大神神社(おおみわじんじゃ)は 『記紀神話』に創建に関わる伝承が記されており 『延喜式』には名神大社と所載される 大和国一之宮です 古来から本殿は設けず 拝殿の奥にある三ッ鳥居を通し 三輪山〈御神体〉に祈りを捧げる原初の神祀りで 我が国最古の神社と呼ばれています 神社の社殿が成立する以前の祭祀の姿を今に伝えています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
大神神社(Ohomiwa shrine)
[通称名(Common name)]
三輪明神(みわみょうじん)・三輪さん(みわさん)
【鎮座地 (Location) 】
奈良県桜井市三輪1422
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大物主大神(おおものぬしのおおかみ)
《配》大己貴神(おおなむちのかみ)
少彦名神(すくなひこなのかみ)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・国造りの神
・農業、工業、商業すべての産業開発
・ 方除(ほうよけ)
・治病、造酒、製薬、禁厭(まじない)
・交通、航海
・縁結び
・世の中の幸福を増し進める人間生活の守護神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・大和國一之宮
・旧官幣大社
・別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
大和国一ノ宮
三輪明神 大神神社(おおみわじんじゃ)
御祭神 大物主大神(おおものぬしのおおかみ)配 神 大己貴神(おおなむちのかみ)
少彦名神(すくなひこなのかみ)大物主大神は、世に大国主神(大国様)の御名で知られる国土開拓の神で、農工商業等あらゆる産業を開発し、方除・治病・造酒・製薬・交通・縁結び・開運等、世の中の幸福を増進することを計られた人間生活万般の守護神であります。
後に神様の御思召しによりその御魂(幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま))を三輪山に永くお留めになり、それ以来、秀麗な三輪山を御神体と崇めて、本殿は設けず拝殿の奥にある三ッ鳥居を通し、お山を拝するという原初の神祀りを今に伝えている我が国最古の神社であります。
この三輪の地は古く大和の文化発祥の地であり、当時の主要道路である山の辺の道の陸路、日本最古の市場である海柘榴市(つばいち)を終点とする初瀬川の水路により殷賑(いんしん)を極め、国家黎明期の政治・経済・文化の中心地でありました。
その後も、当社に対する朝野の尊崇は殊に篤く、中古より大和一宮となり、名神大社二十二社の一つに列せられ、大神の神光はあまねく国内に広がりました。
また平成四年より始まりました「平成の大造営」事業により、平成九年に新たに新祷殿・儀式殿・参集殿を築造、同十一年には重要文化財である三ッ鳥居・拝殿の保存修理が竣功し、その御神威が愈々仰がれています。三輪山 標高四六七メートル ・ 周囲十六キロメートル
面積三五0ヘクタール
三ツ鳥居(国の重要文化財)
明神鳥居三基を組合わせた独特の形式は、古来一社の神秘とされています。
拝 殿 (国の重要文化財)
寛文四年(一六六四)四代将軍 徳川家綱公 改建拝殿前案内板より
大和国一ノ宮
三輪明神 大神神社(おおみわじんじゃ)
御祭神 大物主大神(おおものぬしのおおかみ)配 神 大己貴神(おおなむちのかみ)
少彦名神(すくなひこなのかみ)
当神社は、秀麗な三輪山を神体山とする我国最古の神社で、元官幣大社、延喜式内の明神大社二十二社の一社で、大和国一宮、全国各地に祭祀せられる大物主神の総本社であります。
大物主神は、大国主神の和魂(にぎみたま)(幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま))で、大国主神が神代の昔、国造りに労せられたとき、その和魂が現れ、問答の後 自らこの三輪山に鎮(しず)まられたのであり、農工商等あらゆる産業を開発し、常に日常生活全般をお守り下され、顕界(けんかい)・幽界(ゆうかい)を主宰(しゅさい)し給う和の大神であります。
その御神徳は極めて広大であり、古事記・日本書紀・万葉集等の古典により明確に伺えます。大和・河内・摂津はもとより、広く全国にわたって篤い信仰を集めています。
山麓には、崇神(すじん)天皇から推古(すいこ)天皇に至る十三代の皇居遺跡があり、この地は当時の国道一号線とも言うべき山の辺の道を動脈として、飛鳥以前四・五世紀頃の日本の政治経済の中心をなしていました。
境内地は、現在 古都保存法による歴史的風土三輪山特別地区 及び 国の史蹟に指定されています。
三輪山 標高四六七メートル ・ 周囲十六キロメートル
面積三五0ヘクタール
三ツ鳥居(国の重要文化財)
明神鳥居三基を組合わせた独特の形式は、古来一社の神秘とされています。
拝 殿 (国の重要文化財)
寛文四年(一六六四)四代将軍 徳川家綱公 改建
主な祭典
一月一日 繞道祭
四月八日~十日 春の大神祭
四月十八日 鎮花祭(本社及び狭井神社にて斎行)
六月十七日 三枝祭(奈良市率川神社にて斎行)
十月二十三日
~二十五日 秋の大神祭現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
当神社の神体山 三輪山に鎮り坐す 御祭神 大物主大神は、世に大国主神(大黒様)の御名で広く知られている国土開拓の神様でありまして、詳しくは 倭大物主櫛・魂命と申し上げます。
