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軽野神社(伊豆市)

軽野神社(かるのじんじゃ)は 『日本書紀(にほんしょき)』応神天皇 5年10月の条 に「伊豆国に造船を命じた 長さ十丈(約30m)試しに海に浮かべると 軽くてよく走るので その船を『枯野(カルノ)』と名付けた」とあり これが狩野(カルノ)郷の語源であると言われています

満宮神社(田方郡函南町)

満宮神社(まんぐうじんじゃ)は 第84代 順徳天皇の著『八雲御抄(yakumo misho)』〈鎌倉時代〉の歌論書に「伊豆国 田方郡(たがたのこおり)」にある鎮守の杜を指す言葉として「田方の杜(たがたのもり)」と称されたとする伝承があります 「田方の杜(たがたのもり)」ですから 田方郡でも 重要な神社として認識されていたであろうことが伺えます

浅間神社(笛吹市一宮町一ノ宮)〈甲斐國一之宮・延喜式内社〉

浅間神社(あさまじんじゃ)は 社伝には 第11代 垂仁天皇8年(約2000年前)山宮神社の地に3柱の神を祀り創始されます その後〈富士山〉貞観大噴火時〈貞観7年(865)〉鎮火神として木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)1柱を現在地に遷座し創建されたと云う 国府も近く 甲斐國一之宮とされる延喜式内社 名神大社です

若宮神社(三宅島 阿古)

若宮神社(わかみやじんじゃ)は 三島大明神の随神四神の一柱「若宮(Wakamiya)」が祀られています 島では この随神4柱を祀る神社を通称「四社の宮」と云います 鎮座地は 阿古地区にあるスコリア丘〈噴石丘〉頂上の火口跡にあり おそらく 噴火前に「若宮」の元宮が鎮座していた場所(噴火の為不明)なのだろうと思います

藤島神社(岡谷市)

藤島神社(ふじしまじんじゃ)は 伝説によれば 諏訪入りした外来勢力の諏訪明神「建御名方神(たけみなかたのみこと)」と先住の神「洩矢神(もりやのかみ)」が争った 諏訪明神(藤島明神)の伝承の地とされます 「藤島社」は 中世~近世以降 天竜川のほとり 三沢村の荒神塚〈石室を備えた円墳「荒神塚古墳(Kojinzuka kofun)」の跡に鎮座している〉とされています

雲見浅間神社(松崎町雲見)

雲見浅間神社(くもみせんげんじんじゃ)は 伊豆半島の最西端の雲見海岸に聳える烏帽子山(162m)に鎮座します ・山麗には「拝殿」・中腹には「中之宮」・山頂付近には「本殿」があり 全国の浅間信仰の神社(約1,300社)の中でも 祭神として「磐長姫命(いわながひめのみこと)」一柱のみを祀る 大変珍しい祭祀形態の神社です

坪田観音【旧蹟 伊波耶観音神社】(三宅島 坪田)

坪田観音(つぼたかんのん)は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の由緒(格式ある歴史)を持っています 現在は「二宮神社(坪田)」に合祀されている「伊波比咩命神社(いはひめのみことの かみのやしろ)」の当初の鎮座地であると云われる「伊波耶観音神社(いわのかんのんじんじゃ)」の旧蹟です 

伊豆田神社(土佐清水市)

伊豆田神社(いつたじんじゃ)は 『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載される由緒(格式ある歴史)を持っています 土佐国に鎮座しますが 伊豆の名を持つ 不思議な古社です

西之御門宮(三宅島 阿古)

西之御門宮(にしのみかどのみや)は 『三宅記(みやけき)』に 三島大明神(みしまだいみょうじん)が 随神 若宮(わかみや)のカツオ漁 をご覧になられた場所として登場します 若宮は 末世の為にと 鹿の角で作った疑似餌漁〈ルアー釣り〉で カツオを豊漁とし 人間たちに漁法を伝授しました 阿古地区では今でも 新造船はこの場所に船を回して 海上から「富賀神社(とがじんじや)」もしくは「雄山」を遥拝して 豊漁祈願をすると云われています

廣瀬神社(伊豆の国市)

広瀬神社(ひろせじんじゃ)は 古来より 田中郷5ヶ村の総鎮守で『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社です 社伝によれば 往古 社殿は 金銀をちりばめ壮大にして 禰宜36人 供僧6坊を置き 神領8町8反大50歩永80貫文を充てられ 隆盛を極めたとされ 三島大社はその昔 下田の白浜から この地に移り その後に三島に遷祀したと伝わります

