熊野神社(立山町栃津)〈雄山神社 前立社壇の旧鎮座地〉

熊野神社(くまのじんじゃは 立山三山を遙拝できる段丘神宮山゛に鎮座します 中世に勧請された社地の遺跡壮大な建築物の礎石が出土〉があり 東斜面には 磐境いわさか)〈古代の祭祀遺跡〉があり 立山三山を遙拝する岩峅寺立山信仰を形成した可能性を示唆します 密教が立山に入り込む以前遙拝信仰拠点ともされ 雄山神社 前立社壇の鎮座地とも伝わります

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目次

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

熊野神社(Kumano shrine)
雄山神社 前立社壇の鎮座地〉

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

富山県中新川郡立山町栃津1-2 神宮山

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》伊邪那美命(いさなみのみこと)
   天照大御神(あまてらすおほみかみ)
   宇氣母智神(うけもちのかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

 1-2-3.芦峅寺・岩峅寺の遙拝信仰

 現在の雄山神社前立社壇から東南約2kmの地にある「神宮山」の地は、岩峅寺集落の「宮路」と称される参道で繋がっている。
この「神宮山」の地は、立山三山を遙拝できる段丘上にあり、古代の祭祀場磐境 (いわさか•神が依り憑く巨石・巨岩)があった地と考えられる
昭和45年に壮大な建築物の礎石が出土し、中世に勧請された熊野神社の社地遺跡であるという。平成21年に山本義孝が調査したところ、神宮山の東斜面に磐座・集石を確認している。集石と磐座は直線上に並び、機能として磐座に付随する祭壇か依代の可能性を指摘している。
神宮山の磐座から立山三山を遙拝する岩峅寺立山信仰は、密教が立山に入り込む以前の、神宮山の祭祀遺跡を拠点とする遙拝信仰であった可能性を考えることができる

 一方、芦峅寺中宮寺の堂基壇に立ったとき、そこから正面やや左側に見える大きな山塊は大日岳であり、そのどっしりとした量感に芦峅寺の山岳信仰の基盤が大日岳にあり、そこの山神として尊が祀られていたことに納得がいく。現在、遙望館 (立山博物館施設、かつての堂基壇後ろに位置する)から雄山を真正面に遙望することができるが、江戸時代以前は杉の木立に覆われ雄山を眺望できなかったといわれる。古き芦峅寺の遙拝信仰は、その対象が雄山ではなく大日岳であり、したがって尊信仰につながる山の神信仰ということになろう。

富山県 立山博物館 研究紀要研究余滴】「立山曼荼羅」に内在する「立山信仰」の基層を考える米原 寛〉』より抜粋 

【由  (History)】

立山町指定 天然記念物

神宮山社叢 立山町栃津数古前一番地

 神宮山は、標高二二〇メートル、南北二五〇メートル、東西(巾)約一〇〇メートル、高さ(比高)約三〇メートルで、天林段丘の南端にあたり東・北面は栃津川の浸食によって一見、独立した山ように見える。基盤は凝灰岩で南東の段丘崖には礫層が見られる。

 本社叢のうち山頂部の熊野社周辺および南東斜面には、ウラジロガシ、アカマツを中心とした自然林が、かなりの面積にわたって存在する。ウラジロガシは、低山地や平野部の自然の植生を代表する常緑広葉樹で原始林のおもかげを僅かにとどめている。
 この社叢には、アカマツやソヨギをかなり含んでいるが、ウラジロガシの原始林が数百年前に、かなり人間によって荒らされたあとにアカマツの二次林が生じたものであろう。
 その後ウラジロガシが次第にアカマツをしのぐようになったのである。
 現在はアカマツの後継樹が生育し得ない環境になってウラジロガシが主に占める原始林の姿(極相)に近づきつつある。

