香取神宮(かとりじんぐう)は 『延喜式神名帳927 AD.』の中で「神宮」の称号を持つ 3所〈伊勢大神宮・香取神宮・鹿島神宮〉の一つです その所載には 下緫國 香取郡 香取神宮(かとりの かむのみや)(名神大 月次 新嘗)と記され 古来国家鎮護の神としての官幣大社です 又 人々の崇敬を集める下總國一之宮です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
香取神宮(Katori Jingu)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
千葉県香取市香取1697-1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神》
経津主大神(ふつぬしのおおかみ)
<又の御名伊波比主命(いはひぬしのみこと)>
※『常陸國風土記』伊波比主神(いはひぬしのかみ)もしくは 斎主神(いはひぬしのかみ)
《相殿》
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
比賣神(ひめかみ)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・家内安全、産業(農業・商工業)指導の神、海上守護、心願成就、縁結、安産の神
・武徳は 平和・外交の祖神として 勝運、交通 安全、災難除けの神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・下総国一之宮
・旧 官幣大社
・別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
香取神宮の御由緒
御祭神 経津主大神(フツヌシノオオカミ)
大神は天照大神の御神勅を奉じて 國家建設の基を開かれ國土開拓の大業を果たされた建國の大功神であります。故に昔から國民の崇敬非常に篤く、國家鎮護・國運開発の神、民業指導の神、武徳の祖神として広く仰がれております。
御創祀は、神武天皇十八年と傳へられ、現在の御社殿は元禄十三年の御造営に基ずくものです。
明治以降は、官幣大社に列せられ、毎年四月十四日の例大祭には宮中より御使いが参向される勅祭の神社であります。現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
<御事歴>
大神は天照大御神の御神意を奉じて、鹿島の大神と共に出雲国の大国主命と御交渉の結果、円満裡に国土を皇孫に捧げ奉らしめ、更に国内を御幸して荒振る神々を御平定され、日本建国の基を御築きになり、又東国開拓の大業を完遂せられて、平和国家の建設と民生の安定福祉に偉大なる御神威を顕わされた。
<御神徳>
古来国家鎮護の神として皇室の御崇敬最も篤く、特に「神宮」の御称号を以て奉祀され、名神大社として下総国の一の宮である。明治以後の社格制では官幣大社に列せられ、その後勅祭社に治定せられて今日に至っている。奈良の春日大社、東北の鹽竃神社を始めとして、香取大神を御祭神とする神社は全国各地に及んでおり、昔からの伊勢の上参宮に対し下参宮と云われ、広く上下の尊崇をあつめて居る。又、一般からは産業(農業・商工業)指導の神、海上守護の神或は心願成就、縁結、安産の神として深く信仰されている。尚その武徳は平和、外交の祖神と敬われ、勝運の神、交通安全の神、災難除けの神として有名である。
<御社殿>
宮柱の創建は神武天皇御宇18年なる由香取古文書に記されている。去る昭和33年4月、御鎮座二千六百年祭が盛儀を以て斎行せられた。古くは伊勢神宮と同様式年御造営の制度により、御本殿を20年毎に造替されたのであるが現在の御社殿(本殿・楼門・祈祷殿)は元録13年(西紀1700)、徳川綱吉の造営に依るものである。昭和15年、国費により拝殿の改築と共に御本殿以下各社殿を御修営し、その後昭和52年から3年の歳月を懸けて、御屋根茸替・漆塗替が行われた。構造は本殿(重要文化財)、中殿、拝殿相連れる所謂権現造である。
<境内>
香取の神域は大槻郷亀甲山と呼ばれ県の天然記念物に指定され、その面積は123、000平方米で他に境外社有地がある。神域内は老杉鬱蒼として森巌の気自ら襟を正さしめる。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
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【境内社 (Other deities within the precincts)】
詳しくは 香取神宮(香取市)の境内社・境外社の記事をご覧ください
・香取神宮(香取市)の境内社・境外社
