住吉神社(鴨居瀬)(対馬市美津島町鴨居瀬字住吉)

住吉神社(すみよしじんじゃ)は 九州から対馬島へと渡る゛鴨(かも)と云う名の小舟゛が着く゛鴨居瀬(かもいせ)゛に鎮座します 山幸彦命(やまさちひこのみこと)と 豊玉姫命(とよたまひめのみこと)の出産故事 日本の皇室の歴史の始まりを造った神の生誕を祀る霊験あらたかな地です 後世になり 神功皇后(じんぐうこうごう)が その故事に倣い 行宮とされて 住吉三柱神を祀ったのが 神社としての始まりとされています

目次

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ご紹介(Introduction)

【神社名】(shrine name)

住吉神社(Sumiyoshi Shrine
(すみよしじんじゃ

【通称名】(Common name)

『鴨(kamo)』と『鰐(wani)』は 船の呼び名ですが 
日本神話には たびたび登場する名で 日本の創成期の一面が伝えられているような気がします

その様子の想像図です 赤い印が「住吉神社(鴨居瀬)」で 黄色の線が航路です

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【古代大陸航路の概要】「九州⇔壱岐⇔対馬 ⇔済州島⇔半島⇔大陸」について 判り易いように
参照の「GoogleMap」を作成しましたのでご参照

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』の所載について

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』の西海道(九州地方)に所載されているのは「107座の神」
そのうち対馬(tsushima)は 九州最多の「名神大社6座 小社23座の計29座の神」 二番目に多いのは 壱岐(iki)の24社で 2島で約半分を占めています

この多さは 神の坐する島であったことを物語っています 当社は 対馬(tsu shima)の中でも 名神大社6座の一つに入る神社です

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』に所載 

 對馬嶋 下縣郡  住吉神社 名神大
 tsushima shimotsu akata no gun  sumiyoshi no kaminoyashiro

現在 「下縣郡  住吉神社 名神大」は 論社が 計2社あり
・(比定社)住吉神社(鶏知)  対馬市美津島町鷄知
・(論 社)住吉神社(鴨居瀬) 対馬市美津島町鴨居瀬 (当社)

どちらが本来の 延喜式に記載された式内社であるかについては 古くから論争があるようですが 論点は次の通りです

式内社の住吉神社とされる。
鴨居瀬の住吉神を遷すとある。
延喜時代(901年以前)の勧請と云うことだろう。・・・・

「鶏知(keichi)の住吉神社」の案内板より抜粋

意訳すれば

『 鶏知(keichi)の住吉神社は 式内社とされます 

 なぜならば 
 鴨居瀬(kamoi se)の住吉神社から 遷座はされていますが 
 その時期は 延喜式所載よりも以前のことですので

 所載された時には 鶏知(keichi)のことが 載せられています 』 としています

『対馬神社誌』などには 対馬の中心地が 後に 鶏知(keichi)に移っていった経緯があり 延喜式の調査の頃は そうであったからだろうと伝えています
いずれにしても 「鴨居瀬(kamoi se)住吉神社(sumiyoshi shrine)」が 元宮であって 古社であった事については まぎれもない事実の様です 

古代 大和と大陸を結ぶ航路の 玄関口であった対馬(tsushima)に
大和朝廷は 大陸への備えと守り神として 海神(wata tsumi)を斎き祀るべく 名神大社として『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』に所載した

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442211/160画像利用 国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 : 校訂. 上巻(昭和4至7)

”住吉神社”(すみよしじんじゃ)と住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉について

住吉神社 主に住吉三神を祀る神社で 日本全国に約2300社以上ある云われます

住吉三神とは 次の三柱神の総称 古来 航海の守護神として篤く信仰されてきている

底筒男命底筒之男命(そこつつののみこと)
・中筒男命中筒之男命(なかつつののみこと)
・表筒男命上筒之男命(うわつつののみこと)

住吉大神と号する場合は
住吉三神息長帯姫命神功皇后併せ祀ります

住吉三神は 日本神話に登場する航海の神
伊奘諾尊が 黄泉の国の穢れを清めるために 筑紫の日向の橘の小戸の檍原で禊をしたとき 水底で身をすすぐと底筒男命 水中では中筒男命 水上では表筒男命が このとき顕われたとされる

『古事記』では 水の底にもぐって 身を洗い清められる時に成った底筒之男命 水の中程で洗い清められる時に成った中筒之男命 水の表面で洗い清められる時に成った上筒之男命が それぞれ生まれます

その後『日本書紀』には 神功皇后の段に新羅征討の際に 神託・守護・先導などに深くかかわったと記されています

三柱〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉が 住吉三神と云われる理由について

福岡の現人神社〈博多 住吉神社と大阪 住吉大社の元宮とされる〉には 三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉が 住吉三神と云われるようになった理由を社伝で伝えています

「元々は 現人神〈筒男三神〉であったが 神功皇后が三韓征伐の時 神告により神田を定め 天神地祇に禱祈して 那珂川の水を引いた所が現人神社である
神功皇后が 大和への御帰還に際し 霊験な現人神〈筒男三神〉をご奉持され 眞住吉之国(住よい国)〈摂津(大阪)〉に祀らた為に住吉三神と称され始めます 筑前国一之宮 福岡の住吉宮も後にここより御分霊された 故に 全国津々浦々にある住吉三神の本津宮とされます」

住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉の「筒男(ツツノヲ)」の字義についての諸説

「筒男(ツツノヲ)」の字義についての諸説

①航海の神 ツツは夕月(ゆうづつ)のツツに通じ 夕方の月 宵の明星 星を指し 星は航海の指針に用いられることから
②海神を示す説
➂「津の男」に見る説
④「ツツ」を船の呪杖に見る説
➄船霊を納める筒に見る説
⑥対馬の豆酘(つつ)に関連し「豆酘の男」に見る説
➆航海に従った持衰の身を「ツツシム」に見る説

住吉神社の発祥について

現在 住吉神社の総本社は 一般的には 大阪府大阪市住吉区の住吉大社とされますが

下関の住吉神社は 住吉三神の荒魂(あらみたま)
大坂の住吉大社は 住吉三神の和魂(にぎみたま)は 神功皇后が三韓征伐の帰途に祀られた事が『日本書紀』に記されています

実際には 神功皇后の「三韓征伐」伝承とともに 西から順に 壱岐対馬〈長崎県〉から博多・下関・瀬戸内海を渡り 大坂の住吉大社へと分祀されたものとおもわれます
このため・壱岐の住吉神社・博多の住吉神社 や現人神社などは 住吉神社の発祥の地と称しています

