大戸神社(香取市大戸)

大戸神社(おおとじんじゃ)は 社伝十二代 景行天皇40(111)日本武尊 東征の時 蝦夷征討祈願のため大戸〈古くは大津〉地に勧請白鳳二年(662)更に之を再営す と伝わり 江戸時代まで香取神宮の第一末社(明治から摂社)で 当時 他の末社とは違い 神領も香取大戸と区分され 独自に神主大禰宜などの神官26人と社僧8人の合計34人が勤めた大きな神社でした

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

大戸神社(Ohoto shrine)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

千葉県香取市大戸521

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天手力男命(あめのたぢからをのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

開運子育
五穀豊穣・家内安全守護・交通安全守護・商業繁栄の祖神

【格  (Rules of dignity)

香取神宮摂社

【創  (Beginning of history)】

大戸神社由緒

御祭神 天手力男命(あまのたぢからおのみこと)

創建
十二代 景行天皇四○年(一一一年)日本武尊東征の時、蝦夷征討祈願のため現在の香取市大戸地に勧請幾度か遷宮(同地区内)後、三十六代 孝徳天皇白雉元年(六五○年)現在地に宮柱造営され、明治六年(一八七三年)県社に列せられました。

社殿
その後、数回にわたり社殿改築があり、現在の社殿は、宝永四年(一七○七年)徳川幕府将軍綱吉の手により改築されました。近年では、大正五年(一九一六年)昭和三六年(一九六一年)社殿、屋根、大華表を改築しております。

氏子地域
旧佐原市(現香取市)、旧大栄町(現成田市)、旧栗源町(現香取市)茨城県旧東町(現稲敷市)、のみ各々一部地区にわたる五十六地区(約三、OOO戸余り)であります。そして、五穀豊穣・家内安全守護・交通安全守護・商業繁栄の祖神として広く信仰されております。

現地案内板より

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【由  (History)】

由緒

景行天皇御宇、日本武尊東夷御証討の時、御勧請。宮柱御造営。其の後、天武天皇、伏見天皇、霊元天皇の御代々、御令旨に依り、社殿御改装。伏見・後小松両帝より社領一万貫被附置。
尚、源家・北條家・豊臣家・千葉家等武門武将の宗崇厚く、御宝物其の他寄進状に依り顕らかなり。徳川家より社領百石を被定置。氏子の世帯、佐原市・大栄町・栗源町・茨城県東村に3000戸を抱擁す。明治六年、県社に列せらる。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

― 大戸神社由緒 ―

 大戸神社は、祭神天手力雄命をお祀りし、孝徳天皇白雉元年(650年)に、現在地に遷座されたと伝えられており、氏子の皆様の幸せと子孫繁栄、五穀豊穣のご加護を願って鎮座しております。

 鎌倉時代は将軍家の守り神として武将の崇敬厚く、これら武士の文化遺産は宝物として神殿に安置されています。

 江戸時代まで香取神宮の第一末社(明治になって摂社となる)で、他の末社とはちがい、神領も香取、大戸と区分され、江戸時代も別に神主、大禰宜などの神官26人と社僧8人の合計34人が同社に関係していました。

 千葉県東大戸地区を中心に新島地区、北佐原地区、旧佐原町地区、香西地区、大栄町地区、栗源町地区、茨城県東町地区(一部)、約4,000世帯に及ぶ生活の守護神として現在に至っています。

大戸神社公式HPより

【境内社 (Other deities within the precincts)】

石祠など多数が祀られています
境内末社18座
道祖神三社・浅間神社二社・水神大神・高房神社・白幡神社・稲荷大神二社・大天神社・側高神社・神明神社・豊受皇大神宮・日大神社・疱瘡神社・足尾神社・日吉神社

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

大戸神社(香取市大戸)は 香取神宮の境外摂社です

・香取神宮(香取市)下総国一之宮

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

創建は 第十二代 景行天皇四○年(111年)日本武尊東征の時

社伝に曰ふ
日本武尊東征の時之を勧請し 白鳳二年(662)甲戌 更に之を再営す

『香取郡誌』〈明治33年8月(1900)〉より

神寶として 鎌倉時代の 大戸神社和鏡 古面四枚があります

大戸神社「和鏡三面」 御正体として奉懸された鏡

素円紐松喰鶴鏡(鎌倉時代)、素円紐蓬莱鏡(鎌倉時代)、花亀甲亀蓬莱鏡(室町時代)の三面
三面ともこの種の鏡としては大型であり 鋳上がりもよく 文様も鮮明な優れた作品とされます

