小野住吉神社(小野市垂井町)

住吉神社(すみよしじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが 社伝には 人皇10代の時とも養老6年(722)とも云われ もと河内山田に鎮座していたが 市場村喜多島に奉遷鎮座し 後に現在の地に奉遷したと伝わります 式内社 播磨国 賀茂郡 住吉神社(すみよしの かみのやしろ)の論社です

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

住吉神社(Sumiyoshi shrine)

通称名(Common name)

すみよし
小野住吉神社(おのすみよしじんじゃ
川内大明神(かわちだいみょうじん)

【鎮座地 (Location) 

兵庫県小野市垂井町908

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》表筒之男命うわつつをのみこと
   中筒之男命なかつつをのみこと
   底筒之男命そこつつをのみこと

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

交通安全 安産 七五三 厄除 他

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

由 緒

 当神社は創建年代は不明ですが、人皇10代の時とも養老6年(722)ともいわれています。古書類は兵火のため焼失してはっきりしておりません。
 もと河内山田に鎮座していましたが、夢想によって市場村喜多島に奉遷鎮座し、後に現在の地に奉遷することになり一名川内大明神ともいわれています。
 延喜式神名帳に所蔵の神社であって元和元年小笠原忠政の社領を寄せられ、慶安以降徳川将軍代々の社領朱印地として十石を賜りました。

 その後、小野藩主一柳家より氏神として厚く当社を崇敬され、燈籠・鳥居など多くの寄付を賜り、それらは今尚現存しています。
 又地方の大社として一般の人々の崇敬も厚く、明治4年に郷社、昭和17年(1942)6月には県社に列せられました。

 現在の本殿は宝暦年間に再建され、続いて神門、拝殿、その他の建物も再建され、その後、幾多の大改修を経て現在に至っています。

 長い参道の奥の木立の中に鎮座しています当住吉大社は、華麗な彫刻と自然との調和のとれた霊験あらたかな由緒正しい御社であります。

兵庫県神社庁HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6311007.html

【由  (History)】

住吉神社由来記

祭神
表筒之男命 うわづつおのみこと
中筒之男命 なかづつおのみこと
底筒之男命 そこづつおのみこと

由緒
 当神社は創建年代は不明ですが、人皇十代の時とも養老六年ともいわれています。古書類は兵火のため焼失してはっきりしていない。もと河内里山田に鎮座していましたが、夢想によって市場村喜多島に奉遷鎮座し、後に現代の地に奉遷することになり一名川内大明神ともいわれています。延喜式神名帳に所載の神社であって、元和元年小笠原忠政の社領を寄せられ、慶安以降徳川将軍代々の社領朱印地として拾石を賜りました。その後、小野領主一柳家の氏神として厚く当社を崇敬し、燈篭、鳥居など多くの寄付を賜り、それらは今尚現存しています。又 地方の大社として一般の人々の崇敬も厚く、明治四年八月小野県県社に命じ四十五年に指定神社になり、昭和十七年六月に県社に昇格いたしました。

 現代の本殿は宝暦年間に再建され、続いて神門、拝殿、その他の建物も再建され、その後、幾多の大改修を経て現代に至っています。長い参道の奥の木立ちの中に鎮座しています 当住吉大社は、華麗な彫刻と自然との調和のとれた霊験あらたかな由緒正しい御社であります。境内には稲荷神社をはじめ、猿田彦神社、祓戸社、磯御前社、豊磐間戸神社、櫛磐間戸神社、などの小宮があります。

祭儀
・歳旦祭 一月一日・魔当祭 一月十三日
・初午祭 三月の初午の日・春祭 四月十三日・夏祭 七月三十一日
・秋祭・七五三祭 十一月十五日・冬祭 十二月十三日

現地案内板より

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

猿田彦神社《主》猿田彦命拝殿向かって右

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稲荷神社《主》稲蒼魂命拝殿向かって右

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・祓戸社拝殿向かって右

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・磯御前社本殿の後方

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神庫蔵の神

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大和宮《主》護国の英霊拝殿向かって

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大和宮

ご祭神 小野市内より出征された英霊 五百十七柱
慰霊祭 毎年五月中旬

 かつて国の為、郷里の為、家族の為にその尊い命を捧げられました英霊をお祀り申し上げております。
 昭和二十五年、旧小野と称される地区より出征された方のご遺族の厚い要望により、住吉神社境内に英霊五百十五柱を祀るべく大和宮が建てられました。
 しかしながら、長き年月の間に大和宮の記憶は薄れてしまいました。
 そこで平成二十七年は大東亜戦争終戦七十年・大和宮建立六十五年の節目の年にあたることから、小野市遺族会は陳謝の想いと郷土の明るい未来の為に、以降の祭儀を厳粛に執り行うべく、老朽化した大和宮の改築を行い、新たに英霊二柱が合祀、五百十七柱となり、九月十日に遷座祭、翌十一日に竣工祭が齋行されました。