『日本書紀』には 神功皇后の新羅征討の段に 次のように記されています

仲哀天皇の御代 熊襲 隼人など大和朝廷に反乱蜂起した時 神功皇后が神がかりして「まず三韓を征討せよ」との神託を得た しかし 仲哀天皇はこの神託に従わず 翌年崩御された
その翌月 再び神託を得た神功皇后は 自ら兵を率いて三韓へ征伐に向かう このとき 住吉大神の和魂が神功皇后の身辺を守り 荒魂は突風となり 神功皇后の船団を守護し 三韓をおおいに苦しめた
神功皇后は 三韓を平定し 凱旋の折 住吉三神の神託を得て 大神の荒魂(あらみたま)を穴門(山口県)山田邑(下関市)に奉斎します また 和魂(にぎみたま)を大津〈大きな港〉の渟中名倉の長峡〈現 大阪・住吉大社のある場所〉で 行き交う船を見守ると鎮めて 住吉大神を祀った

『延喜式神名帳(927年12月編纂)に所載される”住吉神社 七社(すみよしのかみのやしろ ななやしろについて

延喜式神名帳所載七国〈対馬・壱岐・筑前・長門・播磨・摂津・陸奥各々に七社住吉神社鎮座します

これ住吉七社(すみよしななしゃ/すみよししちしゃ)とも総称します

格式の高さが際立つ 住吉七社 

内訳は次の通り
住吉七社の内 一之宮が三国〈筑前・長門・摂津
住吉七社内 五社が名神大社〈対馬・壱岐・筑前・長門・摂津

『古事記』では「墨江之三前大神(すみのえのみまえのおほかみ)」と総称され
住吉の地名については 古くはスミノエと呼ばれ「住吉」「墨江」「清江」などと表記されましたが 平安時代以降は スミヨシとも呼ばれるようになったとされます
外交にまつわる航海の守護神として国家的な祭祀をうけていて 大和朝廷にとって特別な意義を有する神社でした
遣唐使時奉幣の祝詞や六国史には 遣唐使出発の際にこの神を祭ったことが見えています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)927年12月編纂〉に記される 住吉七社と その論社について

①對馬嶋 下縣郡
住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)

・住吉神社(対馬 鴨居瀬)

・鷄知住吉神社(対馬 鶏知)

➁壹岐嶋 壹岐郡
吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)

・住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)

➂筑前国 那珂郡
住吉神社 三座(並名神大)(すみよしの かみのやしろ みくら)

・住吉神社(博多区住吉)

・若久住吉神社(福岡市南区)

・現人神社(那珂川市)

④長門国 豊浦郡
住吉坐荒御魂神社三座(並名神大)(すみよしのあらみたまの かみのやしろ みくら)

・住吉神社(下関市)長門国一之宮

➄播磨国 賀茂郡
住吉神社(すみよしの かみのやしろ)

・上鴨川住吉神社(加東市上鴨川)

・住吉神社(加東市下久米)

・小野住吉神社(小野市垂井町)

・秋津住吉神社(加東市秋津)

⑥摂津国 住吉郡
住吉坐神社四座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(すみよしの かみのやしろ)(すみのえにます かみのやしろ)

・住吉大社(大阪市住吉区)摂津国一之宮

➆陸奥国 磐城郡
住吉神社(すみよし かみのやしろ)

・住吉神社(いわき市小名浜住吉)

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【神社にお詣り】(Pray at the shrine)

対馬空港から レンタカー 約16km程度です
国道382号線を北上して 美津島町小船越の先 分岐を鴨居瀬方向へ右折 住吉大橋を渡る手前に 案内看板があります 右折して坂を下り 海(川のように見えます)沿い に斜面を下って行き 岬の先端にむかいます

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沖島との間に架かる住吉大橋は 鴨居瀬(kamoi se)から沖島に渡っていて 長さ50mぐらいか??  
海と言えば 狭い水道ですが 川ならば大河の風です とても早い流れで「瀬戸」という意味が 身に染みて分かった場所でもあります

まさしく 禊から生まれた 住吉三神が祀られるのに ふさわしく この瀬戸が 住吉瀬戸・別名「紫瀬戸」とも言われている場所になります

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住吉瀬戸に接して 岬の先端の広さは幅30m程 平らな敷地があり 海水からの防護のため漁港のようにコンクリートで覆われています 
しかし 境内は 三方向を住吉瀬戸に囲まれていて 人工的な感じは一切なく 美しい瀬と入り江に呆然としてしまいます

ここで車を止めて 下車 お詣りです

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鴨居瀬(kamoi se)」に坐ます 住吉神社(sumiyoshi shrine)に到着

まるで 日の出とともに 東からくるものを 祓い清めるように鳥居は東面に 海へ向かって 建っています
目の前の激しい潮の流れは 海神(watatsumi)の御子神と住吉三柱神が 御祭神として 祀られていることを 肌で感じ取れます

海に向かい建っている鳥居の扁額には「住吉神社」とあり 鳥居の足元からは海に降りるように階段があります
おそらく正式な参拝は「船に乗って 海からの参拝なのでしょう 海水の中まで階段が続いています」

それではと 海水の際まで階段で下がり そこでしゃがんで 住吉瀬戸の早瀬の海水を手ですくい 手水をしまして お清めです 気持ちが良かったです

一礼 鳥居をくぐります

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正面に 拝殿があり 岬の高台に本殿が鎮座します
拝殿の手前 右手に「手水舎」 次に「石灯篭」「石鳥居」があり
一礼してくぐりますと 直ぐに「古そうな狛犬」がいて 会釈を差し上げておきます

境内は広くはありませんが 砂利が敷き詰められて 大切に綺麗に守られています

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つづいて 拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです 

本殿に鎮まる御祭神
・彦波瀲武鸕鷀草葺不合命=(初代 神武天皇の父神)
 (hiko nagisa take ukayafukiaezu no mikoto)

三筒男命(mitsu tsutsu no ono mikoto)=(住吉三柱の筒男神)
・底筒男命(sokotsutsu no o no mikoto)
・中筒男命(nakatsutsu no o no mikoto)
・表筒男命(uwatsutsu no o no mikoto)

守り祓い清め幸さ給えと ご神威に添い給うよう 畏れ敬い かん高い柏手を打ち 両手を合わせ 祈ります

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本殿を仰ぎ見たくて 拝殿の横に回りますと「碇の奉納物」や「境内由緒 掲示板」があり ひとしきり読みふけり さてと振り返ると 海=住吉瀬戸の早瀬が見渡せます

もう一度 海に向かう鳥居に戻ります

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暫し 呆然と眺めるばかりでした
これほどの 流れる海を 間近で見たことがあるだろうか?? 鳴門の渦 淡路の海峡や瀬戸内海の渦とも違い 長崎の大村湾から佐世保湾の間にある西海橋の海峡とも違います

透明度の高い 澄んだ水が 深く淀まず 流れ続けて 
リアス式の瀬は 山を縫う大河のようにも見えますが 色は海そのもの 入り江をぬけて流れゆく 海流の行くてには 外海が見えます

美しすぎで 何度も何度も 写真を撮りますが その長く雄大な景色は カメラの ちっぽけな枠には収まりません 流れる海イメージが判って貰えればと簡単な動画をとりました
鳥居から 社殿を振り返り 一礼

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【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)

