興神社(壱岐市芦辺町)

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興神社(ko shrine)は 壱岐国が王制の時代であった頃の 一支国(壱岐国)の王都の跡「原の辻遺跡」のすぐ傍に鎮座します 官庫の鑰(かぎ)や国府政所の印かんを納める所として「印鑰大明神」の社号で呼ばれ 格式高い由緒を伝えます 里人の通称名は「一の宮」です 現在では 本来の式内名神大社「天手長男神社」で「壱岐国一之宮」は当社「興神社」とする説が有力です

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name)】

  興神社(ko shrine)
  (こうじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

  一の宮(ichi no miya)

【鎮座地 (location) 】

 長崎県壱岐市芦辺町湯岳興触676-1

 [地 図 (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》足仲彦尊(tarashi nakatsuhiko no mikoto)(第14代仲哀天皇)
   息長足姫尊(okinaga tarashi hime no mikoto)(神功皇后)
   応神天皇(nintoku tenno)
   仁徳天皇(nintoku tenno)
   天手力男命(ameno dajikarawo no mikoto)
   八意思兼命(yaomoikane no kami)
   住吉大神(sumiyoshi no okami)

【御神格 (God's great power)】

・安産育児 Safe childbirth and childcare
・等 etc

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
・ 壱岐国一之宮
・ 壱岐国七社

【創 建 (Beginning of history)】

「式内社」「旧 那賀村 村社 七社」
弘仁2年(811)日輪の神勅を承り創建。
王制の時代、官庫の鑰(かぎ)及び国府政所の印かんを納める所だったので、印鑰大明神の社号があるそうです。
興は国府のことで、また、近くに総社神社もあることから、この神社が壱岐国一の宮 天手長男神社ではないかという説もあります
壱岐名勝図誌にも「壱岐国一の宮は石田郡の印鑰大明神なり」とある

『神々の島、壱岐の神社を訪ねて』より抜粋

【由 緒 (history)】

興神社 由緒沿革

主祭神 足仲彦尊・息長足姫尊

相 殿 應神天皇・仁徳天皇・天手力男命・八意思兼神・住吉大神

例祭日 四月十三日 神幸式大神楽奉奏

由緒沿革

一、当社は 延喜式第十巻神明帳書載の壱岐嶋石田郡興神社である。
社記に言う。往古 壱岐伊宅郷国名村(湯岳村)国の一宮国分社で
又官庫の鑰政所の印を納めていたので印鑰大明神と称したとある

一、神明記には興神社 こう村以前は印鑰大明神式内社とある。

一、神社帳には 湯岳村久保頭 興神社一宮とあり
式内二十四座の内 宝殿拝殿あり神主 吉野数之進とある

一、嵯峨天皇 弘仁2年10月(1200年前)朔日御鎮座で
文徳天皇 仁寿元年(1140年前)正六位上に叙せられ
以後十回にわたり各一階づつ神階を進めされ給う

一、永禄9年(440年前)宝殿再建
松浦肥前守 源隆信公の棟札あり

一、同年 13年 拝殿再建 松浦肥前守 源隆信公

一、慶安2年(340年前)国主松浦肥前守 鎮信公 木鏡及石額奉納せらる

一、社記には例祭日の前夜 大神楽 翌例祭日には国主名代
兵具や幣帛を献上するとあり 又女池の行宮に渡御ありと記されている

一、壱岐七社の一つで 明治9年12月4日村社に列せらる

一、明治40年神饌幣帛料供進神社に指定せらる

  (平成2年 御大典記念事業)

境内案内板より

【境内社 (Other deities within the precincts)】

祠あり

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.

※2つの式内社の比定社となっています

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)石田郡 12座(大3座・小9座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社名 ] 與(与)神社

[ふ り が な  ](よの かみのやしろ)
[How to read ](yo no kamino yashiro) 

国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)石田郡 12座(大3座・小9座)

[名神大 大 小] 式内 名神大社

[旧 神社名 ] 天手長男神社(名神大)

[ふ り が な  ](あめのたなかをの かみのやしろ)
[How to read ](ameno tanakawo no kamino yashiro) 

国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

興神社(ko shrine)が 本来の 壱岐国一之宮 とされています

壱岐の神社は 鎌倉期の2度にわたる元寇で壊滅的な被害を受けていています
その痕跡を辿ることも難しい場合もあったようです

江戸期に書かれた『諸国一宮巡詣記』の著者で有名な平戸藩の神道家「橘三喜(tachibana mitsuyoshi)」が 延宝4年(1676年)に壱岐の式内社を調査した際に 当社を式内小社「與(与)神社」に比定しました

しかし 橘三喜が行った式内社調査では 壱岐島の場合などは 強引な付会とされる場合が殆どで 同島の式内社の比定には むしろ更なる混乱を招いたと云われています

この時の式内社調査では 壱岐国一宮の天手長男神社は 壱岐市内の郷ノ浦町田中触の「若宮社(現 天手長男神社)」に比定されました

しかし 近年の研究では この判断は 興と與(与)を見誤った為だと考えられていて 本来は 式内名神大社「天手長男神社」が当社であって「壱岐国一之宮」であるとする説が有力となっています