立山町教育委員会

現地案内板より

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・天林遺跡

横江集落の北西 500m 常願寺川扇頂部の天林段丘(高位段丘)の西縁辺に位置し標高は約290mを測る 1960・1961年頃この段丘面の水田化工事の際に発見され

石刀せきとう)〈縄文時代 前20~前4世紀〉などが発掘

写真などは
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/538238

『式内社調査報告』

常願寺川右岸の 雄山神社 前立社壇は 元は・神宮山・天林の地に鎮座した学説があり 昔は 雄山神社の神輿が・熊野社へ神幸したと伝えています

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

として 神階の奉授が記されています

【抜粋意訳】

 貞觀五年(八六三)九月廿五日甲寅

○廿五日甲寅

授に
越中國 正五位下 に 正五位上

近江國 正六位上 葛野神
伊豫國 正六位上 高繩神に 從五位下

勘解由使起請二條
其一曰 神社帳准官舍帳 勘了之日 令移式部省
其二曰 奴婢生益 附帳之日 令注父母名 太政官處分 並依請

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越中国 34座(大1座・小33座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)新川郡 7座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 雄山神社
[ふ り が な ]をやまの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Woyama no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 越中國 新川郡 雄山神社(をやまの かみのやしろ)の論社

延喜式内社 雄山神社については

芦峅寺村〈現 雄山神社中宮祈願殿〉と岩峅寺〈現 雄山神社 前立社壇立山町岩峅寺2寺の僧侶が社地を争い止まらず
旧藩の裁判で山頂
〈現 雄山神社 峰本社(立山町芦峅寺)を本社と裁判したとする説

又 霊峰立山を神の山として奉斎するもので 元々本社は立山の山頂〈現 雄山神社 峰本社(立山町芦峅寺)〉とする説
又 岩峅寺〈現 雄山神社 前立社壇立山町岩峅寺〉が本社とする説があり 一定しませんでした

現在では 雄山神社は 立山頂上峰本社・芦峅中宮祈願殿・岩峅前立社壇の三社殿から成り立つ宗教法人となっています

・雄山神社 峯本社(立山 頂上)

・雄山神社 中宮祈願殿(立山町芦峅寺)

・雄山神社 前立社壇(立山町岩峅寺) 

・熊野神社(立山町栃津)
〈前立社壇の元鎮座地〉 

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

岩峅寺駅から 東へ約850m 車2分程度 神宮山に鎮座

雄山神社前立社壇から東南約2kmの神宮山 峅寺集落の「宮路」と称される参道で繋がっています

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県道6号を南下すると こんもりとした段丘神宮山゛が見えてきます

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神宮山゛の左〈東側〉に見えているのは゛尖山(とんがりやま)゛です
尖山の山頂には 人工的な石組みがあり〈ストーンサークルとも〉鏡などの出土品もあると云う 古代の祭祀場とされます

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尖山に残るは伝説として 『肯搆泉達録』〈越中奇談集〉文化12年(1815)野崎雅明/著 に記される「船倉神輿能登神闘浄之事」には ゛舟倉山の姉倉姫命゛が石を投げて 夫の伊須流伎彦と能登姫に対して石合戦を仕掛けた時 “鉄”を投げて 加勢したのが゛布倉山の布倉姫命゛で 此の布倉姫命が現在の゛尖山(とんがりやま)゛であると記しています 鉄器と関係があるのでしょうか?

この原文は富山県立図書館「古絵図・貴重書ギャラリー」にあります
https://www.lib.pref.toyama.jp/gallery/collection/intro.aspx?isnvmngcd=1%3A110

さて
神宮山の栃津川側〈東側〉の斜面に 表参道があります

ここ東側の麓から 立山方面を見ると 先程の゛尖山(とんがりやま)゛その先に見える高峰は 方向的には その昔 越中で「立山」というと「北の毛勝三山」から「南の薬師岳辺り」までを指したという その゛薬師岳゛が聳えています

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熊野神社(立山町栃津)〈雄山神社 前立社壇の鎮座地〉に参着

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参道の横には民家(もしかして社家?)があり 大きな旗竿の先に 石鳥居が建ちます

