香取・鹿島の苗裔神(びょうえいしん)は 香取大神・鹿島大神を奉じる大和朝廷の東夷征伐〈奥州開拓〉と深く関わりを持ちます その御子神(みこかみ)の鎮座地は 東北各地の太平洋沿岸・大河川を遡上した水上交通の要所に形成されています これは関東の水上交通の拠点「香取・鹿島の海」から 大神を奉じて 太平洋海上を遡って 大河を遡上して内陸地へと進行して行った軌跡と推測されています
目次
香取・鹿島の御子神(みこがみ)〈苗裔神(びょうえいしん)〉について
古代の日本は 尾張より東は東国で蝦夷の住む処でした 東へ拡大する大和朝廷の歴史は 東国の蝦夷との軋轢の歴史でもあります
関東地方まで勢力を伸ばした大和朝廷は 奈良時代頃~平安初期頃までには 奥州の制圧を目指し 蝦夷(えみし)征伐や移民政策を推し進め 古代日本の中央集権体制を目指しました
このことから東北地方平定には「軍神」として 御神威のある香取・鹿島の神を奉じて 蝦夷征討軍が派遣されました
香取・鹿島の地は 東国〈関東〉の水上交通の拠点とされ 鹿島・香取の海〈現在の霞ケ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に香取海という内海が広がっていた〉両宮はその入り口の重要拠点に鎮座していた ここから奥州〈東北地方〉開拓へ 太平洋海上を北へと遡っていったものと考えられています
こうして 香取神宮・鹿島神宮の苗裔神(びょうえいしん)〈御子神(みこがみ)〉が 奥州開拓の拠点として 太平洋沿岸地域および阿武隈川・旧北上川などの大河川の支流域の各地に祀られていきました
スポンサーリンク
香取・鹿島の苗裔神(びょうえいしん)の伝承(A shrine where the legend is inherited)
香取・鹿島の苗裔神(びょうえいしん)にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)〈和銅6年(713年)〉』に記される「香取神子之社」についての伝承
「香取神子之社」〈香取の神の分祀〉が 行方郡(なめかたのこおり)に 数か所 記されています
【抜粋意訳】
行方(なめかたの)郡
行方郡(なめかたのこおり) 東南は並流海 北は茨城郡である
・・・・
鴨野(カモノ)の条
無梶河から郡境に到った時 鴨が飛び渡った 天皇〈ヤマトタケルノミコト〉が自ら矢を射ると 鴨はすみやかに弓弦の音とともに堕ちた これによって鴨野という 土地は痩せており 草木は生えていない 野の北には・櫟・柴・榧・斗などの樹木が所々に生えていて それが山林を自成している 枡(シャウ)池がある これは高向大夫の時に築かれた池である
北には香取神子之社があり 社(ヤシロ)の側の山野は土壌が肥えていて 草木が密生している
【原文参照】
【抜粋意訳】
佐伯の手鹿(テカ)の条
郡の西北には堤賀里(テカノサト)がある 古(イニシヘ)ここには佐伯(サヘキ)名を手鹿(テカ)という その人が居住していたため 後に里の名となった
その里の北には 香島神子之社がある 社の周囲の山野の土地はよく肥えており 草木・椎・栗・竹・茅の類が多く生えている
【原文参照】
【抜粋意訳】
男高里(ヲタカノサト)の条
郡より南に7里いったところに男高里(ヲタカノサト)がある 古に佐伯の小高(ヲタカ)という人が住んでおり この者に因んで名付けられた
国宰の当麻(タキマ)の大夫の時に池を築き 今も道の東にある 池の西の山には 猪・猿が多く棲んでおり 草木も密生している
南には鯨岡(クヂラヲカ)がある 上古に海の鯨が腹ばいになってやって来て ここに横たわった ここには栗家池(クリヤノイケ)がある その栗が大きかったので 池名とした
