中山神社(津山市一宮)

中山神社(なかやまじんじゃ)は 古代の大和朝廷が「吉備国」を分割して 新たに「美作国(mimasaka no kuni)」を創設した際に「美作國 一之宮(ichi no miya)」となった格式と由緒を持ちます 多くの謎を残した太古の社でもあり 境内の奥には 今でも静かに「猿神(saru gami)」が坐ます

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ご紹介(Introduction)

【神社名】(shrine name) 

中山神社(nakayama shrine)
  なかやまじんじゃ 

【通称名】(Common name) 

一宮さま ichinomiya sama
仲山大明神 nakayama daimyojin

【鎮座地】(location)

 岡山県津山市一宮695

【地 図】(Google Map)

【延喜式神名帳】 【engishiki jimmeicho】

(927年12月完成) The shrine record was completed in December 927 AD.
「旧国名 郡・神社名」「old region name・shrine name」

 美作國  苫東郡   中山神社   名神大
 mimasaka no kuni tomahigashi gun 
         nakayama(chiusan)no kaminoyashiro myojintai

【御祭神】(God's name to pray)

社伝=『中山神社縁由』では

《主》鏡作命(kagamitsukuri no mikoto)  鏡作部の祖神=石凝姥命
《配》天糠戸神(ameno nukado no kami) 石凝姥神の親神
《配》石凝姥命(ishikoridome no mikoto) 天孫降臨の五部神 八咫鏡の造神

その他では
『延喜式頭注』      《主》大己貴命(oonamuchi no mikoto)
『作陽誌』        《主》吉備武彦命(kibi no takehiko)
『大日本史』&『神祇志料』《主》吉備津彦命(kibitsuhiko no mikoto)
              or 金山彦命(kanayamahiko no mikoto
『今昔物語集』&『宇治拾遺物語』《主》猿神(saru gami)

【御神格】(God's great power)

・国家安泰 People thank God and live a safe and quality life in their
・牛馬守護 Guardian deity of cow and horse
・鍛金の神 God of metal forging
・冶工の神 God of metal forging craftsman
・等 etc

【格式】(Rules of dignity)

・延喜式内社 名神大社 (engishikinaisha myojintaisha)
・美作國   一之宮 (mimasaka no kuni ichi no miya)
・旧國幣中社
・別表神社

【創建】(Beginning of history)

『中山神社縁由』慶雲4年(707年)4月3日の創建=社伝による

その他では
和銅6年(713年)4月3日の創建 美作国(mimasaka no kuni)が 備前国(bizen no kuni)から分立した時 備前一之宮「吉備津神社」(吉備の中山)から勧請したとする 

【由緒】(history)

文武天皇 慶雲4年(707)此の地に社殿を創建して 鏡作神を奉斎したと伝えられている。貞観年間つとに官社に列せられ、延喜式に於ては 美作国唯一の名神大社である と共に 此の国の一宮でもある。

「今昔物語」に猿神の説話があり、後白河法皇の御撰にかかる「梁塵秘抄」には関西に於ける大社として、安芸の厳島社 備中の吉備津宮 などと肩を並べている。

鎌倉時代に元冦など 国家非常の時に際し、勅命により 特に全国7ケ国の一宮に国家安穏を祈願せしめられているが、当社も其の中に選ばれて祈願を厳修したことが伝えられている。

弘安八年に一遍上人 回国の途 当社に参詣し 念仏踊を行ったが「一遍聖絵」(国宝第八巻)に作州一宮図があって、其の節 参詣の図が描かれている。

建武中興 破れて天正に至る 約400年間は、美作国中 戦乱の巷と化し、為に社寺の祭祀も殆んど絶えなんとする有様であったが、当社は 永正8年(1511)と天文2年(1533)の両度に祝融の厄に遭い、本殿以下山上 山下の摂末社120社と共に宝物・什器・旧記・古文書等 悉く炎上焼失した。

永禄2年(1559)に至り、出雲城主 尼子晴久 戦捷報賽の為め社殿を復興した。世に中山造と称せられる 入母屋造 妻入檜皮葺で方5間の宏壮雄大な御本殿であって、大正3年 国宝建造物、現在 国指定重要文化財である。