古典の伝えによりますと、神代の昔 少彦名命と協力して この国土を拓き、農、工、商、すべての産業開発、方除、治病、禁厭(まじない)、造酒、製薬、交通、航海、縁結び等世の中の幸福を増進することを計られました人間生活の守護神であらせられます。
後にこの神様は、御自らの御思召しによりまして、その御魂(幸魂、奇魂)をこの三輪山(三諸の神奈備)に永くお留めになり、それ以来、今日まで三輪山全体を神体山として奉斎しております。
それ故に、神殿を持たない、上代の信仰の形をそのままに今に伝えている我国最古の神社であります。この三輪の地は 古く 大和の文化の発祥の地で 政治、経済、文化の中心地でもありました。三輪山麓を東西に流れる初瀬川の水路の終点に、日本最古の市場であります海石榴市が八十のちまたとして開け、又、南北に走る日本最古の産業道路である山の辺の道と共にこの三輪の地は交通の要所ともなったのであります。
第十代 崇神天皇の御代には 文化も全盛を極め、更に 中古からは大和国の一の宮となり、二十二社の一つとして上下民衆の厚い信仰を集めてまいりました。
又 中世に於ては「三輪流神道」と申します特殊な宗教哲学が生まれ、上古以来の信仰に一つの組織と哲学とを添えることになりました。
この三輪山は 昔から 倭青垣山、また三諸山、神岳(かみやま)、神山(みわやま)、などと申しまして、円錐型の周囲16粁(4里)、面積350ヘクタール(約百万坪)の秀麗な山であります。
古くから万葉集をはじめ色々な歌集に詠われ、山そのものが神殿であり、神霊がお鎮まりになるという所謂 御神体山として 崇ばれて参りました。又、古来、このお山の中心をなすものは古杉でありまして、「みわの神杉」と申し大変有名であります。
『枕草子』の中で清少納言が「やしろはすぎの御社、しるしあらむとをかし」と云っておる程ですから、当時は「すぎの御社」と申してこのお山の杉がいかに有名であったかがうかがわれます。
三輪山をしかもかくすか雲だにも心あらなむかくさふべしや(万葉集)
いまつくる三輪のはふりの杉社すぎにしことはとはずともよし(金槐集)
杉か枝をかすみこむれどみわの山神のしるしはかくれざりけり(千載集)
味酒を三輪の祝がいはふ杉手触りし罪か君に遇ひがたき(万葉集)当神社は 古来 本殿をもちませんので、自然この拝殿が特に重要視されてまいりました。只今の拝殿は 寛文4年に徳川四代将軍 家綱公が 再建したものでありまして、その技術の優秀なるため重要文化財に指定されております。この大きさは桁行21米(70尺)、梁行7米(24尺)で正面に5.5米(3間)1面の唐破風造の大向拝がついております。拝殿の内部正面の両側に神饌物を献る御棚が設けられて、うす暗い中に黒い深い光をはなっております。
この拝殿の左右に渡廊下で通じている2つの御殿があります。向って右手の御殿を勅使殿と申し、その昔宮中から勅使がみえた場合、この御殿で休憩いたしたものであります。又 向って左側の御殿は、勤番所と申し、ここで参拝の信者の方々から申出られる御祈祷、御神饌などの受付を致すのでありまして、畳に坐って机をへだてて神職と腹蔵のない信仰の話が出来る様な古い設備が残っているのも、この神社の特色の一つであります。勅使殿、勤番所共に建立年代は不詳であります。
勤番所の東、拝殿の北側にあるのが、神饌所であります。神前におそなえする神饌一切の調理を行う処でありまして明治11年の造営であります。さて拝殿の東、拝殿と禁足地(神体山のうち特に神聖な場所)とを区切る地点、即ち拝殿の奥正面に建っているのが三ツ鳥居であります。この鳥居は三輪鳥居とも呼ばれ古来当社の特色の一つとされ、又 一社の神秘とまで称せられた程 神聖視されて来たものでありまして、3箇の明神型鳥居を一体に組合わせた形式であります。恐らくは中古以来出来上った形式であろうと云われておりますが、現在の鳥居は正面高さ3.6米(1丈2尺)、左右高さ2.6米(8尺7寸)で、昭和33年11月に改修されており、昭和28年に重要文化財に指定されました。
この三ツ鳥居の左右に連る瑞垣をすかして木下やみの禁足地の右手にわずかにうかがわれるのは、校倉造りに準ずる特殊な様式の神庫であります。創建年月は不詳でありますが当社の神宝類を納めた重要な建物であります。「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・高宮神社(こうのみや)
《主》日向御子神(ひむかのみこのかみ)
・巳の神杉(みのかみすぎ)
・神宝神社(かんだからのやしろ)
《主》家都御子神,熊野夫須美神,御子速玉神
・天皇社(てんのうしゃ)
《主》御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)
・祓戸神社(はらえどじんじや)
《主》瀬織津姫神,速秋津姫神,気吹戸主神,速佐須良姫神
・夫婦岩(めおといわ)
・活日神社(いくひじんじゃ)
《主》活日命(いくひのみこと)
・磐座神社(いわくらじんじや)
《主》少彦名神(すくなひこなのかみ)
・市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ)
《主》市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
・狹井坐大神荒魂神社(さいにますおおみわあらみたまじんじゃ)
《主》大神荒魂神,大物主神,姫蹈五十鈴姫命,勢夜多多良姫命,事代主神
・久延彦神社(くえひこじんじゃ)
《主》久延毘古命(くえひこのみこと)
・大直禰子神社(おおたたねこじんじや)
《主》大直禰子命《配》少彦名命,活玉依姫命
・御誕生所社(おうまれところのやしろ)〈大直禰子神社 境内〉
《主》鴨部美良姫命(かもべのみらひめのみこと)
・琴平社(ことひらのやしろ)〈大直禰子神社 境内〉
《主》大物主神(おほものぬしのかみ)