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から降ってきた云われる 神寶の龍面 について

神寶に龍面あり。木にも非ず、金石の類にも非ず、因て人作に非ずとす。

昔 同郡矢作野に天降れりとぞ。今 此處を天降と称し、里人祠を建てて祭れり。村里 旱魃(ひでり)する時、請雨塚(あまこひづか)と云へる處に此面を出し、三度水を濯ぐ時は必ず雨を降らすと云ふ。

『香取神宮志』〈昭和13年(1938)〉より

千葉県指定有形文化財

羅龍王面(らりょうおうめん)(一面)・納曽利面(なそりめん)(二面)

昭和三十年十二月十五日指定

雅楽の演奏によって舞う舞楽に用いる面である。

この地域に古くから伝えられ、演じられていたことを示す意味で貴重といえる。

羅龍王面(らりょうおうめん)の内側に嘉歴二年(一三二七)の紀年銘があるが、干支は同三年を示す戊辰となっている。この面に水をそそぐと雨が降るといういい伝えがあり、雨ごいの面としても知られている。
なお、この面は模刻されたものが他に一面伝えられている。

納曽利面(なそりめん)二面あり、多少のちがいはあるが、羅龍王面と同じ鎌倉時代末の作品で、社伝では蒙古来襲の時 鎌倉武将が奉納したものという。

昭和五十七年三月一日 千葉県教育委員会 香取市教育委員会

現地案内板より

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

東西に一直線に並ぶ〈大戸神社・香取神宮奥宮・息栖神社の3社

香取神宮は 経津主命(ふつぬしのみこと)を祀ります

・香取神宮(香取市)下総国一之宮

・〈経津主大神の荒御魂(あらみたま)を祀る〉香取神宮 奥宮(香取市)

大戸神社は 『香取郡誌』〈明治33年8月(1900)〉に 天鳥船命を祀るのでないか? と記されています

清宮秀堅曰く
出雲国造神賀詞に天鳥船命 布津努志命 乎副天降遣天 云々とあり
此神固と香取神を共に大節を握り天下を平定したるものなり
然るに其胴の香取神宮近隣の地より鳥船命を祀れるものに非るか

『香取郡誌』〈明治33年8月(1900)〉より

大戸神社(香取市大戸)

息栖神社(いきすじんじゃ)鹿島神宮 摂社は 相殿に天乃鳥船神祀ります

息栖神社は
鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)香取神宮(千葉県香取市)とともに
東国三社(とうごくさんじゃ)と呼ばれます
久那斗神(くなどのかみ)を主神とし 相殿に天乃鳥船神(あめのとりふねのかみ)住吉三神を祀っています

息栖神社神栖市息栖

天乃鳥船神(あめのとりふねのかみ)は 経津主命(ふつぬしのみこと)は 同一神の別名を伝えたものともされます

この3社大戸神社・香取神宮奥宮・息栖神社〉が 東西に一直線に並ぶのは何かしらの意味があるとする説があります

Google MAP

鹿島神宮跡宮を加えて

鹿島の大神が初めて天降られた所が神野の跡宮で本宮の祭の前日にこの社を祀るとし奈良の春日へ御分霊の際はここから鹿島立ちされたとの言い伝えもあります

鹿島神宮HPより

つまり 天平時代〈神護景雲二年(768)春日大社創建までは 鹿島神宮が鎮座していた処ともされます

・鹿島神宮(鹿嶋市)常陸国一之宮

この 鹿島神宮 跡宮武甕槌大神(あらみたま)〉を祀ります

・鹿島神宮 跡宮(鹿嶋市神野)
〈鹿島の大神が 初めて天降られた所〉

また 香取神宮 奥宮は〈経津主大神の荒御魂(あらみたま)〉を祀ります

香取神宮 奥宮(香取市)
経津主大神の荒御魂(あらみたま)を祀る〉

鹿島神宮 跡宮位置は 息栖神社鹿島神宮 摂社〉の真北に位置していて
大戸神社からは 鹿島神宮 跡宮が 夏至の日の出の方向にあります

こうしたことから 大戸神社は 東国三社の元宮ではないかとの諸説があります

Google MAP

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR成田線 大戸駅から県道を南下 約850m 車3分程度
県道沿いに鎮座しています