「初代 神武天皇(jimmu tenno)の父神」が生まれた「鴨居瀬(kamoi se)」 

神社の由緒書きをよく読みますと 
どうやらこの地は 初代 神武天皇(jimmu tenno)の父神が お生まれの場所であると書かれています

御祭神「彦波瀲武鸕鷀草葺不合命=(初代 神武天皇の父神)」
   (hiko nagisa take ukayafukiaezu no mikoto)

彦火火出見命 津島海宮に降らせ給ひ 豊玉彦命の姫 豊玉姫を娶り、

海宮に住み給いしこと、三年 豊玉姫 胎妊の身となり
産室を此の地 柴瀬戸 神浦に造らしめ給ひて皇子 彦波瀲武鸕鷀草葺不合命の御誕生 御抱育し玉いし古跡なり

「境内由緒 掲示板」から抜粋(原文カタカナをひらがな文体に変更)

豊玉姫(toyotama hime)の出産の舞台は 一般的には 宮崎県にある鵜戸神宮(udo jingu)の岩窟が有名ですが

『古事記・日本書紀』にも「鴨居瀬(kamoi se)」のことが記載されています

それは「海幸彦と山幸彦(yamasachi hiko to umisachi hiko)」の段で語られます この段の概略をお話します

『山幸彦(yama sachi hiko)の子を身ごもった 豊玉姫(toyotama hime)は 「天孫の御子を海の中で産むことは出来ない」と言います

山幸彦(yama sachi hiko)は 産屋(ubu ya)を造り始め 鵜(u)の羽(ga)で 屋(ya)根を葺(fu)いていたが それが終わらないうちに 出産の時が近づきました
御子神のお名前「ひこなぎさ うがやふきあえず のみこと」は これに由来します

豊玉姫(toyotama hime)は「出産の時に 自分は本来の姿に戻るので 決して覗かないように」と伝えると 山幸彦(yama sachi hiko)は 約束をします

しかし 山幸彦(yama sachi hiko)は あまりに心配で つい覗いてしまいました 
すると「八尋和邇(yahiro no wani)=八丈もある長い鰐(wani)」が 出産の苦しみの最中であった

御子神(うがやふきあえず のみこと)は 無事産まれましたが
豊玉姫(toyotama hime)は 約束を破られ 恥ずかしい姿を見られ 恨みの言葉を残します

「海の道を通って これからも行き来して この子を育てようと 思っておりましたのに 
 わたくしの本性を見られたからには もうこの子のもとに帰れなくなってしまいました」と道を塞ぎ 海の国・竜宮へ帰ります

しかし 子どもを想い 豊玉姫(toyotama hime)は 妹の玉依姫(tamayori hime)を 乳母として遣わします』

この時に 豊玉姫(toyotama hime)と山幸彦(yama sachi hiko)が お互いの愛し合った想いを 詠んで歌に託します そのやり取りが この地をさしているのです

神話の続きは のちに 彦波瀲武鸕鷀草葺不合命(hiko nagisa take ukayafukiaezu no mikoto)と玉依姫(tamayori hime)の間に産まれたのが 初代「神武天皇(jimmu tenno)=(神日本磐余彦命(kamuyamato iwarehiko no mikoto)」であるとつづきます

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古事記(kojiki)

其歌曰、

阿加陀麻波 袁佐閇比迦禮杼 斯良多麻能 岐美何余曾比斯 多布斗久阿理祁理

爾其比古遲三字以音答歌曰、

意岐都登理 加毛度久斯麻邇 和賀韋泥斯 伊毛波和須禮士 余能許登碁登邇

故、日子穗穗手見命者、坐高千穗宮、伍佰捌拾歲。御陵者、卽在其高千穗山之西也。

「海幸彦と山幸彦(yamasachi hiko to umisachi hiko)」の段

意訳
『(豊玉姫(toyotama hime)は歌いました)
  赤い玉は 緒さぇ ひかれど 白玉の 君が 装いし 貴く ありけり
(赤子のことは 母なので 想わないことはありませんが それよりもさらに 白玉のような あなたのお姿の貴さが 恋しくてならない)

すると 山幸彦(yama sachi hiko)が答えて歌うには
 沖つ鳥 鴨着く島に 我が卒寝し 妹は忘れじ 世のことごと
(沖つとり 鴨(kamo)が着く島に 私と添い寝した妻のことを 忘れることなどできない この世に生きている限り)

日子穂穂手見命(hiko hohodemi no mikoto)は 高千穂の宮にいて国を治めること580歳におよびました 』

日本書紀(nihon shoki) 第十段一書(三)

【原文】
于時、彥火火出見尊、乃歌之曰、
飫企都鄧利 軻茂豆勾志磨爾 和我謂禰志 伊茂播和素邏珥 譽能據鄧馭㔁母
亦云、彥火火出見尊、取婦人爲乳母・湯母・及飯嚼・湯坐、凡諸部備行、以奉養焉。于時、權用他婦、以乳養皇子焉。此世取乳母、養兒之緣也。是後、豐玉姬、聞其兒端正、心甚憐重、欲復歸養。於義不可、故遣女弟玉依姬、以來養者也。于時、豐玉姬命、寄玉依姬而奉報歌曰、
阿軻娜磨廼 比訶利播阿利登 比鄧播伊珮耐 企弭我譽贈比志 多輔妬勾阿利計利

「意訳」 第十段一書(三)

『その時 彦火火出見尊(hiko hohodemi no mikoto)は歌いました

沖つ鳥 鴨着く島に 我が卒寝し 妹は忘れじ 世のことごとも
(沖つとり 鴨(kamo)が着く島に 私と添い寝した妻のことを 忘れることなどできない この世に生きている限り)

別伝によれば
「彦火火出見尊(hiko hohodemi no mikoto)」は 
 赤子に乳をあげる乳母 湯を飲ます湯母 ご飯を噛み柔らかくする飯嚼(iigami) 湯で洗う湯坐(yue bito)の女性を選び 子育ての役目を万事整えました
 このように 他の女性の役割を決めて 乳をやり 皇子を養育しました これが世の人が乳母に頼んで 子育てをする ようになった所以です

この後のことです 
豊玉姫(toyotama hime)は 自分の子が とてもかわいいと人づてに聞かれて 恋しいと気持ちが募り 我が子の元へと行って 育てたいと思うようになります 

しかし 義理が立ちませんので 妹の玉依姫(tamayori hime)を 乳母として遣わします 
その時に 豊玉姫(toyotama hime)は 妹の玉依姫(tamayori hime)に 返し歌を託しました

赤い玉は 光はありと 人言えど 君が 装いし 貴く ありけり
(赤子のことは 光のようにかわいいと人は言いますが それよりもさらに 白玉のような あなたのお姿の貴さが 恋しくてならない)』

『記紀神話』の「鴨(kamo)が着く島」とは 対馬の鴨居瀬(kamoi se)なのか

これを読み直しましたら 本当に 驚きました!!