・御炊社(みかしぎのやしろ)
《主》御饌津神(みけつかみ)
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・成願稲荷神社(じょうがんいなりじんじゃ)
《主》宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)
・檜原神社(ひばらじんじゃ)
《主》天照大御神,伊弉諾尊,伊弉冊尊
・豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)〈檜原神社 境内〉
《主》豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)
・率川坐大神御子神社(いさがわにいますおおみわみこじんじゃ)
《主》媛蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)
父神 狭井大神(さいのおおかみ)母神 玉櫛姫命(たまくしひめのみこと)
・春日社(かすがのやしろ)〈率川社 境内〉
《主》春日大神(かすがのおほかみ)
・住吉社(すみよしのやしろ)〈率川社 境内〉
《主》住吉大神(すみよしのおほかみ)
・率川阿波神社(いさがわあわじんじゃ)〈率川社 境内〉
《主》事代主命(ことしろぬしのみこと)
・綱越神社(つなこしじんじゃ)
《主》祓戸大神(はらえどのおおかみ)
・貴船神社(きふねじんじゃ)
《主》淤加美神(おかみのかみ)
・神坐日向神社(みわにますひむかいじんじゃ)
《主》櫛御方命,飯肩巣見命,武甕槌命
・大行事社(だいぎょうじのやしろ)
《主》事代主神,八尋熊鰐神,賀夜奈流美神
・春日社(かすがのやしろ)
《主》武甕槌命,斎主命,天児屋根命,比売神
・玉列神社(たまつらじんじや)
《主》玉列王子神,《配》天照大御神,春日大神
・猿田彦社(さるたひこのやしろ)〈玉列社 境内〉
《主》佐田毘古神(さたひこのかみ)
・愛宕社(あたごのやしろ)〈玉列社 境内〉
《主》火産霊神
・祓戸神社(はらえどじんじや)〈玉列社 境内〉
《主》瀬織津姫神,速秋津姫神,気吹戸主神,速佐須良姫神
・金山彦神社(かなやまひこじんじゃ)〈玉列社 境内〉
《主》金山彦神(かなやまひこのかみ)
・八阪神社(やさかじんじゃ)
《主》素戔嗚尊(すさのをのみこと)
・大峯社(おおみねしゃ)
《主》大山祇命(おほやまつみのみこと)
・賃長社(ちんながしゃ)
《主》磐長姫命(いわながひめのみこと)
・金比羅社(こんぴらしゃ)
《主》大物主大神(おほものぬしのおほかみ)
・事比羅神社(ことひらじんじゃ)
《主》大物主神(おほものぬしのかみ)
・稲荷社(いなりしゃ)
《主》宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)
・神御前神社(かみのごぜんじんじゃ)
《主》倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)
・富士神社(ふじじんじゃ)
《主》木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
・厳島神社(いつくしまじんじゃ)
《主》市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
〈三輪山の磐座の遥拝所〉
・金拆神社(かなさきじんじゃ)
《主》宇都志日金拆命(つしひかなさくのみこと)
・天宮社(あめのみやしゃ)
《主》天日方奇日方命(あめひがたくしひがたのみこと)
・神室神社(かみむろしゃ)
《主》靇神(おかみのかみ)
・大峯社(おおみねしや)
《主》大山祇命(おほやまつみのみこと)
詳しくは
大神神社(桜井市三輪)の・境内社・境外社・別宮 の記事を見る
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 の条
三月祭 鎮花(はなしづめ)祭 二座
太神社(おほみわのやしろ)一座 絁(アシギヌ)〈絹織物〉5疋・・・ 云々
狭井社(さいのやしろ) 一座 絁(アシギヌ)〈絹織物〉2疋・・・ 云々
四月祭 三枝(さいくさ)祭 三座 卒川社
絁(アシギヌ)〈絹織物〉1疋・・・ 云々右三社ノ幣物 依前件付祝等令供祭
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 の条
相嘗祭神 七十一座
大神神社(おほみわのやしろ)一座
絹(キヌ)3疋 絲(イト)3絇4銖 調布6端8尺 唐布1段1丈4尺
木綿4斤2両 鰒1斤5両 堅魚5斤 與俚刀魚(ヨリトウオ)3斗 塩1斗
脯魚(ほしいを)海藻 凝海藻(コルモハ)各6斤10両 筥2合 瓼(サラケ)缶(モタイ)水瓫(ホトギ)山都婆波 小都婆波 筥瓶酒垂匜等 呂須伎高盤片盤 小杯 短女(ヒキメ)杯(ツキ)筥杯陶曰各2口 酒稲200束 神統
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Myojin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神祭 二百八十五座
大神神社 一座
座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)城上郡 35座(大15座・小20座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 大神大物主神社(名神大月次相嘗新嘗)
[ふ り が な ](おほみわのおほものぬしの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ohmiwa no ohomononushi no kamino yashiro)
