巖鬼山神社(がんきさんじんじゃ)は 津軽一之宮「岩木山神社」の元宮とされています その由緒は古く 延暦15年(796)岩木山北麓に巌鬼山西方寺観音院が建立され始まりました 大同2年(807)征夷大将軍 坂上田村麿が 蝦夷平定祈願のために再建したと伝えられます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
巖鬼山神社(gankisan shrine)
(がんきさんじんじゃ)
[通称名(Common name)]
十腰内観音堂(tokoshinai kannodo)
【鎮座地 (location) 】
青森県弘前市大字十腰内字猿沢
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大山祇神(oyamatsumi no kami)
【御神格 (God's great power)】
・金運招福 Happy gold luck rise
・等 etc
【格 式 (Rules of dignity) 】
・津軽一之宮「岩木山神社」の元宮
【創 建 (Beginning of history)】
巌鬼山神社の由緒は古く、
延暦一五年(七九六)、岩木山北麓 に巌鬼山西方寺観音院が建立されたことに始まり、坂上田村麿 の蝦夷平定祈願のため再建されたと伝えられる。境内案内板 抜粋
【由 緒 (history)】
当神社は、桓武天皇の御世 延暦15年の草創なり、
大同2年 征夷大将軍 坂上田村麿公奥羽平定の時、霊験を蒙り当社を再建せり、爾来岩木山上の社殿を奥宮、当神社の下居宮と称せり、堀河天皇の御世寛治5年当神社より壱百の渓谷を越えて社殿を建立せしは、今の百沢岩木山神社にして壱百の沢を越えたるを以て百沢と称せり。
伝云、往時岩木山所大権現(岩木山・厳鬼山・鳥海山)と称せられたりと、厳鬼山には西方寺観音院を置き寺禄100石を賜る、
当社殿は慶長2年旧藩主津軽為信公改築せられるを、
元禄2年、安政元年、明治28年、大正10年の修繕を経て今日に至る。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・龍神社
・他
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
岩木山信仰について
岩木山(1625m)は そのお山の山頂形容が三つの峰に並び立ち
古来 神仏習合の中 ご祭神は「岩木山三所大権現」と称されて 本地垂迹説や熊野修験の影響がありました
それぞれの祭神とその本地仏が岩木山の三峰に対して 仏教の三身(sanshin)に通じてあてられていて お山自体が御神体として崇められていました
弘前側から見ると
・(左)鳥海山・・・「薬師如来」
・(中)岩木山・・・「阿弥陀如来」
・(右)巌鬼山・・・「観世音菩薩」
となって 長く山裾を引き「津軽富士」と呼ばれる秀峰です
しかし こうした信仰の以前(蝦夷討伐以前)にも お山を信仰した「アニミズム」(animism)が存在したであろうことは容易に想像できます おそらくは縄文期から神の坐ます山であったのでしょう
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
巖鬼山神社(gankisan shrine)の始りと観音堂
岩木山には 頂上に「奥宮」 「里宮」として山麓 (登山口) に「下居宮(おりいのみや)」 があります
「下居宮(orii no miya)」は
延暦15年(796)岩木山北麓に巌鬼山西方寺観音院が建立されたことに始まり 大同2年(807)征夷大将軍 坂上田村麿が 蝦夷平定祈願のために再建したと伝えられます
その時この地に「巌鬼山大権現」を本尊として祀ったとされ正式名称を「巌鬼山 西方寺 観音院 十腰内 観音堂」(gankisan saihoji kannonin tokoshinai kannondo)といいます
里宮(現 津軽国一之宮 岩木山神社)が 現在の百沢の地に定まったのは 1091 (寛治5) 年 または1336 (延元2) 年 と云われています それ以前は この地「岩木山北麓に鎮座」していて 神託によって100の沢を越えて移ったと伝えられ そのため百沢と呼ばれるようになったとのことです
里宮「下居宮(orii no miya)」の元宮は 弘前市十腰内の「巖鬼山神社」とされています