慶長8年 森忠政 美作全州を領して入封するに至り、国内漸く平定し 歴代の藩主の崇敬も厚く 社領の寄進や修築の資の奉献など絶ゆることなく、又「一宮さま」と親しまれ、朝野の信仰を集め、中世より近世にかけては門前市も大いに繁昌した。

明治四年 国幣中社に列格、御祭神 金山彦命と定められた。

これにより明治年間 再度に亘り 御祭神名を「鏡作神」に改められる様 願出でたるも 聴許せられず終戦を迎え、
昭和21年 宗教法人 中山神社設立届出に当り 御祭神名を主神 鏡作神、相殿に天糠戸神、石凝姥神 配祀と総て 明治以前の社家伝承や旧記類に明記せられている御神名に旧した。

宗教法人中山神社となりし後も、御本殿以下 諸建造物等 境内の森に至るまで昔のままの姿にて 防災施設も完備し、美作国の一宮と広く尊信せられて現在に至っている。

「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【境内社】(Other deities within the precincts)

・総神殿(惣神殿)《主》山上山下120社(戦禍により炎上焼失した神々の社)
『中山神社資料』「美作の国中12郡の大小神社の神を祀る」とあり(742年)造営の社殿は18世紀の中頃の神社建築を伝える建造物として( 2008年 津山指定重要文化財に指定) 大正3年 御手洗川の外から現在地に移転

・国司社(kunishi sha) 《主》大国主命
地主神として大国主命を祀り 社殿の横「鉾立石」があり 国難の際は 本殿に移し祈念された

・御先社(osaki sha) 《主》稲荷神
中山の神の祖神を祀り 本殿の側にあって供をするという 一般には「稲荷神」として信仰される

・猿神社(saru no kaminoyashiro)《主》猿多彦神
本殿裏に鎮座 ぬいぐるみの小猿を奉納する風習があり 『今昔物語集』の記述は この猿神社に由来するものと伝わります

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【この神社の予備知識】(Preliminary knowledge of this shrine)

「中山神社(nakayama shrine)」の起こりには 諸説あります

社伝によれば 創建は(707年)第42代文武天皇(mommu tenno)の御代
「今昔物語」によれば「猿神(saru gami)」の説話がありますが

この地 津山盆地は 太古かつて 吉井川の上流にあった大きな湖であったようです やがて 広い扇状地の平野となっていきます
この平野に向かって「横野川」は北から南に流れ 平野の中程で「鵜の羽川」と合流し「宮川」となって流れていきます この合流地点に「中山の神」は祀られています 
付近には 縄文遺跡もあり 弥生の稲作時代には農耕が栄え 彼らが農耕神を祀ったのが起こりではないかとも云われ 「稲荷神」が祖神として祀られているのも そうした説の論拠となっています

古代の津山盆地 かってに想像図 赤丸が中山神社

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「中山神社縁由」によると

慶雲3年(706)中山神は 美作国を鎮護するため 英多郡楢原に天下った。次に水無瀬河奥の泉水池(現津山市一宮)に現れ、さらに田辺の霧山に移った。

そこで麓の川に 鵜の羽を浮かべたところ、その羽が長良嶽の麓にとどまった。

その地には すでに先住神の「大巳貴命(おおなむちのみこと)」が鎮座していたが、命から国譲りをうけ、慶雲5年(708)現在地に社殿を建てて 永くこの地に鎮座することになった。

そして、大巳貴命は 祝木のもとに移住して鎮座したが、のち数10m南の地に宮地を求めて国司神社となった。

文:津山市の文化財より

「中山神社(nakayama shrine)」の御祭神と「中山造りの社殿・鳥居」

御祭神「鏡作命(kagamitsukuri no mikoto)」は
三種の神器「八咫鏡(yata no kagami)」をお造りになられた神様で 天の岩戸神話にも登場する 鏡作部の祖神「石凝姥命(ishikoridome no mikoto)」の別称です

「社殿」は
「中山造り」と呼ばれ 他の地方には例がありません
現在の本殿は 永禄2年(1559年)尼子晴久によって再興され その構造は 室町末期~安土桃山時代への過渡期の特徴を持ち 単層入母屋妻入り造り 桧皮葺きで  大正3年(1914年)国の重要文化財に指定され 美作一円の神社建築の手本となっています

鳥居は
「中山鳥居」と呼ばれ やはり他の地方には 例がありません
寛政3年(1791年)建築で 花岡岩製 角貫に木鼻がなく 笠木と島木にそりをもたせて 壮大美を強調しています