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻15 内蔵寮 の条
大神(おほみわの)祭
夏祭料
緋帛二丈五尺、安芸木綿大三斤、巳上大神幣料、盛筥一合、帛三丈、黄布三丈、紅花大四斤、染貨布料 紫紗九丈、繰帛四丈五尺、巳上大神御装束料、盛筥一合、忍冬花鬢 盛栁筥一合 料、線糸小四両、安芸木綿大一斤、布綱料、曝布一丈二尺、巳上火神料 緋帛二丈 日向王子幣料、盛筥一合 緋帛一丈五尺、玉列王子幣料盛筥一合 ・・云々
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式』〈延長5年(927)〉巻八『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)』に記される伝承
【抜粋意訳】
延喜式 巻8 神祇 祝詞 出雲国造神賀詞
「その時 大穴持命は 御自分の和魂を 倭の大物主なる櫛厳玉命と御名を唱え 大御和の社〈大神神社〉に坐(ましま)す
御自分の御子 阿遅須伎高孫根命(あぢしきたかひこねのみこと)の御魂を葛木の鴨の社〈高鴨神社〉に坐(ましま)す
事代主命(ことしろぬしのみこと)の御魂を宇奈提〈河俣神社〉に坐(ましま)す
賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の社〈飛鳥坐神社〉に坐(ましま)す
〈御自分の和魂と三柱の御子神を〉皇御孫命〈天皇〉の守護神として置かれた
〈御自分は〉杵築宮〈出雲大社〉に坐(ましま)す」と記されます
【原文参照】
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『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)』に記される
大穴持命が〈御自分の和魂と三柱の御子神を〉皇御孫命〈天皇〉の守護神として置かれた4つの神社と御自分の鎮まる出雲大社について
⑴〈延喜式内社〉大和國 城上郡 大神大物主神社 名神大 月次相嘗新嘗
御自分の和魂祀る 大御和の社〈大神神社〉に坐(ましま)す
・大神神社(桜井市三輪)
⑵〈延喜式内社〉大和國 葛上郡 高鴨阿治須岐託彦根命神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗
御自分の御子 阿遅須伎高孫根命(あぢしきたかひこねのみこと)の御魂を葛木の鴨の社〈高鴨神社〉に坐(ましま)す
・高鴨神社(御所市鴨神)
⑶〈延喜式内社〉大和國 高市郡 高市御縣坐鴨事代主神社 大
事代主命(ことしろぬしのみこと)の御魂を宇奈提〈河俣神社〉に坐(ましま)す
・河俣神社(橿原市雲梯町)
⑷〈延喜式内社〉大和國 高市郡 飛鳥坐神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗
賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の社〈飛鳥坐神社〉に坐(ましま)す
・飛鳥坐神社(明日香村飛鳥)
・酒船石(明日香村岡)〈飛鳥坐神社 旧鎮座地〉
⑸〈延喜式内社〉出雲國 出雲郡 杵築神社 名神大
〈御自分は〉杵築宮〈出雲大社〉に坐(ましま)す
・出雲大社(出雲市)
詳しくは
出雲國造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)について
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大神神社(桜井市三輪)の分霊(わけみたま)と思われる式内社の類社について
①〈大神社 各一座〉
⑴伊勢國 飯高郡 大神社
・伊勢寺神社(松阪市伊勢寺町)
・大神社旧跡(松阪市深長町)
⑵伊勢國 朝明郡 大神社
・太神社(四日市市大鐘町)
・太神社旧跡(四日市市大鐘町)
・大神社(いなべ市大安町)
・石部神社(四日市市朝明町)
⑶下野國 都賀郡 大神社
・大神神社(栃木市惣社町)
・太平山神社奥宮(栃木市平井町)
・太平山神社(栃木市平井町)
⑷越後国 頚城郡 大神社
・天津神社(糸魚川市一の宮)
・大神社(糸魚川市平)
・大野神社(糸魚川市大野)
・藤崎神社(糸魚川市藤崎)
・関山神社(妙高市関山)
⑸因幡國 巨濃郡 大神社
・美取神社(岩美町太田)
・荒砂神社(岩美町浦富)
・御湯神社(岩美町岩井)
・多居乃上神社(鳥取市国府町)
➁〈大神神社 各一座〉
⑴尾張国 中島郡 大神神社 名神大
・大神神社(一宮市花池)
⑵尾張国 中島郡 太神神社
・大神社(一宮市大和町)
⑶遠江國 濱名郡 大神々社
・二宮神社(湖西市新居町)
・大神山八幡宮(湖西市大知波)
・神明神社(湖西市白須賀)
・神田神社(湖西市新居町)
・熱田神社(湖西市吉美)
⑷美濃國 多芸郡 大神神社
・大神神社(大垣市上石津町)
・梶谷八幡神社(海津市海津町)
➂〈大神神社 四座〉
⑴備前國 上道郡 大神神社 四座
・大神神社(岡山市中区四御神)
④〈大神神社 各一座〉
⑴阿波國 名方郡 大御和神社
・大御和神社(徳島市国府町)
⑵駿河國 益頭郡 神神社
・神神社(岡部町三輪)
⑶備中國下道郡 神神社
・神神社(総社市八代宮山)
・嚴島神社(総社市真壁)
➄〈美和神社 各一座〉
⑴信濃國 水内郡 美和神社
・美和神社(長野市三輪)
⑵上野國 山田郡 美和神社
・美和神社(桐生市宮本町)
⑶備前國 邑久郡 美和神社
・美和神社(瀬戸内市長船町)
・広高神社〈若宮八幡宮 境内社〉(瀬戸内市邑久町)
・美和神社〈多賀神社 境内〉(瀬戸内市長船町)
