瀧尾神社(日光市)

滝尾神社(たきのおじんじゃ)は 弘仁11年(820)弘法大師(こうぼうたいし空海(くうかいが創建したと伝えられます 江戸時代までは 日光山を信仰する三社の1つとして 日光三社権現(にっこうさんしゃごんげん(滝尾権現・新宮権現・本宮権現)と呼ばれていました 女峰山を御神体山と仰ぎ 田心姫命(たごりひめのみこと)を祀り「女体中宮とたたえます

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name

瀧尾神社Takinoo Shrine)
たきのおじんじゃ

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (location) 

栃木県日光市山内

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》田心姫命(tagorihime no mikoto)

【御神格 (God's great power)】

子授け Children will be born as desired
安産  Healthy childbirth
・子育て God of parenting

【格  (Rules of dignity)

日光二荒山神社Nikko Futarasan Shrine別宮

【創  (Beginning of history)】

滝尾神社(たきのおじんじゃ)

弘仁11年(西暦820)弘法大師創建

現在の建物は、江戸時代初期のもの。
二荒山神社の別宮で、社・本と共に日光三社権現の一つ
女峰山を御神体山と仰ぎ、田心姫命(たごりひめのみこと)を祀る。 

【重要文化財】

【由  (history)】

滝尾(たきのお)神社(重要文化財)

日光二荒山神社の別宮。本宮、新宮(現在の二荒山神社)とともに日光三社権現の一つである。
女峰山の女神田心姫命(たごりひめのみこと)を祀る。

弘仁11年(820)弘法大師が創建したと伝えられる。
明治4年の神仏分離までは楼門に大師の筆といわれる「女体中宮(にょたいちゅうぐう)」の額が掲げられ、仁王像が安置されていたという。
正保3年(1646)の建立。4月の弥生祭の時には、二荒山神社から滝尾の神輿が渡御(とぎょ)する。」

案内立札より

【境内社 (Other deities within the precincts)】

滝尾稲荷神社Takinoo inari Shrine)
《主》倉稲魂神(ukanomitama no kami)(稲荷大明神)

滝尾稲荷神社Takinoo inari Shrine)の記事をご覧ください

 

瀧尾高徳水神社Takinoo takatoku sui Shrine)
《主》罔象女(mizuhanome no mikoto)

瀧尾高徳水神社Takinoo takatoku sui Shrine)の記事をご覧ください

 

スポンサーリンク

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

世界遺産「日光の社寺」(The World Heritage Shrines and Temples of Nikko)
日光三社権現(Nikko sansha gongen)について

日光山に鎮座する3つの神社の総称で「日光三社(Nikko sansha)」とも呼ばれます

日光山の信仰は
三山(女峰山〈Mt. Nyoho〉・男体山〈Mt. Nantai〉・太郎山〈Mt. Taro〉を御神体山として
【山・所・仏・神・社】は 神仏習合をして 唱えられていました

三山 (女峰山  ・男体山  ・太郎山)
・三所 (女体権現 ・男体権現 ・太郎大明神
三仏 (阿弥陀如来・千手観音 ・馬頭観音)
・三神 (田心姫命 ・大巳貴命 ・味耜高彦根命
三社 (滝尾権現 ・新宮権現 ・本宮権現)

江戸時代までは 日光山を信仰する三社として
日光三社権現(Nikko sansha gongen(滝尾権現・新宮権現・本宮権現)と呼ばれ
明治元年(1868)3月「神仏判然令(神仏分離令)」に伴って
明治4年に現在の「滝尾神社・日光二荒山神社・本宮神社」と改められています

現在 日光三山を御神体として祀る神社は 次の通りです

女峯山〈Mt. Nyoho〉⇒
頂上には女峯山神社Nyohosan Shrine)奥社
山麓の遥拝処には瀧尾神社Takinoo Shrine)

男体山〈Mt. Nantai〉⇒
頂上には二荒山神社 奥宮(Futarasan Shrine Okumiya)
中腹には二荒山神社 中宮祠(Futarasan Shrine Chugushi)
山麓の遥拝処には日光二荒山神社 本社Nikko Futarasan Shrine

太郎山〈Mt. Nantai〉⇒
頂上には太郎山神社Tarosan Shrine)
山麓の遥拝処には本宮神社Hongu Shrine)

日光二荒山神社(Nikko Futarasan Shrine)と その別宮である「本宮神社・滝尾神社」の
「日光三社権現(Nikko sansha gongen)」は いずれも世界遺産(World Heritage)「日光の社寺(Shrines and Temples of Nikko)」の一群です

本宮神社Hongu Shrine)の記事をご覧ください

 

日光二荒山神社Nikko Futarasan Shrineの記事をご覧ください

 

滝尾神社Takinoo Shrine)の記事をご覧ください〈当社〉

 

