素盞嗚神社(新市町)

素盞嗚神社は 『備後国風土記(bingo no kuni fudoki)』逸文の「蘇民将来(somin shorai)」の説話の舞台となる伝説の地と伝えられています 説話に登場する「疫隈國社(eno kumano kunitsu yashiro)」が当社とされ もしくは 摂社の「蘇民神社・疱瘡神社」とされています 全国の「祇園社の始りの地」とされ 京都の八坂神社の源流もこの地と云われています『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社であり 「備後国一之宮(bingo no kuni ichinomiya)」ともされる由緒ある格式の高い神社です

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name)】

 素盞嗚神社(Susanoo Shrine)
(すさのおじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

 天王さん(てんのうさん)

【鎮座地 (location) 】

広島県福山市新市町戸手1−1

 [地 図 (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》素盞嗚尊(susanowo no mikoto)

《配》奇稲田姫命(kushi inadahime no mikoto)
   八王子命(yahashiranomiko no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
・ 備後国一之宮(bingo no kuni ichinomiya)

【創 建 (Beginning of history)】

社伝によれば 第40代天武天皇の御代 679年の創建
醍醐天皇の御代(897~930)に再興と伝わります

【由 緒 (history)】

素盞嗚神社(巨旦将来 屋敷跡)

この素盞嗚神社は、備後風土記に見られる蘇民将来伝説の舞台となる神話に彩られた由緒正しい古社です。
社伝によれば679年の創建したとされ、
後に遣唐使であった吉備真備が 天平6年 (734年)に素盞嗚神社から播磨の広峯神社に勧請し、
さらに貞観11年(869年)、広峯神社から平安京の祇園観慶寺感神院(現在の八坂神社)に牛頭天王(素戔嗚尊)勧請されたとされています。

新町観光協会HPより

 【境内社 (Other deities within the precincts)】

 ・蘇民神社(somin shrine)
 《主》蘇民将来(somin shorai)

・疱瘡神社(hoso shrine)
《主》比比羅木其花麻豆美神(hihiragi no sonohana mazumi no kami)
  (疱瘡神)

※本殿の向かって南側に建ちます
備後國風土記・逸文の舞台「「疫隈國社(eno kumano kunitsu yashiro)」」は 素盞嗚神社の本殿ではなく 摂社のこちらとの説もあります
因みに 当社の敷地は 武塔神(素盞嗚尊)に滅ぼされた弟の将来(巨旦将来)の屋敷跡といわれます

・天満宮(temman gu)
《主》菅原大神(sugawara no okami)

※境内の北西に建ちます

江戸時代中期の再建とされていて 瓦葺き入母屋造りの仏式の建物で 元々は当社の「本地堂」(神仏習合時期の別当寺・早苗山天竜院天王寺の本堂)ですす
明治維新後の廃仏毀釈の際にも 御祭神に菅原道真公を奉祀して守り通されました

祇園社(素盞鳴命奉祀神社)に本堂が残っているのは 全国でも唯一です

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124 
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)備後国 17座(並小)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)深津郡 1座(小)

[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社名 ] 須佐能袁能神社
[ふ り が な ](すさのをの かみのやしろ)
[How to read ](susanowo no kamino yashiro) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

京都 八坂神社(平安京の祇園観慶寺感神院)の御祭神 牛頭天王(素戔嗚尊)の元宮です

社伝によれば 第40代天武天皇の御代 679年の創建したとされ
後に 遣唐使であった「吉備真備(kibino maki)」が
天平6年 (734年)に 素盞嗚神社から播磨の広峯神社に勧請し
さらに 貞観11年(869年)広峯神社から平安京の祇園観慶寺感神院(現在の八坂神社)に牛頭天王(素戔嗚尊)勧請されたとされています

「蘇民将来(somin shorai)」「茅の輪くぐり」の発祥地ともしていて 祇園信仰の根源となる神社です 1000年以上続く 祗園祭の発祥の地ともされています

広峯神社の記事をご覧ください

京都 八坂神社の記事をご覧ください

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

上戸手駅から 西へ300m 徒歩3分
境内の南面は鉄道 北面は県道が通ります

右手に駐車場と社格標「式内社」「懸社」が建ちます

素盞嗚神社(susanoo shrine)に到着

参道とコンクリート製の鳥居が建ちます

一礼して鳥居をくぐり抜けると随神門が建ちます

参道は 東側から真っ直ぐです 鳥居 随神門をくぐり抜け 神楽殿 拝殿 幣殿 本殿と続きます

右手に手水舎があり清めます

神楽殿を廻り込むように 拝殿にすすみます 

神楽殿の脇から眺めると 東から参道が直線に続くのが良くわかります

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

社殿向かって 左側より本殿を仰ぎます

拝殿と本殿の中間にある幣殿は瓦屋根です

本殿は 檜皮葺きの入母屋造りで 破風が大きく 中心で直交しています 千木も3方向それぞれに配置されています

社殿の向かって左側に長屋のように鎮座する境内社にお詣りします

・蘇民神社(somin shrine)
《主》蘇民将来(somin shorai)

・疱瘡神社(hoso shrine)
《主》比比羅木其花麻豆美神(hihiragi no sonohana mazumi no kami)
  (疱瘡神)

社殿の向かって右側の境内社にお詣りをします
・天満宮(temman gu)
《主》菅原大神(sugawara no okami)