・美和神社(瀬戸内市長船町)
⑥〈三和神社 三輪神社 彌和神社〉
⑴下野國 那須郡 三和神社
・三和神社(那珂川町三輪)
⑵若狭国 遠敷郡 彌和神社
・彌和神社(小浜市加茂)
⑶加賀国 加賀郡 三輪神社
・石浦神社(金沢市本多町)
・加茂神社(津幡町加茂)
・三輪神社(津幡町北中条)
詳しくは
大神神社(桜井市三輪)の分霊(わけみたま)と思われる式内社 に移る
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
車で 奈良市内からR169号を南下し 三輪の街に入ると 三輪そうめんの店があり 左手〈東〉に大鳥居が見えてきます
JR桜井線 三輪駅から 東へ約500m 徒歩6分程度
社号標には「大神神社」と刻字 木製の明神鳥居には「三輪明神」
大神神社(桜井市三輪)に参着
一礼をして 鳥居をくぐり 白砂利の敷き詰められた参道を進み 祓戸神社にお詣りをして 心身を清らかにします
続いて しるしの杉〈三輪の大神のあらわれた杉 神の坐す杉〉があり その前に 手水舎があり 蛇口にて清めます
上の檀には 社殿の建つ境内地があり 階段が続いています その上には注連縄柱があります
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
本殿は無く 三輪山が御神体となっている古神道の形態を持つ神社です
社務所にて 正式参拝を申し込むことをお薦めします 普段は神楽殿での正式参拝ですが 運が良ければ拝殿での昇殿参拝が叶います その時は 玉串ではなく 御幣を差します その御幣が三つ鳥居を通して 三輪山から吹いた風に揺れれば 願い事は叶うと云われています
境内には 巳の神杉(みのかみすぎ)があります
巳の神杉
(御由緒)
御祭神の大物主大神が蛇神に姿を変えられた伝承が『日本書紀』などに記され、蛇神は大神の化身として信仰されています。この神杉の洞から白い巳(み)さん(親しみを込めて蛇をそう呼ぶ)が出入することから「巳の神杉」の名がつけられました。
近世の名所図絵には拝殿前に巳の神杉と思われる杉の大木が描かれてあり、現在の神杉は樹齢四〇〇年余のものと思われます。巨樹の前に卵や神酒がお供えされているのは巳さんの好物を参拝者が持参して拝まれるからです。現地立札より
社殿に一礼をして 参道を戻ります
境内について 詳しくは
大神神社(桜井市三輪)の・境内社・境外社 の記事を見る
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
三輪山は 奈良盆地をめぐる青垣山の中でもひときわ形の整った円錐形の山で 古来 大物主大神が鎮しずまる神の山として信仰されてきました
『古事記』『日本書紀』には 御諸山(みもろやま) 美和山(みわやま)三諸岳(みもろだけ)と記されています
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承
『古事記』には 御諸山(みもろやま)の神は 三度ほど登場します
⑴小名毘古那神(すくなひこなのかみ)が常世に渡られて 一柱となった大国主神(おほくにぬしのかみ)が憂いていると 海を光(てら)して 依来(よりくる)神がいて これが 御諸山(みもろやま)に坐(ましま)す 神とされます 大神神社の創建の神話が記されます
⑵神武天皇が 美和(みわ)の大物主神の御子を 皇后として娶(めと)り 天皇家と美和の神との繋がりが記されます
⑶崇神天皇が 疫病の流行に際し 御諸山(みもろやま)に大物主神の子孫を神職として任命し災いを鎮めたとあり 天皇家による大神神社の祭祀が始められたことが記されます
⑴【抜粋意訳】
『古事記』上巻 御諸山(みもろやま)に坐す神 の段
大国主神(おほくにぬしのかみ)は 心(こころ)憂(うれ)い言われた
「わたしは 一人で どうように この国を作ればよいだろうか
どの神と共に わたしは この国を作りましょうか」この時 海を光(てら)して 依来(よりくる)神がいました その神の言うには
「私を丁寧に祀りなさい わたしが あなたと共に 国を作りましょう もしそうでなければ 国が成るのは難しいでしょう」大国主神(おほくにぬしのかみ)が
「それならば どのように 祀り奉(たてまつ)ればよいでしょう」と言うと「私を 大和国(やまとのくに)を 青々と取り囲んでいる山々 その東の山上に斎(いつ)き 祀れ」と答えられた
これが 御諸山(みもろやま)に坐(ましま)す 神なり
【原文参照】
⑵【抜粋意訳】
『古事記』中巻 神武天皇〈伊波礼毘古命〉の后 神の御子 の段
伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)が 日向(ひゅうが)に坐(ましま)した時 阿多小椅君(あたのおばしのきみ)の妹の阿比良比売(あひらひめ)を娶(めと)り 生んだ子供は 多芸志美美命(たぎしみみのみこと)次に岐須美美命(きすみみのみこと)の二柱
しかし 更に大后(おほきさき)〈皇后〉として 美人(をとめ)を求められた時 大久米命(おおくめのみこと)が申しました「ここに 神の御子と伝える孃女がいます その神の御子といわれる理由は
三島湟咋(みしまみぞくひ)の娘 その名は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ) その容姿は とても美しいものでした
故に 美和(みわ)の大物主神(おほものぬしのかみ)が これを見て感じ
その美人の大便をするときに 丹塗矢(にぬりや)〈丹の赤い塗矢〉に化(な)りて その厠(かわや)の水が流れる溝に流れて 美人の陰部を突きました
その美人は驚き 立ち走りました
そして その矢を持って 床に置くと 矢はたちまち麗しい壮夫(おとこ)に成りました