スポンサーリンク

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

境内のポイントご案内 御参拝の時にお役立てください

別所跡(bessho ato)について

東照宮の遷座以前日光参詣の中心が この瀧尾周辺であったことを記しています

別所跡
 東照宮の遷座以前、日光参詣の中心はこの瀧尾周辺であった。
日光責めで有名な輪王寺の「強飯式(ごうはんしき)(山伏が、大盛りのご飯を残さず食べろと責める儀式)も、ここが発祥の地である。明治になって廃絶。

永正6年(1509)日光に来た連歌師、宗長の紀行文「東路(あずまぢ)のつと」には、
「ここより谷々見おろせば、院々僧坊およそ五百坊にも余りぬらん」とあり、盛時の様子が偲ばれる。

案内立札より

運試しの鳥居 について

運試しの鳥居

元禄□年(1696)に、三代将軍 家光の忠臣、梶定良が奉納したもので、
鳥居の額束(がくづか)(中央の縦の部分)の丸い穴に小石を三つ投げ、穴を通った数で運を試したという。
御影石、明神造り。

案内立札より

無念橋(munembashi)について

重要文化財
無念橋(むねんばし) 俗称 願い橋(ねがいばし)

 延宝58 教域院天佐掛替

三本杉(さんぼんすぎ)を通して ご神体山(しんたいさん)の「女峯山(にょほうさん)」を遙拝(ようはい)するため、自分の身(み)を清(きよ)め俗界(ぞくかい)と縁(えん)を切ることを意味する橋であったが、

いつの頃からか己(おのれ)の歳(とし)の歩数(ほかづ)で渡ると
女峯山頂上奥宮(おくみや)まで健脚(けんきゃく)で登ったことになり願がかなえられる と言われるようになり「願い橋」と呼ばれる

江戸時代まで ここは日光修験(にっこうしゅげん)の中心地であったところから 修験者(しゅげんじゃ)(山伏 やまぶし)達の足腰のたんれんのための修行(しゅうぎょう)が原因でこうした伝称(でんしょう)が生まれたのであろう。

案内立札より

子種石(kodaneishi)について

子種石
 古くは、子種権現といわれた。子供が授かるように、また、安産でありますようにと、この霊石に祈れば霊験があるというので、今日でも参拝者が多い。

案内立札より

スポンサーリンク

神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

日光二荒山神社Nikko Futarasan Shrineから 滝尾道を上り 約1.8km 徒歩30分程度

道路右手に駐車場の広場があり
瀧尾高徳水神社Takinoo takatoku sui Shrine)
《主》罔象女(mizuhanome no mikoto)
が鎮座しています

瀧尾高徳水神社Takinoo takatoku sui Shrine)の記事をご覧ください

 

道路左手には 山へ続く参道があります

瀧尾神社Takinoo Shrine)に参着

社号標「日光二荒山神社別宮 瀧尾神社」が建ち
参道は石畳に変わり 山にむかって石段が続いています
左手には「白糸の滝 Shiraito Falls」があり 滝のしぶきが霧のように舞っています

参道の左下が「白糸の滝 Shiraito Falls」になります

参道石段の途中には

別所跡(bessho ato)

影向石(yogoseki)

運試しの鳥居 が静かな木立の中に続きます

一礼をして運試しの鳥居をくぐります

朱色の見事な楼門(重要文化財)が建ちます

明治の神仏分離までは この楼門に弘法大師Kobotaishi)空海Kukai)の筆といわれる「女体中宮(nyotaichugu)」の額が掲げられ 仁王像が安置されていたと伝わります

重要文化財 楼門(ろうもん)
重層入母屋造(じゅうそういりもやづくり)総漆塗り(そううるしぬり)元禄10年(江戸時代1697年)に移転新築された。それ以前は正面参道石段を登った付近にあり、おなじくらいの門であった。
江戸建築の重厚な建物である。

案内の立札には

楼門をくぐり抜けると 直ぐに拝殿が建ちます

拝殿にすすみ

賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

向かって左手に 石畳の参道が奥へと続きます 拝殿の後ろには唐門と本殿が建ちます

重要文化財
本殿(ほんでん) 唐門(からもん)

本殿は三間社流れ造り(さんげんながれづり)
唐門は二脚平唐門(にきゃく ひらからもん)
総漆塗り(そううるしぬり)極彩色(ごくさいしき)

この建物は 正徳(しょうとく)3年(1713年)建て替えられたもので周(まわ)りの玉垣(たまがき)石畳(いしだたみ)もその時設けられた。

御神体山(しんたいさん)の女峯山(にょほうさん)を遥(はる)かに拝(おが)むように本殿の裏壁には扉(とびら)がつけられた造りになっていて 全国でもたいへん珍しい。

案内立札より

唐門(kara mon)

本殿

縁結びの笹

唐門の手前左右にあります
笹の葉を結ばないで下さいと注意書きあります 

そのまま石畳の参道を奥へと進むと

滝尾稲荷神社Takinoo inari Shrine)
《主》倉稲魂神(ukanomitama no kami)(稲荷大明神)

