鳴無神社(須崎市浦ノ内)

鳴無神社(おとなし じんじゃ)は 土佐神社(土佐国一之宮)の元宮とされています 伝説によれば 土佐に流されて浦ノ内湾に漂着した「一言主命」を奉斎したのが鳴無神社の始りです ここから祀り変える地を選ぶために「一言主命」が投げた大石が 落ちた所が 土佐神社境内の礫石と伝わります

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name)】

  鳴無神社(otonashi shrine)
       (おとなし じんじゃ

 [通称名(Common name)]

 【鎮座地 (location) 】

  高知県須崎市浦ノ内東分鳴無

 [地 図 (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》一言主命(hitokotonushi no mikoto)
   級長津彦命(shinatsuhiko no mikoto)
   級長津姫命(shinatsuhime no mikoto)

【御神格 (God's great power)】

・海上安全 Maritime safety
・漁業繁栄 Prosperity of the fishery
・五穀豊穣 Pray for good harvest
・産業繁栄 Industrial prosperity
・縁結び Deepen connections and intimacy with people
・子孫繁栄 Prosperity of descendants

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
・ 土佐国一之宮「土佐神社」の元宮

【創 建 (Beginning of history)】

 鳴無神社 社殿

昭和28年3月、国の重要文化財指定

祭神・一言主命(味鉏高彦根命 あじすきたかひこねのみこと)
創建・1500余年前と伝えられる

社殿は古来度々建て替えられたが、
現社殿は山内二代藩主 忠義公が寛文二年(1663年)再建。
その後、腐朽し昭和31年~32年解体修理。工費約740万円。

本殿は二間四面の春日造、こけら葺。極彩色内陣、天井に天女の舞の絵(伝、村上龍円、筆)幣殿、拝殿は切妻造、こけら葺、

祭礼・8月25日、志那祢祭、海上御神幸
   旧8月23日、秋祭、神踊を奉納
社宝・鍔口、寛文三年の銘(重要文化財、県文化財)
   八角形漆塗神輿、石灯籠、手洗鉢並びにツゲモチは共に市指定文化財
防火施設、火災警報装置、水道工事と放水装置など、昭和46年5月完備した。
昭和54年10月5日 須崎市教育委員会 高知県文化基金附帯事業

境内案内板より

【由 緒 (history)】

由緒掲示板 
当社祭神は土佐神社と同神にして(土佐神社は 鳴無神社の別宮)
雄畧天皇22年この地に御祭神あり、
土民13人御舟金剛丸と共に迎え来て、高加茂大明神と崇称し鎮祀する。

後、200余年白鳳13年8月14日地震のため当郷の地大半1度海底に沈みしため、今の地に社殿を設け和鎮す。

当社は、この地方の豪族近藤、大平2氏の尊崇篤く 長宗我部氏、山内氏引き続き社殿の造営等あり。非常に崇敬したと云う。

現在社殿は 寛文3年土佐2代藩主山内忠義公の造営せしものである。
昭和21年宗教法人令により神社本庁所属

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【境内社 (Other deities within the precincts)】

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 この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29
     (うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)土佐国 21座(大1座・小20座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)土佐郡 5座(大1座・小4座)

[名神大 大 小] 式内大社

[旧 神社名 ] 都佐坐神社(大)
[ふ り が な  ](とさにます かみのやしろ)
[How to read ](tosani masu kamino yashiro) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

鳴無神社(otonashi shrine)の祭りについて

例大祭「志那禰祭(しなね祭)」(毎年 8月24日・25日)

「志那禰祭(しなね祭)」は 土佐神社と鳴無神社(otonashi shrine)との故事の祭りです 土佐神社に遷座した御祭神が元宮へ神幸する御神事でした

土佐神社から鳴無神社の神幸は 江戸時代に しばしば海難に遭ったためとり止められて 今は双方の神社で各々に祭りが催行されています

鳴無神社(otonashi shrine)では 24日は宵祭り(前夜祭)25日に本祭です 祭りは今でも 漁船3隻に神輿を乗せ供船として漁船20を従え大漁旗をなびかせて海上を船渡御が行われています

秋大祭「古例祭 チリヘッポ」 旧暦8月22日・23日

秋の大祭「五穀豊穣への感謝」として9月に催行されます

この祭りの特徴は 「チリヘッポ」と呼ばれ 幼い男の子と女の子を「神の子」として 神様の前で結婚させる古神事です

9人のチリヘッポが 歌を歌いながら境内を練り歩き その中の行事(男の子)と斎女(女の子)が三三九度を行うというものです

これは 里人が 収穫の御礼と縁結びや子孫繁栄を祈願した秋大祭となっていて それが縁結びのご利益と深い関係があると伝わります

令和の縁結びにご利益あり

鳴無神社(otonashi shrine)は 様々な縁結びにご利益ありとされます

特筆すべき 令和の時代の縁結びとしてお話があります

第126代 徳仁天皇陛下と皇后雅子さまが ご成婚の以前のことです
宮内庁の側近が 鳴無神社で縁結びの祈願を行ったところ 願いが叶いご成婚になられたというものです
日本国民にとって 大切な縁結びのご利益を頂けたことになります

