鹿島神社 & 医薬神社(国見町藤田町尻二)

鹿島神社(かしまじんじゃは 縁起に「常陸国より守護神として鹿島明神を勧請し当地古鹿島に安置す」とあり 享保十年1725古鹿島の地から現境内に遷座と伝わり 医薬神社(いやくじんじゃ)は 明け薬師縁起に「天長の頃 空海上人巡礼のおり 眼病流行に苦しむ里人を救わんと 霊石に薬師如来を刻し 現在地に祀った」とあり 明治元年1868明け薬師の名称を医薬神社と改称 鹿島神社に合祀されました

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

鹿島神社(Kashima shrine) & 医薬神社(Iyaku shrine)

 [通称名(Common name)]

薬師様(やくしさま)
・藤田 鹿島神社(ふじた かしまじんじゃ)

【鎮座地 (Location) 

〒969-1761 福島県伊達郡国見町藤田町尻二38-1

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

〈鹿島神社〉
《主》武甕槌神(たけみかづちのかみ)

〈相殿 醫薬神社
》大名持神(おほあなもちのかみ)
   少彦名命(すくなひこなのかみ)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

強い心の持ち主、強い身体の持ち主にならせ給えと祈ること鹿島神社
・眼病平癒〈医薬神社

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

鎮守 鹿島神社 医薬神社 由緒

鹿島神社 例大祭十月十九日二十日

祭神 武甕槌神
 高皇霊神と皇祖天照大神の命を奉じ国土の建設と開国に力をつくし、国家統一の大功をたてられた神で、信仰の根源は、強い心の持ち主、強い身体の持ち主にならせ給えと祈ることにある。

由緒
 鹿島神社縁起によると、「奈良朝のころ按察使 兼 鎮守将軍 大野朝臣 東人蝦夷平定のため東征のおり、常陸国より守護神として鹿島明神を勧請し当地に安置す」とある。この鹿島明神の位置は、現在の字古鹿島として地名が残っている所である。永録年間に社殿が焼失したが、次の慶長年間に社殿が再建され、降って享保十年、古鹿島の地から現境内に新築遷座された。現在の社殿は、明治十四年十二月に改築、その後、本殿、幣殿は、明治維新百年を記念し、昭和四十五年十月に 改築されたものである。

医薬神社 例大祭八月七日日

祭神 大名持神 少彦名神
 両神とも、日本国土を開拓し、人々に生業を与え、医薬を教え、病気より守り給う神である。

由緒
 明け薬師の略縁起によれば、「天長の頃、空海上人巡礼のおり、この地の眼病流行に苦しむ里人を救わんと、霊石に薬師如来を刻し、現在地に祀った。里人祈願するに夜の明くるが如く平癒するあり、ために明の薬師と称ひ、里人一宇を建て尊像を安置し奉る。のち、兵火により焼失し、度々修築せしも荒廃、尊像むなしく露されること久しく、故に、裸薬師と言い伝えられた」とある。

 明治元年、神社行政の改革により、明け薬師の名称を医薬神社と改称、鹿島神社殿内に合祀された。

主な 年中行事
元  旦  祭 一月一日
鹿島神社例大祭 十月十九日
厄  祓  祭 一月十五日
鹿島神社神幸祭 十月二十日
祈  年  祭 二月十一日
七 五 三 祭 十一月十五日
建  国  祭 二月十一日
新  嘗  祭 十一月二十三日
竹駒稲荷神社例大祭 四月二十三日
年 越 大 祓 十二月三十一日
夏 越 大 祓 七月三十一日
医薬神社例大祭 八月七日