香取神宮(かとりじんぐう)の 摂社(せっしゃ)9社・末社(まっしゃ)21社・合計30社と境内・境外の要所について 続きを見る
香取神宮(香取市)の摂社(9社)・末社(21社)合計30社
〈摂社〉
・鹿島新宮社(かしましんぐうしゃ)
《主》武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)
天隠山命(あまのかくやまのみこと)
・匝瑳神社(そうさじんじゃ)
《主》磐筒男神(いわつつおのかみ)
磐筒女神(いわつつめのかみ)
〈末社〉
・市神社(いちがみしゃ)
《主》事代主神
・天降神社(あまくだしじんじゃ)〈市神社に合祀〉
《主》伊伎志爾保神 鑰守神
・諏訪神社(すわじんじゃ)
《主》建御名方神
・六所神社(ろくしょじんじゃ)
《主》須佐之男命 大国主命 岐神 雷神二座
・花薗神社(はなぞのじんじゃ)〈六所神社に合祀〉
《主》靇神
・馬場殿神社(ばばどのじんじゃ)
《主》建速須佐之男命
・櫻大刀自神社(さくらおおとじじんじゃ)
《主》木花咲耶姫命
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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
詳しくは 香取神宮(香取市)の境内社・境外社の記事をご覧ください
・香取神宮(香取市)の境内社・境外社
香取神宮(かとりじんぐう)の 摂社(せっしゃ)9社・末社(まっしゃ)21社・合計30社と境内・境外の要所について 続きを見る
香取神宮(香取市)の摂社(9社)・末社(21社)合計30社
〈奥宮〉
・奥宮(おくのおみや)
《主》経津主神の荒御魂(あらみたま)
・香取神宮 奥宮(香取市)
〈経津主大神の荒御魂(あらみたま)を祀る〉
〈要石〉
・香取神宮 要石 & 押手神社(香取市香取宮中)
〈摂社〉
・側高神社(そばたかじんじゃ)
《主》不詳
・又見神社(またみじんじゃ)
《主》天苗加命(あめのなえますのみこと)
武沼井命(たけぬいのみこと)
天押雲命(あめのおしくものみこと)
・忍男神社(おしおじんじゃ)
《主》伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
・膽男神社(まもりおじんじゃ)
《主》大名持命(おほなむちのみこと)
・大戸神社(おおとじんじゃ)
《主》天手力男神(あめのたぢからおのかみ)
・返田神社(かやだじんじゃ)
《主》軻遇突智神(かぐつちのかみ)
埴安姫神(はにやすひめのかみ)
〈末社〉
押手神社(おしてじんじゃ)
《主》宇迦之御魂神
姥山神社(うばやまじんじゃ)
《主》一言主命
佐山神社(さやまじんじゃ)
《主》田心姫神
狐坐山神社(こざやまじんじゃ)
《主》命婦神
王子神社(おうじじんじゃ)
《主》経津主神の御子神
沖宮(おきのみや)
《主》綿津見命
龍田神社(たつたじんじゃ)
《主》級津彦神 級津姫神 倉稲魂神
璽神社(おしでじんじゃ)
《主》宇迦之御魂神
裂々神社(さくさくじんじゃ)
《主》磐裂神 根裂神
〈祭神2柱は磐筒男神・磐筒女神(経津主神の親神)の親神〉
日神社(香取市香取)
《主》天照大御神
月神社(香取市香取)
《主》月豫見命
大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)
《主》大山祇命
三島神社(みしまじんじゃ)〈又見神社境内に鎮座〉
《主》香取連三島命
護国神社(ごこくじんじゃ)〈昭和21年9月創建〉
《主》明治以降の国難で殉じた香取郡出身者を祀る
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『続日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承
神階の奉授について 記しています
【抜粋意訳】
宝亀八年(七七七)七月乙丑〈十六日〉の条
○乙丑 内大臣従二位藤原朝臣良継病 叙其氏神 鹿嶋社 正三位 香取神 正四位上
【原文参照】
『続日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
承和三年・承和六年の条では 香取神と鹿島神に並んで 天児屋根命・比売神〈枚岡の神〉の四所大神として 神階奉叙が記されています
承和十年の条では 神職の把笏について記されています
【抜粋意訳】
承和三年(八三六)五月丁未〈九日〉の条
○丁未 奉授
下総國 香取郡 從三位 伊波比主命 正二位
常陸國 鹿嶋郡 從二位勳一等 建御賀豆智命 正二位
河内國 河内郡
從三位勳三等 天兒屋根命 正三位
從四位下 比賣神 從四位上を其の詔(みことのり)に曰(いわく)
皇御孫命(すめみまのみこと)〈爾〉坐(まします)