当時の里宮にあたる「下居宮」から 岩木山への登拝道は「大石口」であったらしく 大石口を中心にした岩木山北麓は 鬼が棲むという伝説もあって この地域が異界・冥界へ通じているとされていました
神仏習合の最盛期には 現在の百沢の地に遷座して 登拝道も百沢寺(現 岩木山神社)からが主流となっていきます
明治期の神仏分離令によって 「巌鬼山西方寺観音院」の名称は現在の「巌鬼山神社」に改称されました 本尊の「十一面観音」は 百沢寺(現 岩木山神社)に預けられていましたが 百沢寺が廃寺されたことによってに元に戻り ここに坐ます
御祭神は現在「《主》大山祇神(oyamatsumi no kami)」とされています
以前の御祭神は「《主》多都比姫神(tatsuhi hime no kami)」とされてい田とのことで どちらも 岩木山神社にも祀られている御祭神です
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神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
津軽五所川原駅から R101号経由 約17.5km 車30分程度
岩木山(1625m)の長く広がる岩木山裾野の北部に鎮座しています
巖鬼山神社(gankisan shrine)に到着
津軽地方では 未だに神仏習合が色濃く残りますが こちらも「津軽三十三観音霊場5番札所・巌鬼山神社」となっています
通称「十腰内観音堂(tokoshinai kannodo)」とも呼ばれています
正面の鳥居と社号標「巖鬼山神社」と朱色の大鳥居が建ち 鳥居の左手には「一千二百年記念」の石碑もあます
一礼して鳥居をくぐります 参道は 鬱蒼とした杉林へと通じています
すぐ右手に龍の口から湧水が流れ出ています
手水舎です 清めます
おそらく 目に効く湧き水があると云いますが ここでしょう
浅い階段と斜路の並行している参道を進みます
その先に 三連の朱色の鳥居が重なって建っています
三連鳥居を くぐり抜けると正面には拝殿が見えてきます
右手には境内社があります
参道横の朱色の鳥居をくぐり 下がったところに 龍神社と境内社があり お詣りをします
龍神社の前方には 湧水の龍神池があり
その池の左右に境内社が鎮座しています
表参道に戻ると 伸びをするような狛犬が構えています
右手先には 「狛犬」ならぬ「駒」に青色の装束が纏われています
正面拝殿に向かって左手には 杉の大木が二本立ちます 案内板によれば 昭和31年5月に県天然記念物に指定された大杉で 樹齢千年以上 高さ41mを越える巨大なもので青森県内最大 三十三観音の巡礼者をはじめ多くの人々の信仰を集めているそうです
鎮守の杜そのものです 鬱蒼としているのに 清々しくとても気持ちがいい
目の前に拝殿があります
拝殿にすすみます 扁額には「奉納 巖鬼山神社」とあります
扉を開くと 畳敷きの拝殿となっていますが 明らかに修験の名残りがある形態で 神仏習合です 室内中央の扁額には「巖鬼山」とお山の名のみが記されます
その他の額は「巖鬼山神社」とありますが
別の額絵は「岩木山を中心に赤倉龍神と中野不動明神と土代主大神」 横に「鬼」が掛けられています
さらに「奉納 津軽霊場第五番 十腰内 観音堂 御詠歌」なる経のような奉納物も掲げられています
通常の神社とは様相が違いますが
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
御本殿は 一段高い境内にあり 観音堂になっています
石段を上り 賽銭をおさめ 改めてお祈りをします
拝殿前に戻ります
杉に囲まれた参道を進み 境内を後にします
鳥居をくぐり 振り返り一礼
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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
岩木山の北麓にある「鬼人」の伝承
巖鬼山神社(gankisan shrine)は 現在の岩木山神社の元宮です 周辺には「鬼」にまつわる伝説が多々あります
角川書店(著者)森山 泰太郎・北 彰介『日本の伝説25 青森の伝説』より 3話
・赤倉の大人(おおひと)の伝説
