住吉神社(対馬 鶏知)

住吉神社(すみよしじんじゃ)は 『延喜式神名帳(927年12月編纂)所載の「對馬嶋 下縣郡 住吉神社 名神大」の論社です 式内社の「住吉神社」は もともとは 鴨居瀬(カモイセ)に鎮座し それを後に 鶏知(ケチ)に遷座したのは確かです しかし 遷座の時期は古く 一説には〈延喜式(927年)制定の前とも伝わり 制定時はすでに鶏知(ケチ)に遷座していた〉ともあり 双方が式内社であるとしています

目次

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

住吉神社Sumiyoshi Shrine)
(すみよしじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

長崎県対馬市美津島町鶏知甲1281

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》彦波瀲武鵜茅草葺不合尊Hiko Nagisatake Ugayafukiaezu no mikoto)
《配》豊玉姫命Toyotamahime no mikoto)
   玉依姫命Tamayorihime no mikoto)

 

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

 

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社(名神大)

 

【創  (Beginning of history)】

・不詳

航海神・ツツノオ三神(住吉三神) 

【日本神話】 ツツノオ

ツツノオ(筒男)はイザナギの禊により出現した海神です。
瀬の深みで清めると
ソコツツノオ(底)が、中間ではナカツツノオ(中)が、表面ではウワツツノオ(表)が誕生したとされます。
その際、
同じく海神であるソコツワタツミ、ナカツワタツミ、ウワツワタツミも生まれています。
(イザナギ・イザナミにより生み出されたオオワタツミとは別神であり、また宗像三神とも異なる系統の海神です)
ツツノオ三神は、神功(じんぐう)皇后に神託を下した神として皇室において重要視され、また航海の守護神として、遣隋使や遣唐使の派遣の際にも篤く崇敬されていました。総本社は住吉(大阪)にあり、住吉三神とも呼ばれています。

【対馬の伝承】 
延喜式に、対馬島下県(しもあがた)郡の名神大社・住吉神社の記録がありますが、対馬ではツツノオはほとんど活躍しません。対馬は大陸航路の拠点であり、国家神であるツツノオ三神を無視したとは考えにくいのですが、豊玉姫など異なる系列の海神信仰が濃厚で、その影に隠れてしまったのかもしれません。
ツツノオの名前の由来は、航海の目印となる星を意味する古語「ツツ」、対馬南部の豆酘(つつ)などいくつもの説があります。

コラム 住吉神社の分布
延喜式に記録された名神大社・住吉神社は、住吉(大阪府)、下関(山口県)、博多(福岡県)、壱岐、対馬(どちらも長崎県)に鎮座しています。 遣隋使や遣唐使の派遣の際には、まず大阪で安全祈願祭を行い、瀬戸内海を渡ると下関、外海に出て博多、玄海灘を越えて壱岐、そして対馬で最後の祈願祭を行い、はるかな中国へと旅立っていきました。
対馬近海は、自然の猛威や異国との緊張に満ち、神頼みをしなければ越えられない海域であり、住吉三神は朝鮮半島へとつながる大陸航路を守護すべく配置されていたのです。

なお、対馬の住吉神社は古い時代に、鴨居瀬(対馬市美津島町)から鶏知(同町)に移祭したと伝わり、鴨居瀬を元宮、鶏知を新宮と呼びます。移祭の時期は不明で、どちらが延喜式に記載された式内社であるかは、古くから論争があったようです。

『対馬神社ガイドブック』~神話の源流への旅~より抜粋
〈一般社団法人 対馬観光物産協会 2017/3出版〉『対馬神社ガイドブック』~神話の源流への旅~より抜粋1
http://blog.kacchell-tsushima.net/?eid=221

【由  (History)】

『対馬神社ガイドブック』~神話の源流への旅~

住吉神社 (鶏知)けち
すみよしじんじゃ

周辺の雰囲気・環境など
美津島町 鶏知(けち。正字は「雞」)は 近年、国道382号線沿いに大型スーパーやホームセンターが立ち並び、商業地として発展しています。
古くは神功皇后が、鶏が鳴いたことでこの地に集落があることを知った(鶏知)という由来を伝える集落です。

神社のプロフィール
現在、社殿は内陸にありますが、傍を流れる鶏知川は 対馬海峡 東水道に面する高浜に注ぎ、北は 浅茅湾につながる海上交通の拠点でした。
住吉神社は 本来、ツツノオ三神を祭るはずですが、ウガヤフキアエズや豊玉姫などの海神が祭られています。