神社の御由緒を知るまでは 歌の中の「沖つ鳥 鴨 着く島に・・」は 鳥の鴨(kamo)が飛んでくる 沖にある島だと思っていたのですが

なかなか合点がいきませんでした
山幸彦(yama sachi hiko)は 海の竜宮城に向かい 豊玉姫(toyotama hime)と夫婦になります
それなのに?? 鴨は飛ぶものなのに なぜ着くと表現するのかな? 九州の海の沖に飛んでくるのだろうか? 半島経由ならあり得るか! 
しかし海だぞ 汽水湖もないのに? でも海にいる鴨もいるしな と 色々と不思議に思っていましたが 
まあ 季語として鴨を入れて 季節感をだしているのか? 
神話でもあるし 多少道理が通らないこともあるのかと なんとなく納得していたのですが 

けれども もしもですが これなら合点がいくのです

「意岐都登理(oki tsu tori)=沖つ(oki tsu)鳥(tori)」の訳が
「壱岐津通り(iki tsu tori) 鴨(kamo) 着く島に」だとする
なんと 九州からやってくる小型船『鴨(kamo)』の航路で 壱岐(iki)に寄港して 対馬(tsushima)の鴨居瀬(kamoi se)なのかと 仰天です

山幸彦(yama sachi hiko)が 対馬に向かった時 航路として『鴨(kamo)』が着いたところ だった?? 可能性は大きいと思います

対馬(tsushima)には 豊玉姫(toyotama hime)と山幸彦(yama sachi hiko)の伝説が残ります
山幸彦(yama sachi hiko)が しばらく忍び住んだ=忍ぶ=「のぶ」の美津島町濃部(nobu)があり 
竜宮城の和多都美神社(豊玉町仁位)があり
二柱の出逢った「玉の井」があり
六御前(mutsu no mimae)神社(豊玉町千尋藻)の御祭神は 山幸彦(yama sachi hiko)と御子神を養育した6人の乳母であり
などなど 他にもたくさんあります

この地 鴨居瀬(kamoi se)の住吉神社(sumiyoshi shrine)」で 

誕生したであろう御子神
 御祭神 彦波瀲武鸕鷀草葺不合命=(初代 神武天皇の父神)
     (hiko nagisa take ukayafukiaezu no mikoto)
の終焉について

日本書紀(nihon shoki)は 御祭神の終焉について 次のように語ります

久之彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊、崩於西洲之宮、因葬日向吾平山上陵。

意訳

『しばらくしてから 彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(hiko nagisa take ukayafukiaezu no mikoto)は 西洲之宮(nishi no shima no miya)で お亡くなられました 

そこで日向の吾平山(ahira no yama)の上にある稜に葬りました 』

つまり
「西洲之宮(nishi no shima no miya)」とは 「西の方角にある島=対馬(tsushima)」のお宮で亡くなられて 
「宮崎の吾平山(ahira no yama)=宮崎県にある鵜戸神宮(udo jingu)」に埋葬されたと言っています

鵜戸神宮(udo jingu)が 誕生地ではなく 埋葬地である可能性は高く
たぶん間違いなく 
竜宮城(ryu gu jo)にいた王女「豊玉姫(toyo tama hime)」が 出産を控えていた時 
産屋を造り始めて待ってくれている 愛する山幸彦(yama sachi hiko)のもとに向かった 

その浜こそ この地「鴨居瀬(kamoi se)」の「住吉神社(sumiyoshi shrine)」なのでしょう

古代 大陸との航海の神を祀り 日本の皇室の歴史の始まりを造った神を祀る

延喜式内社 名神大社 (engishikinaisha myojintaisha)
「鴨居瀬(kamoi se)」の「住吉神社(sumiyoshi shrine)」に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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『對馬嶋 式内社 29座(大6座・小23座)について』に戻る

【鎮座地】(location) 

長崎県対馬市美津島町鴨居瀬字住吉491

【地 図】(Google Map)

【延喜式神名帳】    「旧国名 郡 ・ 神社名」

(927年12月完成) The shrine record was completed in December 927 AD.
【engishiki jimmeicho】「old region name・shrine name」

 對馬嶋 下縣郡 住吉神社 名神大
 Tsushima shimotsu akata no Koori  Sumiyoshi no kaminoyashiro

【御祭神】(God's name to pray)

《主》彦波瀲武鸕鷀草葺不合命=(初代 神武天皇の父神)
  (hiko nagisa take ukayafukiaezu no mikoto)

《主》三筒男命(mitsu tsutsu no ono mikoto)=(住吉三柱の筒男神)

【御神格】(God's great power)

・海の神 Sea god
・海上安全 Maritime safety
・交通安全 Traffic safety 
・大漁満足 Good harvest and big catch
・商売繁盛 Wishing business prosperity
・等 etc

【格式】(Rules of dignity)

延喜式内社 名神大社 (engishikinaisha myojintaisha)

【創建】(Beginning of history)

創建は橿原の朝 = 創建は神武天皇の時代

【由緒】(history)

 社号 住吉神社 旧村社

祭神 彦波瀲武鸕鷀草葺不合命(神武天皇ノ父神)
   三筒男命(住吉神)

例祭日 旧暦 九月十二日 前夜祭
    九月十三日 御神幸祭 例祭

本社の創建は 橿原の朝にして 彦波瀲武鸕鷀草葺不合命 斎き祀りて 津口和多女御子神社と云い 

彦火火出見命 津島海宮に降らせ給ひ 豊玉彦命の姫 豊玉姫を娶り、
海宮に住み給いしこと、三年 豊玉姫 胎妊の身となり
産室を此の地 柴瀬戸 神浦に造らしめ給ひて 皇子 彦波瀲武鸕鷀草葺不合命の御誕生 御抱育し玉いし古跡なり 

神功皇后 三韓御征伐の時、海神を斎き祀り玉いしより 住吉神社と云いしなり。

延喜式神名帳所載 対馬島下縣郡 住吉神社 名神大の社なり 
舒明天皇弐年八月遣唐使 犬上耜の参拝あり 代々国司国主の崇敬あり 

治承四年対馬守源親光社殿ヲ補修す 
文治年 神社帳に津口和多女御子神社とし
貞享年 神社誌に柴瀬戸住吉大明神と云う、

明治三 庚午年十一月十四日 住吉大明神の社号を改め 和多女御子神社と稱せらる 
明治七年五月 十八日村社に列せらる
昭和十八年一月十一日神社 名変更を許可せられ住吉神社と号するに至れり。

「境内由緒 掲示板」から参照(原文カタカナをひらがな文体に変更)

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【この神社の予備知識】(Preliminary knowledge of this shrine)

住吉神社(sumiyoshi shrine)とは 主に住吉三神を祀る神社で 日本全国に約600社も あると言われています

「住吉七社(sumiyoshi nana sha)」は 住吉神社のなかでも 由緒があり 格式の高いと云われ
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』の七か国「対馬(tsushima)・壱岐・筑前・長門・播磨・摂津・陸奥」に所載されています

