住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)

住吉神社(すみよしじんじゃ)は 社伝によれ 神功皇后が住吉神の護によ三韓を征伐し 凱旋の時郷ノ浦に上陸 足形を石面に残し住吉三神を祀られたと云う 後に 住吉神の神託により「波の音の聞こえぬ地」をお選びになり 現在地に遷座した云う 式内社 住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)で 住吉神社 発祥の地と伝えています

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目次

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

住吉神社(Sumiyoshi shrine)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

長崎県壱岐市芦辺町住吉東触470-1

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》底筒男命(そこつつののみこと)
   中筒男命(なかつつののみこと)
   表筒男命(うわつつののみこと)

《配》八千戈神(やちほこのかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
・  国幣中社
・ 別表神社

【創  (Beginning of history)】

住吉神社

一、御祭神
底筒男神
中筒男神
表筒男神

御相殿に
八千戈神(大國主命)

一、御由緒
當社は 神功皇后 新羅御親征 御凱旋の時 三韓鎮護の為 軍越神事を定めて御親祭あらせ給いしに始り

文徳天皇を始め十一回に亘って神位を御進めになり 醍醐天皇の御代には 式内名神大社に 明治四年五月には國幣中社に それぞれ御列格になり 昭和二十四年五月と同四十四年十月同四十九年十月には恐くも天皇陛下より幣饌料も御奉納遊ばされ 今や壱岐の島の總鎮守として 尚且つ 長崎縣下筆頭の御由緒ある神社として 朝野の御尊崇殊に厚き神社なり

一、例祭日
  例祭 十一月九日
  春祭 四月十一日

現地案内板より

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【由  (History)】

由緒

 住吉大神は、伊弉諾大神 筑紫の日向の橘の小戸の檍原に禊祓い給いし時 生れ出で坐せる海洋守護の御神徳顕著なる大神にして、神功皇后三韓を御親征の際、御示顕に相成り、皇后は御神託に依って、船上に御鎮斉あらせられしに、大神の和魂は玉体を守護し、荒魂は其の先鋒となりて舟師を導きて霊験を顕し給い、刃に血ぬらずして三韓を征し給う。

 又、八千戈神は又の御名を大国主神とも国造大巳貴神とも称奉りて、天の広戈を執りて国土を経営し天下を平定し給ひし武勇の神に坐せり 仍て 御凱旋の御砌舟師を御津の浜に駐め給い、鎮護の神として御親祭あらせられ、外敵国降伏の為、軍越神事を定め、臣安倍介麿に壱岐島を賜い大宮司として、その子々孫々をして、永く奉仕せしめ、異敵降伏国家安泰の神秘を行う軍越神事の秘法を伝えしめ給う。
御神託に依りて、今の社地に遷座し奉れる 由緒伝に記されたり。其の如く「住吉大神は海路船舶の往来を守護し給う大神にてあらせらるるを以て、世に舟魂の神とも称奉り、毎年9月1日海鎮祭と称する古式の特殊神事の存する所以なり。相殿に坐す八千戈神は、天神の勅を奉じて天下を巡周し給い、村邑を開き田畑を開墾し道路を改修し、医薬禁厭の法を定め、万民安居の基礎を立て、専ら国土を経営し給いし大神なり。是即ち毎年8月1日国鎮祭と称する古式の特殊神事の存する所以なり」

当神社は 神功皇后 御帰陣の際、御親祭の由緒深き古社にして、即ち住吉神社の草分けとも申奉るべき、日本最初の住吉神社総本宮なり。
次いで御鎮斉あらせられたる長門摂津、筑前の住吉神社と共に、日本4住吉の1つにして、古来式内名神大社長崎県下筆頭の古社として知られたり。

明治4年5月14日国幣中社に列せられ給う。
かくて御鎮座以来現今に至る迄、海上安全国家安泰等々に御霊験の顕著なるものありて、島内は勿論全国よりの賽者年中絶ゆることなし媛(女へん無し)を以て歴代の天皇は国家の大事ある毎に必ず勅使を差遣し給い或いは神階を奉り幣帛を捧げ給い或いは社格を定め給う等、敬祭の誠を曷し給いしに依り、弥々御神徳は赫々として宇内に光被し益々衆庶の尊信を聚め農耕開発を始め、殖産興業海外発展等々は大神の佑助に依るものと信念して疑はざるなり。
因に大正7年北白川宮殿下御参拝、昭和11年梨本宮殿下参拝有り。
戦後と雖も些かも変わる事無く、昭和24年5月、同44年10月、同49年10月の3回に亘り、天皇陛下より幣饌料を御奉献あり。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照項目あり