『対馬神社ガイドブック』~神話の源流への旅~より抜粋
〈一般社団法人 対馬観光物産協会 2017/3出版〉『対馬神社ガイドブック』~神話の源流への旅~より抜粋2
http://blog.kacchell-tsushima.net/?eid=221

【境内社 (Other deities within the precincts)】

本殿の脇宮 和多都美神社(Watatsumi Shrine)

《主》底津綿津見神(sokotsu watatsumi no kami)
   中津綿津見神(nakatsu watatsumi no kami) 
   表津綿津見神(uwatsu watatsumi no kami) 

この脇宮は
『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載の「對馬嶋 下縣郡 和多都美神社」の論社です

和多都美神社〈鷄知住吉神社 境内脇宮〉

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭Myojin sai)」の条 285座

『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉

延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Myojin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています

名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています

座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩
嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)

大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える

住吉ノ神社 一座  已上(イジョウ)對馬嶋 と記されています

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています

・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)対馬島 29座(大6座・小23座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)県郡 13座(大4座・小9座)
[名神大 大 小] 式内名神大社

[旧 神社 名称 ] 住吉神社(名神大
[ふ り が な ]すみよしの かみのやしろ)(みょうじんだい)
[Old Shrine name]Sumiyosi no kamino yashiro)(Myojin dai)

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
對馬嶋 下縣郡 住吉神社 名神大」には 2つの論社があります

・住吉神社(対馬 鴨居瀬)

・鷄知住吉神社(対馬 鶏知)

脇宮の
『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載の「對馬嶋 下縣郡 和多都美神社」には 2つの論社があります

和多都美神社〈鷄知住吉神社 境内脇宮〉

和多都美神社(対馬 仁位)

”住吉神社”(すみよしじんじゃ)と住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉について

住吉神社 主に住吉三神を祀る神社で 日本全国に約2300社以上ある云われます

住吉三神とは 次の三柱神の総称 古来 航海の守護神として篤く信仰されてきている

底筒男命底筒之男命(そこつつののみこと)
・中筒男命中筒之男命(なかつつののみこと)
・表筒男命上筒之男命(うわつつののみこと)

住吉大神と号する場合は
住吉三神息長帯姫命神功皇后併せ祀ります

住吉三神は 日本神話に登場する航海の神
伊奘諾尊が 黄泉の国の穢れを清めるために 筑紫の日向の橘の小戸の檍原で禊をしたとき 水底で身をすすぐと底筒男命 水中では中筒男命 水上では表筒男命 このとき顕われたとされる

『古事記』では 水の底にもぐって 身を洗い清められる時に成った底筒之男命 水の中程で洗い清められる時に成った中筒之男命 水の表面で洗い清められる時に成った上筒之男命が それぞれ生まれます

その後『日本書紀』には 神功皇后の段に新羅征討の際に 神託・守護・先導などに深くかかわったと記されています

〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉が 住吉三神と云われる理由について

福岡の現人神社〈博多 住吉神社と大阪 住吉大社の元宮とされる〉には 三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉が 住吉三神と云われるようになった理由を社伝で伝えています

「元々は 現人神筒男三神〉であったが 神功皇后が三韓征伐の時 神告により神田を定め 天神地祇に禱祈して 那珂川の水を引いた所が現人神社である
神功皇后大和への御帰還に際し 霊験な現人神筒男三神をご奉持され 眞住吉之国(住よい国)摂津(大阪)〉に祀らた為に住吉三神と称され始めます 筑前国一之宮 福岡の住吉宮も後にここより御分霊された 故に 全国津々浦々にある住吉三神の本津宮とされます

住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉の「筒男(ツツノヲ)」の字義についての諸説

「筒男(ツツノヲ)」の字義についての諸説

①航海の神 ツツは夕月(ゆうづつ)のツツに通じ 夕方の月 宵の明星 星を指し 星は航海の指針に用いられることから
②海神を示す説
➂「津の男」に見る説
④「ツツ」を船の呪杖に見る説
➄船霊を納める筒に見る説
⑥対馬の豆酘(つつ)に関連し「豆酘の男」に見る説
➆航海に従った持衰の身を「ツツシム」に見る説

住吉神社の発祥について

現在 住吉神社の総本社は 一般的には 大阪府大阪市住吉区の住吉大社とされますが

下関住吉神社は 住吉三神の荒魂(あらみたま)
大坂の住吉大社は 住吉三神の和魂(にぎみたま)は 神功皇后が三韓征伐の帰途に祀られた事が『日本書紀』に記されています