鹿島神社宮司識

神の恵み祖先の恩とに感謝し 明き清きまことを以て祭祀にいそしむ

世のため人のために奉仕し 神のみこともちとして世をつくり固め成す

大御心をいただきてむつび和ぎ 国の隆昌と世界の共存共栄とを祈る

現地案内板より

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【由  (History)】

由緒

鹿島神社縁起によると、
「奈良朝8世紀のころ按察使兼鎮守将軍大野朝臣東人、蝦夷平定のため東征のおり、常陸国より守護神として鹿島明神を勧請して当地に安置した」とある。このとき祀た鹿島明神の位置は、現在も古鹿島として地名が残っている。
永録年間に社殿が焼失したが、慶長年間に再建された。下って享保10年9月7日(1725)、現在の地に遷座された。
延喜式内社ともいわれているが定かではない。相殿に医薬神社が祀られている。現在の社殿は明治14年12月に改築され、その後、本殿、拝殿は明治維新百年を記念し、昭和45年10月に改築された。社殿には、有晒川織仁親王御染筆の奉額「鹿島神社」・「医薬神社」(原本は2巻の掛物として保存)が掲げられている。このほか、薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、十二将神木像(江戸初期の作)が安置されている。
境内には近世における南画の大家として知られた熊坂適山(寛政8年保原に生まれる)の画碑が建っている。
また、相殿の医薬神社は、明け薬師縁起によると、「天長(9世紀初期頃)空海上人巡礼のおり、この地の眼病流行によって苦しむ里人を救わんと、霊石に薬師如来を刻し現地に祀る。里人一宇を建て尊像を安置し奉った。のち兵火のため焼失し、尊像のみが雨露にさらされている期間が長かった。よって裸薬師と言い伝えられた。」とある。明治元年、医薬神社と改称し、鹿島神社内に相殿として合祀された。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【境内社 (Other deities within the precincts)】

竹駒稲荷神社《主》倉稲魂命〈拝殿向かって左手前〉

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八幡神社〈本殿向かって右奥〉

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

・旧鎮座地(藤田古鹿島

〈藤田 古鹿島として地名が残っている〉現在地より東東北へ250m

Google Mapより

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承

第50代 桓武天皇 延暦元年 凶賊を征伐する事を鹿嶋神に祈り 神験あるため 勲五等及び本国の封に戸を授かったと 記されています

【抜粋意訳】

延暦元年(七八二)五月壬寅二十〉の条

○壬寅 陸奥国言 祈祷鹿嶋神 討撥凶賊 神験非虚 望賽位封 勅奉 授勲五等 封二戸

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『続日本紀』延暦16年(797)選者:菅野真道 写本 慶長19年[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)信夫郡 5座(大1座・小4座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 鹿神社
[ふ り が な ]かしまの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Kashima no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

香取・鹿島の御子神(みこがみ)苗裔神(びょうえいしん)〉について

古代の日本は 尾張より東は東国で蝦夷の住む処でした 東へ拡大する大和朝廷の歴史は 東国の蝦夷との軋轢の歴史でもあります
関東地方まで勢力を伸ばした大和朝廷は 奈良時代頃~平安初期頃までには 奥州の制圧を目指し 蝦夷(えみし)征伐や移民政策を推し進め 古代日本の中央集権体制を目指しました

このことから東北地方平定には軍神」として 御神威のある香取・鹿島の神を奉じて 蝦夷征討軍が派遣されました

香取・鹿島の地は 東国〈関東〉の水上交通の拠点とされ 霞ヶ浦〈鹿島・香取の海〉から奥州〈東北地方〉開拓へ 太平洋海上を北へと遡っていったもの考えられています

こうして 香取神宮・鹿島神宮の苗裔神(びょうえいしん)御子神(みこがみ)〉が 奥州開拓の拠点として 太平洋沿岸地域および阿武隈川・旧北上川などの大河川の流域各地に祀られていきました

平安時代中期の延喜式神名帳927 AD.記載 奥州〈東北地方〉の 香取神宮・鹿島神宮の分祀と考えられる神社

大和国の東の涯(はて)に鎮座した香取・鹿島の2神宮は 古来より大和王権との繋がりが深く 平安時代中期の延喜式神名帳927 AD.には 伊勢・香取・鹿島の3神のみが“神宮”と記載されるほどの高い威を誇りました