北には 香取神子之社がある
【原文参照】
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される〈鹿島大神之 苗裔神卅八社〉伝承
常陸國鹿嶋神宮司が 太政官に訴えた二件について
一件は 〈鹿島大神之 苗裔神卅八社〉に幣帛の例を復活させようとしたが 陸奥国は「旧例にない」と拒否した
陸奥国に鎮座する38社〈鹿島大神之 苗裔神卅八社〉について記し
つづいて
平安前期(延暦年間)鹿島神宮から陸奥国の38社〈鹿島大神之 苗裔神卅八社〉に幣帛を頒布していたが その例が途絶えたので神の祟りがあった 復活させようとしたが 陸奥国は「旧例にない」といって受け取らず 仕方なく幣帛を捨てた するとさらに神の怒りがあった 陸奥国に命じて奉幣をさせて頂きたいと鹿島神宮の神宮司から中央に訴えている
※鹿島神宮の祭祀氏族〈大宮司家〉が 中臣氏に代わった〈奈良時代に中臣鹿島連 平安初期に大中臣氏 そののちふたたび中臣氏がつく〉ため苗裔神社側が抵抗した〈鹿島神宮の奉斎が オホ氏系から中臣氏系に変ったことに対して 太古から「香島の天の大神」を奉斎していた陸奥の人々の抗議である〉と解釈する説があり
この説によれば 春日化〈大和化〉した鹿島神が 本来の鹿島神の流れをくむ 陸奥の鹿島社〈鹿島大神之 苗裔神卅八社〉の御神威を必要としていたとします
二件目は 20年ごとの修造〈神社などを繕い直すこと〉(式年遷宮)について
香取・鹿島の両神宮ともに 20年ごとに造営を行うこと これは公的な定めがあり〈『日本後紀〈承和7年(840年)完成〉』『延喜式 臨時祭〈延長5年(927)〉』〉「式年遷宮」に規定が記されます
式年遷宮の神木の確保のために 近隣の地に植林の増加を要望を 公的な要求として要請しています
「当地から200余里離れた那珂郡の山から伐採し 運び出すもので 大変な苦労があり」と記されています
単なる輸送距離の問題だけではなく 一件目と合せて要請していますので 那珂郡の山 の領地主が〈苗裔神を信仰する豪族か ?〉であり 信仰上〈崇拝の神の違い〉による軋轢とも想定できます
【抜粋意訳】巻十二
貞觀八年(八六六)正月二十日〈丁酉〉の条常陸國 鹿嶋神宮司が言上します
鹿島大神の苗裔神38社が 陸奧國に在ります菊多郡 1、磐城郡 11、標葉郡 2、行方郡 1、宇多郡 7、伊具郡 1、曰理郡 2、宮城郡 3、黒河郡 1、色麻郡 3、志太郡 1、小田郡 4、牡鹿郡 1
古老の云うのを聞くには 延暦〈782~806〉以来 鹿島大神の封物を割いて この諸社〈苗裔神38社〉に奉幣して参りました
弘仁〈~822〉より その例がしばらく〈約26年間〉途絶えたので 鹿島神の祟りが甚だしく 陸奥国では 諸神たちが祟りを為して 物怪が頻繁にあらわれます
嘉祥元年(848)に復活させようと宮司らが 当国〈常陸國〉の移状を請い 幣(みてぐら)を奉じて〈奉幣〉に陸奥國に赴きましたが
陸奥国は「旧例にない」といって受け取らず 陸奥国の入国は許されませんでした 仕方なく関の外の川辺で奉幣して そこに幣物を祓い捨てました するとさらに神の怒りがあったので 奉幣をさせて頂きたい 陸奥國に関の出入りを承認するよう下知を出して頂きたい 幣の料には鹿島大神の封物を用いて 苗裔神諸社に奉幣して神の怒りを解きたい又 鹿島神宮大神宮には 惣六箇院〈6棟の建物〉があり 20年ごとに修造〈神社などを繕い直すこと〉(式年遷宮)しています