【境内社 (Other deities within the precincts)】

竹生島神社・稲荷神社

《主》市杵島姫命 倉稲魂神

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住吉神社の神鏡(十七面)

市指定有形文化財

住吉神社の神鏡(十七面)

昭和51年1月1日指定

 この神鏡は、境内の神池から発見されたものである。 
 社伝によると、池内に祠る竹生島(ちくぶじま)神社の下に神功皇后が三韓出兵の時の陣鐘があり、ここから鏡を掘り出す時は降雨するという言い伝えがあった。
 明治年(1871)の夏、旱魃(かんばつ)のときこの池を浚(さら)えたところ、これらの鏡が出現したという。
 鏡は大陸系のもの十二面と和鏡系のもの五面である。
芦辺教育委員会

現地案内板より

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神池

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神木 住吉神社のクスノキ

指定天然記念物

住吉神社のクスノキ

指定年月日:昭和五十一日指定

 クスノキは、暖地に自生する常緑樹で、非常に型の樹となる
 五月頃初白色で、のち黄色を帯びる小さな花を開く。
  木全体によい香りがあり、材を用いて種々の器具を造る。また樟脳を採り、薬用として判用される。
 このクスノキは壱岐最大で、神木としてもしたわれている。

目通り5.2m

芦辺教育委員会

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夫婦楠

儀式殿の前にもクスノキがあり 根元の部分から幹が 二股に分かれていることから「夫婦楠」の愛称で呼ばれ親しまれている

夫婦楠:目通り4.0mと3.4m 根元目通り6.9m

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宝物殿

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石橋

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

京畿七道諸神267社とともに神階の奉授が記されています

【抜粋意訳】

 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申〉の条

廿七日甲申
京畿七道諸神 進階及新叙 惣二百六十七社
奉授
 淡路國无品勳八等伊佐奈岐命一品 備中國三品吉備都彦命二品
・・・・・
・・・・・

壹岐嶋 從五位下 海神 住吉神 兵主神 月讀神  從五位上

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭Meijin sai)」の条 285座

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂

延喜式巻第3は『臨時祭〈・遷宮天皇の即位や行幸国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で名神祭Meijin sai)』の条に 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています

名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています

名神ノ祭 二百八十五座

・・・
・・・
住吉神社 一座
兵主神社 一座
月讀神社 一座
中津神社 一座
天手長男(あまのたなかをの)神社 一座
天手長比賣(あまのたなかひめの)神社 一座 巳上 壱岐

・・・
・・・
・・・

座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩

嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合

加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺 
絲(イト)1絇を 布1端に代える

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)壱伎郡 12座(大4座・小8座)

[名神大 大 小] 式内名神大社

[旧 神社 名称 ] 住吉神社(名神大)
[ふ り が な ]すみよしの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sumiyoshi no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

”住吉神社”(すみよしじんじゃ)と住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉について

住吉神社 主に住吉三神を祀る神社で 日本全国に約2300社以上ある云われます

住吉三神とは 次の三柱神の総称 古来 航海の守護神として篤く信仰されてきている

底筒男命底筒之男命(そこつつののみこと)
・中筒男命中筒之男命(なかつつののみこと)
・表筒男命上筒之男命(うわつつののみこと)

住吉大神と号する場合は
住吉三神息長帯姫命神功皇后併せ祀ります

住吉三神は 日本神話に登場する航海の神
伊奘諾尊が 黄泉の国の穢れを清めるために 筑紫の日向の橘の小戸の檍原で禊をしたとき 水底で身をすすぐと底筒男命 水中では中筒男命 水上では表筒男命 このとき顕われたとされる

『古事記』では 水の底にもぐって 身を洗い清められる時に成った底筒之男命 水の中程で洗い清められる時に成った中筒之男命 水の表面で洗い清められる時に成った上筒之男命が それぞれ生まれます