滝尾稲荷神社Takinoo inari Shrine)の記事をご覧ください

 

無念橋(munembashi)
御神木(goshimboku)滝尾三本杉(takiono sambonsugi)

酒の泉(sake no izumi)

子種石(kodaneishi)

と続きます それぞれにお詣りをします

社殿の前で一礼して楼門をぬけて 運試しの鳥居をくぐり抜けて それぞれ振り返りながら一礼をして 境内を後にします

スポンサーリンク

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

弘法大師Kobotaishi)空海Kukai)に関係する伝承が 境内の至る所に残されています

白糸の滝〈Shiraito Falls〉について

弘法大師Kobotaishi)空海Kukai)の修行の場

白糸(しらいと)の滝
天狗沢にかかる名瀑。高さ約10m
弘法大師 修行の場と伝えられる。
文明18年(1486)京都聖護院の 准后(しこ)が日光を訪れ、その時の紀行文「廻国雑記」に左の和歌が詠まれている。

 世々を経て 結ぶ契りの 末なれや
この滝尾の たきの白糸

案内立札より

影向石(yogoseki)について

弘法大師Kobotaishi)空海Kukai)が 神霊の降下を祈願し 美しい女神が現れた

影向石(ようごうせき)

影向とは、神仏が仮の姿をとって、この世に現れること。
 弘法大師(空海)が、
弘仁11年(820)この地に来て、奥の大岩のあたりで神霊の降下を祈願したところ、美しい女神が現れたと伝えられている。

案内立札より

御神木(goshimboku)滝尾三本杉(takiono sambonsugi)について

古代より滝尾境内の最も神聖な処で 弘法大師Kobotaishi)空海Kukai)が この山で修行をした時に田心姫命が現れた場所と伝えられます
現在の杉は二代目で 
倒れた先代の御神木は そのままにする習わしがあり 苔生しています

三本杉(神木)(しんぼく)

弘法大師が、この山で修行をした時に田心姫命が現れた場所と伝えられる。
 初代の杉は169917471749年と相次いで倒れ、現在の木は二代目である。
倒れた親木は、そのままにしておく習わしで、今も横たわっている。
 この神木の霊験をしめす話があり、寛文7年(1667)鶏頭院山舜の下僕が、
この神木を小さいと馬鹿にして、神罰を被ったという。

案内立札より

御神木(ごしんぼく)
滝尾三本杉(たきおのさんぼんすぎ)

古代より滝尾境内の最も神聖な処である
以前の三本杉は右側が元禄(げんろく)12815日(1699年)中央が延享(えんきょう)4827日(1747年)にいづれも静か夜半(よはん)突然に倒(たお)れたと古書(こしょ)に記(しる)されている
左側は寛延(かんえん)2612日(1749年)夜半 雨の中倒れたもので、手をつけづに今もそのまゝである。

その時(あらた)めて石玉垣(いしたまがき)を設(もう)け現在に至る
したがって、今の御神木は250300年の樹齢(じゅれい)である

案内立札より

酒の泉(sake no izumi)について

弘法大師Kobotaishi)空海Kukai)が この泉を汲んで神に捧げたといわれています この御供水(ごくうすい)には 酒の味があるといわれ 持ち帰って元水として酒を造ると良酒ができると伝わります ただし昭和24年の今市地震で消失してしまいました

酒の泉
 本宮の清水(昭和24年の今市地震で消失)、薬師の霊水とともに日光の三霊水の一つ。
弘法大師が、この泉を汲んで神に捧げたといわれている。

この御供水(ごくうすい)には、酒の味があるといわれ、持ち帰って元水として酒を造ると、良酒ができるという。
醸造家の崇敬が厚く、古くから栃木県内の酒造家たちで酒泉講が結成され、
秋に祈醸祭、春に報醸祭が行われる。現在は、西神苑の「二荒霊泉」で行われる。

案内立札より

瀧尾神社Takinoo Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

日光三社権現(Nikko sansha gongen(滝尾権現・新宮権現・本宮権現)

本宮神社Hongu Shrine)の記事をご覧ください

 

日光二荒山神社Nikko Futarasan Shrineの記事をご覧ください

 

滝尾神社Takinoo Shrine)の記事をご覧ください〈当社〉

 

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」でありますので 各郡の条に「〇〇郡 神社」として 神社名の所載があります
『風土記(fudoki)』が編纂(733年)された 当時の「出雲の神社(399社)」を『出雲國風土記 神名帳(izumo no kuni fudoki jimmeicho)』として伝える役割をしています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷で 出雲国造が その任に就いた時や遷都など国家の慶事にあたって朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉としていて 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-その他の神社
-, ,

error: Content is protected !!

Copyright© Shrine-heritager , 2024 All Rights Reserved.