実際には 神功皇后の「三韓征伐」伝承とともに 西から順に 壱岐対馬〈長崎県〉から博多・下関・瀬戸内海を渡り 大坂の住吉大社へと分祀されたものとおもわれます
このため・壱岐の住吉神社・博多の住吉神社 や現人神社など
は 住吉神社の発祥の地と称しています

『日本書紀』には 神功皇后の新羅征討の段に 次のように記されています

仲哀天皇の御代 熊襲 隼人など大和朝廷に反乱蜂起した時 神功皇后が神がかりして「まず三韓を征討せよ」との神託を得た しかし 仲哀天皇はこの神託に従わず 翌年崩御された
その翌月 再び神託を得た神功皇后は 自ら兵を率いて三韓へ征伐に向かう このとき 住吉大神の和魂が神功皇后の身辺を守り 荒魂は突風となり 神功皇后の船団を守護し 三韓をおおいに苦しめた
神功皇后は 三韓を平定し 凱旋の折 
住吉三神の神託を得て 大神の荒魂(あらみたま)を穴門(山口県)山田邑(下関市)に奉斎します また 和魂(にぎみたま)を大津〈大きな港〉の渟中名倉の長峡〈現 大阪・住吉大社のある場所〉で 行き交う船を見守ると鎮めて 住吉大神を祀った

『日本遺産「国境の島」壱岐・対馬・五島 交易・交流と緊張の歴史』chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://nagasaki-bunkanet.jp/wp-content/uploads/2015/03/%E5%9B%BD%E5%A2%83%E3%81%AE%E5%B3%B6%E3%80%80%E5%86%8A%E5%AD%90.pdfより画像利用

『延喜式神名帳(927年12月編纂)に所載される”住吉神社 七社(すみよしのかみのやしろ ななやしろについて

延喜式神名帳所載七国〈対馬・壱岐・筑前・長門・播磨・摂津・陸奥各々に七社住吉神社鎮座します

これ住吉七社(すみよしななしゃ/すみよししちしゃ)とも総称します

格式の高さが際立つ 住吉七社 

内訳は次の通り
住吉七社の内 一之宮が三国〈筑前・長門・摂津
住吉七社内 五社が名神大社〈対馬・壱岐・筑前・長門・摂津

『古事記』では「墨江之三前大神(すみのえのみまえのおほかみ)」と総称され
住吉の地名については 古くはスミノエと呼ばれ「住吉」「墨江」「清江」などと表記されましたが 平安時代以降は スミヨシとも呼ばれるようになったとされます
外交にまつわる航海の守護神として国家的な祭祀をうけていて 大和朝廷にとって特別な意義を有する神社でした
遣唐使時奉幣の祝詞や六国史には 遣唐使出発の際にこの神を祭ったことが見えています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)927年12月編纂〉に記される 住吉七社と その論社について

①對馬嶋 下縣郡
住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)

・住吉神社(対馬 鴨居瀬)

・鷄知住吉神社(対馬 鶏知)

➁壹岐嶋 壹岐郡
吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)

・住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)

➂筑前国 那珂郡
住吉神社 三座(並名神大)(すみよしの かみのやしろ みくら)

・住吉神社(博多区住吉)

・若久住吉神社(福岡市南区)

・現人神社(那珂川市)

④長門国 豊浦郡
住吉坐荒御魂神社三座(並名神大)(すみよしのあらみたまの かみのやしろ みくら)

・住吉神社(下関市)長門国一之宮

➄播磨国 賀茂郡
住吉神社(すみよしの かみのやしろ)

・上鴨川住吉神社(加東市上鴨川)

・住吉神社(加東市下久米)

・小野住吉神社(小野市垂井町)

・秋津住吉神社(加東市秋津)

⑥摂津国 住吉郡
住吉坐神社四座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(すみよしの かみのやしろ)(すみのえにます かみのやしろ)

・住吉大社(大阪市住吉区)摂津国一之宮

➆陸奥国 磐城郡
住吉神社(すみよし かみのやしろ)

・住吉神社(いわき市小名浜住吉)