その材木は 当地から200余里離れた那珂郡の山から伐採し 運び出すもので 大変な苦労があり 近くの空き地に栗を5700株 椙(杉)を4万株植えています しかし もっと多くの木を植えることを請い望みます 宮の閑地に造林を加え斎祀ることを神宮司に付けるように命じて頂きたい 太政官の御処分を要請致します
【原文参照】卷十二
貞觀八年(八六六)正月廿日〈丁酉〉
○廿日丁酉。勅
美濃國多藝郡空閑地六十町施入貞觀寺
先是。常陸國鹿嶋神宮司言。大神之苗裔神卅八社在陸奧國。菊多郡一。磐城郡十一。標葉郡二。行方郡一。宇多郡七。伊具郡一。曰理郡二。宮城郡三。黒河郡一。色麻郡三。志太郡一。小田郡四。牡鹿郡一。
聞之古老云。延暦以往。株大神封物。奉幣彼諸神社。仁而還。絶而不奉。由是。諸神爲祟。物恠寔繁。
嘉祥元年。請當國移状。奉幣向彼。而陸奧國。稱无舊例。不聽入。宮司等於外河邊。弃幣物而歸。自後神祟不止。境内旱疫。望請。下知彼國。聽出入。奉幣諸社。以解神怒。
其幣用大神封物。又言。鹿嶋大神宮惣六箇院。廿年間一加修造。所用材木五萬餘枝。工夫十六萬九千餘人。稻十八萬二千餘束。採造宮材之山在那賀郡。去宮二百餘里。行路嶮峻。挽運多煩。伏見。造宮材木多用栗樹。此樹易栽。亦復早長。宮邊閑地。且栽栗樹五千七百樹。樹卅四株。望請。付神宮司。令加殖兼齋守。太政官處分。並依請。
平安時代中期の『延喜式神名帳927 AD.』に記載 奥州〈東北地方〉の 香取神宮・鹿島神宮の分祀と考えられる神社
大和国の東の涯(はて)に鎮座した香取・鹿島の2神宮は 古来より大和王権との繋がりが深く 平安時代中期の『延喜式神名帳927 AD.』には 伊勢・香取・鹿島の3神のみが“神宮”と記載されるほどの高い神威を誇りました
その御神威を背景として 奥州〈東北地方〉制圧が行なわれていったのでしょう 香取神宮・鹿島神宮の分祀〈苗裔神を祀るこれらの分社〉は 蝦夷征討軍によって分祀されたものと考えられています
スポンサーリンク
『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国〈香取苗裔神〉式内社2社の論社
〈本宮〉 香取神宮(名神大 月次 新嘗)(かとりの かむのみや)
・香取神宮(香取市)下総国一之宮
牡鹿郡(をしかの こおり)香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)
・香取伊豆乃御子神社(石巻市折浜竹沢)
・和渕神社(石巻市和渕町)
栗原郡(くりはらの こおり)香取御兒神社(かとりみこ かみのやしろ)
・香取御児神社〈旧鎮座地〉(栗原市築館久伝)
・香取御児神社〈鹿島神社に合祀〉(栗原市築館黒瀬後畑)
スポンサーリンク
『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国〈鹿島苗裔神〉式内社8社の論社
〈本宮〉 鹿島神宮(名神大 月次 新嘗)(かしまの かむのみや)
・鹿島神宮(鹿嶋市)常陸国一之宮
黒川郡 鹿島天足別神社(貞)(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
・鹿島天足別神社(富谷市大亀)
曰理郡 鹿嶋伊都乃比氣神社(かしまいつのひけの かみのやしろ)
・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)
・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
・八雲神社(亘理町)
〈鹿島天足和気神社の旧鎮座地三門山に祀られていた石祠が境内に祀られている〉
曰理郡 鹿嶋緒名太神社(かしまをなたの かみのやしろ)
・鹿島緒名太神社(亘理町逢隈小山)