大戸神社(香取市大戸)に参着

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社殿 境内は東南方向向いています

鳥居前の石碑には朱文字で刻字された社号標「旧県社 開運 子育 大戸神社」

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その手前には 手水舎があり 清めます

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一礼をして 鳥居をくぐります

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石畳の参道は 真っ直ぐに社殿へと伸びていて 参道には杉の巨木が根を張っています

社殿に向かって 参道左側には「神輿奉安殿」
社殿に向かって 右奥境内には「宝物殿」境内社の鳥居が建ちます

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社殿向かって 境内右側には「氏子会館」があります

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拝殿にすすみます

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拝殿の扁額は「大戸神宮」神宮と記されています
この辺りも 明治に香取神宮の摂社となりましたが 元々は郡中の大社であった証もしくは誇りでしょうか

それとも当国三社の元宮だからなのでしょうか

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 透塀に囲まれて 本殿が鎮座します

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境内には 石祠が多数祀られています 中でも目を引いたのが巨木

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社殿一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『香取郡誌〈明治33年8月(1900)〉』に記される伝承

社伝に 創建を日本武尊東征の時之を勧請 白鳳二年(662)に再造営と伝わり神寶 龍面について 尋常木石の類に非ず伝えて人工に非ずとして 古昔 矢作野に降下したもので 里人はそこに祠を祀り 旱魃の時 雨乞いをすると霊験が新たかである

香取神社の摂社とされているが この社は他の摂社と異例にして祠人は神主大禰宜等三十四人もが勤めていると記しています

【抜粋意訳】

巻之二 神社誌

縣社 大戸神社

東大戸村大戸區宇宮本に在り、域内六百十七六坪
手力雄命を祀り 天照大神 手栲幡姫命を相殿とす
祭日 三月中旬牛日 雑祭一年の間四十五度

社伝に曰ふ
日本武尊東征の時之を勧請し 白鳳二年(662)甲戌 更に之を再営す 中世 武家紛争の時に際し文書等兵乱に罹り散逸するもの多し 正応二年巳丑 及び 明徳二年 両度の造営あり 天正十八年 豊臣氏関東を征せし時 大戸神領内乱防禁制の札書を賜ふ文書 尚存す 徳川氏入国の後 香取神宮朱印内に於いて百石を分配せしむ 寛永四年 幕府の命に仍り更に社殿を新にし 明治十年丁丑 三月定めて香取神宮の摂社とす

一に曰く 本社は往古 同區字大内壺に鎮座し後此に移せりと祭祀等 往時より神宮に接し神宮よりも 亦 神饌幣帛を供へ 或いは神地 神戸を分興して祭祀の用途に充て並びに神職の秩序とせり

社に神寶 龍面を蔵む 製作殊に奇にして其質 亦 尋常木石の類に非ず伝えて人工に非ずとす 或いは曰く 古昔 矢作野に降下するものなりと後世 其處を天降りと名づけ里人祠を建てて之を祀れり旱魃の時 此面を出し水を濯げば即ち降雨の験ありと大戸區神山に小松あり祭事に至れば里人 龍面を樹枝に懸くるを古例とし 呼んで雨乞塚と称す 域内末社廿座あり 社蔵に又 佐藤庄司寄附せしところの太刀と称するものあり

清宮秀堅曰く
出雲国造神賀詞に天鳥船命 布津努志命 乎副天降遣天 云々とあり
此神固と香取神を共に大節を握り天下を平定したるものなり
然るに其胴の香取神宮近隣の地より鳥船命を祀れるものに非るか 殊に本社は他の摂社と異例にして祠人は神主大禰宜等三十四人なり また以て其由縁の深きを見るべしと説の如何は未だ確証を得ず