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

対馬空港からR382号を南下 約1.7km 車5分程度

鶏知(ケチ)は 平安時代から鎌倉時代まで 対馬を治めていた阿比留氏の根拠地でもあり 鎌倉時代中頃までは 対馬統治の庁が置かれていた地です
対馬の中央部に近く 鶏知川は 対馬海峡の東水道に面する高浜に注いで 北は 浅茅湾につながる海上交通の拠点に位置します
その鶏知川のすぐ脇に鎮座します

住吉神社Sumiyoshi Shrine)に参着

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一礼をして 鳥居をくぐります
社号標が立ち「住吉神社」と刻まれて金文字とされています

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広い境内の先に 社務所が建ち その左側には木々に囲まれて 二の鳥居が建ち 神域に上がる階段があります

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二の鳥居をくぐります

階段の途中には 鉄製の機雷が置かれています ロシア艦からの戦利品として竹敷(たけしき)要港部から戦勝記念に贈呈されたものと言われています
鶏知には 対馬要塞重砲兵連隊が配備され 現在の難知中学校には 連隊の正門の柱が残っています 竹敷港には 水雷施設部が設置されていました

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階段を上がると神域となります 正面には 社殿が建ち 入口には 神門が構えていて すぐ左手に手水舎があり 清めます

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境内には「住吉神社改築之碑」とされた石碑があり 平成16年9月17日落成とあり 2004年に社殿が建て替えられていることがわかります
その社殿迄は 参道が 折れながら敷かれています
社殿の向かって左手に鳥居が建っています ここが脇宮の和多都美(ワタツミ)神社です
本殿の住吉神社と脇宮の和多都美神社は ともに式内社の論社です

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拝殿にすすみます 扁額には「住吉神社」と記されています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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脇宮にお詣りをします
和多都美神社〈鷄知住吉神社 境内脇宮〉の記事をご覧ください

2004年に建て替えられた住吉神社の幣殿と本殿を仰ぎます
御祭神は 住吉の神「筒乃男(ツツノオ)三神」ではなく ワタツミの神が祀られています
対馬の住吉神社の多くでは 同じように 海神(ワタツミノカミ)を祀っていて 対馬では 海神(ワタツミノカミ)の信仰が濃厚なので ワタツミの三神と同時に生まれたとされる 筒乃男(ツツノオ)三神が その影に隠れたのかもしれないとの説もあります

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参道を戻りながら 階段下の社務所に立ち寄りましたが ご不在でした 広い境内から鳥居を抜けて 振り返り一礼をします

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

鶏知(ケチ)の地名について

地元では 神功皇后(ジングウコウゴウ)伝説からきていると伝わっています

「神功皇后が 新羅国を征伐して凱旋の時 対馬に立ち寄り 黒瀬の城嶽(ジョウダケ)に登り 四方を眺めると 遠方から 鶏の鳴き声が聞こえきたので 人家の場所を知り その場所を訪れた際に鶏知(けち)と名付けた」とされています

『続日本後紀(shoku nihon koki)』貞観11年(869)に記される伝承

遣唐使の祈りを捧げた2月に 対馬の神々(上縣・下縣)とともに 神階無位から昇叙が記されています

意訳

承和4年(837)2月甲午朔 戊戌の条

伯耆国(ホウキノクニ)川村郡 无〈無〉位 伯耆神 大山神 国坂神

及び

對馬嶋(ツシマノシマ)の

上縣郡(カミツアガタ)の 无〈無〉位
和多都美神(ワタツミノカミ)
胡簶御子神(ヤナクイノミコノカミ)

下縣郡(シモツアガタ)の无〈無〉位
高御魂(タカミムスミ)
住吉神(スミヨシノカミ)
和多都美神(ワタツミノカミ)
多久都神(タクツノカミ)
大調神(ヲオツキノカミ)
並びに 奉(たてまつ)り 従5位下 を授(サズ)く

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省

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『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に記される伝承

對馬嶋(上縣・下縣)の式内社の神々とともに 神階の昇叙が記されています

意訳

貞観元年(859)正月27日の条

・・・・・
對馬島(ツシマノシマ)従5位下
和多都美神(ワタツミノカミ)
高御魂神(タカミタマノカミ)
住吉神(スミヨシノカミ)
並びに 従5位上

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意訳

貞観12年(870)3月5日 丁巳の条

詔(ミコトノリ)を授(サズ)くに

對馬嶋(ツシマノシマ)の

正5位上 多久都神(タクツノカミ)に 従4位下

従5位上
和多都美神(ワタツミノカミ)
胡簶神(コロクノカミ)
御子神(ミコノカミ)
嶋大國魂上(シマオオクニタマノカミ)
高御魂神(タカミタマノカミ)
住吉神(スミヨシノカミ)
和多都美神(ワタツミノカミ)
太祝詞上(フトノリトノカミ)
平神(タイラノカミ)
並びに 正5位下

