじんじゃ)〈ご神体山・吉備の中山 山頂に鎮座〉
《主》八大龍王神
・参集所(さんしゅうしょ)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
神社の歴史 吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)の創建について
吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)は 社伝では 第33代 推古天皇の時代〈在位 AD.593~628年〉に創建されたとします
しかし 神体山 吉備の中山(標高175m)の北東麓 大吉備津彦命の住居跡に社殿が創建されたのが起源ではないかと考えられていて そうすると第10代 崇神天皇の御世〈在位 BC97年~BC30年〉の創建となります
備前国一之宮の変遷について
古代の備前国の一之宮は 『延喜式神名帳』名神大社の安仁神社(あにじんじゃ)でしたので〈927年12月編纂〉『延喜式神名帳』には 吉備津彦神社の記載がありません
安仁神社は 正史 六国史『続日本後紀』841年(承和8年)2月8日条に「安仁神預名神焉(あにのかみみょうじんにあづかる)」とあり
平安時代後期〈927年12月編纂〉『延喜式』では 備前国では 唯一の名神大社に列せられています
元々は 安仁神社が 備前国 一之宮でした
しかし 天慶2年(939年)に 天下を揺るがした天慶の乱(藤原純友の乱)が起こり 安仁神社が 藤原純友(フジワラノスミトモ)方に味方したため 一之宮の地位を朝廷より剥奪されたとされます
一方 備中国の一之宮「吉備津神社」は 天慶の乱で 朝廷を支援して 藤原純友の乱平定祈願の御神威を発揮した神として 940年には最高位の一品(いっぽん)の神階を授かりました
その後 朝廷に味方した「吉備津神社」より御霊代を分祀されて創建された 吉備津彦神社(岡山市北区一宮)に 備前国の一之宮は移ったと伝えられます
元 備前国一之宮
・安仁神社(岡山市)
現 備前国一之宮〈備中 吉備津神社の分霊〉
・吉備津彦神社(岡山市備前一宮)
備中国一之宮〈備前 吉備津彦神社の元宮〉
・吉備津神社(岡山市吉備津)
中国地方稀有の壮観たりと云われた 古代の荘厳な社殿について
備前國の一之宮として発展した吉備津彦神社の古代の社殿は 中国地方稀有の壮観たりと云われた と伝わります
古代の社殿は 永録5年(1562)松田左近将監の部下により火をかけられ焼失したとされますが それ以前の様子を記した図が 境内にありました
古代御社図(備前一宮 吉備津彦神社所蔵)
康永元年(1342)宮図
中世には 吉備津彦神社〈備前国一之宮〉は 今の境内地の南の谷間に社殿があったらしく その南に備前一宮神刀寺が 北には神宮寺があった
古代御社図に見るように 神刀寺の寺塔は 岡山藩池田光政による寛文の神仏分離まで存在したと云われています
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
備前国と備中国の境界ある 吉備の中山 について
吉備津彦神社の境内 後方 備前国と備中国の境界ある吉備の中山(標高175m)は 古くより神体山としての信仰がなされていたと考えられています
山中には 多くの古墳や古代祭祀遺跡が残ります
北峰・竜王山(標高175m)の山頂には 吉備津彦神社〈備前国〉の元宮磐座や境外社 龍神社が鎮座しています
中央の茶臼山(160m)山頂には 吉備津神社〈備中国〉の奥宮とされる大吉備津彦命の墓とされる古墳が残っています
吉備の中山の山中にある 国境石について
中央の茶臼山(160m)の古墳の歩道に備前と備中の境界を示す石の標柱があります
国境石(こっきょうせき)
備前国と備中国の境界を示す石の標柱である。標柱の東側には備前国、西側には備中国の文字が刻まれている。中山茶臼山古墳と尾上車山古墳を二つに分けるように定められた国境の名残りは、南の境目川、北の細谷川、両国橋、西辛川の西端の境目(さかいめ)という地名などに残されている。西辛川の境目には国境を示す石柱がある。
現地案内板より
・朝日の宮(あさひのみや)の呼称について
吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)〈備前国一之宮〉は 備前国と備中国の境界ある吉備の中山(標高175m)の北東麓に東面して坐ます 太古の太陽信仰の形を留める場とされ 夏至の日に正面鳥居から差し込んだ朝陽が 祭文殿の御鏡に入る造りで 太陽を真正面から迎え鎮座するので朝日の宮(あさひのみや)とも称されます
この夏至の日 正面鳥居から差し込んだ朝陽が 祭文殿の御鏡に入る
祭文殿(さいもんでん)の奥には 渡殿(わたりでん) その奥に本殿(ほんでん)が鎮座します
つまり社殿〈本殿 渡殿 祭文殿 拝殿〉が一直線に配置されています
更にその線を 社殿の裏へと続けると ご神体山・吉備の中山 山頂 龍神社(りゅうじんじゃ)と 神の依り代とされる古代信仰の磐座(いわくら)へと続きます
神社パンフレットより
その線を更に伸ばすと 吉備の中山(標高175m)の北西麓に鎮座する 吉備津神社〈備中国一之宮〉と続きます
これは 偶然ではなく 古代の太陽信仰による産物であると想われています
文章では 判り難いので 地図に落としてみました