~国旗を掲揚する会~

「大御心をいただきてむつび和らぎ、国の隆昌と世界の共存共栄とを祈ること」(敬神生活の綱領より)

 大和宮では大東亜戦争において国・郷里・家族の為に元の氏子地域より出征され命を捧げられた五百十七柱の英霊がお祀りされております。
 それぞれの地にて国の隆昌を願い果てられた英霊の想いを受け継ぎ、世界の共存共栄へと繋げていくという精神に賛同された方々によって、終戦より七十年の節目に新たにこの掲揚塔が設けられました。住吉神社の境内にたなびく国旗を仰ぎ、各々に切磋琢磨し、皆が一致団結して過去を忘れず正しく未来へと引き継ぎ、真の自由と平和を目指しましょう。

賛同者・・・・・

銘記 平成二十七年十月吉日

現地案内板より

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・神門〈南向き〉豊磐間戸神社〈向かって右〉櫛磐間戸神社〈向かって左〉

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鬼瓦〈神門の前に展示〉

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承

豊城入彦命の東国の六腹(むつのはら)の子孫が 居住地を氏の名とすることが記されています

【抜粋意訳】

延暦十年(七九一)四月乙未〉(辛卯朔五)の条

○夏四月乙未
近衛将監従五位下兼常陸大掾池原公綱主等言。池原。上毛野二氏之先。出自豊城入彦命。其入彦命子孫。東国六腹朝臣。各因居地。賜姓命氏。斯乃古今所同。百王不易也。伏望因居地名。蒙賜住吉朝臣。勅綱主兄弟二人。依請賜之

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『続日本紀』延暦16年(797)選者:菅野真道 写本 慶長19年[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨国 50座(大7座・小43座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 8座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 住吉神社
[ふ り が な ]すみよしの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Sumiyoshi no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

”住吉神社”(すみよしじんじゃ)と住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉について

住吉神社 主に住吉三神を祀る神社で 日本全国に約2300社以上ある云われます

住吉三神とは 次の三柱神の総称 古来 航海の守護神として篤く信仰されてきている

底筒男命底筒之男命(そこつつののみこと)
・中筒男命中筒之男命(なかつつののみこと)
・表筒男命上筒之男命(うわつつののみこと)

住吉大神と号する場合は
住吉三神息長帯姫命神功皇后併せ祀ります

住吉三神は 日本神話に登場する航海の神
伊奘諾尊が 黄泉の国の穢れを清めるために 筑紫の日向の橘の小戸の檍原で禊をしたとき 水底で身をすすぐと底筒男命 水中では中筒男命 水上では表筒男命 このとき顕われたとされる

『古事記』では 水の底にもぐって 身を洗い清められる時に成った底筒之男命 水の中程で洗い清められる時に成った中筒之男命 水の表面で洗い清められる時に成った上筒之男命が それぞれ生まれます

その後『日本書紀』には 神功皇后の段に新羅征討の際に 神託・守護・先導などに深くかかわったと記されています

〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉が 住吉三神と云われる理由について

福岡の現人神社〈博多 住吉神社と大阪 住吉大社の元宮とされる〉には 三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉が 住吉三神と云われるようになった理由を社伝で伝えています

「元々は 現人神筒男三神〉であったが 神功皇后が三韓征伐の時 神告により神田を定め 天神地祇に禱祈して 那珂川の水を引いた所が現人神社である
神功皇后大和への御帰還に際し 霊験な現人神筒男三神をご奉持され 眞住吉之国(住よい国)摂津(大阪)〉に祀らた為に住吉三神と称され始めます 筑前国一之宮 福岡の住吉宮も後にここより御分霊された 故に 全国津々浦々にある住吉三神の本津宮とされます

住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉の「筒男(ツツノヲ)」の字義についての諸説

「筒男(ツツノヲ)」の字義についての諸説

①航海の神 ツツは夕月(ゆうづつ)のツツに通じ 夕方の月 宵の明星 星を指し 星は航海の指針に用いられることから
②海神を示す説
➂「津の男」に見る説
④「ツツ」を船の呪杖に見る説
➄船霊を納める筒に見る説
⑥対馬の豆酘(つつ)に関連し「豆酘の男」に見る説
➆航海に従った持衰の身を「ツツシム」に見る説