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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)

「吉備国(kibi no kuni)」の分割について

かつて「吉備国(kibi no kuni)」は 現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼(to sho)部 および兵庫県西部(佐用郡の一部と赤穂市の一部など)にまたがる古代の大国でした 筑紫・出雲・毛野などと並び 大和朝廷を支え並ぶような有力地域の一つでした

大和朝廷は この強大な「吉備氏(kibi uji)」の弱体化を意図したのか 膨大な時間の中で「吉備国(kibi no kuni)」は勢力を失っていきます
7世紀後半には「備前国(bizen no kuni)・備中国(bitchu no kuni)・備後国(bingo no kuni)」に3分割されます

さらに8世紀になると「備前国(bizen no kuni)」から「美作国(mimasaka no kuni)」が分立します
これが かつての強大であった「吉備国(kibi no kuni)」の分解の最終段階として 鉄資源を吉備氏(kibi uji)から直接 大和朝廷の管轄下に置くことになっていきます

「美作国(mimasaka no kuni)」の 一之宮(ichi no miya)誕生について

史書『続日本紀(shoku nihon gi)』によると

「美作国(mimasaka no kuni)」の分立は 「備前国(bizen no kuni)」から 英多郡・勝田郡・苫田郡・久米郡・真嶋郡・大庭郡 の六郡を分立し「美作国(mimasaka no kuni)」が創設されます(和銅6年(713年)4月3日)

史書『続日本紀(shoku nihon gi)』

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047602&ID=M2014102020504690603&TYPE=&NO=画像利用
国立公文書館デジタルアーカイブ 「続日本紀 巻5-6」

これは「備前守 百済王南典(kudara no konikishi nanten)」と「備前介 上毛野堅身(kamitsuke nu katami)」の奏上によるとされていて 
初代 美作守には 分立を奏上した「上毛野堅身(kamitsuke nu katami)」が就任します
この時 備前と備中の堺にある山(吉備の中山)備前一之宮「吉備津神社」から勧請して (当社)津山市「中山神社(nakayama shrine)」を一之宮としたと伝わります

鎌倉時代には 国家非常の時に際しては 勅命により「国家安穏を祈願」する全国7ケ国の一之宮として重要な神社であったと伝わります
戦国時代には 戦乱の渦に巻き込まれ 消滅の危機にも瀕しましたが
「美作国の一之宮」は 高い社格と農耕の神牛馬の守護神として 広く人々の信仰をあつめて今日に至ります 

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』の所載について

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』名神大社(myojintaisha)です 論社は 他になく 当社が比定社となっています

美作國      苫東郡      中山神社  名神大
mimasaka no kuni tomahigashi gun 
          nakayama(chiusan)no kaminoyashiro myojintai

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442211/160画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 : 校訂. 上巻(昭和4至7)

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【神社にお詣り】(Pray at the shrine)

車で
中国自動車道「津山IC」より10km程度 約20分
津山駅から北へ 県道68号線を約6km程度 約15分

宮川沿いに北西に進み「難波酒造」という造り酒屋があり するとすぐ社前です

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「ケヤキの樹齢は800年」の大木が道に迫り出し その根元に「祝木神社」が祀られています「祝木のケヤキ・祝木社」です 目の前に「中山鳥居」が見えてきます

鳥居のすぐ横が 駐車場になっています

「中山神社(nakayama shrine)」に到着

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この正面入口の鳥居が 先程ご紹介した独特の構造(木鼻がない)「中山鳥居」です 一礼の後 くぐります
すぐ左手に「名木百選 中山神社のムクノキ」と看板のある大木があります

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参道は 真っ直ぐに伸びていて
参道の右脇に「牛の像」天満宮?? 道真公が大宰府へ向かう通り道でない この内陸で天満信仰かと一瞬思いましたが 農耕の神「牛馬の守護神」としても 広く信仰をあつめてきた事を思い出しました

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その先には「立派な狛犬」が座し 左先手に「手水舎」があり 清めます

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参道を歩み 御手洗川に石橋がかかり その手前に 又「狛犬????」が座すが何度見ても 猿ぽい気がしたので 「猿神」も坐ますので「狛猿」のようではないか としておきます

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御手洗川の石橋を渡ると「津山城の二の丸」にあった四足門を移した(1874年)とされる「御神門」があり 一礼してくぐると 本殿拝殿が見えてきます