その後『日本書紀』には 神功皇后の段に新羅征討の際に 神託・守護・先導などに深くかかわったと記されています

〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉が 住吉三神と云われる理由について

福岡の現人神社〈博多 住吉神社と大阪 住吉大社の元宮とされる〉には 三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉が 住吉三神と云われるようになった理由を社伝で伝えています

「元々は 現人神筒男三神〉であったが 神功皇后が三韓征伐の時 神告により神田を定め 天神地祇に禱祈して 那珂川の水を引いた所が現人神社である
神功皇后大和への御帰還に際し 霊験な現人神筒男三神をご奉持され 眞住吉之国(住よい国)摂津(大阪)〉に祀らた為に住吉三神と称され始めます 筑前国一之宮 福岡の住吉宮も後にここより御分霊された 故に 全国津々浦々にある住吉三神の本津宮とされます

住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉の「筒男(ツツノヲ)」の字義についての諸説

「筒男(ツツノヲ)」の字義についての諸説

①航海の神 ツツは夕月(ゆうづつ)のツツに通じ 夕方の月 宵の明星 星を指し 星は航海の指針に用いられることから
②海神を示す説
➂「津の男」に見る説
④「ツツ」を船の呪杖に見る説
➄船霊を納める筒に見る説
⑥対馬の豆酘(つつ)に関連し「豆酘の男」に見る説
➆航海に従った持衰の身を「ツツシム」に見る説

住吉神社の発祥について

現在 住吉神社の総本社は 一般的には 大阪府大阪市住吉区の住吉大社とされますが

下関住吉神社は 住吉三神の荒魂(あらみたま)
大坂の住吉大社は 住吉三神の和魂(にぎみたま)は 神功皇后が三韓征伐の帰途に祀られた事が『日本書紀』に記されています

実際には 神功皇后の「三韓征伐」伝承とともに 西から順に 壱岐対馬〈長崎県〉から博多・下関・瀬戸内海を渡り 大坂の住吉大社へと分祀されたものとおもわれます
このため・壱岐の住吉神社・博多の住吉神社 や現人神社など
は 住吉神社の発祥の地と称しています

『日本書紀』には 神功皇后の新羅征討の段に 次のように記されています

仲哀天皇の御代 熊襲 隼人など大和朝廷に反乱蜂起した時 神功皇后が神がかりして「まず三韓を征討せよ」との神託を得た しかし 仲哀天皇はこの神託に従わず 翌年崩御された
その翌月 再び神託を得た神功皇后は 自ら兵を率いて三韓へ征伐に向かう このとき 住吉大神の和魂が神功皇后の身辺を守り 荒魂は突風となり 神功皇后の船団を守護し 三韓をおおいに苦しめた
神功皇后は 三韓を平定し 凱旋の折 
住吉三神の神託を得て 大神の荒魂(あらみたま)を穴門(山口県)山田邑(下関市)に奉斎します また 和魂(にぎみたま)を大津〈大きな港〉の渟中名倉の長峡〈現 大阪・住吉大社のある場所〉で 行き交う船を見守ると鎮めて 住吉大神を祀った

『日本遺産「国境の島」壱岐・対馬・五島 交易・交流と緊張の歴史』chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://nagasaki-bunkanet.jp/wp-content/uploads/2015/03/%E5%9B%BD%E5%A2%83%E3%81%AE%E5%B3%B6%E3%80%80%E5%86%8A%E5%AD%90.pdfより画像利用

『延喜式神名帳(927年12月編纂)に所載される”住吉神社 七社(すみよしのかみのやしろ ななやしろについて

延喜式神名帳所載七国〈対馬・壱岐・筑前・長門・播磨・摂津・陸奥各々に七社住吉神社鎮座します

これ住吉七社(すみよしななしゃ/すみよししちしゃ)とも総称します

格式の高さが際立つ 住吉七社 

内訳は次の通り
住吉七社の内 一之宮が三国〈筑前・長門・摂津
住吉七社内 五社が名神大社〈対馬・壱岐・筑前・長門・摂津

『古事記』では「墨江之三前大神(すみのえのみまえのおほかみ)」と総称され
住吉の地名については 古くはスミノエと呼ばれ「住吉」「墨江」「清江」などと表記されましたが 平安時代以降は スミヨシとも呼ばれるようになったとされます
外交にまつわる航海の守護神として国家的な祭祀をうけていて 大和朝廷にとって特別な意義を有する神社でした
遣唐使時奉幣の祝詞や六国史には 遣唐使出発の際にこの神を祭ったことが見えています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)927年12月編纂〉に記される 住吉七社と その論社について