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

高知駅から R56号経由 約37km 車60分程度
浦ノ内湾の奥 鳴無地区に鎮座します

海から 船で参拝するように造られた神社ですので 車では 湾をぐるりと回る感じで道を進み反対側迄向かいます 途中「くろしお奥の院」の案内板があります

湾内は 波一つなく べたなぎの状態で美しい景色 全くの別世界に旅しているような感覚になります 

カニも防潮堤の上にいて逃げません

穏やかな海と防潮堤沿いの道路を進むと 遠くから見えていた赤い鳥居が近づいてきます

赤い鳥居より手前に「竈荒神社」が鎮座します 
祓い清めのお詣りをします

車両は この赤い鳥居の手前にあるスペースに停車するように案内があります

鳴無神社(otonashi shrine)に到着

赤い鳥居をくぐると 右手に鳴無神社境内があらわれます 左手には 防潮扉と 海のすぐそばに石鳥居が建っています

神社の前にある 防潮堤は開放されています 

例大祭「志那禰祭(しなね祭)」では 海上からの船渡御が この桟橋上から境内に上がるのでしょう 船止の石柱と石鳥居が建立されています

これは 遠い昔 都を逃れこの場所に流れ着いた「一言主命(hitokotonushi no mikoto)」が こちらに上陸した由縁に従っているのでしょう
鳴無神社の参道は 本来は「海」なのでしょう 又 かつては道路もなく ご参拝は対岸から船であったとのことです

自家用車で参りましたが 正規の順路を重んじて 海上からの道順として 桟橋から お詣りを始めます

それにしても 美しい景色です ここに神が留まったことが当然のように感じられます

桟橋に建つ「二の鳥居」には 榊が祀られ 注連縄が掛かり 扁額に「鳴無神社」とあります
一礼してくぐります

参道は 真っ直ぐに社殿に延びています 社殿は海に向かい北西に建っています 境内は 低い玉垣内に囲まれて 入口に「三の鳥居」が建ちます 

やはり 榊が祀られ 注連縄が掛かり 扁額に「鳴無神社」とあります 手入れと信仰心が手に取るように伝わります

再び 一礼して鳥居をくぐると 左手には 社号標「重要文化財 鳴無神社」とあります

右手には「手水舎」があり 清めます

水と言えば 拝殿に向かって右脇に井戸があります
この辺りには 池や川が無いので 海辺で真水の出る井戸は 非常に貴重で重要な意味を持っていたと想像できます ありがたい水所に神が坐ましたのでしょう

正面参道の石灯篭の間には 古めかしい狛犬が構え なんとも風情があります

境内の右手には 藤原家隆の歌碑 があり 歌碑説明板があります

 土佐の海に御船浮べて遊ぶらし

       都の空は 雪解のどけき

この歌は、平安時代の歌人 藤原家隆朝臣が、京の都よりお船遊びの状を想い浮べて詠じた歌である。

そのお船遊びは、今から千二百四十年余前(七五九)より鳴無神社の神事として始まり、
高知市一宮土佐神社も御神幸になり、共に浦ノ内湾いっぱいの賑やかなお船遊びとなった。
全国にも名高きものとなり、京の都から 和邇部用光(わにべの もちみつ)等有名な楽人も時々下向し、楽を奏じて祭典に奉仕された。

平成十三年五月吉日 歌碑奉納 高知市塚原  野崎 貢

境内案内板より

 拝殿にすすみます

土佐藩主・山内家の家紋「丸三葉柏紋(maruni mitsubakashiwa mon)」が金色にあしらえてあります

扁額には「鳴無神社」とあります

賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

拝殿の奥本殿は 柱は朱塗り 貫 組物などには美しい極彩色が施されています 

本殿・幣殿と拝殿とともに国の重要文化財に指定されています

本殿正面と左右長押上の彫刻類は実に見事です

拝殿前に戻り振り返ると 海に向かって伸びる参道と鳥居 その先にある静かな海から・・・・まるで 今 神様が上がってこられても なにもおかしくはないなと 感じつつ参道を戻ります

三の鳥居をくぐり 振り返り一礼します

やはり もう一度 桟橋の先端まで 戻りたいと想い 二の鳥居をくぐり抜けます

改めて「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『釈日本紀(shaku nihongi)』巻12 一言主神条 の伝承について

鎌倉時代末期に成立した『釈日本紀(shaku nihongi)』に「一言主神」について記されています

要約

 一事主神

神名帳いわく
大和国葛上郡葛木坐 一事主神社 名神大 月次新嘗

古事記いわく・・・・・・・・・・・・・・

土佐国風土記いわく
土左の郡 郡家の西のかた去(ゆ)くこと四里にあり
土左の高賀茂の大社(おほやしろ) その神の名を「一言主尊(hitokotonushi no mikoto)」とせり
その祖(mioya)は 詳かにあらず
一説(aru tsutahe)にいわく 大穴六道尊(ohoanamuchi no mikoto)の子 味鉏高彦根尊(ajisuki takahikone no mikoto)なりといふ 

雄略天皇(第21代)4年2月
天皇が大和葛城山にて狩りをしていると 天皇は一言主神と出逢います その不遜な言動により一言主神を土佐に流しました

流された一言主神は 土佐において初めは「賀茂之地」に祀られます のちに「土佐高賀茂大社」(現在の土佐神社)に遷祀されます

そして 天平宝字8年(764年)に賀茂氏の奏言によって 一言主神は大和国の「葛城山東下高宮岡上」(現在の一言主神社)に遷されます

しかし その和魂は 今もなお土佐国に留まり祀られています 」

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『釈日本紀』文永元年(1264年)~正安3年(1301年) 写本(模写本)明治 著者:卜部懐賢
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

土佐神社(土佐国一之宮)の元宮とされています 伝説によれば 土佐に流されて浦ノ内湾に漂着した「一言主命」を奉斎したのが鳴無神社の始りです ここから祀り変える地を選ぶために「一言主命」が投げた大石が 落ちた所が 土佐神社境内の礫石と伝わります

鳴無神社(otonashi shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

土佐神社の記事もご覧ください

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土佐国 式内社 21座(大1座・小20座)について に戻る 

 

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