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拝殿に進み 賽銭をおさめ お祈りです 御祭神を頭で整理しながら

社伝=『中山神社縁由』では

《主》鏡作命(kagamitsukuri no mikoto) 鏡作部の祖神=石凝姥命
《配》天糠戸神(ameno nukado no kami)石凝姥神の父神
《配》石凝姥命(ishikoridome no mikoto)天孫降臨の五部神 八咫鏡の造神

その他では

『延喜式頭注』 《主》大己貴命(oonamuchi no mikoto)
『作陽誌』   《主》吉備武彦命(kibi no takehiko)
『大日本史』&『神祇志料』《主》吉備津彦命(kibitsuhiko no mikoto)
              or 金山彦命(kanayamahiko no mikoto)
『今昔物語集』&『宇治拾遺物語』《主》猿神(saru gami)

日頃の感謝をこめて ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

拝殿の右手は「社務所」があり 参拝者の控え所から拝殿迄 渡り廊下が続いていて 本殿庭には寛文8年(1668年)津山藩 森忠継 奉納による燈籠二基があります

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本殿を拝しようと左手に回ると「神楽殿」と「総神殿(惣神殿)」《主》山上山下120社(戦禍により炎上焼失した神々の社)を祀るがあり その奥に「国司神社」 階段の上には「御崎神社」がありお詣りです

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拝殿の横を奥に進み 単層入母屋妻入り造り 桧皮葺きの「中山造り」と呼ばれる本殿があります 想像よりも大きかった本殿を拝し やはり一之宮だなあなどと想いながら 裏手に回り お詣りです

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ここから 境内の後方へ道があり「猿神社(saru no kaminoyashiro)《主》猿多彦神」へ続いていて 鳥居をくぐり50m程先 岩の斜面に鎮座します 何故か ぬいぐるみの小猿を奉納する風習があり 沢山吊るされています お詣りです

『今昔物語集』等の記述は この「猿神社(saru no kaminoyashiro)」に由来するものと伝わっています これは後程 詳しくお伝えします

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本殿横を抜けて 参道を戻り 中山鳥居を抜けて 振り返り一礼

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【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)

『今昔物語集 巻第二十六』に書かれている「猿神社(saru no kaminoyashiro)」「猿神(saru gami)」の伝承

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『今昔物語集 巻第二十六』に次のように書かれています

「美作國 神依猟師謀止生贄語 第七」
(みまさかのくにの かみれふしの はかりごとによりて いけにえを とどむること だいしち)

 参照文献 「【今昔物語集 全4巻-日本古典文学全集 21~24】校注・訳:馬淵和夫/国東文麿/今野達 発行所 小学館」

今は昔

美作国(岡山県)に中参(chiusan)・高野(koya)という二神が鎮座していた その御神体は 中参(chiusan)は「猿」・高野(koya)は「蛇」でいらっしゃった

毎年一度のお祭りには 必ず 生贄(ike nie)を供える習わしであったが それには その国の未婚の処女を立てることになっていた
これは 昔から最近まで怠ることなくずっと続けられていた

さて その国に さしたる家柄の人ではないが 年のほど 十六・七ばかりの美しい娘を持っている人がおった 父母はこの娘をかわいがり 我が身にもかえて 大切なものに思っていましたが この娘が その生贄(ike nie)に割り当てられた 

ところで この生贄(ike nie)というのは その年の祭の当日に名指しされると その日から一年の間 よく養い太らせて 翌年の祭の日に捧げるのである
この娘が名指しされてからというもの 父母は 身も世もなく 嘆き悲しんだが 逃れらようもないので 月日が経つにつれて 命はしだいに縮まっていく

こうして 親子が顔を合わせてることも だんだんと残り少なくなって行ったので その日を指折り数えては 互いに ただ泣き悲しむより外にはなかった

ちょうどその頃 東国の方から なにか用事がありて その国に来た人があった この人は 犬山(inu yama)ということをして 多くの犬を飼い 山に入りて その犬に猪や鹿を喰い殺させて猟をするのを生業にする男であった