①對馬嶋 下縣郡
住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)

・住吉神社(対馬 鴨居瀬)

・鷄知住吉神社(対馬 鶏知)

➁壹岐嶋 壹岐郡
吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)

・住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)

➂筑前国 那珂郡
住吉神社 三座(並名神大)(すみよしの かみのやしろ みくら)

・住吉神社(博多区住吉)

・若久住吉神社(福岡市南区)

・現人神社(那珂川市)

④長門国 豊浦郡
住吉坐荒御魂神社三座(並名神大)(すみよしのあらみたまの かみのやしろ みくら)

・住吉神社(下関市)長門国一之宮

➄播磨国 賀茂郡
住吉神社(すみよしの かみのやしろ)

・上鴨川住吉神社(加東市上鴨川)

・住吉神社(加東市下久米)

・小野住吉神社(小野市垂井町)

・秋津住吉神社(加東市秋津)

⑥摂津国 住吉郡
住吉坐神社四座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(すみよしの かみのやしろ)(すみのえにます かみのやしろ)

・住吉大社(大阪市住吉区)摂津国一之宮

➆陸奥国 磐城郡
住吉神社(すみよし かみのやしろ)

・住吉神社(いわき市小名浜住吉)

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゛神の坐ます島 壱岐゛で崇敬されている 壱岐七社について

壱岐の人々には お正月に初詣に豊作大漁家内安全健康長寿を祈願して七社巡りをする習慣があります
参拝の順番は 家に近い神社を起点に時計回りに回るのがいいとされているそうです

壱岐七社は いづれも 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉以前は 延喜式内社の大社と考えられていた由緒ある神社で 旧平戸藩の藩主が特別に崇敬をした七つの神社です

1.白沙八幡宮

 延喜式内社 海神社(大)論社

・白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)

2.興神社

〈延喜式内社 天手長男神社(名神大)論社

・興神社(壱岐市芦辺町)

3.住吉神社

〈延喜式内社 住吉神社(名神大)論社

・住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)

4.本宮八幡宮

〈延喜式内社 兵主神社(名神大)論社

・本宮八幡神社(壱岐市勝本町本宮西触)

5.箱崎八幡宮

〈延喜式内社 月讀神社(名神大)論社

・箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)

6.國片主神社

〈延喜式内社 天手長比売神社(名神大)論社

・國片主神社(壱岐市芦辺町)

7.聖母宮

〈延喜式内社 中津神社(貞・名神大)論社

・聖母宮(壱岐市勝本町)

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

郷ノ浦から R382号を北上し 約6.4km 車13分程度

R382号沿いに 一の鳥居が建ちます

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その先に社頭に通じる社道があり 駐車スペースもあります

住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)に参着

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鳥居の横には 祭祀場? 鉾立石?

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一礼をして 鳥居をくぐります 扁額には 住吉神社と刻字されています

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参道を進むと 狛犬座します

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参道の石畳みの脇には 御神木の樟木 その先には石橋が架かり 社殿が見えてきます

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神池に架かる石橋を渡った先には手水舎があり 清めます

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コンクリート造りの拝殿があり

拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 見事な建造な社殿となっています
これは 官国幣社建物制限図よって 明治十二造営されたもので 境内を開拓して 旧来茅葺改築し 正殿丘陵半腹し 中段中門 階下拝殿 神饌所 社務所等建設したとあります

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『壱岐名勝図誌』〈文久元年(1861)に完成〉に記される伝承