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『香取郡誌』著者 山田角次郎 著 出版者 山田角次郎 https://dl.ndl.go.jp/pid/763713

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

創建は 景行天皇四十年
当社賓物として 神寶 龍面について 尋常木石の類に非ず伝えて人工に非ずとして 古昔 矢作野に降下したもので 里人はそこに祠を祀り 旱魃の時 雨乞いをすると霊験が新たかである と記しています

【抜粋意訳】

O千葉國香取郡東大戸村大字大戸官本

縣社 大戸(オホトノ)神社

神 天手力雄(アメノタヂカラヲノ)

創建は社伝據るに、景行天皇四十年、倭建命夷賊征討ノ御祈願ニ依テ御勧請すとあり、天武天皇元年再建 降って、伏見天皇正二年、後小松天皇明徳四年、霊元天皇寛永四年亦再建の事ありしと、当社は元と郡中の一社なりしが、近世香取神宮付属社なり、保二年大禰宜職譲状に「末社大戸宮神主」と見え、又仁安二年 大禰宜直房が譲状にも.末社云々と見えたれば、元より付属社たりしならんか、然れども古末社領の如き香取.大戸と目を分ち.職員の如き、神主、大禰宜等の職名あり、境内は千三百二十七坪餘(官有地第一種)松林あり古色蒼然たり、

当社賓物としては神賓龍目太刀あり、集古十種に敗載す、
外に古面四枚あり、里俗云ふ、木にもあらす、金石にもあらす、人作にも非ず昔本郡矢作野に天降りたる者にして、旱魃の時、請雨塚と云處に此面を出だし、三度水を濯ぐときは、必雨降ると、〇利根川圖志 下総國式社考に節あり、云く、

『按、太平記云.嘉暦三年、後醍醐天皇、為ニ中宮僖子、祈ニ安産於各所寺赴、其寶呪ニ咀 北條高時、爾時托國分氏、寄ニ楽人楽器等於香取社祈祷、是其遺器、國分氏居ニ矢作、土人云ニ嘉暦三年、此面自レ天降ニ下矢作、蓋謬傳 後醍醐帝事也、」

香取志上巻曰 大戸社神宮を相距事二里同郭大戸村にあり、社家傳記に、天武天皇白鳳年中建此社、所祭手力雄神也、此社の祭祀数度あり、大概神宮祭祀に擬し、叉神宮より諸の神饌幣帛を備す、神地神戸を分輿て祭祀の用途に充.並祠職の秩録とす、

神寶能面此最奇物也、木にも非らず、金石の類にも非ず。因て人作に非とす、昔同郡矢作野に天降りしとそ、今此所を天降と号し里人祠を建て祭れり、村里旱魅する時、請雨塚と云る處に此面を出、三度水を濯く時は必龍起て雨を降らすと云ふ。

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

『香取神宮志〈昭和13年(1938)〉』に記される伝承

寶の龍面は 木でも金属でもない つまり人が作ったものではない と記しています

又 この龍面は 天から降ってきたものとして 天降神社 (アマクダリジンジャ)香取市本矢作)の由緒についても 記しています

【抜粋意訳】

大戸(おほど)神社

香取郡東大戸村にあり、社家傳説に「天武天皇ノ白鳳年中建ニ此社一、所レ祭
手力雄神也」とあり、或云 磐筒男神 磐筒女神 即ち 經津主命の御親神を祭ると。
神寶に龍面あり。木にも非ず、金石の類にも非ず、因て人作に非ずとす。

昔 同郡矢作野に天降れりとぞ。今 此處を天降と称し、里人祠を建てて祭れり。村里 旱魃(ひでり)する時、請雨塚(あまこひづか)と云へる處に此面を出し、三度水を濯ぐ時は必ず雨を降らすと云ふ。

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『香取神宮志』著者 香取神宮社務所 編 出版年月日 昭13 出版者 香取神宮社務所https://dl.ndl.go.jp/pid/1144805/1/11

大戸神社(香取市大戸)に (hai)」(90度のお辞儀)

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・香取神宮(香取市)の境内社・境外社

 

・香取神宮(香取市)下総国一之宮

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