高瀬神社(たかせじんじゃ)は 越中国一之宮として格式高く 御祭神は 大己貴命(大国主命)を祀ります 近くには 当社の鎮座地とも伝わる「高瀬遺跡」もあり 農耕文化の芽生える弥生時代(紀元前10世紀頃~紀元後3世紀中頃)の頃の鎮座と推測されています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
高瀬神社(takase shrine)
(たかせじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (location) 】
富山県南砺市高瀬291
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大己貴命(大国主命)(okuninushi no mikoto)
《配》天活玉命(ameno ikutama no mikoto)
五十猛命(itakeru no mikoto)
越中式内社 三十四座
礪波郡内氏神
相殿 神明宮《主》天照皇大神
相殿 風宮 《主》級長戸辺命
相殿 天満宮《主》大宰府天満大神(菅原道真公)
【御神格 (God's great power)】
(大己貴命)~福の神・縁結びの神・国土開拓・農耕の神・医薬医療の神
(天活玉命)~無病息災・延命長寿の神
(五十猛命)~農林殖産・交通安全・厄除・病気平癒の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
・ 越中国一之宮
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
御鎮座は遠く神代の昔、また景行天皇11年の御代とも云われています。
社伝に御祭神が北国御開拓の折、この地に守り神を祀り、国成りおえて後、自らの御魂をも鎮め祀られ、出雲へ帰り給うたとも伝えられ、のちに延喜式内社、越中一宮として崇められてきました。越中国の人々は勿論、朝廷の崇敬も厚く、
天武天皇の御代に勅使を派遣され、
光仁天皇の宝亀11年に従五位、
文徳天皇の斉衝元年に従三位、また同年、祢宜、祝等に把笏を許さる。
貞観元年に正三位、その後も順次累進、治承4年に正一位を授かりました。また社頭荘園多く又皇室の御領に宛てられたこともあり、神子屋鋪・鎌倉屋鋪・大宮司田・神子畑等、近傍に残る地名によって、往時の盛大さを偲ぶことが出来ます。
戦国時代には社頭荒廃し、見るに忍びない状態となりましたが、前田藩主の崇敬厚く漸次神威昂揚せられて、明治6年に県社、大正12年に国幣小社に昇格されました。
大正13年には摂政の宮の御使が参向され、大正14年には皇后陛下より「神ながらの道」を奉献され、昭和3年の御大典、昭和16年の宣戦また昭和20年の終戦には勅使の参向がありました。
公式HPより
【由 緒 (history)】
御祭神 当神社の御祭神は、大國主命(大己貴命)を主神に天活玉命、五十猛命を祀り、末社3社と礪波地区の村々里々に鎮座されます
氏子の神々と越中国延喜式内社三十三座の神々を奉斎したお社でございます。大国主命、縁結び、国土開拓、農耕の神様です。
天活玉命、無病息災、延命長寿の神様です。
五十猛命、産業の神様です。御社殿 千鳥破風と唐破風が巨木の森に調和よく建つ当神社の御社殿は、昭和17年より数ケ年の計画で建立される予定で工事が始まり、基礎工事が終了した
昭和20年8月終戦を迎えGHQ(極東軍司令部)の司令によって国費による建立が中止され、往古の面影は消滅し、参拝する人の数は皆無といった状況であり、こんな姿を憤慨された地方の崇敬者有志の方々が多額の浄財や樹齢数百年の銘木を御寄進下され、社殿建立の情熱にささえられて、昭和22年に御本殿(流造)、翌年(昭和23)に拝殿(入母屋造)更に昭和62年に唐破風の向拝殿が完成し、鎮座2000年の歴史を偲ぶ御社殿の完全な竣工を見るに至ったのです。氏子崇敬社 氏子は現在井波町大字高瀬の100余戸でありますが、古来近郷11ケ村の人々は春秋の例大祭には仕事を休み神社へ参拝する習慣がありました。
現在、御神徳の昂揚によりまして県内は云うまでもなく遠く北海道、甲信越、北関東から崇敬者の方々が参拝されます。宝物殿と大鳥居 昭和59年、礪波市在住の岩川毅氏の御寄進により11月竣工し、60年には小矢部市在住の西田東作氏によって参道の大鳥居が寄進され、天皇陛下御在位六十年祝賀記念事業として2年間に亘り施工されたものであります。
宝物殿には古来当神社に伝わる御神宝等を収蔵しております。
また、大鳥居は6月30日の大祓式に御奉写された大祓詞を収納致し大鳥居の下をくぐる人々の罪穢を祓い清めております。手水舎 昭和45年に伊勢神宮より御下附され神宮(外宮)から移築された建造物であります。