更に 霊験あらたかな「名神大社 (myojin taisha)」は5社のみとなります
当社はその一つで「對馬嶋 下縣郡 住吉神社 名神大(tsushima shimotsu akata no gun  sumiyoshi no kaminoyashiro)」になります

由緒のある格式の高い神社ですので 改めて 境内の掲示版を説明します

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『当社の創建は 神武天皇(jimmu tenno)の時代です その後代々の国司国主の崇敬を受けてきました

御祭神は 「彦波瀲武鸕鷀草葺不合命=(初代 神武天皇の父神)」
   (hiko nagisa take ukayafukiaezu no mikoto)を祀り

当初は「津口和多女御子神社(tsu no kuchi wata me no miko shrine)」と呼ばれ
「彦火火出見命(hiko hohodemi no mikoto)=山幸彦(yama sachi hiko)」が 対馬(tsushima)の「海宮(watatsumi no miya)=竜宮城(ryugu jo)」に降臨されてから

豊玉彦命(海人族の王様)の姫「豊玉姫(toyotama hime)」と夫婦になって 3年間「竜宮城(ryugu jo)」に住まわれた
豊玉姫(toyotama hime)が 胎妊の身となられ 産屋(ubu ya)をこの地の柴瀬戸・神浦に造らせた

皇子の「彦波瀲武鸕鷀草葺不合命=(初代 神武天皇の父神)」が 御誕生され 大切に抱き育てられた古跡である

それから 時代が降って 
この地は 神功皇后(jingu kogo)が 三韓征伐時の折に 霊験あらたかであって 行宮とされていた そして「住吉の神を祀り」 住吉神社(sumiyoshi shrine)と呼ばれるようになったと伝わります

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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)

『鴨(kamo)』と『鰐(wani)』の行き交う「鴨居瀬(kamoi se)」について

鴨居瀬(kamoi se)は 住吉神社(sumiyoshi shrine)が 祀られているので かつて住吉瀬戸・神浦と呼ばれていました
入り江には 紫色のサンゴが自生して 万葉集に「紫瀬戸」と称えられている景勝地でもあります

この対馬中央部の海岸は リアス式海岸で たくさんの入江がありますが その中でも「鴨居瀬(kamoi se)」は 特別の意味を持っています

対馬(tsushima)は 古代から 大和と大陸を繋ぐ 我が国の玄関口として 航路の重要拠点です

その航路は 
九州と対馬は 対馬(tsushima) ⇔ 壱岐(iki) ⇔ 唐津(kara tsu) ⇔ 本土九州
対馬と大陸は 対馬(tsushima) ⇔ 済州島(Jeju Island)もしくは朝鮮半島(Korean Peninsula)経由 で大陸へと渡ります

当時 使われていた船は 
・九州⇒壱岐島⇒対馬へは 小舟を使い これを『鴨(kamo)』と呼び
・対馬⇒済州島⇒大陸へは 大船を使い これを『鰐(wani)』と呼び

九州からの小型船『鴨(kamo)』が 対馬東海岸の この地(神社の反対 北側の鴨居瀬港)に入港していたので「鴨居瀬(kamoi se)」と呼ばれます

日本本土からやってきた 小型船『鴨(kamo)』は まず鴨居瀬(kamoi se)に着きます 
その後 海岸沿いに 小船越へ向かい 小船越に着くと 

比較的小さな船は 陸揚げして対岸へ運ばれる
比較的大きな船は 人と荷物を陸揚げして 対岸で 別の船に乗り換えます
小型船『鴨(kamo)』は 地曳いて100m程度の陸越え 東西の浦を行き来していたので「小船越(kofuna koshi)」という地名になったといいます

そして「西漕手」から 大型船『鰐(wani)』に乗り換え南に向かう 
あるいは『鴨(kamo)』が北上して 大型船『鰐(wani)』の待つ「鰐浦(wani ura)」で風待ちをしてから 済州島(Jeju Island)・朝鮮半島(Korean Peninsula)経由で大陸を目指したといいます

半島・大陸から戻ってくる船は 逆の行程を辿ることになり
つまり 鴨居瀬(kamoi se)は 大陸と九州との航路では 必ず立ち寄る重要な港だったわけです

『鴨(kamo)』と『鰐(wani)』は 船の呼び名ですが 
日本神話には たびたび登場する名で 日本の創成期の一面が伝えられているような気がします

その様子の想像図です 赤い印が「住吉神社(鴨居瀬)」で 黄色の線が航路です

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【古代大陸航路の概要】「九州⇔壱岐⇔対馬 ⇔済州島⇔半島⇔大陸」について 判り易いように
参照の「GoogleMap」を作成しましたのでご参照

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』の所載について

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』の西海道(九州地方)に所載されているのは「107座の神」
そのうち対馬(tsushima)は 九州最多の「名神大社6座 小社23座の計29座の神」 二番目に多いのは 壱岐(iki)の24社で 2島で約半分を占めています

この多さは 神の坐する島であったことを物語っています 当社は 対馬(tsu shima)の中でも 名神大社6座の一つに入る神社です

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』に所載 

 對馬嶋 下縣郡  住吉神社 名神大
 tsushima shimotsu akata no gun  sumiyoshi no kaminoyashiro

現在 「下縣郡  住吉神社 名神大」は 論社が 計2社あり
・(比定社)住吉神社(鶏知)  対馬市美津島町鷄知
・(論 社)住吉神社(鴨居瀬) 対馬市美津島町鴨居瀬 (当社)

どちらが本来の 延喜式に記載された式内社であるかについては 古くから論争があるようですが 論点は次の通りです

式内社の住吉神社とされる。
鴨居瀬の住吉神を遷すとある。
延喜時代(901年以前)の勧請と云うことだろう。・・・・

「鶏知(keichi)の住吉神社」の案内板より抜粋

意訳すれば

『 鶏知(keichi)の住吉神社は 式内社とされます 

 なぜならば 
 鴨居瀬(kamoi se)の住吉神社から 遷座はされていますが 
 その時期は 延喜式所載よりも以前のことですので

 所載された時には 鶏知(keichi)のことが 載せられています 』 としています

『対馬神社誌』などには 対馬の中心地が 後に 鶏知(keichi)に移っていった経緯があり 延喜式の調査の頃は そうであったからだろうと伝えています
いずれにしても 「鴨居瀬(kamoi se)住吉神社(sumiyoshi shrine)」が 元宮であって 古社であった事については まぎれもない事実の様です 

古代 大和と大陸を結ぶ航路の 玄関口であった対馬(tsushima)に
大和朝廷は 大陸への備えと守り神として 海神(wata tsumi)を斎き祀るべく 名神大社として『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』に所載した

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442211/160画像利用 国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 : 校訂. 上巻(昭和4至7)

”住吉神社”(すみよしじんじゃ)と住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉について

住吉神社 主に住吉三神を祀る神社で 日本全国に約2300社以上ある云われます

住吉三神とは 次の三柱神の総称 古来 航海の守護神として篤く信仰されてきている

底筒男命底筒之男命(そこつつののみこと)
・中筒男命中筒之男命(なかつつののみこと)
・表筒男命上筒之男命(うわつつののみこと)