火戸寄神社(三宅島 阿古)

火戸寄神社は 「ホドリ」という社名です 三宅島では 噴火の噴気孔を「ホド」と呼ぶことから 山側にある「コシキ山噴火口(三宅島火山)」を祀る神社ともいわれています

荒島神社(三宅島 阿古)

荒島神社(あらしまじんじゃ)は 富賀神社(Toga Shrine)の旧鎮座地です もとは 雄山の八合目あたりの地に鎮座しましたが 噴火により本殿を焼失し その後 古錆浜にある荒島神社の二島山(ニシマヤマ)あたりへ移り さらに現在の富賀神社の地へ遷座したと伝わっています

二宮神社(三宅島 坪田)

二宮神社(にのみやじんじゃ)は 現在の鎮座地には 元は「管原神社」がありました 昭和29年(1954)に「二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)」を合祀して神社名が「二宮神社」と改称され 同じく 昭和29年(1954)には 坪田集落周辺の「4つの式内社の論社」が合祀され 現在に到っています

恵比須神社(下田市須崎 恵比須島)

恵比寿神社は 下田市須崎の恵比須島(Ebisujima lsland)の頂上に鎮座しています 古代の人々が「海神(Watatsumi)」や「伊豆諸島の島神(Shimagami)」に祈りを捧げた場と考えられています 付近には 古墳時代~奈良時代の祭祀跡(Saishi Remains)(焚き火の跡等)が発見され「夷子島遺跡(Ebisjima Remains)」として下田市の文化財に指定されています

王子神社(南伊豆町)&(八幡神社(長鶴村))

王子神社(おうじじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載「穂都佐氣命神社(Hotsusake no mikoto no kamino yashiro)」の論社です 御祭神の別名は「満寧子(manneiko)」or「酒王子(Shuoji)」と呼ばれます 神社名称の「王子(おうじ)神社」とは ここから来ているのだと思われます

久良濱神社〈高山様 出張〉(三宅島 坪田)

久良浜神社〈高山様 出張〉〈たかやまさま でばり〉は 昭和15~16年頃(1940~1941)二宮神社(坪田)に合祀された「久良濱神社(くらはまじんじゃ)の遥拝所」です 「久良濱神社」は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の比定社で 由緒(格式ある歴史)を持っています 島民は「高山さん」は非常にこわい神様だとして恐れ 「出張〈でばり〉」からおまいりし 本殿「高山さん」には足を踏み入れたことはない ということである

三島神社(南伊豆町入間)

三島神社(みしまじんじゃ)は 『豆州志稿(ずしゅうしこう)』〈江戸時代 寛政12年(1800)編集〉に 鎌倉時代末(1320年頃)修復の棟札がある と記されている古社です 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の 伊豆国 賀茂郡 穂都佐氣命神社(ほつさけのみことの かみのやしろ)の論社ともされています

走湯神社(下田市大賀茂)

走湯神社は 「(そうとうじんじゃ)or(すとうじんじゃ)」と呼ばれます 『南国伊豆の昔話』によれば 蓮台寺の神様と お湯の取り合いをして 走り戦いましたので「走湯」というと云われています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の由緒(格式ある歴史)を持っています

富賀神社(三宅島 阿古)〈延喜式内社 阿米都(和)氣命神社の論社〉

富賀神社(とがじんじゃ)は もともとは 峯富賀平(雄山の8合目付近)に鎮座するも 噴火により 二島ヶ山(新富賀山(二富賀山)古錆浜の荒島神社へ遷座し その後 現在地の富賀山(海抜60.4m)中腹に鎮座したと伝わります 古来より伊豆七島の総鎮守「三島大明神」として 伊豆の三島大社の祭神の発祥地だとする説もあります

差出神社(三宅島 錆ヶ浜)

差出神社(さしでじんじゃ)は 『三宅記(みやけき)』に記されている「大蛇退治の伝承」に登場する「剣の御子」が 当社の御祭神「剣の神(Tsurugi no kami)」のこととされています 「剣の御子」は その剣で 大蛇を最初に退治したと記されていて 当社が鎮座する「錆ヶ浜(さびがはま)」の名前の由来は この 剣刀の錆 を落としたことに 由来すると云われています

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