住吉神社の発祥について

現在 住吉神社の総本社は 一般的には 大阪府大阪市住吉区の住吉大社とされますが

下関住吉神社は 住吉三神の荒魂(あらみたま)
大坂の住吉大社は 住吉三神の和魂(にぎみたま)は 神功皇后が三韓征伐の帰途に祀られた事が『日本書紀』に記されています

実際には 神功皇后の「三韓征伐」伝承とともに 西から順に 壱岐対馬〈長崎県〉から博多・下関・瀬戸内海を渡り 大坂の住吉大社へと分祀されたものとおもわれます
このため・壱岐の住吉神社・博多の住吉神社 や現人神社など
は 住吉神社の発祥の地と称しています

『日本書紀』には 神功皇后の新羅征討の段に 次のように記されています

仲哀天皇の御代 熊襲 隼人など大和朝廷に反乱蜂起した時 神功皇后が神がかりして「まず三韓を征討せよ」との神託を得た しかし 仲哀天皇はこの神託に従わず 翌年崩御された
その翌月 再び神託を得た神功皇后は 自ら兵を率いて三韓へ征伐に向かう このとき 住吉大神の和魂が神功皇后の身辺を守り 荒魂は突風となり 神功皇后の船団を守護し 三韓をおおいに苦しめた
神功皇后は 三韓を平定し 凱旋の折 
住吉三神の神託を得て 大神の荒魂(あらみたま)を穴門(山口県)山田邑(下関市)に奉斎します また 和魂(にぎみたま)を大津〈大きな港〉の渟中名倉の長峡〈現 大阪・住吉大社のある場所〉で 行き交う船を見守ると鎮めて 住吉大神を祀った

『日本遺産「国境の島」壱岐・対馬・五島 交易・交流と緊張の歴史』chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://nagasaki-bunkanet.jp/wp-content/uploads/2015/03/%E5%9B%BD%E5%A2%83%E3%81%AE%E5%B3%B6%E3%80%80%E5%86%8A%E5%AD%90.pdfより画像利用

『延喜式神名帳(927年12月編纂)に所載される”住吉神社 七社(すみよしのかみのやしろ ななやしろについて

延喜式神名帳所載七国〈対馬・壱岐・筑前・長門・播磨・摂津・陸奥各々に七社住吉神社鎮座します

これ住吉七社(すみよしななしゃ/すみよししちしゃ)とも総称します

格式の高さが際立つ 住吉七社 

内訳は次の通り
住吉七社の内 一之宮が三国〈筑前・長門・摂津
住吉七社内 五社が名神大社〈対馬・壱岐・筑前・長門・摂津

『古事記』では「墨江之三前大神(すみのえのみまえのおほかみ)」と総称され
住吉の地名については 古くはスミノエと呼ばれ「住吉」「墨江」「清江」などと表記されましたが 平安時代以降は スミヨシとも呼ばれるようになったとされます
外交にまつわる航海の守護神として国家的な祭祀をうけていて 大和朝廷にとって特別な意義を有する神社でした
遣唐使時奉幣の祝詞や六国史には 遣唐使出発の際にこの神を祭ったことが見えています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)927年12月編纂〉に記される 住吉七社と その論社について

①對馬嶋 下縣郡
住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)

・住吉神社(対馬 鴨居瀬)

・鷄知住吉神社(対馬 鶏知)

➁壹岐嶋 壹岐郡
吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)

・住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)

➂筑前国 那珂郡
住吉神社 三座(並名神大)(すみよしの かみのやしろ みくら)

・住吉神社(博多区住吉)

・若久住吉神社(福岡市南区)

・現人神社(那珂川市)

④長門国 豊浦郡
住吉坐荒御魂神社三座(並名神大)(すみよしのあらみたまの かみのやしろ みくら)

・住吉神社(下関市)長門国一之宮

➄播磨国 賀茂郡
住吉神社(すみよしの かみのやしろ)

・上鴨川住吉神社(加東市上鴨川)

・住吉神社(加東市下久米)

・小野住吉神社(小野市垂井町)

・秋津住吉神社(加東市秋津)

⑥摂津国 住吉郡
住吉坐神社四座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(すみよしの かみのやしろ)(すみのえにます かみのやしろ)

・住吉大社(大阪市住吉区)摂津国一之宮

➆陸奥国 磐城郡
住吉神社(すみよし かみのやしろ)

・住吉神社(いわき市小名浜住吉)

