名神大社〈延喜式内〉

大麻比古神社(鳴門市大麻町)阿波国一之宮とされる由緒ある古社

大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)は 〈初代 神武天皇の御代〉阿波国を開拓した天太玉命の御孫 天富命(アメノトミノミコト)が 忌部氏の祖神 天太玉命(アメノフトダマノミコト)を祀ったのに始まります その後 猿田彦大神が合祀され 平安期には延喜式の名神大社 中世以降は 阿波国一之宮とされる由緒ある古社です

氣多神社(高岡市伏木一宮)〈延喜式内社 越中国一之宮〉

気多神社(けたじんじゃ)は かつて越中国の国府の地があったとされる〈高岡市伏木〉に鎮座しています 故に越中国一之宮とも称して 境内には 越中国 総社跡(伝承地)もあります 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)には 名神大社として所載される由緒ある古社です

安房神社(館山市大神宮)〈延喜式内社 名神大社・安房国一之宮〉

安房神社(あわじんじゃ)は 日本神話「天の岩戸」では 天太玉命〈忌部氏の氏神〉が 天照大御神の出現を願い 祭祀を執り行いました 故に 古代の大和朝廷では 忌部氏が・祭祀に必要な鏡や玉・神に捧げる幣帛や織物・威儀物の矛や楯など武具・社殿の造営などを司っていました  日本における全ての産業の総祖神としても崇敬されています

気多大社(羽咋市)能登国一之宮「入らずの森」の社

氣多大社(けたたいしゃ)は 北陸の大社として朝廷からの尊崇も厚く 文献に最初に登場するのは『万葉集』大伴家持が 越中国守として赴任の時〈天平20年(748)〉能登を巡行し「気太神宮」に赴いたとの歌がみえ 927年12月編纂の『延喜式 巻3 臨時祭』では名神大に列している由緒ある古社です 大正時代に国幣大社に列したことから 現在は「気多大社」として親しまれています

玉﨑神社(中原)「玉前神社(一宮町)」の本宮であると云われます

玉﨑神社(たまさきじんじゃ)は 長生郡一宮町の玉前神社(一宮町)の本宮であると云われています 1200年以上前に 西方より渡ってきた物部氏一族が 和泉浦に創建した歴史ある古社で かつては安房神社 香取神社と並び房総の3大神社と称されたと伝わります 現在でも9月13日に行われる十二社祭りの本宮にあたります

玉前神社(一宮町)上総国一之宮

玉前神社(たまさきじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される名神大社で 上総国一之宮とされる格式高い由緒を持ちます しかし 永禄年間(1558~1570)大きな戦火にかかり 社殿・宝物・文書の多くを焼失しており ご創建の由来や年数また名称についてなど明らかにされていません 神武天皇の御代 あるいは景行天皇の御代の創立と伝えられます

安仁神社(岡山市)〈元 備前国 一之宮〉

安仁神社(あにじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の名神大社です 備前国の総鎮守とされ 備前国の 元 一之宮で(現 一之宮は吉備津彦神社)創建から2600年以上とも伝えられる岡山県内でも屈指の古社であり 格式の高い大社とされています

和多都美神社(対馬市豊玉町仁位字和宮)〈延喜式内社 和多都美神社(名神大社)〉

和多都美神社(わたつみじんじゃ)は 伝承によれば 山幸彦(彦火火出見尊)が 豊玉姫命を妃として留まったワタツミノ宮の古跡され 古くから竜宮伝説が残ります 社殿裏手の深い森の中に 磐座〈豊玉姫の墳墓〉があり 本殿から正面へと海へ向かって海中に鳥居が建ち 満潮時にはまるで海に浮かぶ竜宮城のような神秘的な光景が広がります

〈播磨國一之宮〉伊和神社(宍粟市一宮町須行名)

伊和神社(いわじんじゃ)は《社伝によれば》伊和の恒郷に「我を祀れ」とご神託があり 一夜のうちに草木生い茂り 空に多くの鶴が舞い 石上に大きな鶴が二羽眠っていた そこに社殿を造営したのが 成務天皇 甲申歳2月11日丁卯(144年) 或いは 欽明天皇25年甲申歳(564年)と伝えており『延喜式』名神祭の大社で 播磨国一之宮でもあり 由緒ある古社です

厳原八幡宮神社(対馬 厳原)

厳原八幡宮神社(いづはらはちまんぐうじんじゃ)は 文明8年(1476)の棟札に「当社は 雍州 男山八幡宮の原廟と記す」とあり 八幡信仰の中心 京都 男山の「石清水八幡宮の起源」とも云われ 社伝には 神功皇后(ジングウコウゴウ)〈第14代 仲哀天皇の皇后〉が  三韓征伐からの凱還の時 対馬の清水山に行幸し 神霊の止まるべき山であるとして 山頂に神鏡と幣帛を置き 天神地祇(テンジンチギ)を祀り 磐境(イワサカ)を設けた その後 第40代 天武天皇の勅命(677)により 清水山の麓に社殿を造営 5柱の神を祀り 八幡宮と称したと伝