社記に 住吉大神は神功皇后 三韓征伐のおりに出現し 怨敵を退治したことによって 高貴徳王神とも称する と記しています

【抜粋意訳】

十七巻 住吉村之部 住吉神社

住吉里 村中の産神にして 例祭九月九日

祭神 三筒男神

正殿 牛未向・・・・
祝詞舎・・
上屋・・・
拝殿・・・
饌殿・・
弥勒菩薩・
稲荷祠・・
竹生島社・
石鳥居・・
石橋・・・
神木

当社は 村中の産神にして領地東は・・・・・・・
・・・・

〇續風土記に御宝殿記を引いて云 当社は伊弉諾尊 日向小戸の檍原に禊祓生れ出で所の御子にして 異賊降伏の護神なり 故曰 大日本國鎮領主 住吉大明神夷 敵を征伐し給より以来・・・・・・
・・・・
当初 住吉大明神 高貴徳王と顕示 三千二百歳 常に人形に現し皇敵を降伏し給事七度なり・・・・・・右七度 襲来といへる・・・・
・・・・・
神功皇后(仁皇第十五代の女帝なり)三韓御退治の時も住吉大明神 出現し給ひ 御加勢あり云々 此神 数度怨敵を潔は万氏 其の難をのかせ安穏を保つ故に嘉称して住吉大明神と名附く就中 壱岐は三韓・・・・・・・・
・・・・・

国中十七社の其の一にして 神社帳に川原辻 妙見宮 古来にて勧請年歴不知云々と所載あり 延宝年甲寅卯月 寛永庚午年 宝殿再建 毎度白銀五枚寄附をすね例歳九月十三日夜大神楽十四日国主代参奉幣種々の規式なりて神輿を飾調神幸 流鏑馬て還幸奉る・・・・
・・・・・

【原文参照】

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

【抜粋意訳】

住吉神社 名神大

住吉は 須三乃江と訓べし

祭神 三筒男神歟
住吉村に在す
〇式三 名神ノ祭 二百八十五座 中略 壱岐島 住吉神社 一座

類社
摂津國 住吉郡 住吉神社の條見合うべし

神位
三代実録貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申〉の条 壹岐嶋 從五位下 海神 住吉神 兵主神 月讀神  從五位上

怪異
扶桑略記 延喜十八年十月十五日 大宰府解、壱岐言上中略 住吉明神如ニ太鼓鳴動、御體美石ニ宝殿在地上、(全文当郡 手長比賣神社の條に出づ)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承

神功皇后の三韓征伐の凱旋の時 郷ノ浦に上陸し 足形を石面に残し時に祀られた 後に 住吉神の神託があり「波の音の聞こえぬ地」をお選びになり 現在地に遷座したと記されています

【抜粋意訳】

國幣中社 住吉神社

鎭座地 那賀村大宇住吉

 神 底筒男神、中筒男神、表筒男神
 殿 八干戈神

例祭日 十一月九日 神幸式(大神楽、大和舞)、流鏑馬
古式神事 軍越神事十七日、二十八日、二十七
境内坪数 5701

〔由緒沿革〕
 抑当壱岐國ハ 往古三韓交通ノ要衝ニ当リ、動モスレ敵國襲來ノ門口ナレ神功皇后 三韓征伐御凱旋ノ途次 舟師ヲ当國ニ駐メ給ヒ、鎮護ノ神トシテ住吉大神及八千戈神(大國主神)ヲ親祭アラセラレ 敵國降伏ノタメ 軍越神事ヲ定メ其ノ臣安倍介麿ヲ駐メ 祭祀ノ料トシテ壱岐一国ヲ賜ヒ 永ク祭事ヲ司ラシメ給フ。
 是即チ 現今ノ國幣中社 住吉神社ノ起源ニシテ 爾來 壱岐国ハ 住吉大神ノ神領トナリ 住民ハ 住吉神社ノ氏子トシテ報本反始ノ誠ヲ現シ 四時ノ祭祀ニハ勿論 御造営ニ就テモ 国内中ヨリ造作奉仕スルコトゝナリ神威益々顯ハレ武神トシテ、海上ノ守護神トシテ、将又安産、或ハ殖産興業ノ神トシテ 霊徳彌々高ク弘安、文永ノ難ヲ経タルモ依然トシテ神徳ヲ潰サズ 歴朝ノ御尊崇殊ニ厚ク 屡々神階ノ昇叙勅使ノ奉幣等アラセラレ、旧藩主ノ崇敬亦深厚ナルモノアリテ 社殿ノ修繕 造替等ニ意ヲ用ヒラレタリ、延喜ノ制度ニ於テハ 明神大社ニ列セラレ 明治年官社定額制定ニ当リテハ國幣中社ニ列セラレ 壱岐国ニ於ケル唯一ノ官社ニシテ 当国ノ総鎭守且又縣下ニ於ケル首班ノ神社ナリ。