その御神威を背景として 奥州〈東北地方制圧が行なわれていったのでしょう 香取神宮・鹿島神宮の分祀苗裔神を祀るこれらの分社 蝦夷征討軍によって分祀されたものと考えられています

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『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国香取苗裔神式内社2社の論社

〈本宮〉 香取神宮(名神大 月次 新嘗)(かとりの かむのみや) 

・香取神宮(香取市)下総国一之宮 

 

牡鹿郡(をしかの こおり)香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)

・香取伊豆乃御子神社(石巻市折浜竹沢)

・和渕神社(石巻市和渕町)

栗原郡(くりはらの こおり)香取御兒神社(かとりみこ かみのやしろ)

・香取御児神社〈旧鎮座地〉(栗原市築館久伝)

・香取御児神社〈鹿島神社に合祀〉(栗原市築館黒瀬後畑)

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『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国鹿島苗裔神式内社8の論社

〈本宮〉 鹿島神宮(名神大 月次 新嘗)(かしまの かむのみや) 

・鹿島神宮(鹿嶋市)常陸国一之宮 

黒川郡 鹿島天足別神社(貞)(かしまあまたりわけの かみのやしろ)

・鹿島天足別神社(富谷市大亀)

曰理郡 鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)

・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山) 

・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島) 

・月山神社(亘理町吉田作田)
〈亘理町吉田字作田に鎮座の鹿島社を合祀〉

曰理郡 鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)

・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山) 

・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島) 

曰理郡 鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)

・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島) 

・八雲神社(亘理町)
〈鹿島天足和気神社の旧鎮座地三門山に祀られていた石祠が境内に祀られている〉 

信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)

・鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑) 

・鹿島神社(福島市小田鹿島山) 

・鹿島神社(福島市岡島竹ノ内) 

・鹿島神社(伊達郡国見町藤田町尻二)

磐城郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)

・鹿島神社(いわき市常磐上矢田町)

牡鹿郡 鹿嶋御神社(かしまのみこの かみのやしろ)

・鹿島御児神社(石巻市日和が丘)

行方郡 鹿嶋御子神社(かしまみこの かみのやしろ)

・鹿島御子神社(南相馬市鹿島区鹿島町) 

一緒に読む
鹿島御子神社(南相馬市鹿島区鹿島町)

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・鹿島御子神社旧蹟碑(南相馬市鹿島区鹿島町)

『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922国立研究開発法人 科学技術振興機構〉に 記される 苗裔神(びょうえいしん)について

悪路王(あくろおう) 鎌倉時代に記された東国社会の伝承に登場する陸奥国の〈実在とも伝説上とも〉人物とされます
別名として 悪来王 悪毒王 阿久留王などとも記されています

鎌倉時代以降の 鹿島神宮や鎌倉幕府など東国社会の文献に 名前が登場し『鹿島神宮文書』では「悪来王」が藤原頼経によって討たれたと記され
『吾妻鏡』では「悪路王」は蝦夷(えみし)の賊首で 赤頭とともに坂上田村麻呂と藤原利仁によって征伐されたと記されます

文中に「常陸の鹿島郡 鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實と 下総香取大神と並び 苗裔の諸多く奥州に祀らるる〈38社〉」と 三代実録 貞観八年正月の条を紹介し 現在〈1922〉は その陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず と記されています