・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
曰理郡 鹿嶋天足和氣神社(かしまあまたりわけの かみのやしろ)
・鹿島天足和気神社(亘理町逢隈鹿島)
・八雲神社(亘理町逢隈牛袋天王)
〈鹿島天足和気神社の旧鎮座地三門山に祀られていた石祠が境内に祀られている〉
信夫郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)
・鹿島神社(福島市鳥谷野宮畑)
・鹿島神社(福島市小田鹿島山)
・鹿島神社(福島市岡島竹ノ内)
・鹿島神社(伊達郡国見町藤田町尻二)
磐城郡 鹿嶋神社(かしまの かみのやしろ)
・鹿島神社(いわき市常磐上矢田町)
牡鹿郡 鹿嶋御兒神社(かしまのみこの かみのやしろ)
・鹿島御児神社(石巻市日和が丘)
行方郡 鹿嶋御子神社(かしまみこの かみのやしろ)
・鹿島御子神社(南相馬市鹿島区鹿島町)
・鹿島御子神社旧蹟碑(南相馬市鹿島区鹿島町)
『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922〈国立研究開発法人 科学技術振興機構〉に 記される 苗裔神(びょうえいしん)について
悪路王(あくろおう)とは 鎌倉時代に記された東国社会の伝承に登場する陸奥国の〈実在とも伝説上とも〉人物とされます
別名として 悪来王 悪毒王 阿久留王などとも記されています
鎌倉時代以降の 鹿島神宮や鎌倉幕府など東国社会の文献に 名前が登場し『鹿島神宮文書』では「悪来王」が藤原頼経によって討たれたと記され
『吾妻鏡』では「悪路王」は蝦夷(えみし)の賊首で 赤頭とともに坂上田村麻呂と藤原利仁によって征伐されたと記されます
文中に「常陸の鹿島郡 鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實と 下総香取大神と並び 苗裔の諸神多く奥州に祀らるる〈38社〉」と 三代実録 貞観八年正月の条を紹介し 現在〈1922〉は その陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず と記されています
【抜粋意訳】
常陸の鹿島郡に鎮まります鹿島大神の威霊を発顕する一なる祭頭祭の故實なりとす。言ふを要せず、神代の時 荒振神たちをことむけたまひし 縁由ある鹿島大神は中古 征夷の陸奥に邁進せらるるに伴ひて 其の神威を此方面に被及し 其の同功 一體の徳を伝ふる
下総香取大神と並び、苗裔の諸神多く奥州に祀らるるに至り「貞観八年正月 鹿島神宮宮司の奏詞に大神苗裔の神 陸奥に在る者三十八社 弘仁以来幣を奉らざるを以て神崇大に著はる」との事、三代実録に見ゆ。
(所謂 陸奥三十八社の神名 所在 悉く明らかならず。延喜式神名帳に見ゆる 黒川郡 鹿島天足別(カシマアマタラシワケノ)神社・亘理郡 鹿島伊都乃比氣(カシマイツノヒケノ)神社・同郡 鹿島緒名太(カシマヲナタノ)神社・同郡 鹿島天足和氣(カシマアマタラシワケノ)神社・信夫郡 鹿島神社・磐城郡 鹿島神社・牡鹿郡 鹿島御兒(カシマミコノ)神社・行方郡 鹿島御子(カシマミコノ)神社は正さしく其の一部なるべく
又 香取大神の苗裔と認むべきは 牡鹿郡 香取伊豆乃御子(カトリイツノミコノ)神社・栗原郡 香取御兒(カトリミコノ)神社とす)祭頭祭に就きて新編常陸國志補に曰く・・・・・・・・
【原文参照】
『悪路王考』伊能嘉矩 著 · 1922〈国立研究開発法人 科学技術振興機構〉より
香取・鹿島の苗裔神(びょうえいしん)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
スポンサーリンク