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一礼をして 鳥居をくぐります

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愛嬌のある狛犬が座し 会釈をして参道を進みます

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この参道の石段は 急なのは良いのですが ちょっと崩れかかっていて草も生い茂り マムシに遭遇したら困るな どうしようと思っていたら 先程 北側の斜面に登り口のようなものがあったのを想い出し そちらに回り ダメだったら戻ると決めました

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先程 北側の斜面に登り口のようなものがあったのを想い出したのが こちら

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階段を上がると おそらく石仏〈風化している〉があり 古い参道であることがわかります

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参道を上ります

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ちょっとした山道のような感じです

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頂上は平らで 社殿が建っています

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注連縄がある杉の木の元にある

拝殿にすすみます

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神仏習合の感がある拝殿は 瓦屋根で お堂のような感じです

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扁額には゛熊野神社゛と記されています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 本殿が祀られています

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石組の上に本殿が東を向いて祀られています

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社殿に一礼をして 先程上らなかった表参道を見下ろすと 登らない判断 良かった

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来た通り 北参道を下ります

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この神宮山の麓を旧道が南方向へ続いていて 標識には「天林」とありますので゛天林遺跡゛のある場所に通じています

『式内社調査報告』に記されていた
常願寺川右岸の 雄山神社 前立社壇は 元は・神宮山・天林の地に鎮座した学説があり 昔は 雄山神社の神輿が・熊野社へ神幸したと伝えています

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『萬葉集(Manyo shu)〈7世紀前半~759年頃〉』に詠まれる歌立山の賦

万葉集の巻17には 四二十六日 越中国司であった大伴家持によって 天平十九年(747二十七詠まれた「立山の賦」が記されています

一説には゛多知夜麻尓゛(たちやまに)とある ゛たちやまは゛とは゛立山゛ではなく ゛太刀山(たちやま)゛即ち 剣岳(つるぎだけ)を指すもので 古代の立山信仰の基は 剣岳の遥拝であった とする説もあります

【抜粋意訳】

万葉集 巻17

〈歌番号4000
天平十九年(747二十六 立山賦一首 并短歌 此山者有新河郡也

〈原文〉
安麻射可流 比奈尓名可加須 古思能奈可 久奴知許登其等 夜麻波之母 之自尓安礼登毛 加波々之母 佐波尓由氣等毛 須賣加未能 宇之波伎伊麻須 尓比可波能 曽能多知夜麻尓 等許奈都尓 由伎布理之伎弖 於<婆>勢流 可多加比河波能 伎欲吉瀬尓 安佐欲比其等尓 多都奇利能 於毛比須疑米夜 安里我欲比 伊夜登之能播仁 余<増>能未母 布利佐氣見都々 余呂豆餘能 可多良比具佐等 伊末太見奴 比等尓母都氣牟 於登能未毛 名能未<母>伎吉氐 登母之夫流我祢

訓読
天離る 鄙に名懸かす 越の中 国内ことごと 山はしも しじにあれども 川はしも 多に行けども 統め神の 領きいます 新川の その立山に 常夏に 雪降り敷きて 帯ばせる 片貝川の 清き瀬に 朝夕ごとに 立つ霧の 思ひ過ぎめや あり通ひ いや年のはに よそのみも 振り放け見つつ 万代の 語らひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ 音のみも 名のみも聞きて 羨しぶるがね

仮名
あまざかる ひなになかかす こしのなか くぬちことごと やまはしも しじにあれども かははしも さはにゆけども すめかみの うしはきいます にひかはの そのたちやまに とこなつに ゆきふりしきて おばせる かたかひがはの きよきせに あさよひごとに たつきりの おもひすぎめや ありがよひ いやとしのはに よそのみも ふりさけみつつ よろづよの かたらひぐさと いまだみぬ ひとにもつげむ おとのみも なのみもききて ともしぶるがね