境内の北側から社殿を眺めると 神楽殿 拝殿 幣殿 本殿の配置が良くわかります

門は 県道沿いの北側にもう一つあり

相方城の城門を移築したとされています

相方城 城門

 当神社境内には、相方城の城門二棟と櫓一棟が伝えられている。櫓は、1970年代に火災により消失した。城門二棟のうち、比較的保存状態の良い、東側の門について解説する。城門に関する史料がないので、建築年代の確定はできないが、建築様式と部材の風化状態から16世紀末から17世紀初と推定される。城門の形式は、三間一戸の切妻造(きりづまづくり)の薬医門(やくいもん)で、装飾の少ない簡素な意匠(いしょう)になる。鏡柱(かがみばしら)本柱は、城門に定型の五平柱(ごへいばしら)であり、柱上に冠木(かんき)を渡す。後方の控柱(ひかえばしら)は角柱とし、二股の貫で本柱と繋ぐ。この城門は、高麗門(こうらいもん)が普及する以前の薬医門であることから、現存する関ヶ原の戦い(1600年)以前の城門は、当地の二門と島根県益田市にあるのみで、貴重である。 (現地案内板より)

こちらの門をくぐり境内を出ます 振り返り一礼

県道と境内の間には 水路が流れていて 情緒があります

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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

「蘇民将来(somin shorai)」の説話について

境内の蘇民神社(somin shrine)の前にある「茅の輪くぐり」発祥の地と石碑には次のように記されます

蘇民神社

「茅の輪くぐり」発祥の地

「備後風土記」によれば
昔 素盞嗚尊が この地を旅されている時、一夜の宿を求めて
大きな屋敷を構え栄えていた 弟の巨旦将来(こたん)を訪ねたが断られた、
次に 兄の蘇民将来(そみん)を訪ねたところ 蘇民は貧しいながらも快く宿を貸し温かくもてなしました。
 年を経て、蘇民将来は 素盞嗚尊より 疫病厄除けの茅の輪を授けられ、この地に恐ろしい病が流行った時、蘇民将来の一族は病にかかることなく生き延びることができました。

この伝承が基となり、素盞嗚尊をお祀りしている神社では「茅の輪くくりの神事」が行われるようになりました。

『釈日本紀(shaku nihongi)』巻7
「蘇民将来(somin shorai)」の説話に記される伝承

『釈日本紀(shaku nihongi)』(卜部兼方 鎌倉時代中期)巻7に引用されている『備後国風土記(bingo no kuni fudoki)』逸文(奈良時代初期)にある「蘇民将来(somin shorai)」説話が記されています
舞台となる「疫隈國社(eno kumano kunitsu yashiro)」が当社 もしくは 摂社「蘇民神社・疱瘡神社」とされています

要約

「 むかし 武塔神(muto no kami)が 求婚旅行の途中 備後国に立ち寄られた時 日暮れとなったので「将来(shorai)」と名乗る兄弟の家に一夜の宿を求められました
裕福な弟 巨旦将来(kotan shorai)は それを拒み
貧しい兄 蘇民将来(somin shorai)は 粟のご飯を炊いて歓待しました

後に 再びそこを通られた武塔神は 兄 蘇民将来とその娘らの腰に茅の輪をつけさせました
弟 将来たちは 宿を貸さなかった為に皆殺しにしてしまわれた

武塔神は「吾は 速須佐雄の神である 後の世に疫気あらば 汝 蘇民将来の子孫と云ひて 茅の輪を以ちて 腰に着けたる人は免れなむ」と言って立ち去りました 」

意訳

「 素戔嗚尊 乞宿於衆神

備後国風土記にいはく 疫隈國社(eno kumano kunitsu yashiro)

昔 北の海にいましし 武塔神(muto no kami)が 南の海の神の女子をよばひに出でまししに 日暮れぬ
その所に蘇民将来二人ありき
兄の蘇民将来は 甚 貧窮しく(とても貧乏で生活に苦しむほど)
弟の将来は 富饒みて 屋倉一百ありき(富み豊かで屋敷蔵が100もあった)

ここに 武塔神 宿処を借りたまふに 惜しみて貸さず
兄の蘇民将来 惜し奉りき すなはち 粟柄をもちて座となし
粟飯等をもちて饗へ奉りき(粟のご飯を炊いて歓待しました)

ここに畢(ことごとく)へて出でまる後に
年を経て 八柱の子を率て還り来て 詔りたまひしく
「我 奉りし報 答せむ 汝が子孫 その家にありや」と問ひ給ひき
蘇民将来答へて申し「己が 女子と斯の婦と侍り」と申しき
即ち詔たまひしく「茅の輪をもちて 腰の上に着けしめよ」とのりたまひき

詔の隨(まにま)に着けしむるに その夜に蘇民の女子一人を置きて
皆 悉に殺し滅ぼしてき

即ち 詔りたまひしく
「吾は 速須佐雄(はやすさのを)の神なり 後の世に疾気(えやみ)あらば 汝 蘇民将来の子孫と云ひて 茅の輪を以ちて 腰に着けたる人は 免れなむ」と詔りたまひき  」

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『釈日本紀』文永元年(1264年)~正安3年(1301年) 写本(模写本)明治 著者:卜部懐賢
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

素盞嗚神社(susanoo shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

社伝によれば
後に 遣唐使であった「吉備真備(kibino maki)」が 天平6年 (734年)に 素盞嗚神社から播磨の広峯神社に勧請したとあります

広峯神社の記事をご覧ください

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