海神神社(対馬 木坂)

海神神社(かいじんじんじゃ)は 八幡神が神風を吹かせたと伝わる 木坂の伊豆山の麓に鎮座します 神功皇后(ジングウコウゴウ)が 三韓征伐より凱旋の折に 対馬で掲げたと伝わる 八旒の旗〈8本の旗〉「振波幡」「切波幡」「振風幡」「切風幡」「豊幡」「真幡」「広幡」「拷幡」ここから 八幡(ヤハタ)が発祥しているとして「八幡信仰の源流」とされ 江戸時代までは「八幡本宮」と号していました 対馬国一之宮であり 由緒正しき古社です

宇倍神社(鳥取市国府町宮下)〈因幡国一之宮〉

宇倍神社(うべじんじゃ)は 因幡国一之宮です 鎮座する稲葉山(イナバヤマ)の麓一帯は・奈良・平安・鎌倉時代を通し因幡国府があり 政治経済・文化の中心地であり 大和朝廷が『名神祭』〈国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀〉を司る名神大社です

乙和多都美神社(対馬 久和)

乙和多都美神社(おとわたつみじんじゃ)は 下縣で 唯一のワタツミの社号を伝へた神社である とされています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「對馬嶋 下縣郡 和多都美神社 名神大」の論社として 厳原八幡宮神社と並んで論社ですが どちらも「名神大 和多都美神」となる決め手と証がありません

新屋坐天照御魂神社(西河原)

新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)は 3社(・西福井・宿久庄・西河原)があり その中で中心的とされるのが(西福井)です 異説では『倭名類聚抄』にある「新屋郷」は 当地(西河原)の事であり元社とする説 又 享保14年(1729~1734)編纂『五畿内志(ごきないし)』や『摂津名所図会(せっつめいしょずえ)』〈寛政8年(1796)-寛政10年(1798)刊行〉でも 当地(西河原)を 3社の中心地としています

新屋坐天照御魂神社(宿久庄)

新屋坐天照御魂神社は 3社(西福井)(宿久庄)(西河原)があり その中で中心的な地位を占めるのが(西福井)で背後にある「日降丘」に神が降臨したのが創建とされ その後 神功皇后が荒魂を当地(宿久庄)に勧請したと伝えられています

新屋坐天照御魂神社(西福井)

新屋坐天照御魂神社(にいやにます あまてるみたまじんじゃ)は 第10代 崇神天皇〈推定在位 BC97~BC30年〉が 伊香色雄命(いかがしこをのみこと)に命じ 天照御魂大神(あまてるみたまのおほかみ)を奉祀とあり 亦名を 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(アマテル クニテルヒコ アメノホアカリクシダマ ニギハヤヒノミコト)と云い 神武天皇即位前に大和国を治められていた尊い神であるとされます 創建から2100余年の長い歴史と高い社格を誇る延喜式内名神大社です(西福井)(宿久庄)(西河原)に3社の論社があり その中で中心的な存在が 一般に当神社(西福井)です

木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)

木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)〈蚕の社〉は 京都市内最古の神社の一つと云われます 境内にある「元糺(モトタダス)の池」には「三柱鳥居(ミハシラノトリイ)」と呼ばれる正三角形に柱を組んだ鳥居があり その正三角形の中心点には円錐形に小石を組みあげた神座が座して御幣が依代として立てられています 「秦氏(はたうじ)」の祭祀に深く関わる神社とされています

諏訪大社 下社 秋宮(下諏訪町)

諏訪大社 下社 秋宮は 諏訪湖北側の下諏訪町に位置しています 下社は「春宮と秋宮」に分かれていて「半年ごとに神様が遷座して移る」という特徴があります ご祭神は2月から7月まで春宮に鎮座し 8月1日の御舟祭で秋宮に遷座し 翌2月1日に春宮に帰座されます 又 厳冬の諏訪湖で見られる「御神渡り」では 上社の御祭神の男神(彦神)が 下社の女神に通った「神様の通り道の跡と」されています

諏訪大社 下社 春宮(下諏訪町)

諏訪大社 下社 春宮は 諏訪湖北側の下諏訪町に位置しています 下社は「春宮と秋宮」に分かれていて「半年ごとに神様が遷座して移る」という特徴があります ご祭神は 2月から7月まで春宮に鎮座し 8月1日の御舟祭で秋宮に遷座し 翌2月1日に春宮に帰座されます 又 厳冬の諏訪湖で見られる「御神渡り」では 上社の御祭神の男神(彦神)が 下社の女神に通った「神様の通り道の跡」とされています

諏訪大社 上社 本宮(諏訪市)

諏訪大社 上社 本宮は 全国に1万以上の御分社をもつ諏訪神社の総本社です 諏訪湖を挟んで 南に上社「本宮・前宮」北に下社「秋宮・春宮」があり この4宮を諏訪大社と呼びます 上社本宮は諏訪湖の南東に佇む守屋山の麓に位置し 参道は 北と東から2つ参道がありますが 正式な参拝路は 前宮から続く東参道とされています

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