彌佐支刀神社(壱岐市郷ノ浦町大原触)

弥佐支刀神社みさきとじんじゃは 太古には この地域の東側が沼地のように広がる内海であったとされていて この内海を渡る「海辺の出崎の渡にして御埼渡(みさきと)」その岬にあるのが式内社 彌佐支刀神社(みさきとの かみのやしろ)と伝わっています

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

彌佐支刀神社(Misakito shrine

 [通称名(Common name)]

〈旧号〉八剱明神(やつるぎみょうじん)

【鎮座地 (Location) 

長崎県壱岐市郷ノ浦町大原触99-1

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》日本武尊(やまとたけるのみこと)

延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉以前は
《主》壹岐直
根子

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

弥佐支刀神社(旧号八剣大明神)

御祭神 日本武尊

例 祭 十月廿一日 神幸式 神楽奉奏

一、当社は延喜式内の社にして壱岐国廿四座の一なり。
元は神度丘と云う所(神度丘と 八剣山との間百七十間也但し田圃を越ゆ)に鎮座ありしと。
社記によると嵯峨天皇 弘仁二年(八一一)辛丑十月鎮座寛文十二年九月(一六七二)御殿の造営あり。元禄十三年(一七〇〇)今の地に遷し奉ると。

一、文徳天皇仁寿元年(八五一)正六位上に敍し奉り 陽成天皇元慶元年(八七七)中臣己部両氏を参向せしめて幣を奉る。
醍醐天皇延喜五年(九〇五)に至るまで十二 回神階を進め給う。
後鳥羽天皇元暦元年(一一八四)同増位 平家追討の御祈祷に依りて也。藩主の崇 敬厚き神社にして例祭日には代参奉幣の儀あり又祭日毎に祭米供進あり。

明治九年十二月四日 村社に列せらる。
正殿は明治十八年四月廿五日改築せるもの。
明治廿九年九月神輿を購入。
現社殿は大正三年春の新築なり。
拝殿に横額あり「忠孝」の二字あり。
享保七年五月(一七二二)之を掛くと。

現地案内板より

【由  (History)】

村社 弥佐支刀神社(旧号 八剣大明神)

由緒沿革
当社は延喜式内社にして壱岐国廿四座の一なり

一、壱岐に曰、弥佐支刀神社 志原村鳥山の剱の元在 所祭日本武尊也、内殿御殿 上屋 廊下 拝殿 神饌殿 俗称 八剱大明神

一、壱岐神社考云、弥佐支刀神社一座小、此神 景行天皇之御子 倭建命也 定祭九月二十一日、社領四斗と見えたり。

続風土記に曰、当社は延喜式第十神名帳下所載 壱岐島石田郡 弥佐支刀神社也 俗に呼びて 大明神と云う、始神度丘にあり云々、即 熱田大明神と御同体なり、故に社例伝記に八大明神と号す。

一、社記に曰、嵯峨天皇 弘仁辛卯月鎮座奉ると云う、当社は初め 同村 太刀丘に鎮座す 後元禄十三年今の地に遷し奉る云々。

一、文徳天皇 仁寿元年正月正六位上に叙し奉り給ひしより 醍醐天皇 延喜五年に至るまで神階を進められ給ふ事 式内小社の例に依れるを以て茲に之を略す。

一、当社は 藩主崇敬の社にして 例祭には代参奉幣の儀あり 祭日毎に祭米供進あり。

一、明治十二四日、村社に列せらる。

現地案内より

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

・石祠

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)石田郡 12座(大3座・小9座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 彌佐支刀神社
[ふ り が な ]みさきとの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Misakito no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

式内社 彌佐支刀神社(みさきとの かみのやしろ)の論社について

・彌佐支刀神社(壱岐市郷ノ浦町大原触)

・比賣神社(壱岐市芦辺町深江鶴亀触)

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

郷ノ浦港と印通寺港を結ぶ ちょうど両港の中間 R382号の志原信号の辺りで どちらの港からも車で8分程度

壱岐市立志原小学校の南西隣に鎮座します
小学校の校門前には 祠のある神池があります

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現在 ここ志原から内海湾(うちめわん)へ注ぐ幡鉾川と その支流が3~4km東側に在る 原の辻遺跡 までの間に広がりますが
太古には この流域が沼地のように広がる内海であったとされていて この内海を渡る「海辺の出崎の渡にして御埼渡(みさきと)」その岬にある式内社が彌佐支刀神社だと伝わっています
論社は 二つあります

彌佐支刀神社(壱岐市郷ノ浦町大原触)に参着

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石燈籠には 扁額が彫り込まれ 弥佐支刀神社 と刻字があります

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一礼をして 鳥居をくぐります

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鳥居扁額の文字は見えず

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境内の狛犬は なかなかの愛嬌を感じて 撮影しましたが 名工・山内利兵衛の作と云われているそうです