大吉刀神(オオヨシカタナノカミ)
天諸羽神(アマノモロハノカミ)
天多久都麻神(アマノタクツマノカミ)
宇努神(ウノノカミ)
吉刀神(キトノカミ)
小枚宿祢神(ヲヒラノスクネノカミ)
行相神(ユキアイノカミ)
奈蘇上金子神(ナソカミカネコノカミ)
嶋御子神(シマミコノカミ)
国本神(クニモトノカミ)
銀山神(カナヤマノカミ)
和多都美神(ワタツミノカミ)
敷嶋神(シキシマノカミ)
並びに 従5位上

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス
『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫

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『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承

式内社「住吉神社」の所在について 鴨居瀬(カモイセ)の住吉神社であるとしています 更に 今は 鶏知(ケチ)の住吉神社に遷っていると記しています

意訳

住吉(スミヨシノ)神社 名神大

神階 承和4年(837)2月甲午朔 戊戌の条・・従5位下
貞観12年(870)3月5日 丁巳の条・・・正5位下
元慶3年(879)5月21日の条 ・・・従4位下

〇与良郷 鴨居瀬村(カモイセムラ)の紫瀬戸にあり
 今は 同郷 鶏知村(ケチムラ)の白江山にあり

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院

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『神社覈録(Jinja Kakuroku)』明治3年(1870年)に記される伝承

式内社「住吉神社」の所在について 鶏知(ケチ)の住吉神社であるとしています

意訳

住吉神社 名神大

住吉は 須三乃江(スミノエ)と訓ずべし

〇祭神 三筒男神 考証
〇與良郷 鶏知村に在す 玉勝間
式三 臨時祭 名神祭285座 中略 對馬島 住吉神社一座

類社 摂津国 住吉郡 住吉神社の條 見合うべし

神位 続日本後紀 承和4年(837)2月甲午朔 戊戌の条・・従5位下
日本三代実録 貞観元年(859)正月27日の条・・従5位上
日本三代実録 貞観12年(870)3月5日 丁巳の条・・・正5位下
元慶3年(879)5月21日の条 ・・・従4位下

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』明治9年(1876)に記される内容

式内社「住吉神社」の所在について 鶏知(ケチ)の住吉神社であるとしています
祭神について
社伝では「彦波瀲武鵜茅草葺不合尊(Hiko Nagisatake Ugayafukiaezu no mikoto)」ですが 住吉神社であるならばと 三柱の筒之男神に訂正しています

意訳

住吉神社 名神大

祭神 底筒之男神 中筒之男神 上筒之男神
今 按〈考えるに〉
明細帳式内記に 鵜草葺不合尊とあれど 住吉神社とある上は 三柱の筒之男神なる事著し故 今 これを訂正せり

神位 任命天皇 承和4年(837)2月甲午朔 戊戌の条・・従5位下
   清和天皇 貞観元年(859)正月27日の条 従5位上・貞観12年(870)3月5日 丁巳の条 正5位下
   陽成天皇 元慶3年(879)5月21日の条 ・・・従4位下

祭日 9月13日
社格 郷社
所在 鶏知村 字 白江山

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』明治45年(1912)に記される伝承

式内社「住吉神社」について 様々な書から引用しています ほとんどの書には 式内社の「住吉神社」は もともとは 鴨居瀬(カモイセ)にあり それを後に 鶏知(ケチ)に遷座したとしています

意訳

長崎縣 對馬國 下縣郡 鶏知(ケチ)村

郷社 住吉神社

祭神 豊玉姫(トヨタマヒメノ)命
   彦波瀲武鵜茅草葺不合(ヒコナギサタケウガヤフキアヘズノ)
   玉依姫(タマヨリヒメノ)命

延喜式に、対馬島下縣郡 住吉神社 名神大とあるは即ち此社なり、

伝へいふ、息長帯姫 韓國より帰りましゝ時、始めて 之を紫瀬戸に祭りたまひしを、後今の地に遷しゝなりと、

神名帳考証に、住吉神(スミヨシノ)社 名神大 與良郷 鴨居瀕村、紫瀬戸にあり、今は 同郷 鶏知村白江山にあり、表筒男、中筒男、底筒男」とあり、

神社覈録には、「住吉は須美乃江と訓べし、祭 三筒男神、與良郷 鶏知村に在す、式三 臨時祭 名神祭 285座、対馬島 住吉神社一座」と云ひ、(頭注に、和名鈔鶏知郷あり)と載せ、次に「神位、続日本後紀、承和4年2月戊戌、対馬島 下縣郡 無位 住吉神 奉授從五位、三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉 授 対馬島從五位下 住吉神 從五位上、同12年3月5日丁巳、授 対馬島 從五位上 住吉神 正五位下、元慶3年5月21日甲戌、対馬島 正五位下 住吉神 從四位下と見え、