 社記ニ曰、神功皇后 三韓征伐ノ時 住吉大神 壱岐國御津浦(柳田村半城)ニ着岸シ玉フ、故ニ時ノ人其ノ所ヲ名付ケテ御津ト云フ、則チ御足形 御津ノ濱及 御津辻ノ石面ニアリ。

 又曰、住吉大明神ハジメ此ノ浦ニ坐々セシガ(御津八幡社ヲ旧社地ト伝フ)三韓征伐ノ時 大風波甚シケレバ 波ノ音ヲ不聞ト今ノ社地ニ遷座シ玉フ(猶住吉大神高貴徳王神ト顕玉ヒ三千五百歳常ニ現人形皇敵降伏ノコトヨリ神功皇后三韓征伐事等アレド妄説ニテ取リガタケレバ省ク)

 古老ノ傅、旧神官ノ伝ニ曰、住吉大明神 御津浦ヨリ今ノ社地ニ遷ラセ玉フ時、御道ノ草悉ク靡キ道ヲ明ケテ通シ奉レリ、此ノ由緒ニテ二十八日ヨリ日マデ 嶋中忌ト称シ 田畑ノ草取事ヲ禁ズ、尤イホツラト云フ草ノミ靡カザル故取ル事ヲ不忌、住吉村ハ二十八日ヨリ十二日マデ忌ム、又云、忌トハ住吉大神 三韓ニテ御馬ノ食ナカリケレバ 馬草ヲ祈リ玉ヒシ日ナリ。云々

 御博記ニ曰、住吉大神ハ 伊弉諾大神 筑柴ノ日向ノ橘ノ小戸ノ檍原ニ禊祓へ給ヒシ時生坐セル大神ニシテ 天照大神ノ御兄ニ当ラセ給フ 十四代仲哀天皇熊襲御親征ノ爲 筑前國香椎宮ニ下リ給ヒシ時 住吉大神 神功皇后ニ神託リテ神教ヲ垂レ給ヒ、熊襲ハ征シ給フニ足ラズ 西ノ方ニ宝國アリ 其ノ名ヲ新羅國ト云フ、其ノ国ニ金銀ヲ初メテ目ノ輝ク種々ノ珍宝アリ、吾前ヲ祭リテ征へ給ハバ匁ニ血塗ラズシテ 其ノ國必ズ降伏セムト告ゲ給フ、然レ共 天皇其ノ神託ヲ信ジ給ハズシテ崩御シ給フ、皇后 武内大臣ニ議リ給ヒ 群臣百寮ニ詔シテ 國ノ大祓ヲ修メ給ヒテ 更ニ神ノ教ヲ乞ヒ給フニ神託始ノ如シ、又 天神地祇ヲ祭リ給ヒ 吾神魂ヲ船ノ上ニ祭リテ渡リ座スバシ吾和魂ハ玉体ヲ守リ、荒魂ハ先鉾トナリテ 師船ヲ導カムト告ゲ給フ、爰ヲ以テ兵船ヲ整へ 住吉大神ヲ御座船ニ祀奉リテ渡リ給フニ 順風吹起リ 海中大小ノ魚類御船ヲ負ヒテ進ミ 浪高ク騰リテ 御船 新羅ノ國ノ半ニ到ル、於是國王 大イニ畏惶テ種々ノ珍宝ヲ捧ゲテ降伏ス、亦 高麗百済モ共ニ御徳ヲ慕ヒ奉リ從ヒ奉レリ。依テ 国政ヲ定メテ御凱旋ノ時 当國 御津浦ニ御船ヲ寄セ給ヒ 三韓鎭護ノ為 住吉大神ヲ親祭アリテ軍越神事ヲ定メ給ヒ 安倍介麿ヲ留メ 壱岐一國ヲ賜ヒ 永ク祭祀ヲ宰ラシメ給フ。云々