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拝殿にすすみます 拝殿に「忠孝」の二字横額あり

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『壱岐名勝図誌』〈文久元年(1861)に完成〉に記される伝承

巻11 志原村之部に 弥佐支刀神社は 八剱大明神と称されている 神度丘に鎮座していたが 今の地に遷座した と記しています

国立公文書館請求番号:176-0166-0011簿冊名:壱岐名勝図誌件名:壱岐名勝図誌11 目録情報URI httpswww.digital.archives.go.jpitem4294492

【抜粋意訳】

巻11 志原村之部

弥佐支刀神社 称は 八剱大明神 又は 劔

在 烏山劔元 例祭日九月二十一日

祭神 日本武尊

・・・・
・・・・
石橋 社前の川に渡せり
・・・・
弥佐支刀神社は 式の神名帳に所載にして 俗に八剱大明神と称す
〇神明品書云 紫原に東銘劔大明神云々 元は神度丘といふ所に 鎮座なりしと云々 然しとも今の地に遷し奉りし 年歴不詳 寛文十二 子九月 御殿造営なり 国司鎮信朝臣在判の棟札あり 村中の産神にして 例祭九月廿日夜 大神楽 廿一日国司代参奉幣なりて神輿を・・・・・・村中及び隣村の老君群参して市をたてる

【原文参照】

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 彌佐支刀神社は 志原村〈現 彌佐支刀神社(壱岐市郷ノ浦町大原触)〉と記しています

【抜粋意訳】

彌佐支刀神社

彌佐支刀は 假字也
〇祭神 詳ならず
〇志原村に在す 土俗 八剱明神と称す

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 彌佐支刀神社は 旧説では祭神は壱岐眞根子であったが 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 祭神は日本武尊となり 式内社として志原村〈現 彌佐支刀神社(壱岐市郷ノ浦町大原触)〉に所在するとなっているが疑わしい 他説もあるが確証もないので仕方がないと記しています

【抜粋意訳】

彌佐支刀神社

祭神
今按〈今考えるに〉
旧説 祭神 壱岐眞根子とし 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に日本武尊と云る 共に明証を得ず されど日本武尊は尾張熱田神宮の摂社に八剱神社あるより思ひよせたる説なるべければ信じがたし

祭日 九月廿一日
社格 村社
所在 志原村(石田郡志原村)
今按〈今考えるに〉
明細帳 長崎縣式内社記に志原村とす
神社考に延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に志原村の八剱大明神を彌佐支すふ刀を劔と考え式内の彌佐支刀神社とす 刀は劔にあらず 海辺の出崎の渡にして 則 御埼渡なり 其岬にある社なるべしと云る據ありて聞ゆ
されど式社沿革考に諸書 志原村とあれば今の社ならむと云り 故 今姑く之に従ふ

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承

式内社 彌佐支刀神社であり 俗称を大明神と云う めは 神度丘にあって 熱田大明神と御同体であるので 社例伝記に八大明神とされている と記しています

【抜粋意訳】

志原村ノ部  村社 彌佐支刀神社(旧号 八剣大明神)

鎭座地 志原村大原触字宮ノ原
 神 日本武尊
例祭日 十月二十一日 神幸式、神樂奉奏
特殊神事 十一月二十九日 御迎神事、大神樂奉奏
境内地 558

〔由緒沿革〕
当社は延喜式内社にして壱岐国廿四座の一なり

一、壱岐に曰、弥佐支刀神社 志原村鳥山の剱の元在 所祭日本武尊也、内殿御殿 上屋 廊下 拝殿 神饌殿 俗称 八剱大明神

一、壱岐神社考云、弥佐支刀神社一座小、此神 景行天皇之御子 倭建命也 定祭九月二十一日、社領四斗と見えたり。

続風土記に曰、当社は延喜式第十神名帳下所載 壱岐島石田郡 弥佐支刀神社也 俗に呼びて 大明神と云う、始 神度丘にあり云々、即 熱田大明神と御同体なり、故に社例伝記に八大明神と号す。

一、社記に曰、嵯峨天皇 弘仁辛卯月鎮座奉ると云う、当社は初め 同村 太刀丘に鎮座す 後元禄十三年今の地に遷し奉る云々。

一、文徳天皇 仁寿元年正月正六位上に叙し奉り給ひしより 醍醐天皇 延喜五年に至るまで神階を進められ給ふ事 式内小社の例に依れるを以て茲に之を略す。

一、当社は 藩主崇敬の社にして 例祭には代参奉幣の儀あり 祭日毎に祭米供進あり。

一、明治十二四日、村社に列せらる。

【原文参照】

『壱岐国神社誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1035221出版昭和16年(1941)著者 長崎県神職会壱岐支会 編 出版者 長崎県神職会壱岐支会

彌佐支刀神社(壱岐市郷ノ浦町大原触) (hai)」(90度のお辞儀)

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