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三備〈備前国・備中国・備後国一宮〉一宮 吉備津神社について
吉備国の一之宮であった 『延喜式神名帳』名神大社 吉備津彦神社は 分祀されて 分割された国の一之宮となります
備前国一宮 岡山市北区一宮 吉備津彦神社
・吉備津彦神社(岡山市備前一宮)
備中国一宮 岡山市北区吉備津 吉備津神社
・吉備津神社(岡山市北区吉備津)
備後国一宮 広島県福山市新市町 吉備津神社
・吉備津神社(福山市新市町)
さらに8世紀 和銅6(713)年には「備前国(bizen no kuni)」から「美作国(mimasaka no kuni)」分割され 4つに分かれてしまいます
美作国一宮 岡山県津山市一宮 中山神社
・中山神社(津山市)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR岡山駅からJR桃太郎線 備前一宮駅下車 徒歩4分程度
駅のホームからは 神体山 吉備の中山が見えていて 麓には 北参道の鳥居が建っています
表参道の鳥居 横に社号標があり 備前一宮 吉備津彦神社と刻まれています
吉備津彦神社(岡山市備前一宮)に参着
一礼をして 鳥居をくぐり 神池の中央の参道を進みます
隋神門に近づて行きます
隋神門の奥には 安政の大石灯籠と手水舎があります
注連縄の懸かる隋神門には 御神紋の御簾幕 扁額には吉備津彦神社とあります
石段を上がれば 拝殿
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿(はいでん)の奥には 祭文殿(さいもんでん)渡殿(わたりでん)本殿(ほんでん)と 豪華な建造物が一直線に配置されているのも特徴です
参拝日は4月4日 境内の桜が満開でした
拝殿(はいでん)
祭文殿(さいもんでん)
渡殿(わたりでん)
本殿(ほんでん)
社殿の前面には 平安杉(へいあんすぎ)
御祈祷受付・授与所があり 神札など授与を受けます
社殿に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『吾妻鏡(azumakagami)』〈治承4年(1180年)〉に記される伝承
文治四年(1188)二月大二日戊辰の条に 大江公朝が 鎌倉へ来るついでに数々の手紙を持ってきた その中に 備前國吉備津宮領 が記されています
【抜粋意訳】
八巻 文治四年(1188)二月二日戊辰の条
あちらこちらの地頭達の所領での出来事を 京都から 或る時は強い縁故をたよりにして 或る時は手紙をよこし(横取りや占領され)嘆いてくる人々が多くおります 故に その審議をしました
ところで 検非違使 大江公朝は 去年の冬から鎌倉におりますが 近いうちに京都へ帰ると言うので その大江公朝の思惑を了解され 訴えてきている数々の内容を(後白河法皇に)お知らせするために 箇条書きを一枚の紙に書き出し 公朝に渡すようにしなさいとのことです
実は その公朝が 鎌倉へ来るついでに数々の手紙を持ってきたのでありますその文書に書かれているのは・・・
・・・大江公朝(おおえのきんとも)
備前國(びぜんのくに)吉備津宮領(きびつのみやりょう) 西野田保(にしのだのほう)の地頭職(ぢとうしき)貞光の事(さだみつ こと)は 今までの例の通りに 被告人の言い分を退ける 元の通りに間違いなく公朝の領地とすること・・・・
【原文参照】
公朝(きんとも)
備前國(びぜんのくに)吉備津宮領(きびつのみやりょう) 西野田保(にしのだのほう)地頭職(ぢとうしき)貞光の事(さだみつ こと)
道理(どうり)に任(まか)せ 論人之妨(ろんにんのさまた)げを停止(ちょうじ)し 本(もと)の如(ごと)く 相違無(そういな)く 知行(ちぎょう)令(せし)めんと欲(ほっ)す事
公朝、備前國吉備津宮領、西野田保地頭職、貞光事、任道理、停止論人之妨、如本無相違、欲令知行事
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式外社の惣社 吉備津宮として 記しています
【抜粋意訳】
備前國 式外社 惣社 吉備津宮
祭神 吉備武彦命
〇津高郡一宮村に在す
〇当國一宮也
〇永萬記云、吉備津宮、社司貞則随仰神位
国内神名帳、一品吉備津彦命宮社領
東鑑云、文治四年(1188)二月二日戊辰 公朝、備前國吉備津宮領、西野田保地頭職、貞光事、任道理、停止論人之妨、如本無相違、欲令知行事、社職
親長卿記云、文明十七年(1485)六月五日、備前 吉備津宮 神主貞職申四品、等ニ子細、・・・・
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
創建は 崇神天皇の朝 と記しています
【抜粋意訳】
〇岡山縣 備前國 御津郡一宮村大字一宮
縣社 吉備津彦(キビツヒコノ)神社
祭神 大吉備津彦(オホキビツヒコノ)命
相殿 大日本根子彦國牽天皇(オホヤマトネコヒコクニクルノテンノウ)
外四柱神吉備津宮、津髙郡一宮村に在す、当國一宮なりといふ(神社覈録)、
崇神天皇の朝の創建にして、神功皇后三韓征伐の際、御船 牛窓を過ぐる時、國の刺史をして幣帛を捧げしめられ、以来奉幣絶えず・・・・・云々
【原文参照】
吉備津彦神社(岡山市備前一宮)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)