軍越神事ノ由來
 抑壱岐國ハ 三韓及蒙古動モスレバ襲來ノ入口ナリ爰ヲ以テ 一年ニ三度軍越ノ神事ヲ定ム、則神功皇后 臣下 安倍介麿ヲシテ祭祀ヲ主宰セシメ給フ 其ノ子孫代々相傅ヘテ絶ユル事ナシ(其ノ子孫今ニアリ)
此ノ軍越神事ハ 正月十七日、二十八日(今二十八日)二十七日ノ三度アリ、戊亥ノ方ニ向ヒ(戊亥ノ方ハ三韓ニ当レリ)鉾ヲ振リ 三韓降伏ノ神秘ヲ行フ、正月十七日、二十七日ノ両度ハ 御鉾ヲ御津浜ニ遷ス。大宮司以下七家ノ(一番住吉大明神大宮司、二番鯨伏平畑屋敷、三番幡宮祠官、四番物部村福田四郎兵衡、五番鯨伏村西屋轍、六番同村帳上屋敷 七番同村辻屋敷 此ノ七家ノ神職住居ノ跡今ニアリ)神官各乗馬ニテ供奉シ 鉾石ニ御鉾ヲ立テ 戊亥ニ向ヒテ 異敵降伏國家安穏ノ神秘ヲ行フ、二十八日、三韓降伏ニ配当ノ三岡アリ、第一佳吉軍越丘、第二深江軍越丘、第三志原軍越丘 幡言等ニ 大宮司以下七家神官 各騎馬巡参七ケ所ノ雄声場ニ至リ 幣帛ヲ捧ゲ異国降伏天下安平ノ神秘ヲ行フ、故ニ 軍越神事ト称ス(何レノ頃ニヤアリケン軍越祭ノ発馬ニ山伏ノ行列ノ先ヲ過グ神官之ヲ見テ道ヲヨケヨト云フニ山伏怒テ我等修験道ニ達セリ何ノ災カアラン汝等コソ災ニ逢フベシト云ヒテイラ高珠数ヲモミテ神官ヲ呪殺セントセシガ却テ山伏三人同枕ニテ死ス、之ヲ路ノ傍ニ隠セリ。今ニ深江村道傍ニ山伏墓トテアリ)
中古神官モ減ジテ 四人騎馬ニテ巡参セシヲ 其ノ後 次第ニ衰廃シテ 神官及福田某トニ人騎馬ニテ毎年二十八日一度古例ノ式祭執行、正月月ノ両度ハ社頭ニテ行事ス、尤 十二十七日ヨリ十一月一日マデ社前ノ矛田ニ御鉾ヲ遷シ祭祀ス(以上社記旧神官記)
 軍越ノ名ハ軍声ニ通ハセタルモノニシテ、所謂凱歌ヲ奏スル義ニ取レルナリト云フ。

(神階及社格〕
一、清和天皇 貞観元年正月、奉授壱岐島從五位下住吉神從五位上(三代実録巻二)
一、字多天皇 寛平十二月、神位一階ヲ進メ給フ。
一、朱雀天皇 天慶年正月、同上
一、白河天皇 永保元年月、同上
一、崇徳天皇 永治元年月、同上
一、高倉天皇 治承十二月、同上
一、安徳天皇 元暦月、同上
一、土御門天皇 建仁元年月、同上
一、亀山天皇 弘長元年月、同上
一、後字多天皇 建治元年月、同上
一、後円融天皇 永徳元年月、同上
一、醍醐天皇 延喜年式内名神大社ニ定メ給フ。
一、明治天皇 明治十四日、国幣中社ニ列シ給フ。
〔勅使参向〕
一、桓武天皇 延暦月、勅使参向幣帛ヲ奉リ給フ、同十六月、同上
一、嵯峨天皇 弘仁月、同月、同上
一、淳和天皇 天長月、同上
一、仁明天皇 承和月、同月、同上
一、文徳天皇 嘉祥月、同天安元年月、同月同上
一、清和天皇 貞観月、同上
一、醍醐天皇 昌泰元年月、同上
一、明治天皇 明治十一十七日、大嘗祭ニ付、同二十二二十五日、皇室典範御制定ニ付同三十七日、日露開戦ニ付、同三十八十二十七日、日露和平克復ニ付同上
一、大正天皇 大正十一十四日、大嘗祭ニ付同上
一、今上天皇 昭和十一十四日、大嘗祭ニ付同上