「岩木山を弘前から望むと 山の字形に三つの頂が並んで見える 右の頂の岩鬼山(がんきさん)に赤倉沢があり ここに鬼神が隠れ住むという これをこれを赤倉の大人(おおひと)とか 山の爺(おつこ)と呼んで 山仕事をする者たちは恐れ敬っている大人の身長は 見上げるほど高く 痩せ黒ずんだその姿を見ただけで 恐怖のあまり病になる者もある しかしこれと馴れ親しんで 酒魚など与えると その返礼として山の木を根こそぎにしてくれたり マダ(シナの木)の樹皮をはいで 馬二 三頭に積むほどの量をかかえて持ってきてくれたりするともいわれている」
・岩鬼山神社の境内にあるアクド(踵の津軽方言)石
「岩鬼山神社は、岩木山神社の発祥の地といわれ、大同二年(807)に、坂上田村麻呂が創建したと伝える古社である。境内にアクド(踵の津軽方言)石というのがある。岩木山に住む鬼が、ここに来て休んだときの足形だというのがついている。」
・鬼神太夫(kijin tayu)という剛力を持った刀鍛冶の伝説
「この近くの十腰内(とこしない)部落に地名伝説がある。昔ここに、鬼神太夫という剛力無双の刀鍛冶がいた。あるとき十振(とふり)の剣を打ち出して自慢していた。するとそのうち一振が飛び上がって、杉の木のこずえに掛かって輝き渡った。村人はこれを神とあがめたが、十振無いところから、部落の名が十腰内になったという。」
JTB (著者)内藤正敏『日本「異界」発見』より 1話
十腰内(とこしない)という地名に関しての伝説
・鬼神太夫(kijin tayu)という剛力を持った刀鍛冶
「昔 鬼神太夫という怪力の刀鍛冶がいた この鬼神太夫が 桂山の刀鍛冶長者の娘に惚れ込み 長者に 娘を嫁にくれと申し込んだ
娘をやりたくない長者は 鬼神太夫に「一晩で十腰(本)の刀を鍛えることができたら娘をやろう」と難題を出した もちろん そんなことは到底できないと踏んでのこと
ところが 鬼神太夫は真に受けて 本当に一晩のうちに十本の刀を鍛えてしまった長者は驚くと同時に困って そのうち一本を盗み出し 鳴沢川に捨ててしまった
鬼神太夫は九本しかない刀を何度も数え「十腰ない、十腰ない」と呟きながら恨めしげに去っていった」そこで この地は「十腰無」→「十腰内」となったと伝わり 刀の1本は 神社に伝えられていると云います
これが「十腰内」という地名の由来です
鬼神太夫(kijin tayu)の話に似ている話が「青森市役所ねぶた実行委員会」に掲載されていましたので ご紹介します
・「津軽鬼神伝 名刀鬼王丸」の伝承について
昔、岩木山の麓に美しい娘を持つ腕の良い刀鍛冶がおり、一晩で十振り(十腰)の刀を打てる男に娘を嫁がせ、跡継ぎにしようと決めていた。
ある日、刀を打つという見たことのない若い男が訪れ、鍛冶場で刀を打ち始めた。
娘が鍛冶場を隠れ覗くと、その男は口から火を吹きながら刀を鍛える鬼神であった。娘は、鬼神が十振りの刀を打ち終え眠ったすきに一本の刀を納屋に隠してしまう。朝になり、鬼神が刀鍛冶の前で刀の本数を数えると、十振りあるはずの刀が九振りしかなかったため、「とうこしない(十振り無い)」と叫んで逃げ去ったという。
娘が隠した刀は鬼神の名を取り「鬼王丸(きおうまる)」と銘打たれ、巌鬼山神社に奉納された。以来、この地区を十腰内(とこしない)と呼ぶようになったという。
このねぶたは、鬼神「鬼王丸」が刀を鍛えている姿を刀鍛冶の守護神である金子神(かなやこのかみ)が見つめている様子を表したものである。
青森ねぶた祭実行委員会事務局HPより
http://www.nebuta.jp/archive/nebuta/2009shiyakusho.html
津軽一之宮「岩木山神社」の元宮とされています その由緒は古く 延暦15年(796)岩木山北麓に巌鬼山西方寺観音院が建立され始まりました 大同2年(807)征夷大将軍 坂上田村麿が 蝦夷平定祈願のために再建したと伝えられます
巖鬼山神社(gankisan shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
岩木山神社の記事もご覧ください
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岩木山神社(弘前市)〈津軽國一之宮・日本の北門鎮護〉
岩木山神社(いわきやまじんじゃ)は 宝亀11年(780)岩木山の山頂に社殿を造営したのが起源と云われ 延暦19年(800)征夷大将軍の坂上田村麿公が 蝦夷平定祈願達成の御礼に山頂の奥宮を再建した 本州最北の位置する青森県に鎮座する威容を誇る名社として 異名を「日本の北門鎮護」と呼ばれます
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