その美人を娶(めと)り生んだ子供が「富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすすきひめのみこと)」別名を「比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)」と言う
これは ほと〈陰部〉という事を嫌って 後に名を改めたのです
故に そうゆう次第で 神の御子というのです」 と申し上げた
【原文参照】
⑶【抜粋意訳】
崇神天皇 疫病(えやみ)と美和の大物主神 の段
祟神天皇の御世に 疫病が盛んに流行し 人民がほとんど盡きようとしましたここに天皇は 御憂慮遊ばされ 神床(かむとこ)に坐(ましま)す夜に 大物主大神(おほものぬしのおほかみ)が夢に顯(あらわ)れて仰せになった
「これ〈疫病が盛んに流行〉は 我〈大物主大神〉の御心なり
意富多々泥古(おほたたねこ)を以って 我を祭らしめたならば 神の祟り(たたり)は起らず 国は平安になるだろう」仰せられた
そこで駅使(はゆまつかい)を四方に放ち 意富多々泥古(おほたたねこ)という人を探し求めた時 河内(かわち)の美努村(みののむら)に その人を見つけ 朝廷に差し出して奉りました
ここに祟神天皇が
「お前は誰の子であるか」とお尋ねになり
答えて言うには
「僕は 大物主大神(おほものぬしのおほかみ)が 陶津耳命(すえつみみのみこと)の娘 活玉依毘売(いくたまよりびめ)を娶(めと)り生んだ子は 名は櫛御方命(くしみかたのみこと)の子 飯肩巣見命(いひかたすみのみこと)の子 建甕槌命(たけみかづちのみこと)の子 意富多々泥古(おほたたねこ)ぞ」と申しましたここに天皇は 大きくお歓びになられ 仰せられるには
「天下は平(たいら)ぎ 人民は栄えるだろう」と仰せられ
即ち 意富多々泥古命(おほたたねこのみこと)をもちいて神主として 御諸山(みもろやま)〈三輪山〉に 意富美和之大神(おほみわのおほかみ)を拝祀り奉りました
また伊 迦賀色許男命(いかがしこおのみこと)に命じて お皿を沢山作り 天神地祇〈天津神・国津神の神々〉の神社を定め奉りました
また 宇陀(うだ)の墨坂神(すみさかのかみ)に 赤色の盾(たて)と矛(ほこ)を祭り
また 大坂神(おほさかのかみ)に 黒色の盾(たて)と矛(ほこ)を祭り
また 坂の御尾神〈坂上の神〉や河の瀬の神にいたるまで 悉(ことごと)く遺忘(わす)れることなく 幣帛を奉りなさいました
これによって 疫病は悉(ことごと)に息きみて〈無くなり〉国家は平安になりましたこの意富多々泥古(おほたたねこ)という人を 神の子であると知った理由は
上に述べた
活玉依毘売(いくたまよりびめ)は その容姿は〈とても美しい〉極正であった ここに壮夫(おとこ)があって その形姿(かたち)威儀(いぎ)は 時に比べる者も無い程素晴らしい 夜半になると儵忽(たちまち)に到り来るのです そこで 相い感じて 共に結婚して住んでいるうちに まだ幾時もたたないのに 美人は妊娠された
そこで父母が妊娠(にんしん)したことを怪しみ その女に問い詰めると
「お前は 自ら妊(はら)んでいる 夫も居ないのに どうして妊娠したのか」と言えば 答えて言うには
「麗美(うるわ)しき壮夫(おとこ)があり その姓名も知らぬが 夕毎に到来りて 住む間に 自然懐妊(はら)みました」と言いましたそこでその父母が その人を知りたいと思って言いました
「赤土(はに)を 床の前にまき散らし 糸巻きに巻いた長い麻糸を針に通して その着物〈男の着物〉の裾(すそ)に刺せ」と教えた
娘は教えた通りにして 旦時〈夜明け〉に見ると 針をつけた麻は 戸の鍵穴を貫け通り 残っていた麻糸はたった三勾(みわ)〈三輪〉だけでした
それで 鍵穴から〈男が〉出て行ったことを知って 糸をたよりにたどっていくと 美和山に至って神の社に留まりました
それで その神の子と知ったのです
この麻糸が三勾(みわ)残っていたので その土地を美和(みわ)と言います
意富多々泥古命(おほたたねこのみこと)は 神君(みわのきみ)・鴨君(かものきみ)の祖先である
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
第10代 崇神天皇の御代に 国民の大半が死亡する疫病が流行り 三輪山の大物主神の祟りであるとわかる
天皇は 大物主神の子孫 大田々根子命(おほたたねこのみこと)を探し 大神(おほみわ)〈大神神社〉の神主として任命し 祟りを鎮める
又 高橋邑(たかはしのむら)の活日(いくひ)を掌酒(さかびと)として祝いの宴を開き 大神神社の天皇家による祭祀の始りが 記されています
【抜粋意訳】
崇神天皇 五年~九年 疫病 大物主大神を祀る の段
〇崇神天皇 五年
国内に疫病が多く 民(おほみたから)の大半が死亡するほどであった
〇崇神天皇 六年
百姓の流離し 或いは背く者もあり その勢いは 徳を以て治めようとしても難しかった
そこで朝まで一日晩中 神祇〈天津神・国津神〉にお祈りをした
これより先に 天照大神(あまてらすおほみかみ)倭大國魂(やまとのおほくにたま)の二柱の神を 天皇が住む宮殿の中に並べて祀っておられた
すると その神の勢いは 畏れおおく 共に住むのは不安であった
そこで 天照大神を豐鍬入姫命(すよすきいりひめのみこと)に託(つ)けて 倭の笠縫邑(かさぬいむら)に祀りました
そして 磯堅城(しかたき)に神籬(ひもろき)を立てた
神籬は 比莽呂岐(ヒモロキ)と云う日本大國魂神(やまとおほくにたまのかみ)は 渟名城入姫(ぬなきいりひめ)に託(つ)けて祀りました
しかし 渟名城入姫は 髪が抜け落ち体が瘦せて 祀ることも出来なかった〇七年 春二月 丁丑朔辛卯(十五日)