〔社殿〕
 古昔ノ建築年度構造等ハ詳ナラズ。
 寛永拝殿造営 十五年内秘殿造替、慶安年宝殿造替等 古来ヨリ領主代々ノ崇敬最モ深ク 社殿ノ改築度々ナリシガ 元文戊午十四日暮六ツ時 落雷ノ為正殿、拝殿、祝詞殿等悉ク炎上、同 領主平戸藩主 松蒲肥前守誠信公神殿、拝殿ヲ再建セラレ 二十一日御遷座アリ、是ヨリ社殿御造営ニハ國中力ゝリヲ以テ造作奉仕スルコトゝナレリ。
現在ノ社殿ハ 明治十二年ノ造営ニカゝリ 旧来ノ茅葺ヲ改築シ 境内ヲ開拓シ正殿ヲ丘陵ノ半腹ニ遷シ、中段ニ中門 階下ニ拝殿神饌所社務所等ヲ 官国幣社建物制限図ニヨリ建設シタルモノニシテ、第一鳥居ニハ旧藩主松浦詮公ノ揮毫ニ力ゝル社号ヲ揚ゲ 第二鳥居ニハ同松蒲肥前守鎮信公ノ社號ノ額ヲ揚グ。

【原文参照】

『壱岐国神社誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1035221出版昭和16年(1941)著者 長崎県神職会壱岐支会 編 出版者 長崎県神職会壱岐支会

『壱岐国神社誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1035221出版昭和16年(1941)著者 長崎県神職会壱岐支会 編 出版者 長崎県神職会壱岐支会

『壱岐国神社誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1035221出版昭和16年(1941)著者 長崎県神職会壱岐支会 編 出版者 長崎県神職会壱岐支会

絹本着色高野四社名神像(けんぽんちゃくしょくこうやししゃみょうじんぞう)について

現地案内板より

長崎県指定有形文化財・絵画

絹本着色高野四社名神像 一幅
(けんぽんちゃくしょくこうやししゃみょうじんぞう)

製作年代:室町時代中期以降
昭和五十年(1975)日指定
所在地:長崎県壱岐市芦辺町住吉東触四七〇番地 住吉神社

 本図は室町時代中期以降の専門的絵仏師によって制作された高野四社名神像である。使用されている粗絹(あらぎぬ)は室町時代に特有のもので、金泥を多用して彫塗(ほりぬ)りを施し、多彩で過飾の色彩構成によって描かれている。 高野四社名神像とは、高野山麓の天野(あまの)神社に祀られている地主神などを集めて描いたものである。空海(弘法大師)が弘仁年(816)に高野山を開山するにあたって四社明神を祀り、神仏の協調をはかったが、そのことに由来して鎌倉時代から描かれ始めた。 四社明神は、各明神の神徳にちなんで開運・清祓・学問・織物・食物・狩り・漁・結婚・安産など生活向上へと導く神として信仰を集めている。
 構図は、上段に団扇を持った天女形の丹生(にう)明神(丹生都比大神(にうつひめのおおかみ):様々な災いを払い除け、全てのものを守り育てる女神。不老長寿・農業・養蚕の守り神)と笏(しゃく)を持つ束帯(そくたい)の高野明神(高野御子大神:弘法大師空海を高野山へ導いたとされる、幸福への導きの神)を描き、下段には払子(ほっす)を持つ天女形の蟻通(ありどうし)明神(国土開発の神)と琵琶を持つ弁財天(音楽・福徳・学芸を司る女神)の姿を描く。 また、各明神の背後に小屏風を配し、両脇に守護獣である狛犬(こまいぬ)を対置させた通例の垂迹曼荼羅(すいじゃくまんだら)(神道系の曼荼羅)の形をなす。
 なお、第三宮の蟻通明神は気比(けひ)明神(大宜都比(おおげつひめ)大神:あらゆる食べ物に関する守り神)であるとも伝えられ、不詳の第四宮は厳島明神(市杵嶋比(いちきしまひめ)大神:財運と芸能の神)とも伝えられている。 作例は真言寺院に伝来するものが多いが、この種のものは県下において唯一のものであり、九州でも希少な存在である。

 なお、本図は明治二七年(1894)に、大阪の大谷六左衛門(芦辺町出身)によって住吉神社に寄進されたものである。
 縦 89.1cm
 横 39.1cm
平成二十月 長崎県教育委員会 壱岐市教育委員会

現地案内板より

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住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)に (hai)」(90度のお辞儀)

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