四所大神(しところのおほかみ)〈爾〉申し給ひ〈波久〉。大神(おほかみ)等(たち)〈乎〉彌高(いやたか)〈爾〉彌廣(いやひろ)〈爾〉仕奉(つかふまつれ)〈止奈毛(となも)〉思(をほ)〈保志〉食(めす)。是を以件等の冠(かふり)〈爾〉上獻状(あくたてまつるかたち)〈乎〉・・・・・
【原文参照】
【抜粋意訳】
卷八 承和六年(八三九)十月丁丑〈廿九日〉の条
○丁丑 奉り授く
坐(まします)下総國 香取郡 正二位 伊波比主命
坐(まします)常陸國 鹿嶋郡 正二位勳一等 建御加都智命 並從一位
坐(まします)河内國 河内郡 正三位勳二等 天兒屋根命 從二位
從四位上 比賣神 正四位下
・・・・
【原文参照】
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
下総國 神税について 正一位勳一等 香取神社 と記されています
【抜粋意訳】
巻四十二
元慶六年(八八二)十二月九日〈丁未〉の条○九日丁未 勅め 以て 下総國 神税 稻五千八百五十五把九分四毫 充造 正一位勳一等 香取神社 雜舎を料に 隔二十年を一(ひと)作る例(なれば)也(なり)
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並大 社 一百九十八所
座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、
前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われる
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・香取神宮 一座 下総国
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩
嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)下総国 11座(大1座・小10座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)香取郡 1座(大)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 香取神宮(名神大 月次新嘗)
[ふ り が な ](かとりの かむのみや)
[Old Shrine name](Katori no Kamunomiya)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳927 AD.』所載社で「神宮」の称号を記されたのは 3所のみ〈大神宮・香取神宮・鹿島神宮〉
『延喜神祇式』神名帳には
下緫國 香取郡 香取神宮(かとりの かむのみや)(名神大 月次 新嘗)
常陸國 鹿島郡 鹿島神宮(かしまの かむのみや)(名神大 月次 新嘗)
と両神宮ともに 神宮(かむのみや)と見えていて
両神宮ともに・名神大・月次(つきなみ)・新嘗(にひなめ)とされ・祈年・月次・新嘗の祭りには 案上の幣帛が奉られ 神官として・宮司・禰宜・祝部各1名・物忌1名がおかれた
〇伊勢國(いせのくに)度會郡(わたらひの こおり)
大神宮三座(相殿坐神二座・並 大預 月次 新嘗等祭)(おほむかむのみや みくら)
・皇大神宮 内宮〈伊勢神宮 内宮〉(伊勢市)
〇下緫國(しもつふさのくに)香取郡(かとりの こおり)
香取神宮(名神大 月次 新嘗)(かとりの かむのみや)
・香取神宮(香取市)下総国一之宮
〇常陸國(ひたちのくに)鹿島郡(かしまの こおり)
鹿島神宮(名神大 月次 新嘗)(かしまの かむのみや)
・鹿島神宮(鹿嶋市)常陸国一之宮
香取・鹿島の両神宮の式年遷宮について
伊勢神宮には 『延喜太神宮式』に「凡太神宮は廿年に一度 正殿宝殿及び外幣殿を造り替えよ」と記載があります
香取・鹿島の両神宮にも やはり 正殿20年ごとに造営を行う定めについて〈『日本後紀』『延喜式 臨時祭』〉に記されます
『日本後紀(Nihon koki)』〈承和7年(840年)完成〉に記される伝承
九世紀初頭には 住吉大社 香取神宮 鹿島神宮の3神社について 20年に一度の遷宮・造替が制度化されていた事が記されています
【抜粋意訳】
卷廿二弘仁三年(八一二)六月辛卯〈五日〉の条
○辛卯
薩摩國蝗 免逋負稻五千束 遣使修大輪田泊
神祇官言 住吉香取鹿嶋三神社 隔廿箇年 一皆改作 積習爲常 其弊不少 今須除正殿外 隨破修理 永爲恒例 許之
【原文参照】
『延喜式(えんぎしき)巻3〈延長5年(927)〉』神祇について
摂津国住吉 下總国香取 常陸国鹿嶋などは 20年に一度の正殿の造替と その経費に神税もしくは正税を充てるように と記されています
【抜粋意訳】
巻3神祇 臨時祭の条