詔して「昔 我が皇祖(すめみおや)が 鴻基(あまつひつぎ)の大啓を開き その後 聖業逾高(ひじりのわざいよいよたかく)王風轉盛(きみののりうたたさかり)であった
ところが不意に 今 私の世代になって 災害が数多く有り 朝(みかど)に善政がなく 神祇〈天津神・国津神〉が 咎(とが)を与えているのではと恐れる どうか命神龜(みうら)〈亀占〉によって災いの起こるわけを究めよ」天皇は そこで神浅茅原(かむあさじはら)にお出ましになり 八十萬神に会われて占いで問いました
このときに 倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)に 神明憑(かみがかり)して言われた
「天皇 どうして国が治まらないことを憂えるのか もし よく私を敬い 祀れば きっと自ら平安になる」
天皇は問う
「このように教えておっしゃるのは どちらの神ですか」
答えて言う
「私は倭国(やまとのくに)の域内(さかいのうち)にいる神 名を大物主神(おほものぬしのかみ)と為す」この時 神語(みこと)を得て 教えのままにお祀りしました けれども いまだに お験(しるし)がありませんでした
そこで天皇は 沐浴齋戒(ゆかはあみものいみ)して 殿内を浄めてお祈りし
「私は 神を敬い禮しておりますが なぜか 未だ何も肝心なものがございません 願わくば 夢の中で教えていただき 神恩(みうつくしび)をお垂れ下さい」と言われた
この夜の夢 一人の貴人が現われた 宮殿の入戸に対して立ち 自らを大物主神と名乗られ そして告げた
「天皇(すめらみこと)またも憂いてなさる 国が治まらないのは これ我が意によるもの もし我が子 大田々根子(おほたたねこ)に 私を祀られば たちどころに平安となる また 海外(わたのほか)の国は 自ら帰伏するだろう」
〇秋八月 癸卯朔巳酉(七日)
倭迹速神浅茅原目妙姫(やまととはやかみあさぢはらまくはしひめ)・穂積臣(ほづみのおみ)の遠祖 大水ロ宿禰(おほみくちのすくね)・伊勢麻績君(いせのおみのきみ)の三人が 共に同じ夢をみて 天皇に申し上げた「昨夜 夢を見ました
一人の貴人が現れ 教えて言われたのが
『大田々根子命(おほたたねこのみこと)を 大物主大神を祀る神主(かんぬし)とし 市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祀る神主(かんぬし)すれば 必ず天下太平となる』と言いました」天皇は 夢の辞(ことば)を得て ますます喜ばれた
布(あまね)く天下(あめのした)に告げ 大田々根子(おほたたねこ)を探した すぐに茅渟縣(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)に大田々根子(おほたたねこ)を見つけ これをお連れした
天皇は すぐに自ら神淺茅原(かんあさじはら)に出向き 諸王卿(おほきみのまちまつへつきみたち)と八十諸部(やそもろとものお)を招集し
そこで大田々根子(おほたたねこ)に尋ねた
「お前は 誰の子か」大田々根子(おほたたねこ)は答えて
「父は 大物主大神(おほものぬしのおほかみ)といい 母は活玉依媛(いくたまよりひめ)といい 陶津耳(すえつみみ)の娘です」
他の言い伝えでは、「奇日方天日方武茅淳祀(くしひかたあまつひかたたけちぬつみ)の娘」とも言われています天皇は いわれた
「ああ 私は きっと栄え楽になるだろう」
そこで 物部連(もののべのむらじ)の遠祖 伊香色雄(いかがしこお)を 神班物者(かみのものあかつひと)〈神に捧げるものをわかつ者〉としようと 占うと吉(よし)と出た ついでに他の神を祀ろうかと占うと「吉」と出ませんでした〇十一月丁卯(十三日)
伊香色雄(いかがしこお)に命じ 物部(もののべ)は 八十平瓮(やそひらか)〈平皿〉で 祭神の供物とさせた それで大田々根子を 大物主大神(おほものぬしのおほかみ)を祀る主(かんぬし)とした
また 長尾市(ながおち)を倭大国魂神(やまとのおほくにたまのかみ)を祀る主(かんぬし)とした
その後に 他の神を祀ろうと占うと「吉」と出た すぐに別に八十萬群神(やおよろずのもろかみ)を祀った
そして 天社(あまつやしろ)・国社(くにのやしろ)・神地(かんどころ)・神戸(かんべ)を定めたすると 疫病が止みはじめ 国内がようやく鎮まりました
五穀(いつつのたなつもの)が稔り 百姓は賑やかとなった〇八年 夏四月 庚子朔乙卯(十六日)
高橋邑(たかはしのむら)の活日(いくひ)を 大神(おほみわ)〈大神神社〉の掌酒(さかびと)とした
掌酒は 佐介弭苔(さかびと)と読む
〇冬十二月 丙申朔乙卯(二十日)
天皇は 大田々根子に 大神(おほみわ)を祀らせた
この日 活日(いくひ)は 自ら神酒(みわ)を天皇に献上し 歌を詠んでいうのにコノミキハ ワガミキナラズ ヤマ卜ナス オホモノヌシノ 力モシミキ イクヒサ イクヒサ
〈この神酒は 私の造った神酒ではありません 倭国をお造りになった大物主神が 醸成された神酒です 幾世までも久しく栄えますよう〉
このように歌って 神宮(かみのみや)で 宴(とよあかり)を催された
宴が終り 諸大夫(まへつきみたち)が歌った
ウマザケ ミワノ卜ノノ アサ卜ニモ イデテユカナ ミワノ卜ノドヲ
〈美味しい酒のある三輪神社の社で 朝が来るまで酒を飲んで 朝が来たら帰ろう 三輪の社の門から〉
天皇も歌っていわれた
ウマザケ ミワノトノノ アサ卜ニモ オシヒラカネ ミワノ卜ノドヲ
〈美味しい酒のある三輪神社の社で 朝が来るまで酒を飲んで帰りなさい 三輪の社の門を押し開いて〉
そして 神宮(かみのみや)の門を開いて 天皇はお帰りになられた
この 大田々根子(おほたたねこ)は 今の三輪君(みわのきみ)などの始祖である
〇九年 春三月 甲子朔戌寅(十五日)