〈歌番号4001
二十六 立山賦一首 并短歌 此山者有新河郡也

〈原文〉
多知夜麻尓 布里於家流由伎乎 登己奈都尓 見礼等母安可受 加武賀良奈良之

〈訓読〉
立山に降り置ける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からならし

〈仮名〉
たちやまに ふりおけるゆきを とこなつに みれどもあかず かむからならし

天平十九年(747四月二十七 大伴家持作之

〈歌番号4002
立山賦一首 并短歌 [此山者有新河郡也

〈原文〉
可多加比能 可波能瀬伎欲久 由久美豆能 多由流許登奈久 安里我欲比見牟

〈訓読〉
片貝の 川の瀬清く 行く水の 絶ゆることなく あり通ひ見む

〈仮名〉
かたかひの かはのせきよく ゆくみづの たゆることなく ありがよひみむ

四月廿七日大伴宿祢家持作之

〈歌番号4003
敬和立山賦一首并二絶

〈原文〉
阿佐比左之 曽我比尓見由流 可無奈我良 弥奈尓於婆勢流 之良久母能 知邊乎於之和氣 安麻曽々理 多可吉多知夜麻 布由奈都登 和久許等母奈久 之路多倍尓 遊吉波布里於吉弖 伊尓之邊遊 阿理吉仁家礼婆 許其志可毛 伊波能可牟佐備 多末伎波流 伊久代經尓家牟 多知氐為弖 見礼登毛安夜之 弥祢太可美 多尓乎布可美等 於知多藝都 吉欲伎可敷知尓 安佐左良受 綺利多知和多利 由布佐礼婆 久毛為多奈i吉 久毛為奈須 己許呂毛之努尓 多都奇理能 於毛比須具佐受 由久美豆乃 於等母佐夜氣久 与呂豆余尓 伊比都藝由可牟 加<波>之多要受波

〈訓読〉
朝日さし そがひに見ゆる 神ながら 御名に帯ばせる 白雲の 千重を押し別け 天そそり 高き立山 冬夏と 別くこともなく 白栲に 雪は降り置きて 古ゆ あり来にければ こごしかも 岩の神さび たまきはる 幾代経にけむ 立ちて居て 見れども異し 峰高み 谷を深みと 落ちたぎつ 清き河内に 朝さらず 霧立ちわたり 夕されば 雲居たなびき 雲居なす 心もしのに 立つ霧の 思ひ過ぐさず 行く水の 音もさやけく 万代に 言ひ継ぎゆかむ 川し絶えずは

〈仮名〉
あさひさし そがひにみゆる かむながら みなにおばせる しらくもの ちへをおしわけ あまそそり たかきたちやま ふゆなつと わくこともなく しろたへに ゆきはふりおきて いにしへゆ ありきにければ こごしかも いはのかむさび たまきはる いくよへにけむ たちてゐて みれどもあやし みねだかみ たにをふかみと おちたぎつ きよきかふちに あささらず きりたちわたり ゆふされば くもゐたなびき くもゐなす こころもしのに たつきりの おもひすぐさず ゆくみづの おともさやけく よろづよに いひつぎゆかむ かはしたえずは

右掾大伴宿祢池主和之 四月廿八日

〈歌番号4004
敬和立山賦一首并二絶

〈原文〉
多知夜麻尓 布理於家流由伎能 等許奈都尓 氣受弖和多流波 可無奈我良等曽

〈訓読〉
立山に 降り置ける雪の 常夏に 消ずてわたるは 神ながらとぞ

〈仮名〉
たちやまに ふりおけるゆきの とこなつに けずてわたるは かむながらとぞ

右掾大伴宿祢池主和之 四月廿八日

〈歌番号4005
敬和立山賦一首并二絶

〈原文〉
於知多藝都 可多加比我波能 多延奴期等 伊麻見流比等母 夜麻受可欲波牟

〈訓読〉
落ちたぎつ 片貝川の 絶えぬごと 今見る人も やまず通はむ

〈仮名〉
おちたぎつ かたかひがはの たえぬごと いまみるひとも やまずかよはむ

右掾大伴宿祢池主和之 四月廿八日

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『萬葉集』刊本 寛永20年[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『萬葉集』刊本 寛永20年[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

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『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 雄山神社について 立山に在〈現 雄山神社 峰本社(立山町芦峅寺)〉を挙げています