凡諸国神社随破修理 但 摂津国住吉 下總国香取 常陸国鹿嶋等 神社正殿 廿年一度改造 其料便用神税 如無神税 即充正税
〈およそ諸国の神社は破るるにしたがいて修理せよ
ただし摂津国の住吉 下総国の香取 常陸国の鹿嶋などの神社の正殿は 二十年に一度改め造り その科は便に神税を用いよ もし神税なくば すなわち正税を充てよ〉
【原本参照】
香取・鹿島の苗裔神(びょうえいしん)について
平安初期までの大和朝廷は 東国の蝦夷(えみし)を制圧し 古代日本の中央集権体制を目指し 東北の開拓に乗り出します
香取神宮・鹿島神宮は 奥州開拓の拠点でした その苗裔神(びょうえいしん)〈御子神(みこがみ)〉は 奥州各地の水上交通の拠点に祀られました
・香取・鹿島の苗裔神(びょうえいしん)について
『延喜式神名帳927 AD.』所載社では 陸奥国に「香取」苗裔神(びょうえいしん)は 2社です
牡鹿郡(をしかの こおり)香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)
・香取伊豆乃御子神社(石巻市折浜竹沢)
・和渕神社(石巻市和渕町)
栗原郡(くりはらの こおり)香取御兒神社(かとりみこ かみのやしろ)
・香取御児神社〈旧鎮座地〉(栗原市築館久伝)
・香取御児神社〈鹿島神社に合祀〉(栗原市築館黒瀬後畑)
春日大社の創建について
春日大社の創建は 神護景雲元年(西暦767年)御分霊を神鹿の背に乗せ 藤原氏の氏神・鹿島・香取の大神の御分霊を奈良にお迎えしたことによります
・春日大社(奈良市春日野町)
東国三社
・鹿島神宮(鹿嶋市)常陸国一之宮
・香取神宮(香取市)下総国一之宮
・息栖神社(神栖市息栖)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR鹿島線 香取駅から南へ約2km 車なら5分程度
一の鳥居は 香取神宮一ノ鳥居(津宮鳥居)ですが
香取神宮から西方向へ1.3km程の県道55号〈佐原山田線〉にも 鳥居が建ちます
県道55号に面して 香取神宮の看板がありますので 直ぐにわかります
駐車場からは 参道商店街の中を進みます
参道商店街を抜けると 社頭の鳥居があり 香取神宮の社号標 いよいよご神域です
後日 改めて
香取神宮(香取市)に参着
一礼をして 参道を進みます
参道途中の左手には 護国神社へと通じる石段があり ここから・押手神社・要石・奥宮へも行けます
なだらかな参道を進むと 狛犬の先にも鳥居が建ち その先の石段の上には 総門が建っています
再び 一礼をして 鳥居をくぐります 鳥居の扁額には香取神宮と記されます
総門の前には 再び 石燈籠と狛犬が構える石段があり上ります
総門を抜けると 正面に手水舎があり 清めます 右手には楼門が建ちます
右に折れると 楼門の正面となります
一礼をして 楼門を抜けると 拝殿の正面となり 石畳の参道が伸びています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には幣殿 本殿が鎮座します
境内社にお詣りをしていると 廻廊に置かれていた 傘がありました
何の祭りなのだろうか? 田の文字が全てに入っているので 御田植祭 耕田式だろうか
調べて見ると
「2日日は田植式では 拝殿前での行事の後 祭員を始め稚児・早乙女手代等の行列が斎田へと向かう
参進順路は 拝殿前一楼門一総門一表参道一斎田(帰路は逆順)
稚児にはそれぞれ大華傘が従い 大神田・司田一犬丸田・金丸田・利助田・駒田・長田・狭田の8つの田の名前が記されている
ただし これらの田の名前が 現在のどの場所に相当するかはわかっていない」
この 大華傘に違いありません
社殿に一礼をして 総門を抜けます
そこにあったのは 言葉では言い表せない そして淡く深い見事な景色がありります
奥宮 要石を参拝してから 石段を下り参道に戻ります
二の鳥居を抜けて 振り返り一礼をします
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
御祭神 経津主命は 『古事記』には登場せず 『日本書紀』には登場する謎の神でもあり 御祭神については 様々な学者により 様々な学説が唱えられていて やはり社伝に寄り添うべきであると記しています
【抜粋意訳】
香取神宮(名神大 月次新嘗)
香取は 加止里と訓べし 和名鈔 郷名部 香取
〇祭神 経津主命 相殿 比賣神 天児屋根命 武甕槌命 社伝
〇香取郷に在す 地名記
〇式三 臨時祭 名神祭 二百八十五座 香取神宮 一座 下総国
〇当国一宮也 一宮記
〇惣國風土記残編百二云 梶取神社 圭田公穀之外一千束 所祭 経津主神也 舒明天皇三年辛卯七月 始奉 圭田行 神體 有 神家巫戸祝部之宅