天皇の夢に、神人(かみ)が現れて教えていわれた
「赤楯(あかたて)八枚 赤矛(あかほこ)八竿 墨坂神(すみさかのかみ)に祀れ
また 黒楯(くろたて)八枚 黒矛(くろほこ)八竿 大坂神(おおさかのかみ)を祀れ」〇四月 甲子朔巳酉(十六日)
夢の教えのまま 墨坂神(すみさかのかみ)と大坂神(おおさかのかみ)をお祀りになった
【原文参照】
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
宮中の神祇官社と共に 神社における神階の最高位 正一位に達しています
※貞観元年(859)正月27日 大神大物主神 従一位 勲二等 に叙せられています
【抜粋意訳】
貞観元年(859年)2月 丁亥(ひのとい)朔(ついたち)
停釈興之礼諒闇也 遣使を伊勢国太神宮 及び 五畿七道に班幣を諸神に告るに以す 即 位(くらい)の由(よし)を
神祇官(じんぎかん)
従一位 神産日神(かんむすひのかみ)高御産日神(たかみむすひのすみ)
従一位 玉積産日神(たまるむすひのかみ)
従一位 足産日神(たるむすひのかみ)大和国(やまとのくに)
従一位 勲二等 大神大物主神(おほみわのおほものぬしのかみ)に並びに 奉(たてま)り授(さず)くに 正一位を
【原文参照】
『大和名所図会(Yamato Meisho Zue)』〈寛政3年(1791年)刊〉に記される伝承
拝殿前には 巳の神杉と思われる杉の大木が描かれています
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
大神大物主神社 名神大月次相嘗新嘗
大神は 於保美和と訓べし、和名鈔、郷名部 大神、於保無知
大物主は 於保毛乃奴志と訓べし、〇祭神大物主神、大已貴命の別名、即ち和魂也、
〇三輪村三輪山の麓に在す、大和志、同名所図会、
○式二、四時祭下 相嘗祭神七十一座、大神社一座」
同三、臨時祭 名神祭二百八十五座、大和國大神神社一座、」祈雨祭神八十五座(並大)云々、大神社一座、
○江家次第、祈年穀奉幣 大神、五位」
廿二社注式云、中七社 大神 使五位一人、幣一前、
○当國一宮也、一宮記
○日本紀神代巻上、一書曰、大国主神、亦名大物主神、亦號國作大己貴命、亦曰葦原醜男、亦曰八千戈神、亦曰大國玉神、亦曰顯國玉神云々、』
同紀、崇神天皇七年二月丁丑朔辛卯、詔曰、中略 時神ニ明憑倭迩々日百襲姫命曰、中略 天皇問曰、答曰、我是倭國域内所居神、名為ニ大物主神、時得神語随教祭祀、中略 同八年十二月丙申朔乙卯、天皇以ニ大田田根子 令祭ニ大神、
○姓氏録、大和国神別 大神朝臣、素佐能雄命六世孫大國主命之後也、初大国主神、娶ニ三島溝咋耳之女玉櫛姫、夜未曙去、不ニ曾昼到、於是玉櫛姫、績苧係衣、至明随苧尋覔、経ニ於茅淳縣陶邑、直指ニ大和國真穂御諸山、還覗ニ苧遣、唯有ニ三繁、因之號ニ姓大三榮、類社
伊勢國飯高郡、同國朝明郡、下野國都賀郡、越後国頚城郡、因幡國巨濃郡 大神社、各一座
尾張国中島郡 大神神社、名神大 同國同郡、遠江國濱名郡、美濃國多芸郡 大神神社、各一座
備前國上道郡 大神神社四座、
阿波國名方郡 大御和神社、駿河国益頭郡、備中國下道郡 大神神社、各一座
信濃國水内郡、上野國山田郡、備前國邑久郡 美和神社、各一座
下野國那須郡 三和神社、若狭国遠敷郡 彌和神社、加賀国加賀郡 三輪神社、鎮座
日本紀神代巻上、一書去、于時神光照海、忽然有浮來者、曰如吾不在者汝何能平此國乎、由吾在故、汝得建其大造之績矣、是時大己貴神問曰、然則汝是誰邪、対曰、吾是汝之幸魂奇魂也、大己貴神曰、唯然、廼知汝是吾幸魂奇魂、今欲何処住耶、対曰、吾欲住於日本國之三諸山、故即営宮彼処使就而居、此大三輪之神也、
○式八、祝詞 出雲国造神賀詞、大穴持命乃申玉久、皇御孫命乃静坐牟大倭国申天、己命和魂乎、八咫鏡爾取託天、倭大物主櫛瓶玉命登名乎称天、大御和乃神奈備爾坐云々、古事記 此條を考ふるに、是時 有光海依來之神、とありて幸魂奇魂をいはず、青垣東山上、また御諸山上神とあるは、日向神社によく当れり、一説の遺れるなるべし、
神位
文徳実録、
嘉祥三年十月辛亥、授大神大物主神正三位、
仁寿二年十二月乙亥、加大和国大神大物主神從二位、
三代実録、
貞観元年正月二十七日甲申、奉授大和国從二位鋤二等大神大物生神從一位、
同年2月丁亥朔、大和国從一位勲二等大神大物主神、奉授正一位、官幣 神寳
續日本紀、天平九年四月乙巳、遣使於大神社、奉幣以告新羅無禮之状、
三代実録、貞観元年七月十四日丁卯、遣使諸社、奉神宝幣帛、從五位下守兵庫頭藤原朝臣四時爲大神社使、
同年九月八日庚申、大神神、遺使奉幣、為風雨祈焉、祭祀
神祇令曰、季春鎮花祭、
義解云、謂大神狭井二祭也、在ニ春華飛散之時、疫神分散而行疫、為ニ其鎮過、必有ニ此祭、故曰ニ鎮華、」
集解云、釈云、大神狭井二処祭、大神者祝部請ニ受神祇官幣帛祭之、下略」式一、四時祭上
三月祭、鎮花祭二座、太神社一座云々、狭井社一座云々、
四月祭、三枝祭三座云々、右三社幣物、依前件付祝等令供祭、』
同十五、内蔵寮 大神祭、夏祭料、緋帛二丈五尺、安芸木綿大三斤、巳上大神幣料、盛筥一合、帛三丈、黄布三丈、紅花大四斤、染貨布料 紫紗九丈、繰帛四丈五尺、巳上大神御装束料、盛筥一合、忍冬花鬢 盛栁筥一合 料、線糸小四両、安芸木綿大一斤、布綱料、曝布一丈二尺、巳上火神料 緋帛二丈 日向王子幣料、盛筥一合 緋帛一丈五尺、玉列王子幣料盛筥一合神戸
東大寺所蔵文書(缺文)
社職
日本紀、崇神天皇七年二月丁丑朔辛卯、詔曰、以ニ大田田根子、爲祭ニ大物主大神之主、
続日本紀、天平十九年四月丁卯、大神神主從六位上大神朝臣伊可保、授ニ從五位下、
【原文参照】
大神神社(桜井市三輪)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)