なかなか勇敢な 物おじなどしない猛々しい者であった この男が その国にしばらく留まっているうち 自然のことのように この生贄(ike nie)話を聞いた

ある日 用があって この生贄(ike nie)の親の家へ行き 案内を乞うて待っている時 縁側に腰かけて 蔀戸(shitomi do)のすき間から 家の奥をのぞくと この生贄(ike nie)の女が一人うち伏しているのが目に入った とても清らかで 色も白く 容姿もかわいらしく 髪も長く とても田舎人の娘とは見えないほど上品である

その娘が もの思いに沈んだ様子で 髪を振り乱し 泣き伏すのを見ると この東国から来た男も 哀れにも言いようのない同情の念にかられてならなかった

やがて 女の親と会って いろいろと話をしていると その親は「たった一人の娘を このような生贄(ike nie)にあてられまして 嘆き暮らし 思い明かし 月日が経つにつれて 別れの近づきますのを 悲しくてしかたありません 

世にはこのように情けない国もあるのでございます 前世にどのような罪をつりまして このような国に生まれて かくも情けない目をみるのでございましょうか」と嘆く

東国の男はそれを聞き「この世の人にとって 命に勝るものはありません また 人が宝とするものは 子に勝るものなどありません 
それなのに たった一人の娘を 目の前で膾(namasu)に作らせて 手をこまねいて見ておられるなど 実に情けない親です そんなことなら あなたは いっそ死んでしまいなされ
だが 娘を取って食おうとする敵を目の前にして 無駄死にをする者が どこの世界にいるものですか 
仏も神も 我が命の惜しさ故にこそ 恐ろしいものですし 子供のためならばこそ 身を惜しむものですよ 
それに その娘さんは 今はない人も同じです どうせ死なせる人だったら 娘さんを私に下さりませんか その代りに 私が死にましょう それならば 娘さんを私に下さっても あなたにご異存はありますまい」と言う

親はこれを聞いて「それで あなたは一体どうなさろうとしているのですか」と尋ねると 

この東国人は「いかにも 私には考えがあるのです ここの祓殿(harae dono)に わしがいるとは誰にもおっしゃらず ただ精進するのだと言って 注連縄を張っておいて下さい」と言う

親は「娘さえ 死なずにすむなら 私は どのようになってもかまいません」と言って この東国の人に 人知れずひそかに娘を娶せたのです

東国の人は この娘を妻として過ごすうち しだいに離れ難く思うようになっていった そこで 長年飼い慣らした猟犬の中から 二匹を選りすぐり「よいかお前たち わしの身に代わってくれよ」と言い聞かせて 念入りに飼いならした

こっそりと山から猿を生け捕りにしてきて 人目を避けて 犬に猿を喰い殺す練習をひたすら繰り返した もともと犬と猿は仲も悪いものであるゆえ このように教え慣らしたので しまいには 猿さえ見れば 夢中になり何度も飛び掛かっり飛び掛かっり 喰い殺してしまうようになった

このように犬をよく仕込んでおいて 自分は 刀を研ぎ澄まして待っていた 

こうして東国の人は妻に「わしは お前の身代わりに死のうと思う 死ぬことは 前世からの決め事で仕方がないことながら 別れることは 悲しいことですねぇ」という 
女は その訳はわからなかったが いいようもなく悲しい思いはおおきかった

さて 当日がおとずれた 神主を始めとして多くの人がやって来た 新しい長櫃(naga hitsu)を持って来て「この中にはいりなさい」といって その長櫃(naga hitsu)を寝室にさし入れた

男は 狩衣(kari ginu)と袴(hakama)だけを着て 刀を身に添えて その長櫃(naga hitsu)へ入り 二匹の犬を 男の両脇に入れて臥せさせた

親たちは 娘を中へ入れたように見せかけて 櫃(hitsu)をさし出したところ 鉾・榊・鈴・鏡などを持った者どもが 雲のように集まり並んで 大声で先ぶれをしながら進んで行った

妻は どういうことになるのかと恐れながらも 男が身代わりになってくれたことを気の毒に思った 親たちは「後は たとえどうなってもかまわぬ この先どの道死ぬことになろうとも 今はこうするよりはないのだ」と思っていた

生贄(ike nie)は 御社にかつぎこまれ 祝詞を唱えてから 玉垣の扉を開き 長櫃(naga hitsu)を結んでいた紐を切り 神前へ差し入れられた  そして 玉垣の扉を閉じて 宮司たちは 神前の戸を閉ざして 外にずらりと座について居並んでいた