〇日本紀 神代巻上 一書曰 又曰、斬軻遇突智時、其血激越、染於天八十河中所在五百箇磐石、而因化成神、號曰磐裂神。次根裂神、兒磐筒男神。次磐筒女神、兒經津主神
同下 一書曰 一書曰、天神、遣經津主神・武甕槌神、使平定葦原中國。時二神曰「天有惡神、名曰天津甕星、亦名天香香背男。請先誅此神、然後下撥葦原中國。」是時、齋主神、號齋之大人、此神今在于東國檝取之地也古語拾遺云 經津主神 是磐筒女神之子 今 下総国 香取神 是也
此外にも 經津主神の御名見えたれど爰(ここ)に略す抑日本紀神代巻にては 經津主と武甕槌は別神なる事著しけれど 同神武巻
及 古事記等の文にては 同體異名の貌なるに依りて古事記傳 古史微等にいへる事どもあれど こは学者流の論にして 奉仕の身よりとにかく説なすべきにあらず
さるを香取志の作者 当社祠官 小林重規は 同體異名辨を著し 鹿島志の作者 当社神官 北條時隣は 古事記傳の説を主張す
是みな学問に泥める費也 努々社職においては 専ら社伝を守るべし 学者流の論をたつれば 却て敬神の実情に背くもの也鎮座
香取志云 建久年中舊記 神武天皇即位十八年戊寅 始建宮柱云々
古老口碑に伝ふる所 神武元年十八年の両説あり修理
臨時祭式云 ・・・・・・
・・・・
・・・・社職 楽人 把笏
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・・・・神位
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・・・・雑事
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・・・・
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
香取神宮(名神大 月次新嘗)
祭神 斎主神
神位
『続日本紀』宝亀8年(777年)7月16日 香取神 正四位上
『続日本後紀』承和3年(836年)5月9日 従三位 伊波比主 正二位
『続日本後紀』承和6年(839年)10月29日 正二位 伊波比主 従一位社格 官幣大社
所在 香取郷香取村
【原文参照】
『古事記(712年)』『日本書紀(720年)』の両書での「香取の神」の相違
『記紀神話』両書での 神代 出雲の国譲り段の経津主神の 相違について 記しています
日本書紀編纂千三百年 ~日本書紀と香取大神~
今和二年は日本の歴史書である『日本書紀』が完成して一三OO年を迎えます。日本書紀は奈良時代、天武(てんむ)天皇(四〇代)の命により編纂が始められ、舎人(とねり)親王によって撰進された、最初の正式な歴史書(正史)です。養老四年(七二〇)に完成しました。全三十巻で神代から持統天皇(四一代)までが取り扱われています。
一方日本書紀と共に「記紀」と称される『古事記』も天武天皇の命で編纂されましたが、こちらは稗田阿礼(ひえだのあれ)が口述したものを太安万侶(おおのやすまろ)が書き留めたもので.和銅五年(七一二)に完成、神代から推古天皇(三三代)までの全三巻となっています。
どちらも日本の神話が描かれており「記紀神話」とも呼ばれていますが、両者には異なる部分があります。
古事記は大和言葉をもとにした変体漢文の物語調で表記されているのに対し
日本書紀は漢文、しかも年代順に記されており、さらに中国や朝鮮半島の文献も引用しています。これは何を意味するのかというと古事記は国内向け、対して日本書紀は国外向けに編纂されたということです。その内容は共に天皇の日本統治の正当性を示したものですが、日本書紀は特に自国の歴史を国外に知らしめる目的があったのです。
さて、香取神宮の御祭神は『経津主大神(ふつぬしのおおかみ)』。天照大御神の御神意を奉じて出雲の国譲りの大業を成し遂げられ、日本建国の基を築かれた神様であります。この経津主神は日本書紀に記されているのに、古事記には登場しません。
日本書紀には、度重なる葦原中国(あしはらのなかつくに)の平定失敗に高天原の神々は、次に遣わす神は経津主神が適任であるとした。これに対し武甕槌神(たけみかづちのかみ)(鹿島の神)は、『経津主神だけが雄々しい立派な神で、私は違うのか!』と激しく抗議した。そのため経津主神に武甕槌神を副えて葦原中国へ遣わした、とあります。
古事記の「図譲り」では鹿島の神【建御雷神】に天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を副えて遣わしたとありますが、日本書紀は香取の神が「主」であり、鹿島の神は「従」の関係となっています。
日本古紀と古事記とではこうも記述の相違があり大変興味深いものがあります。
現地案内板より
香取神宮(香取市)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)