【抜粋意訳】

雄山(ヲヤマノ)神社

「三代実録」
貞観五年九月二十五日甲寅、授ニ越中國 正五位下 雄山神 正五位上

「万葉集」十七
須賣加未能 宇之波伎伊麻須 尓比可波能 曽能多知夜麻尓 云々
すめかみの うしはきいます にひかはの そのたちやまに とこなつに

「新校」
立山在 新川郡

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 雄山神社について 立山に在り 立山権現〈現 雄山神社 峰本社(立山町芦峅寺)〉と記しています

【抜粋意訳】

雄山神社

雄山は袁夜麻と讀り
〇祭神

〇立山に在す 土人説

〇萬葉集十七巻に、立山賦、此山者在ニ新川郡也
安麻射可流 比奈尓名可加須 古思能奈可 久奴知許登其等 夜麻波之母 之自尓安礼登毛 加波々之母 佐波尓由氣等毛 須賣加未能 宇之波伎伊麻須 尓比可波能 曽能多知夜麻尓、云々
〈あまざかる ひなになかかす こしのなか くぬちことごと やまはしも しじにあれども かははしも さはにゆけども すめかみの うしはきいます にひかはの そのたちやまに〉

連胤
按るに、
當社は立山の雄山に坐すが故に雄山神と稱ししにて、所謂 立山は高山と聞ゆれば、雄山神も坐すべけれど、其の比咩神は祈年祭に預り給はねば、立山神社とは申さぬなるべし、
常陸國 筑波山神社二座とありて、今も男體宮 女體宮とて両所に坐して、二上山ともいひ来り、其の男體は案上、女神は案下の幣に預り給へば、筑波山二座にて明か也、媛の女神も案下の幣にだに預り給ふならば、立山神社といふへきを、然あらぬから雄山神社と載せたるなるべし、

神位
三代実録、貞観五年九月二十五日甲寅、授ニ越中國 正五位下 雄山神 正五位上

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 雄山神社について 立山に在り 立山権現〈現 雄山神社 峰本社(立山町芦峅寺)〉と記しています

【抜粋意訳】

雄山(タケヤマノ)神社

今 立山に在り、立山権現と云ふ、神名帳考証、三才圖會、
〇按 越中國圖、立山の北に剣山あり、
萬葉集に須賣加未能 宇之波伎伊麻須 尓比可波能 曽能多知夜麻尓と云るは、此の山にして、須賣加未(スメガミ)と申せるは、即ち雄山神なり、姑附て考に備ふ、

蓋 伊弉諾尊を祀る、参酌万葉集、土人傳説、
凡 其祭四月八日、十月三日之を行ふ、三才圖會、新川縣式社調帳

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 雄山神社について 所在は立山麓岩峅村〈現 雄山神社 前立社壇立山町岩峅寺〉であると記しています

通説として 立山山頂の〈現 雄山神社 峰本社(立山町芦峅寺)〉とする説があるが
これは芦峅寺村と岩峅寺村の2寺の僧侶が社地を争い止まらず 旧藩の裁判で山頂を本社と裁判した事によるものと説明しています
芦峅寺村は〈現 雄山神社中宮祈願殿〉と岩峅寺村は〈現 雄山神社 前立社壇立山町岩峅寺〉の事です

【抜粋意訳】

雄山神社

祭神 伊邪那岐神
   天之手力男神

神位
清和天皇 貞観五年九月二十五日甲寅、授ニ越中國 正五位下 雄山神 正五位上

祭日 今四月八日 十月三日
社格 郷社

所在 立山麓岩峅村(中新川郡立山村立山峰)
今按〈今考えるに〉
注進状 立山の麓 岩峅村 遥拝と称するもの本社拝殿全備せるを以て 思ふに此の地に鎮座せしこと疑なし
山上は四時雪あり 登嶺に苦しむ故 六月朔日より七月晦日まで 神主を山上に遷座し遠近諸人をして山上に参拝せしめ 其の前後は岩峅本社に歸座あるを例とす 然るに立山峰鎮座と注進せしは 往年 葦 岩峅二村の両社僧より社地を争て止まざるより 舊藩にて一時 峰鎮座と裁判し此争を止めし也 然れば今の時 宜しく舊に復し玉ふべしと云り 猶よく考べし