男は 長櫃(naga hitsu)を ほんの少しこじあけて 外を覗いてみると 身の丈 七・八尺ばかり(1.8m程度)の大猿(oo zaru)が 上座にすわっている 歯は真白く 顔と尻は真赤い
それにつづいて 百匹ばかりの猿が 左右に並び坐っており 顔は赤く 眉を吊りあげ ぎゃあぎゃあと大きく叫んでいる

前には 俎(mana ita)があり 大きな刀が置いてある 酢塩・酒塩などの調味料が みな並び置かれて まるで 人が 鹿の肉などを料理して食べようとするかのようだ

しばらくして 上座の大猿(oo zaru)が立ちあがり 長櫃(naga hitsu)に手をかけた 他の猿どもも みな立ちあがって来て 一緒になって開けようとする

その時 男がにわかに飛び出して 犬に「それっ 食いつけ 食いつけ」と犬をけしかけた すると 二匹の犬は走り出て やにわに大猿(oo zaru)を食い伏せてしまった

男は 氷のような刀を抜き放ち その大猿(oo zaru)を捕えて 俎(mana ita)の上に引き伏せ 首に刀をさし当てて「きさまが 人を殺して肉を食う時は こうするのだなと その首をたたき切って 犬どもの餌としてくれよう」という

大猿(oo zaru)は 顔を真赤くし 目をしばたたき 歯を白くむき出し 涙を流して 手を擦り合わせたが 耳も貸さず
「きさまが 長い年月 多くの人の子を喰った代わりに たった今殺してくれる だが きさまが神というなら このわしを殺してみろ」と言って 刀を首に押しつけたところ 二匹の犬も 他の多くの猿を喰い殺していく

やっと 生き延びた猿どもは 木に登り 山に隠れて 多くの猿どもを呼び集めて 山も響くばかりにわめき叫びあったが なんのかいもありません

そのうちに 一人の神主に 神がのり移り「我は 今日より以後 未来永劫後々まで 生贄(ike nie)は求めず ものの命も奪うまい 
また この男が我をかような目に合わせたからといって その男に危害を加えることがあってはならぬ 
また 生贄(ike nie)の女をはじめ その父母や親類・縁者の罪を とやかく責めることがあってはならぬ どうにか わが身を許せ」

神主たちは みな社の内に入り 男に「御神(ohomu kami)が このように仰せです お許し申し上げられよ 恐れ多いことです」と男をひきとめるが
男は承知しない「いや わしの命は惜しくはない 多くの人に代わって こいつを殺してやるのだ そうして こいつと共に死んでやろう」といって許そうとはしなかった

神主は言いあぐみ 祝詞を唱えて 神が堅く誓約を立てたので 「それならばよい よいか これからはこの様な事をするなよ」と言って許してやったので 大猿(oo zaru)は山の中へ逃げ入っていった

男は家に帰り その女と末長く夫婦となって暮らした 父母も聟(muko)に対して 言葉をきわめ感謝した そして その後 この家には 少しもさしさわりがなかった それも前生よりの果報というものであろう

これ以後は 生贄(ike nie)を立てることはなく 国も平穏を保った 

となむ語り伝へたるとや

『今昔物語集 巻第二十六』

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000042818&ID=M2018061515413247961&TYPE=&NO=画像利用
国立公文書館デジタルアーカイブ 「今昔物語集 26巻」

「中山神社(nakayama shrine)」の本殿の裏に当たる位置に「猿神社(saru no kaminoyashiro)」と呼ばれる小祠が祀られています

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山の麓の切り立った斜面にある その小祠は 当社の奥の院のような印象を受けますが 「猿神(saru gami)」は まだ山に坐ます
『今昔物語集』の「猿神(saru gami)」は 美作国が分立される前のこの地の神 縄文の神であったのでしょうか?? この神を倒して統合した「東から来た男」は 大和朝廷の使者なのでしょうか??

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中山神社(津山市)古代 大和朝廷による「吉備国(kibi no kuni)」の分割は「美作国(mimasaka no kuni)」の創設に多くの謎を残し「一之宮(ichi no miya)」の本殿の奥には 静かに「猿神(saru gami)」が坐ます

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数々の創設の伝承を持つ「中山神社(nakayama shrine)」に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷で 出雲国造が その任に就いた時や遷都など国家の慶事にあたって朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉としていて 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-全国 一の宮("Ichinomiya" all over Japan)
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