匝瑳神社(香取神宮 境内 摂社)

匝瑳神社そうさじんじゃ 香取神宮の9つある摂社の内 本殿に最も近い〈本殿西奥〉に鎮座し 香取大神の親神磐筒男神(いわつつのかみ)磐筒女神(いわつつめのかみ)〉を祀ります 一説には 匝瑳郡の祖 物部小事もののべ の おごと)公を祀るとも云われます

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

匝瑳神社Sosa shrine

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

千葉県香取市香取〈香取神宮境内〉

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

〈香取大神の親神〉

《主》磐筒男神(いわつつのかみ)
   磐筒女神(いわつつめのかみ)

Please do not reproduce without prior permission.

一説には
匝瑳郡の祖 物部小事もののべ の おごと)公を祀るとも云われます

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・香取神宮 摂社

【創  (Beginning of history)】

創建年代不詳

【由  (History)】

匝瑳(そうさ)神社

神宮境内にあり 御祭神は磐筒男命・磐筒女なり
明治十年三月二十一日 内務省より摂社に相定旨達せらる

『香取神宮志』〈昭和13年(1938)〉より

【境内社 (Other deities within the precincts)】

匝瑳神社は 香取神宮の境内に鎮座しています

・香取神宮(香取市)下総国一之宮

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

香取神宮(香取市)の境内社・境外社の記事をご覧ください

香取神宮(香取市)の境内社・境外社

 

スポンサーリンク

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

下総国 香取(かとりのこおり)の位置について

古代 鎮座地の下総国 香取郡(かとりの こおり) 〈南側〉に 匝瑳郡(さふさの こおり)・北側〉に 信太郡(しだの こおり)との中間にある地域でした

太古 其々を統治したのは〈匝瑳郡は 物部 匝瑳連〉〈信太郡は 物部 信太連〉でしたので 当然 香取郡も物部氏と考えられていて 香取神宮の御祭神も「フツヌシノミコト」であって 物部氏の本宮 石上神宮(天理市)の御祭神 布都御魂大神(フツミタマノオホカミ)との関連もあります

匝瑳郡(さふさの こおり)起こりについて

下総物部氏は 東国征圧の先兵であったとされます
用明天皇2年(587年)丁未の乱(ていびのらん)大連・物部守屋が戦い敗れ 物部氏の守屋宗家が滅ぼされた以後 物部氏は衰退していきますが 其の時に既に 東国には勢力を延ばしていて 〈6世紀前期〉には 物部小事もののべ の おごと)公 坂東に遠征して それを征したので 下総国に匝瑳郡さふさのこおりを建てることを許されています

『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される「匝瑳郡さふさのこおり)の由来」伝承

【抜粋意訳】

鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)
物部匝瑳 熊猪(もののべのそうさ の くまい)について (むらじ)姓から宿禰(すくね)姓に改姓したこと 同時に 下総国匝瑳郡を左京二条に移しこと
6世紀前期物部小事もののべ の おごと 坂東に遠征し制圧して帰った功労によって 下総国に匝瑳郡さふさのこおりを建てることを許され その地名を氏の名に負ったこと 物部匝瑳 熊猪 物部小事の子孫であ記されています

【原文参照】

承和二年(八三五)三月辛酉十六〉の条

○辛酉 下総國人 陸奧鎭守將軍外從五位下勳六等 物部匝瑳連熊猪 テ 連賜宿禰ヲ 又改本居附左京二條
物部小事大連 (タマイテ)天朝出征坂東凱歌 ス 功勳令得於下総匝瑳  熊猪等祖也(ナリ)
鑄錢司言 被給俸料一分之人唯一千束 僅支朝夕 不足衣服 遷替之日 無糧還京 右大臣處分 班擧正税十六萬束於備後 安藝 周防 長門 豐前等國 各三萬二千束 以其息利 毎人倍給之 下総國言 民飢 賑給之