住吉大神と号する場合は
住吉三神息長帯姫命神功皇后併せ祀ります

住吉三神は 日本神話に登場する航海の神
伊奘諾尊が 黄泉の国の穢れを清めるために 筑紫の日向の橘の小戸の檍原で禊をしたとき 水底で身をすすぐと底筒男命 水中では中筒男命 水上では表筒男命が このとき顕われたとされる

『古事記』では 水の底にもぐって 身を洗い清められる時に成った底筒之男命 水の中程で洗い清められる時に成った中筒之男命 水の表面で洗い清められる時に成った上筒之男命が それぞれ生まれます

その後『日本書紀』には 神功皇后の段に新羅征討の際に 神託・守護・先導などに深くかかわったと記されています

三柱〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉が 住吉三神と云われる理由について

福岡の現人神社〈博多 住吉神社と大阪 住吉大社の元宮とされる〉には 三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉が 住吉三神と云われるようになった理由を社伝で伝えています

「元々は 現人神〈筒男三神〉であったが 神功皇后が三韓征伐の時 神告により神田を定め 天神地祇に禱祈して 那珂川の水を引いた所が現人神社である
神功皇后が 大和への御帰還に際し 霊験な現人神〈筒男三神〉をご奉持され 眞住吉之国(住よい国)〈摂津(大阪)〉に祀らた為に住吉三神と称され始めます 筑前国一之宮 福岡の住吉宮も後にここより御分霊された 故に 全国津々浦々にある住吉三神の本津宮とされます」

住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉の「筒男(ツツノヲ)」の字義についての諸説

「筒男(ツツノヲ)」の字義についての諸説

①航海の神 ツツは夕月(ゆうづつ)のツツに通じ 夕方の月 宵の明星 星を指し 星は航海の指針に用いられることから
②海神を示す説
➂「津の男」に見る説
④「ツツ」を船の呪杖に見る説
➄船霊を納める筒に見る説
⑥対馬の豆酘(つつ)に関連し「豆酘の男」に見る説
➆航海に従った持衰の身を「ツツシム」に見る説

住吉神社の発祥について

現在 住吉神社の総本社は 一般的には 大阪府大阪市住吉区の住吉大社とされますが

下関の住吉神社は 住吉三神の荒魂(あらみたま)
大坂の住吉大社は 住吉三神の和魂(にぎみたま)は 神功皇后が三韓征伐の帰途に祀られた事が『日本書紀』に記されています

実際には 神功皇后の「三韓征伐」伝承とともに 西から順に 壱岐対馬〈長崎県〉から博多・下関・瀬戸内海を渡り 大坂の住吉大社へと分祀されたものとおもわれます
このため・壱岐の住吉神社・博多の住吉神社 や現人神社などは 住吉神社の発祥の地と称しています

『日本書紀』には 神功皇后の新羅征討の段に 次のように記されています

仲哀天皇の御代 熊襲 隼人など大和朝廷に反乱蜂起した時 神功皇后が神がかりして「まず三韓を征討せよ」との神託を得た しかし 仲哀天皇はこの神託に従わず 翌年崩御された
その翌月 再び神託を得た神功皇后は 自ら兵を率いて三韓へ征伐に向かう このとき 住吉大神の和魂が神功皇后の身辺を守り 荒魂は突風となり 神功皇后の船団を守護し 三韓をおおいに苦しめた
神功皇后は 三韓を平定し 凱旋の折 住吉三神の神託を得て 大神の荒魂(あらみたま)を穴門(山口県)山田邑(下関市)に奉斎します また 和魂(にぎみたま)を大津〈大きな港〉の渟中名倉の長峡〈現 大阪・住吉大社のある場所〉で 行き交う船を見守ると鎮めて 住吉大神を祀った

『延喜式神名帳(927年12月編纂)に所載される”住吉神社 七社(すみよしのかみのやしろ ななやしろについて

延喜式神名帳所載七国〈対馬・壱岐・筑前・長門・播磨・摂津・陸奥各々に七社住吉神社鎮座します

これ住吉七社(すみよしななしゃ/すみよししちしゃ)とも総称します

格式の高さが際立つ 住吉七社 

内訳は次の通り
住吉七社の内 一之宮が三国〈筑前・長門・摂津
住吉七社内 五社が名神大社〈対馬・壱岐・筑前・長門・摂津

『古事記』では「墨江之三前大神(すみのえのみまえのおほかみ)」と総称され
住吉の地名については 古くはスミノエと呼ばれ「住吉」「墨江」「清江」などと表記されましたが 平安時代以降は スミヨシとも呼ばれるようになったとされます
外交にまつわる航海の守護神として国家的な祭祀をうけていて 大和朝廷にとって特別な意義を有する神社でした
遣唐使時奉幣の祝詞や六国史には 遣唐使出発の際にこの神を祭ったことが見えています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)927年12月編纂〉に記される 住吉七社と その論社について

①對馬嶋 下縣郡
住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)

・住吉神社(対馬 鴨居瀬)

・鷄知住吉神社(対馬 鶏知)

➁壹岐嶋 壹岐郡
吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)

・住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)

➂筑前国 那珂郡
住吉神社 三座(並名神大)(すみよしの かみのやしろ みくら)

・住吉神社(博多区住吉)

・若久住吉神社(福岡市南区)

・現人神社(那珂川市)

④長門国 豊浦郡
住吉坐荒御魂神社三座(並名神大)(すみよしのあらみたまの かみのやしろ みくら)

・住吉神社(下関市)長門国一之宮

➄播磨国 賀茂郡
住吉神社(すみよしの かみのやしろ)

・上鴨川住吉神社(加東市上鴨川)

・住吉神社(加東市下久米)

・小野住吉神社(小野市垂井町)

・秋津住吉神社(加東市秋津)

⑥摂津国 住吉郡
住吉坐神社四座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(すみよしの かみのやしろ)(すみのえにます かみのやしろ)

・住吉大社(大阪市住吉区)摂津国一之宮

➆陸奥国 磐城郡
住吉神社(すみよし かみのやしろ)

・住吉神社(いわき市小名浜住吉)

【神社にお詣り】(Pray at the shrine)

対馬空港から レンタカー 約16km程度です
国道382号線を北上して 美津島町小船越の先 分岐を鴨居瀬方向へ右折 住吉大橋を渡る手前に 案内看板があります 右折して坂を下り 海(川のように見えます)沿い に斜面を下って行き 岬の先端にむかいます

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沖島との間に架かる住吉大橋は 鴨居瀬(kamoi se)から沖島に渡っていて 長さ50mぐらいか??  
海と言えば 狭い水道ですが 川ならば大河の風です とても早い流れで「瀬戸」という意味が 身に染みて分かった場所でもあります