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

立山山頂の〈現 雄山神社 峰本社(立山町芦峅寺)〉を本社とする説〈當社は往昔より今に至る迄 鹼俊なる山上の霊神として、殊に諸人の崇敬する所たり〉を採用し 式内社 雄山神社と記しています

山麓に大宮〈現 雄山神社中宮祈願殿〉があり これは祈願所とも記しています

【抜粋意訳】

〇富山縣 越中國 中新川郡立山村(立山峯)

縣社 雄山(オヤマノ・タケヤマノ)神社

祭神 天之手力男(アメノタヂカラヲノ)
   伊邪那岐(イザナギノ)命

本社は延喜式に雄山神社、式外神名帳に立山権現とあるは即ち此れ也、蓋し立山に在るが故に立山権現とは云ふなり、
創建は崇神天皇の御宇に在りと云ひ、雄山神社の名 亦 古書に散見すれとも 其 確なること詳ならず、
三州志、及社記等の書を参酌して曰は、「大宝元年辛丑年、景行天皇後胤 稲春入彦苗裔佐伯有若越中守として下向、同年九月 嫡男 有頼卿謁説方原五智寺慈朝師、受戒、改名慈興、建立大権現大宮及王子眷属等社」とあり、又 三才國圖には此れを四條大納言なりと云ふ、
又 一本立山縁起に「佐伯若右衛門其子有恒立山大宮を建つ」と云ひ、
又 本朝通記に、「大宝三年釈教興立山権現を越中に勧請す云々」と見ゆ、按ずるに立山明神は上古より高山の霊神として、祭祀せられたるは論なし、
又 三千風行脚文集に、
「蘆倉庄立山、大宝元年慈興上人開基、日本第一大梁正一位立山権現、本地國常立尊、相殿二柱尊、皇孫尊、思兼命、手力「雄命等云々」とあり、
其の他諸記多きも慈に略す、

又 萬葉集にも當山を詠めるもの多し。
「多知夜麻尓 布里於家流由伎乎 登己奈都尓 見礼等母安可受 加武賀良奈良之」
〈たちやまに ふりおけるゆきを とこなつに みれどもあかず かむからならし〉
「多知夜麻乃 由吉之久良之毛 波比都奇能 可波能和多理瀬 安夫美都加須毛」
〈たちやまの ゆきしくらしも はひつきの かはのわたりせ あぶみつかすも〉

さて當立山てふは 山の名なりや、神名なりやに就ては、古来 人々の研究せる所なり、按ずるに五十猛命伊達神と稱する事もあり、日本記 五十猛命神多将樹種 大八洲國之内莫不播殖而青山焉等あり。

三代実録に、清和天皇の貞観五年九月二十五日甲寅、越中國 正五位下 雄山神に正五位上を授けらる。
神祇志料に云く、「立山の北に剣山あり、萬葉集に須賣加未能 宇之波伎伊麻須 尓比可波能 曽能多知夜麻尓と云るは、此の山にして、須賣加未(スメガミ)と申せるは、即ち雄山神なり、姑附て考に備ふ」と。 

當社の社領は、式外神名帳にも社領五十石云々とあり、又古昔より寄進せらるる社領頗る多し、・・・・・・・

尚神社には其證書各通を保存せりと云ふ、
又 源頼朝 社殿を造営せしめらし事もあり、(社伝)
要するに當社は往昔より今に至る迄 鹼俊なる山上の霊神として、殊に諸人の崇敬する所たり、明治六年縣社に列す、建物には山上の社殿一宇、境内七坪を有せり、山麓に雄山神社摂社大宮あり 其社には祈願殿とて風雨を祈る社あり。
・・・・・

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

熊野神社(立山町栃津)〈雄山神社 前立社壇の鎮座地〉 (hai)」(90度のお辞儀)

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