国立公文書館デジタルアーカイブス『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

スポンサーリンク

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

匝瑳神社香取神宮 境内 摂社社殿の造り替えの決まりについて

社殿の造り替えは 古くは匝瑳郡(そうさのこおり)の役割とされていたともされます

匝瑳郡(さふさのこおり)の変遷について

令制国成立以前から 下総国(千葉県)にあった郡とされ その後 平安時代には荘園として分割されていき その後さまざまな変遷をたどり 平成18年3月に消滅しました

現在は 匝瑳市残るのみ

Google Mapより

もう少し広い範囲で 海上うなと合わせた地域が海匝(かいそう)と呼ばれたり 香取郡も合わせて香取海匝(かとりかいそう)と呼ばれる場合があります

匝瑳(そうさ)の由来・語源について

匝瑳の由来・語源について

匝瑳という地名は、現存のものでは、奈良東大寺正倉院に伝わる庸調ようちょう(朝廷に納めた特産物)に見られる天平13年(741年)の記録が最も古いとされています。

匝瑳という地名の由来は、平安時代前期の歴史書「続日本後紀しょくにほんこうき」によれば、5世紀の終わり頃から6世紀のはじめにかけて、畿内(現在の近畿地方)の豪族であった物部小事もののべのおごとという人物が、坂東ばんどう(現在の関東地方)を征した勲功によって、朝廷から下総国の一部を与えられ、匝瑳郡さふさごおりとし、小事の子孫が物部匝瑳もののべのそうさ氏を名乗ったと伝えられています。

匝瑳の語源については、諸説あって定まっていませんが、発音での「さふさ」という地名があり、「さ」は「狭」で美しい、「ふさ」は「布佐」で麻の意で、“美しい麻のとれる土地”であったとする説や、「さ」は接頭語で、「ふさ」は下総国11郡中で最大の郡であったことに由来するという説があります。匝瑳は、「さふさ」に縁起のよい漢字を充てたものと考えられています。

なお、漢和辞典によれば、漢字の「匝」は、訓読みで“匝めぐる”と読み、一巡りして帰るという意味があり、「瑳」は、訓読みで“瑳あざやか”あるいは“瑳みがく”と読み、あざやかで美しいという意味があります。

匝瑳市役所(企画課 企画調整班)HPより
https://www.city.sosa.lg.jp/sp/page/page000740.html

匝瑳郡(さふさの こおり)氏神である老尾神社(おいおじんじゃ)について

匝瑳郡には 式内社として 老尾神社が鎮座します
祀官は香取氏で 香取神宮との関係が伝えられていて 香取神宮と物部氏との関係も説かれ 物部匝瑳連の祖 物部小事(もののべのおごと)を祭神とする説もあります

現在の祭神は 香取神宮の祭神・経津主大神の御子 神阿佐比古命を主祭神 磐筒男命・磐筒女命・国常立命を配祀神とします

・老尾神社(匝瑳市生尾)

スポンサーリンク

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

香取神宮本殿のすぐ〈奥西側〉に祀られています

Please do not reproduce without prior permission.

匝瑳神社香取神宮 境内 摂社に参着

拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

スポンサーリンク

神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

香取海(かとりのうみ)擁した 香取神宮式年神幸祭しきねんじんこうさい 

香取神宮は 古くは航行を掌る神として祀られたという見方もあり 航海の神 海運の神ともされます 12年に一度「式年神幸祭しきねんじんこうさい」があり それは正しく香取海(かとりのうみ)行われていた神事でした

この神事は 香取神宮の祭神である経津主大神(ふつぬしのおおかみ)が 東国を平定したときの様子を表すものされ かつて戦国時代以前までは 香取神宮で式年遷宮大祭として 20年に一度の遷宮・造替に伴って行われていましたが 江戸時代には途切れていたものを 明治8年(1875)に再興したものであるとされます 

約4kmの大行列を組んで巡行する式年神幸祭しきねんじんこうさい」は 香取神宮(かとりじんぐう)を出発して 御輿は 神宮の北 津の宮船出します 華麗な御座船に移り 多くの供奉船を率いて利根川を保原沖までさかのぼります
この折 鹿島神宮(かしまじんぐう)からの船の出迎えを受けます 鹿島神宮にも同様の神事があって 鹿島大船津から船出した鹿島神の御座船を途中で香取神宮の御座船が出迎える習わしです