まさしく 禊から生まれた 住吉三神が祀られるのに ふさわしく この瀬戸が 住吉瀬戸・別名「紫瀬戸」とも言われている場所になります

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住吉瀬戸に接して 岬の先端の広さは幅30m程 平らな敷地があり 海水からの防護のため漁港のようにコンクリートで覆われています 
しかし 境内は 三方向を住吉瀬戸に囲まれていて 人工的な感じは一切なく 美しい瀬と入り江に呆然としてしまいます

ここで車を止めて 下車 お詣りです

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鴨居瀬(kamoi se)」に坐ます 住吉神社(sumiyoshi shrine)に到着

まるで 日の出とともに 東からくるものを 祓い清めるように鳥居は東面に 海へ向かって 建っています
目の前の激しい潮の流れは 海神(watatsumi)の御子神と住吉三柱神が 御祭神として 祀られていることを 肌で感じ取れます

海に向かい建っている鳥居の扁額には「住吉神社」とあり 鳥居の足元からは海に降りるように階段があります
おそらく正式な参拝は「船に乗って 海からの参拝なのでしょう 海水の中まで階段が続いています」

それではと 海水の際まで階段で下がり そこでしゃがんで 住吉瀬戸の早瀬の海水を手ですくい 手水をしまして お清めです 気持ちが良かったです

一礼 鳥居をくぐります

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正面に 拝殿があり 岬の高台に本殿が鎮座します
拝殿の手前 右手に「手水舎」 次に「石灯篭」「石鳥居」があり
一礼してくぐりますと 直ぐに「古そうな狛犬」がいて 会釈を差し上げておきます

境内は広くはありませんが 砂利が敷き詰められて 大切に綺麗に守られています

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つづいて 拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです 

本殿に鎮まる御祭神
・彦波瀲武鸕鷀草葺不合命=(初代 神武天皇の父神)
 (hiko nagisa take ukayafukiaezu no mikoto)

三筒男命(mitsu tsutsu no ono mikoto)=(住吉三柱の筒男神)
・底筒男命(sokotsutsu no o no mikoto)
・中筒男命(nakatsutsu no o no mikoto)
・表筒男命(uwatsutsu no o no mikoto)

守り祓い清め幸さ給えと ご神威に添い給うよう 畏れ敬い かん高い柏手を打ち 両手を合わせ 祈ります

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本殿を仰ぎ見たくて 拝殿の横に回りますと「碇の奉納物」や「境内由緒 掲示板」があり ひとしきり読みふけり さてと振り返ると 海=住吉瀬戸の早瀬が見渡せます

もう一度 海に向かう鳥居に戻ります

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暫し 呆然と眺めるばかりでした
これほどの 流れる海を 間近で見たことがあるだろうか?? 鳴門の渦 淡路の海峡や瀬戸内海の渦とも違い 長崎の大村湾から佐世保湾の間にある西海橋の海峡とも違います

透明度の高い 澄んだ水が 深く淀まず 流れ続けて 
リアス式の瀬は 山を縫う大河のようにも見えますが 色は海そのもの 入り江をぬけて流れゆく 海流の行くてには 外海が見えます

美しすぎで 何度も何度も 写真を撮りますが その長く雄大な景色は カメラの ちっぽけな枠には収まりません 流れる海イメージが判って貰えればと簡単な動画をとりました
鳥居から 社殿を振り返り 一礼

【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)

「初代 神武天皇(jimmu tenno)の父神」が生まれた「鴨居瀬(kamoi se)」 

神社の由緒書きをよく読みますと 
どうやらこの地は 初代 神武天皇(jimmu tenno)の父神が お生まれの場所であると書かれています

御祭神「彦波瀲武鸕鷀草葺不合命=(初代 神武天皇の父神)」
   (hiko nagisa take ukayafukiaezu no mikoto)

彦火火出見命 津島海宮に降らせ給ひ 豊玉彦命の姫 豊玉姫を娶り、

海宮に住み給いしこと、三年 豊玉姫 胎妊の身となり
産室を此の地 柴瀬戸 神浦に造らしめ給ひて皇子 彦波瀲武鸕鷀草葺不合命の御誕生 御抱育し玉いし古跡なり

「境内由緒 掲示板」から抜粋(原文カタカナをひらがな文体に変更)

豊玉姫(toyotama hime)の出産の舞台は 一般的には 宮崎県にある鵜戸神宮(udo jingu)の岩窟が有名ですが

『古事記・日本書紀』にも「鴨居瀬(kamoi se)」のことが記載されています

それは「海幸彦と山幸彦(yamasachi hiko to umisachi hiko)」の段で語られます この段の概略をお話します

『山幸彦(yama sachi hiko)の子を身ごもった 豊玉姫(toyotama hime)は 「天孫の御子を海の中で産むことは出来ない」と言います

山幸彦(yama sachi hiko)は 産屋(ubu ya)を造り始め 鵜(u)の羽(ga)で 屋(ya)根を葺(fu)いていたが それが終わらないうちに 出産の時が近づきました
御子神のお名前「ひこなぎさ うがやふきあえず のみこと」は これに由来します

豊玉姫(toyotama hime)は「出産の時に 自分は本来の姿に戻るので 決して覗かないように」と伝えると 山幸彦(yama sachi hiko)は 約束をします

しかし 山幸彦(yama sachi hiko)は あまりに心配で つい覗いてしまいました 
すると「八尋和邇(yahiro no wani)=八丈もある長い鰐(wani)」が 出産の苦しみの最中であった

御子神(うがやふきあえず のみこと)は 無事産まれましたが
豊玉姫(toyotama hime)は 約束を破られ 恥ずかしい姿を見られ 恨みの言葉を残します

「海の道を通って これからも行き来して この子を育てようと 思っておりましたのに 
 わたくしの本性を見られたからには もうこの子のもとに帰れなくなってしまいました」と道を塞ぎ 海の国・竜宮へ帰ります

しかし 子どもを想い 豊玉姫(toyotama hime)は 妹の玉依姫(tamayori hime)を 乳母として遣わします』

この時に 豊玉姫(toyotama hime)と山幸彦(yama sachi hiko)が お互いの愛し合った想いを 詠んで歌に託します そのやり取りが この地をさしているのです

神話の続きは のちに 彦波瀲武鸕鷀草葺不合命(hiko nagisa take ukayafukiaezu no mikoto)と玉依姫(tamayori hime)の間に産まれたのが 初代「神武天皇(jimmu tenno)=(神日本磐余彦命(kamuyamato iwarehiko no mikoto)」であるとつづきます

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古事記(kojiki)

其歌曰、

阿加陀麻波 袁佐閇比迦禮杼 斯良多麻能 岐美何余曾比斯 多布斗久阿理祁理

爾其比古遲三字以音答歌曰、

意岐都登理 加毛度久斯麻邇 和賀韋泥斯 伊毛波和須禮士 余能許登碁登邇

故、日子穗穗手見命者、坐高千穗宮、伍佰捌拾歲。御陵者、卽在其高千穗山之西也。

「海幸彦と山幸彦(yamasachi hiko to umisachi hiko)」の段

意訳
『(豊玉姫(toyotama hime)は歌いました)
  赤い玉は 緒さぇ ひかれど 白玉の 君が 装いし 貴く ありけり
(赤子のことは 母なので 想わないことはありませんが それよりもさらに 白玉のような あなたのお姿の貴さが 恋しくてならない)