一方 式内社「與(与)神社」の有力な論社としては 深江栄触の「深江神社」とされています

「深江神社」の記事もご覧ください

一支国(壱岐国)の 王都跡「原の辻遺跡」のすぐ傍に鎮座しています

興神社の東に1㎞程の所には 一支国(壱岐国)の王都があったとされている「原の辻遺跡」があり 現在は 一支国博物館が建ちます 

律令時代の壱岐国の国府もこの近くであったとされていて 社名の「興」は「国府(こふ・こう)」の意味とされています

国府の倉の鍵である「印鑰(いんにゃく)」を保管していたので 近世「印鑰神社」とも呼ばれました

延宝4年の調査以前から 現在に至るまで 当社は 通称「一の宮」と呼ばれています

壱岐国七社(壱岐七社)の一社ですが「全国一の宮会」には加盟していません

壱岐市立一支国博物館HPには 次のようにあります

興神社は905年(延喜5)の勧請から
1676年(延宝4)の橘三善による式内社の査定までの770年間は
印鑰宮大明神を祀ってありました。

今でも境内に「印鑰宮」と書かれた鳥居石額が小さな祠(ほこら)に祀られています。”印鑰宮”とは「国司の印を納める庫の鑰(かぎ)を祀る社」といわれています。

壱岐では8世紀代は 芦辺町国分地区に壱岐国分寺が設置されていたことまでは分かっているものの、国府の位置は定かではありません。
この「印鑰宮」ある湯岳周辺に国府が移った可能性が推測されています。
近くには覩城もあることから、中世から近世にかけて重要な地であったことをうかがえます。

また、石鳥居は藩主松浦鎮信(まつうらしげのぶ)公の奉献によるもので「鎮信鳥居」と呼ばれる反増(そりまし)が笠木の中心から反り上る特殊な型をしています。

壱岐市立一支国博物館HP「壱岐の名所情報」より

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

芦辺港より 県道173号経由 約7k 車 10分程度
郷ノ浦港よりは 北東約5km
県道173号沿いに進むと白い鳥居「一の鳥居」が建ちます 

興神社(ko shrine)に到着

すぐ目の前に由緒の案内看板があります
鳥居の扁額には「興神社」とあり 明治41年に建てたと柱に記されています一礼してくぐります

茂みの中へと参道を進むと
「二の鳥居」が建ちます こちらは 古さを感じる 肥前鳥居となっています

参道が僅かながらに弧を描きながら 社殿に続いています

拝殿にすすみます ガラスの格子引き戸を開くて 賽銭箱があり お詣りです
拝殿内は畳敷きになっていて 中央の祭壇上の扁額には 7柱の御祭神が記されています

賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

拝殿を出て 奥の本殿(1746年建造)に向かいます 彩色は色褪せてきていますが 中々の色使いがされていて かつては随分美しかったと想われます

拝殿に向かって右側の境内 茂みの中には「印鑰宮(innyaku gu)」と書かれた鳥居石額が置かれて 小さな祠が祀られています
かつての”印鑰宮”の名残りで「国司の印を納める庫の鑰(かぎ)を祀る社」であったといわれています

参道を戻ります 鳥居をくぐり振り返り一礼

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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本文徳天皇実録(nihon montokutenno jitsuroku)』に記される伝承

『日本文徳天皇実録』(元慶3年(879年)完成)は 六国史の第五にあたり
平安時代に編纂された歴史書【文徳天皇の御代】[嘉祥3年(850)~天安2年(858)]の8年間を記録した文徳実録ともいい 編年体・漢文・全10巻

意訳

「 嘉祥3年(850)10月23日 条 詔(みことのり)以 壱岐島の 天手長男 天手長比咩 の両神(2柱の神)を 官社に列する 」

『大日本国一宮記(dainihonkoku ichinomiya ki)』に記される伝承

『大日本国一宮記』(『群書類従』第二輯「神祇部」巻第二十三に編纂)
日本国内の「一宮 一覧」で室町時代の成立とされています

神社名と祭神が記され

「 天手長男神社 天思兼神一男 壱岐石田郡 」と祭神を「思兼神」してあり これは当社の祭神と同一です

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『大日本国一宮記』室町時代の成立 「群書類従」刊本(跋刊)[旧蔵者]昌平坂学問所
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000037297&ID=M1000000000000054068&TYPE=&NO=映像利用

本来の式内名神大社「天手長男神社」であって「壱岐国一之宮」とする説が有力となっています 又 一支国(壱岐国)の王都跡「原の辻遺跡」のすぐ傍に鎮座していて 壱岐国が王制の時代 官庫の鑰(かぎ)や国府政所の印かんを納める所だったので「印鑰大明神」の社号を持ちます 格式高い由緒を持ちます

興神社(ko shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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