手水舎の中にあります水鉢は新潟県只見川上流より運ばれた自然石でつくられ洗心の禊場であります。自然石の裏に「水神」の文字が刻まれております。功霊殿 御社殿に隣接する功霊殿は礪波地方から出征され戦場で護国の英霊となられた方々と、地方開拓の功労者合せて6400余柱の御霊を昭和24年に合祀したお社であります。
御本殿は当神社の旧本殿で天保7年(約159年前)の建立で井波彫刻の粋を尽くしたものであり文化財の指定を受けております。齋館 平成3年8月に完成した当神社で一番新しい建物であります。
齋館と云いますのは祭に奉仕する神職達が祭に奉仕する前に参篭して潔齋(心身を清浄にする)館舎です。この館舎は小矢部市在住、ゴールドウィン社長西田東作氏と会社の皆様の御支援によって建立されたのです。社務所と境内 昭和40年鎮座2000年を記念し造営されたもので鉄筋平屋造りの社務所で和洋折衷のモダンな(660平方米)建物であります。近年会議室等の内装を整え結婚式その他にも利用され喜ばれています。
境内地には樹齢数百年の杉の巨木の森は過去の歴史を語りかけ、四季を通して野鳥の声が森林の中に響き参拝者の耳を楽しませてくれます。
境内樹木の若木は各地から崇敬者の方々が植樹されたものであります。御鎮座の由緒 御鎮座の年代は不詳ですが景行天皇の御代だとも言われています。
天武天皇の御代に当神社へ勅使を遣され、その後、光仁天皇宝亀11年に従五位に更に、清和天皇貞観元年に正三位後、治承4年に正一位に列されると共に多くの社領荘園があり皇室の御領となったこともあるようです。
神社の氏子の地名、大宮司、神子畑、勧学院など往事の面影を偲ぶことができます。
戦国時代に入ると、往古の繁栄はいづこへ、社頭は荒廃し人心も乱れた時代でした。
江戸時代になると崇敬厚い加賀藩主の保護により神威は昂揚し、
明治6年に県社となり
大正12年国幣小社に列せるに至り翌年13年に摂政宮(先帝陛下)の勅使が御参拝になり、
昭和20年終戦と共に国民の幸を祈るよう勅使の御参拝がありました。
現在初詣をはじめ季節の移り変る節目の祭典や神事に多くの崇敬者が参拝になります。「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・高瀬稲荷社《主》宇迦之御魂大神
・功霊殿 《主》護国の英霊・開拓功労者
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越中国 34座(大1座・小33座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)砺波郡 7座(並小)[名神大 大 小] 式内 小社
[旧 神社名 ] 高瀬神社
[ふ り が な ] (たかせの かみのやしろ)
[How to read ](takase no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
御祭神 天活玉命(ameno ikutama no mikoto)について
あまり聞きなれない神の名前ですが
別称は「活魂命・活玉命・伊久魂命・生産日神・生霊神・天神玉命」とあります
『日本書紀(nihon shoki)』は「生霊神(ikutama no kami)」と伝えます
父神は 造化三神の「高魂命」または「神魂命」とされて
「八神殿(天皇守護の8神を祀る神殿)」では「生産日神(iku musuhi no kami)」として重要な「むすひの神」として祀られています
『先代旧事本紀』では饒速日命に随行した三十二神の一柱として伝えています
また賀茂氏・葛城国造関係の系図では 賀茂建角身命(陶津耳命)の祖父に位置づけられています
八神殿の記事もご覧ください
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越中国には 一之宮と称する 4つの神社の系統があります
天平宝宇元年(757)に越中国から 能登国が分立するまでは 能登の羽咋に鎮座する 氣多神社〈現 氣多大社〉が一之宮として機能していました
4系統には 各々に論社や分祀があります
①砺波郡 高瀬神社
・高瀬神社(南砺市高瀬)
➁射水郡 射水神社
・射水神社(高岡市古城)
・二上射水神社(高岡市二上)
➂射水郡 氣多神社
・氣多神社(高岡市)越中国一之宮
④新川郡 雄山神社
・雄山神社 峯本社(立山 頂上)
・雄山神社 祈願殿(立山町芦峅寺)
・雄山神社 前立社壇(立山町岩峅寺)
・熊野神社〈前立社壇の元鎮座地〉
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神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
砺波駅から R156号経由 約8.4km 車 15分程度
井波の田園の中に鎮座します
正面に二の鳥居が建ち 左側が駐車場になります
高瀬神社(takase shrine)に到着