すると 山幸彦(yama sachi hiko)が答えて歌うには
 沖つ鳥 鴨着く島に 我が卒寝し 妹は忘れじ 世のことごと
(沖つとり 鴨(kamo)が着く島に 私と添い寝した妻のことを 忘れることなどできない この世に生きている限り)

日子穂穂手見命(hiko hohodemi no mikoto)は 高千穂の宮にいて国を治めること580歳におよびました 』

日本書紀(nihon shoki) 第十段一書(三)

【原文】
于時、彥火火出見尊、乃歌之曰、
飫企都鄧利 軻茂豆勾志磨爾 和我謂禰志 伊茂播和素邏珥 譽能據鄧馭㔁母
亦云、彥火火出見尊、取婦人爲乳母・湯母・及飯嚼・湯坐、凡諸部備行、以奉養焉。于時、權用他婦、以乳養皇子焉。此世取乳母、養兒之緣也。是後、豐玉姬、聞其兒端正、心甚憐重、欲復歸養。於義不可、故遣女弟玉依姬、以來養者也。于時、豐玉姬命、寄玉依姬而奉報歌曰、
阿軻娜磨廼 比訶利播阿利登 比鄧播伊珮耐 企弭我譽贈比志 多輔妬勾阿利計利

「意訳」 第十段一書(三)

『その時 彦火火出見尊(hiko hohodemi no mikoto)は歌いました

沖つ鳥 鴨着く島に 我が卒寝し 妹は忘れじ 世のことごとも
(沖つとり 鴨(kamo)が着く島に 私と添い寝した妻のことを 忘れることなどできない この世に生きている限り)

別伝によれば
「彦火火出見尊(hiko hohodemi no mikoto)」は 
 赤子に乳をあげる乳母 湯を飲ます湯母 ご飯を噛み柔らかくする飯嚼(iigami) 湯で洗う湯坐(yue bito)の女性を選び 子育ての役目を万事整えました
 このように 他の女性の役割を決めて 乳をやり 皇子を養育しました これが世の人が乳母に頼んで 子育てをする ようになった所以です

この後のことです 
豊玉姫(toyotama hime)は 自分の子が とてもかわいいと人づてに聞かれて 恋しいと気持ちが募り 我が子の元へと行って 育てたいと思うようになります 

しかし 義理が立ちませんので 妹の玉依姫(tamayori hime)を 乳母として遣わします 
その時に 豊玉姫(toyotama hime)は 妹の玉依姫(tamayori hime)に 返し歌を託しました

赤い玉は 光はありと 人言えど 君が 装いし 貴く ありけり
(赤子のことは 光のようにかわいいと人は言いますが それよりもさらに 白玉のような あなたのお姿の貴さが 恋しくてならない)』

『記紀神話』の「鴨(kamo)が着く島」とは 対馬の鴨居瀬(kamoi se)なのか

これを読み直しましたら 本当に 驚きました!!

神社の御由緒を知るまでは 歌の中の「沖つ鳥 鴨 着く島に・・」は 鳥の鴨(kamo)が飛んでくる 沖にある島だと思っていたのですが

なかなか合点がいきませんでした
山幸彦(yama sachi hiko)は 海の竜宮城に向かい 豊玉姫(toyotama hime)と夫婦になります
それなのに?? 鴨は飛ぶものなのに なぜ着くと表現するのかな? 九州の海の沖に飛んでくるのだろうか? 半島経由ならあり得るか! 
しかし海だぞ 汽水湖もないのに? でも海にいる鴨もいるしな と 色々と不思議に思っていましたが 
まあ 季語として鴨を入れて 季節感をだしているのか? 
神話でもあるし 多少道理が通らないこともあるのかと なんとなく納得していたのですが 

けれども もしもですが これなら合点がいくのです

「意岐都登理(oki tsu tori)=沖つ(oki tsu)鳥(tori)」の訳が
「壱岐津通り(iki tsu tori) 鴨(kamo) 着く島に」だとする
なんと 九州からやってくる小型船『鴨(kamo)』の航路で 壱岐(iki)に寄港して 対馬(tsushima)の鴨居瀬(kamoi se)なのかと 仰天です

山幸彦(yama sachi hiko)が 対馬に向かった時 航路として『鴨(kamo)』が着いたところ だった?? 可能性は大きいと思います

対馬(tsushima)には 豊玉姫(toyotama hime)と山幸彦(yama sachi hiko)の伝説が残ります
山幸彦(yama sachi hiko)が しばらく忍び住んだ=忍ぶ=「のぶ」の美津島町濃部(nobu)があり 
竜宮城の和多都美神社(豊玉町仁位)があり
二柱の出逢った「玉の井」があり
六御前(mutsu no mimae)神社(豊玉町千尋藻)の御祭神は 山幸彦(yama sachi hiko)と御子神を養育した6人の乳母であり
などなど 他にもたくさんあります

この地 鴨居瀬(kamoi se)の住吉神社(sumiyoshi shrine)」で 

誕生したであろう御子神
 御祭神 彦波瀲武鸕鷀草葺不合命=(初代 神武天皇の父神)
     (hiko nagisa take ukayafukiaezu no mikoto)
の終焉について

日本書紀(nihon shoki)は 御祭神の終焉について 次のように語ります

久之彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊、崩於西洲之宮、因葬日向吾平山上陵。

意訳

『しばらくしてから 彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(hiko nagisa take ukayafukiaezu no mikoto)は 西洲之宮(nishi no shima no miya)で お亡くなられました 

そこで日向の吾平山(ahira no yama)の上にある稜に葬りました 』

つまり
「西洲之宮(nishi no shima no miya)」とは 「西の方角にある島=対馬(tsushima)」のお宮で亡くなられて 
「宮崎の吾平山(ahira no yama)=宮崎県にある鵜戸神宮(udo jingu)」に埋葬されたと言っています

鵜戸神宮(udo jingu)が 誕生地ではなく 埋葬地である可能性は高く
たぶん間違いなく 
竜宮城(ryu gu jo)にいた王女「豊玉姫(toyo tama hime)」が 出産を控えていた時 
産屋を造り始めて待ってくれている 愛する山幸彦(yama sachi hiko)のもとに向かった 

その浜こそ この地「鴨居瀬(kamoi se)」の「住吉神社(sumiyoshi shrine)」なのでしょう

 

古代 大陸との航海の神を祀り 日本の皇室の歴史の始まりを造った神を祀る

延喜式内社 名神大社 (engishikinaisha myojintaisha)
「鴨居瀬(kamoi se)」の「住吉神社(sumiyoshi shrine)」に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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