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

神戸電鉄栗生線 小野駅から県道18号を南下 約1.5km 車5分程度

表参道に第一鳥居が建ちます

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表参道を進むと駐車場があります

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西参道もあって 第二鳥居が建っています

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南向きに 漆喰の白塀と神門が立ち 自然石の社号標があります

住吉神社(小野市垂井町)に参着

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石段を三段上がり 一礼をして神門をくぐります

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神門をくぐると 境内は中央にわずかな段差があって 二段になっています 中央の注連縄柱までは石畳の参道があり 左手には手水舎 正面には社殿が建ちます

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手水舎で清めます

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中央には 石灯篭注連縄柱があり 一礼をしてくぐります

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拝殿にすすみます

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拝殿前には 狛犬が座します

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拝殿内に入ると 割拝殿のようにも見えます

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絵馬が飾られています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します

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拝殿から 社殿を右回りに参拝順路があり 境内社が祀られています

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裏手には門があり 社務所側へと出られます

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又 社殿を一周すると 再び正面に出ます

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 住吉神社所在について 賀東郡 喜多島村〈現 小野住吉神社(小野市垂井町)
別説には 宮脇村と記されています

【抜粋意訳】

住吉神社

住吉は 須美乃江と訓べし
〇祭神 詳ならず 住吉朝臣の祖神歟
〇賀東郡 喜多島村に在す
例祭 六月丗日、九月九日
〇旧事記 国造本記 針間鴨国造、上毛野同祖、姓氏録、住吉朝臣、上毛野朝臣同祖、豊城入彦命 五世孫多奇波世君之後也

式社記に、宮脇にあり云り、國圖を見るに、奇多島、宮脇両村相隣れり、さて同社の事か國人に尋ねて憶に定むべし

類社 摂津国住吉郡 住吉坐神社の條すべし

社領 高十石

氏人
續日本紀
延暦十年(七九一)四月乙未〉(辛卯朔五)の条
○夏四月乙未
近衛将監従五位下兼常陸大掾池原公綱主等言。池原。上毛野二氏之先。出自豊城入彦命。其入彦命子孫。東国六腹朝臣。各因居地。賜姓命氏。斯乃古今所同。百王不易也。伏望因居地名。蒙賜住吉朝臣。勅綱主兄弟二人。依請賜之

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 住吉神社所在について 喜多村 住吉明神〈現 小野住吉神社(小野市垂井町)〉と記しています

【抜粋意訳】

神祇志料 巻十八 播磨國 賀茂八座 並小

住吉神社

今、加東郡 垂井庄 古は河内庄と云ふ 喜多村にあり、住吉明神と云ふ 盖 住吉大神祭る
〇按 播磨風土記云、昔 住吉大神 河内里に到坐時、御伴の神等 人の苅置る草を敷物とせるを、草主愁訴へけるに、大神汝か田苗は草を敷ねと、敷が如くに生なんと詔ひき、故今も此村は草を敷ずして苗代を作る、と云ふ事みたり、是に拠りて思ふに、蘆上古大神経歴の地なるを以て之を祭る歟、姑附て考に備ふ

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 住吉神社所在について 宮脇村 喜多島村 垂井〈現 小野住吉神社(小野市垂井町)
久保木村 西寺内村にも同名の社があると記しています 

【抜粋意訳】

住吉神社

祭神
底筒之男
中筒之男
表筒之男

今按〈今考えるに〉
播磨風土記 賀毛郡 河内里 上中下 右田川焉名 此里の田不敷草下苗子所以然者 住吉大神上坐之時 食於 此村両従神等 人苅置草解散為坐両時大患訴於大明判云 汝田苗者必 雖不敷草如敷草生 故其村 田干 今不敷草作苗代とある所縁によりて此 大神を祭れるものなる事著し

祭日 四月三日
社格 郷社

所在 宮脇(明細帳に垂井村字宮の上)(加東郡下東條村大字垂井)
今按〈今考えるに〉
播磨事始 神社覈録 共に喜多島村とあり 注進状元和中の文書に此村垂井村と記せり 今の社地は宮脇島村 太郎大夫三村の境にて 垂井住吉神社唱来りしを明治六年より宮脇村地所となる 今に山田村を河内の山田と云ふ 播磨鑑に 上古 此地を河内庄と云しか 近代 垂井庄と改むとあり 上に引る風土記の文と合せ考べし 久保木村 西寺内村にも同名の社ありと云へども證なければとらず

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

住吉神社(小野市垂井町)に (hai)」(90度のお辞儀)

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播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について に戻る

 

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-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
-,

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