二の鳥居の手前には由緒書きがあり読み耽ります
左に大きな石灯籠 右に社号標「高瀬神社」とあります
一礼して鳥居をくぐります
広々として 砂利が敷き詰められた参道を進むと 左手に授与所 右手に「手水舎」 その奥に宝物殿があります
手水舎の手水鉢は 中々立派な自然石です
公式HPの説明には
昭和45年に伊勢の神宮より御下付され、外宮から移築されたものです。中にある水鉢は、新潟県只見川上流から運ばれた自然石でつくられた「洗心」の禊場であります。石の裏には「水神」の文字が刻まれております。
公式HPより
立て看板には
この水中の木は、国指定史跡となった。高瀬遺跡(約1,200年前の役所跡)から発掘された貴重な建物の柱です。大きな栗の材料を四分の一に割った根元の部分です。乾燥させると崩れますので水につけて保存しています。
と少し見難いですが 水の中に遺跡から発掘された建物の柱が保存されています
当社の南300mにある高瀬遺跡の辺りは 字名を「大宮司」と呼び 当社の創祀伝説にも登場する古社地と考えられています
古墳時代から平安時代初期に比定される豊富な遺物が出土した遺跡で数多くの土器や銅銭が発掘されていて 古くから開発された当地の歴史が偲ばれます
写真の道路の正面が高瀬神社の境内鳥居です
広々とした参道を進むと「三の鳥居」と「朱の欄干の神橋」があります
「三の鳥居」をくぐり「朱の欄干の神橋」を渡ると正面に拝殿が建ちます
拝殿にはみごとな注連縄と彫刻が施されています
井波地区では 欄間・獅子頭などの木彫刻が盛んで 当地の伝統「匠の技」によるものとのこと
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の賽銭箱の右には「なでうさぎ」があり 由来の説明書きがあります
「なでうさぎ」由来
「大国主命」と「うさぎ」
御祭神の大国主命(大国様)は 神話「因幡の白うさぎ」において 過ちを犯し体に傷を負った「うさぎ」のケガを癒され 悪しき心をも改心されたと記述されております
「なでうさぎ」
この神話に因み 大国主命(大国様)の御神徳を広くご参拝の方々にお受けいただきたいと願い御神前に置かれました
拝殿正面にて参拝祈願された後に ご自分の癒してもらいたい部位と同じ所を祈念しながら撫でて 広大無辺なる大神様の御加護をいただきましょう案内板抜粋
拝殿・幣殿から本殿の周囲には 苔むした杉の巨木などが茂り 鬱蒼とした神域にあります
拝殿右奥に 屋根付きの立派な土俵があります
拝殿の隣には 功霊殿(koreiden)が建ちます
当社の旧本殿を活用しているとの事
御本殿に隣接する功霊殿は日清・日露戦争から大東亜戦争まで、砺波地区から出征された護国の英霊と、当地方開拓の功労者あわせて6,400余柱をお祀りしています。
功霊殿本殿は当神社の旧本殿で、天保7年に建立された井波彫刻の粋を尽したものです。また、文化財の指定を受けています。公式HPより
拝殿向かって左手前には 国歌「君が代」に歌われる「さざれ石」が置かれています
神橋手前 参道右(東側)奥に「高瀬稲荷神社」があります
高瀬稲荷社は、古来より人々の信仰厚い伏見稲荷大社の御分霊を奉戴したお社で、五穀豊穣・商売繁盛の神様として崇敬されるお稲荷さんです
公式HPより
授与所にて お守り・御朱印を頂き 境内を後にします
鳥居をくぐり 振り返り一礼
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『高瀬神社誌』に記される古絵図
写真image 【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション 高瀬神社誌 出版者 高瀬神社社務所 出版年月日 大正2
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943445
『高瀬神社誌』にある「社格」についての記載
「越中国一之宮」は 複数社が主張しています
・射水神社(二上神)
・気多神社
・雄山神社(立山権現)
・高瀬神社(当社)
が互いに永らく争ってきた経緯があります
長文ですが 「5.社格」に記載されています
ご興味のある方はお読みください
【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション 高瀬神社誌 出版者 高瀬神社社務所 出版年月日 大正2
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943445
越中国一之宮として崇敬され 御祭神は大国主命(大己貴命)を祀ります 近くには 当社の鎮座地とも伝わる「高瀬遺跡」もあり 農耕文化の芽生える弥生時代の頃の鎮座とされています
高瀬神社(takase shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)