このように水神・海神としての御神威に深いかかわりが見られます

下総匝瑳郡(さふさの こおり)にあった 椿海(つばきのうみ)について

匝瑳郡(さふさの こおり)現在は陸地ですが かつては 椿海(つばきのうみ)あり 又 水神・海神としての御神威に深いかかわりが見られます

椿海(つばきのうみ)は 現在の千葉県東庄町・旭市・匝瑳市の境界付近に 江戸時代初期まで存在した巨大な湖で

今から約330余年前に『椿の海』が干拓され 現在は『干潟八万石』と呼ばれる広大な田園地帯が広がります

『香取志』に
「古老の伝えるところでは、大古ここに大きな椿の木があった。花が咲いた時は天がまっ赤になり、散った際には地に赤い錦を敷きつめたようになった。この椿の大木が寿命尽き枯れて倒れ残った根の跡が湖水となり椿海といわれた。上枝の方を上総といい、下枝の方を下総という。」

つまり 太古は 匝瑳郡(さふさの こおり)から香取(かとりの こおり)には 舟で行き来が出来たことになります

椿海(つばきのうみ)

伝説の地(椿海「ちんかい」地区)

その(一)
 昔々、大きな椿の木があった。その椿の木の樹令は、八十万八十年と言われ、春になって花が咲くと、紅(べに)の花のために、天がまっ赤になり、やがてその花びらが散ると、またそのあたり一面はまっ赤な錦(にしき)をしきつめたようになったと言われている。この老大木が枯れ果てて、残った根の跡がこの椿湖(つばきのみずうみ)だということだ。

 朝日新聞 S30・3・30

その(二)
 遠い昔、海上(うなかみ)、匝瑳(そうさ)、香取(かとり)の三郡にまたがる枝をもった大きな椿の木があった。この木は、猿田彦命(さるたひこのみこと)が国を分ける時に、国境に植えたものだったと伝えられている。日本の三大木の一つにあげられているだけあって、いつも天上には雲や霞(かすみ)がかかり、昼でも夜のように暗かったそうだ。

 鬼満国(おにまんごく)の魔王は、日本の国を滅ぼして、自分の国にしようと、この椿の木に住みついて長い間狙っていた。そこで、海上の国におった猿田彦命は、香取の経津主命(ふつぬしのみこと)、鹿島の建御雷命(たけみかずちのみこと)の力をかりて、魔王を退治することにした。

さっそく、二神は魔王に戦いを挑んで、天の鹿島弓(かしまゆみ)という力の強い弓に、天の羽々矢(ははや)という羽の広い大きな矢をつがえ、魔王目掛けて
「ビューン」、「ビューン」と射った。

不意をつかれた魔王は、初め慌てていたが、もともと力の強い奴
「ウォーツ」、「ウォーツ」
と唸(うな)りながら、椿の木を抱え込んで揺った。

「わさ、わさ、わさ、わせ」
木が動くたびに、天と地が引っくり返りそうに揺れた。

 香取、鹿島の神様も負けてはいない。天の羽々矢を打ち続けた。魔王は、堪(たま)らず椿の木を根こそぎ引っくり返して、東の海へ飛び去ってしまった。

 そして、椿の木が抜けた跡に水が溜まり、大きな湖となり、それが椿の湖と言われるようになった。椿の木が倒れた方向によって、上の方が上総(かずさ)、下の方が下総(しもふさ)と呼ばれている。現在の旭市に矢指(やさし)という地名があるが、魔王を退治した天の羽々矢が飛んでいった方向だと言われている。

 見事に魔王を退治した香取、鹿島の二神は、これよりこの地方の守護神として崇(あが)められるようになった。

原話 千葉のむかし話、朝日新聞、八日市場市の沿革と人物

匝瑳市役所HPより
https://www.city.sosa.lg.jp/page/page001250.html

匝瑳神社香取神宮 境内 摂社 (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

・香取神宮(香取市)下総国一之宮 の記事

香取神宮(香取市)の境内社・境外社 の記事

 

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-その他の神社
-,

Copyright© Shrine-heritager , 2024 All Rights Reserved.