【抜粋意訳】

常陸の鹿島郡に鎮まります鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實なりとす。言ふを要せず、神代の時 荒振神たちをことむけたまひし 縁由ある鹿島大神は中古 征夷の陸奥に邁進せらるるに伴ひて 其の神威を此方面に被及し 其の同功 一體の徳を伝ふる
下総香取大神と並び、苗裔の諸多く奥州に祀らるるに至り「貞観八年正月 鹿島神宮宮司の奏詞に大神苗裔の神 陸奥に在る者三十八社 弘仁以来幣を奉らざるを以て神崇大に著はる」との事、三代実録に見ゆ。
(所謂 陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず。延喜式神名帳に見ゆる 黒川郡 鹿島天足別(カシマアマタラシワケノ)神社・亘理郡 鹿島伊都乃比氣(カシマイツノヒケノ)神社・同郡 鹿島緒名太(カシマヲナタノ)神社・同郡 鹿島天足和氣(カシマアマタラシワケノ)神社・信夫郡 鹿島神社・磐城郡 鹿島神社・牡鹿郡 鹿島御兒(カシマミコノ)神社・行方郡 鹿島御子(カシマミコノ)神社は正さしく其の一部なるべく
又 香取大神の苗裔と認むべきは 牡鹿郡 香取伊豆乃御子(カトリイツノミコノ)神社・栗原郡 香取御兒(カトリミコノ)神社とす

祭頭祭に就きて新編常陸國志補に曰く・・・・・・・・

【原文参照】

『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922国立研究開発法人 科学技術振興機構〉より

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR東北本線 藤田から東南へ約1km 車5分程度

道路際石垣があり その上に鳥居建っています

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参道の階段を上がります
鹿島神社 & 医薬神社(国見町藤田町尻二)に参着

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社号標には 鹿島神社刻されています
一礼をして 鳥居をくぐります

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参道を進むと正面には 扁額二つ掲げられた拝殿が建ち
向かって左には 竹駒稲荷神社

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拝殿にすすみます

二つの扁額は 向かって右から 鹿嶋神社 醫薬神社

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 信夫郡 鹿島神社について 所在は 小倉〈現 鹿島神社(福島市小田鹿島山)〉と記しています

【抜粋意訳】

信夫郡五座 大一座小四座

信夫は 志乃不と訓べし 和名鈔 郡名信夫 假字上の如し
二十二 民部拾芥抄 國郡部 信夫

〇舊事紀 国造本紀 信夫國造 志賀高穴穂朝御世 阿波国造同祖 久志伊宇命孫 久麻直定賜国造

鹿島神社

鹿島は 加志麻と訓べし
〇祭神 武甕槌命
小倉村に在す 参拝参考

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 信夫郡 鹿島神社について 所在は 小倉〈現 鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑)〉と記しています

【抜粋意訳】

鹿島神社

祭神 武甕槌命
祭日 九月九日
社格 村社
所在 鳥谷野村〇鹿島森 今 岩代國(信夫郡杉妻村大字鳥谷野)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 信夫郡 鹿島神社について 所在を鳥谷野村鹿島〈現 鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑)〉と記しています

【抜粋意訳】

信夫五座(大1座・小4座)

鹿島(カシマノ)神社

今、鳥谷野村鹿島にあり陸奥式社考 福島縣神社調 武御雷命を祀る、日本書紀、延喜式、本社伝説
桓武天皇延暦元年壬戌勅して 勳五等 封充奉る 是よりさき凶賊

を撥時、鹿島神に祈るに神験虚しからさりしを以てなり・・

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

鹿島神社例大祭について

鹿島神社例大祭は、旧奥州街道藤田宿を中心に毎年10月の第4土曜日その前日の2日間にわたり行われる例大祭と前夜祭が執り行われる国見町の代表的な秋祭りです。例大祭のクライマックスを迎える最終日には、昼は神輿と山車4台がお囃子とともに町内を練り歩き、御旅所では稚児舞や剣の舞などの神事が行われます。夜は、昼の雰囲気とは一転、山車と山車が神輿を挟んでぶつかる「もみ合い」が還御まで繰り広げられ、沿道は多くの人々でにぎわいます。

国見町企画調整課HPより
https://www.town.kunimi.fukushima.jp/soshiki/2/359.html

鹿島神社 & 医薬神社(国見町藤田町尻二) (hai)」(90度のお辞儀)

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陸奥国 式内社 100座(大15座・小85座)について に戻る

・香取・鹿島の苗裔神(びょうえいしん)について

 

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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