神紙志料に「住吉(スミノエノ)神社、今 與良郷 鶏知村 白江山に在り、底筒男、中筒男、表筒男神を祭る、伝へ云ふ、昔 息長帯姫命、韓國より反り坐時、始めて此を紫瀬戸に祭る、後 之を今地に遷す」と挙げ、次に承和貞観元慶年度の叙位を述べたる後、「醍醐天皇 延喜の制、名神大社に列る、凡9月13日祭を行ふ」とあり。

又、
地名辞書に、「住吉(スミヨシ)神社、今 鶏知村 白江山に在り、相伝ふ、神功皇后 韓國より反坐の時、始めて 之を紫瀬戸に祭る、後 之を今地に移す」と云ひ、尚ほ 鶏知(ケチ)郷の條下に、「本州の掾官 阿比留氏は、中世 鶏知村に住したり、龍泉寺の南隣を其 邸址とす、抑大掾 阿比留平太郎國信の祖 比伊國津は、蘇我宿祢の裔、上総國 畔蒜郡の人なりしが、弘仁中國津の子 行兼当國に任ぜられ、子孫遂に在庁官と為る、寛元3年、在庁官 阿比留國信 太宰府の命に從はざりければ、宗知宗府の軍兵を発し來討し、國信を輿良郷に撃破し 之を殺す、阿比留氏の裔 住吉社の神主に任す、領高二間零四十四分七厘八毛八、(紀事)」と云へり、又 仙巣稿上巻に、「後 船末至 意如何、暫掩蒲帆傍岸阿、倒嶺横峯皆改観、乱余松少乱前聞、初三日暫泊住吉侍後船」とあり、

太宰管内志に、「延喜式に、下県郡住吉神社 名神大あり、住吉は須美乃衣とよむべし」と見ゆ、


八幡本紀に云く、「神功皇后 府中より御船を出し賜ひて、恙なく與良郷の瀬戸に著き給ひて、彼 瀬戸の西岸にして神を祭り給ふ、此故に、此処に住吉大神の社を祝ふ、後世に至つて 與良郷の東鶏知村に 住吉神社を建立し、瀬戸の社の神体の鏡を移せり、神名帳に住吉神社 名神大とある是なり、瀬戸にも猶 小社を存して古跡をとどむ」

式の考証に云く、下縣郡 住吉神社は、輿良郷 鴨居瀬村、紫瀬戸にありしを、今は同郷 鶏知村 白江山にあり」
玉勝間に、下縣郡 住吉神社は、與羅郷 鶏知村にあり、神階從四位上、

地図に、下縣郡 住吉神社は、祭神 彦波漱武鶴鵜草葺不合尊也、與良郷 鶏知村にあり、

書紀の通証に、谷川氏云、対馬島 下縣郡 住吉神社 和多都美神社、此社 司 今尚称 阿曇氏なども見えたり、祭祀等の事はいはす」と云ひ、尚脚注に「紫の瀬戸の事は 委く鴨居の件に弁ふべし、さて鶏知村は 後にも挙げたる如く、旧の住吉の地より一里余も南にありて、聊海をへだてゝ、地は 府中の方につづけり、さて地圖を按するに、此 鶏知村の邊に白江山と云ふは見えす、是より 一里計西の方に白岳と云ふ山ありて、加志岳の北にならべり、是などにや、さて図に、鶏知村にも神社のさまをかけり、今の 住吉の神社のことなるべし」となり、尚能く考合すべし、後村上天皇の康永元年9月13日、太宰府の命により、放生曾神事を興したりといへば、古來崇敬の名社たりしを知るに足る、

明治7年6月 郷社に列る。
社殿は 本殿、拝殿を備へ、境内1002坪(官有地第一種)を有す

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』1 『明治神社誌料』2

住吉神社Sumiyoshi Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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