石上神宮(天理市布留町)

石上神宮(いそのかみじんぐう)は 『古事記』『日本書紀』にも 石上神宮と記されています この当時「神宮(かみのみや)」と称されているのは 伊勢神宮と石上神宮だけです 記録の上では日本最古設立の「神宮」とされています 伊勢神宮の古名は「磯宮(isono miya)」で「isono kami」とは何らかの関係があるのかもしれません

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name)】

 石上神宮(isonokami jingu)
 (いそのかみじんぐう)

 [通称名(Common name)]

 【鎮座地 (location) 】

奈良県天理市布留町384

 [地 図 (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》布都御魂大神(futsuno mitamano okami)

《配》布留御魂大神(furuno mitamano okami)
   布都斯魂大神(futsushi mitamano okami)
   宇麻志麻治命(umashimajino mikoto)
   五十瓊敷命(inishikino mikoto)
   白河天皇(shirakawa tenno)
   市川臣命(ichikawaomi no mikoto)

【御神格 (God's great power)】

・国家鎮護 National peace and protection
・民生安穏 Civilian peace and stability
・百事成就の守護神 Guardian deity fulfilling a hundred events
病気平癒 Heal illness
・長寿繁栄の守護神 Guardian deity of longevity and prosperity
邪霊退散 Get rid of evil spirits
・開運招福 Open fate and invite good fortune

【格 式 (Rules of dignity) 】

・延喜式内社 名神大社 (engishikinaisha myojintaisha)
・二十二社(中七社)
・別表神社

【創 建 (Beginning of history)】

当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。
 
総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、第10代崇神天皇7年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。古典には「石上神宮」「石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)」「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)」等と記され、この他「石上社」「布留社」とも呼ばれていました。
 
平安時代後期、白河天皇は当神宮を殊に崇敬され、現在の拝殿(国宝)は天皇が宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝えています。
 
中世に入ると、興福寺の荘園拡大・守護権力の強大化により、布留川を挟み南北二郷からなる布留郷を中心とした氏人は、同寺とたびたび抗争しました。戦国時代に至り、織田尾張勢の乱入により社頭は破却され、壱千石と称した神領も没収され衰微していきました。しかし、氏人たちの力強い信仰に支えられて明治を迎え、神祇の国家管理が行われるに伴い、明治4年官幣大社に列し、同16年には神宮号復称が許されました。
 
当神宮にはかつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地(きんそくち)を御本地(ごほんち)と称し、その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていました。明治7年菅政友(かんまさとも)大宮司により禁足地が発掘され、御神体の出御を仰ぎ、大正2年御本殿が造営されました。
 
禁足地は現在も「布留社」と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれ、昔の佇まいを残しています。

公式HPより

【由 緒 (history)】

御祭神は 布都御魂大神で、
配祀として布留御魂大神・布都斯魂大神・五十瓊敷命・宇摩志麻治命・白河天皇・市川臣命を祀る。

神武天皇御即位元年、宮中に奉祀せられ、崇神天皇7年に宮中より現地、石上布留高庭に移し鎮め祀られる。

御祭神・布都御魂大神は、又の御名を甕布都神、佐士布都神とも申し国平けの神剣、布都御魂にます。

神代の昔、天孫降臨に際り、経津主、武甕槌の二神と共に、国土鎮定の大業を成就し給い、更に神武天皇御東征の砌、紀の国熊野において御遭難の折、天つ神の勅により、再び天降り給い、邪神賊徒を平げ建国の基礎を定め給えり。神武天皇は御即位の後その功績を称えて、物部氏の遠祖宇摩志麻治命に命じ、永く宮中に奉斎せしめ給うた。

その後 第十代崇神天皇7年に物部の祖、伊香色雄命が勅により現地 石上布留の高庭に鎮め祀り 石上大神と称えまつったのが当宮の創めである。

爾来、歴代朝廷の御崇敬特に厚く、多くの武器を奉って儀仗に備え、物部連に配して武臣大伴・佐伯等の諸族をして祭祀にあづからしめ、国家非常の際は天皇親しく行幸あらせられ、国家鎮定を祈り給うた。

故に 名将武門の尊信も深く、天下の諸氏族が挙って霊宝を神庫に托し、皇室の御安泰と国家の平安を祈り奉った。

古くは神地の周囲、凡そ10里(39粁余)に及び、殿舎神門の鎰匙は常に宮中の官庫に収められた。

又 造営に当っては伊勢の神宮の例にならい、使臣を任ぜられるなど奈良朝以前に神宮号の尊称を用いられしは、伊勢の神宮と当宮のみにて、御由緒の尊厳を知ることが出来る。

社号は石上神宮のほか、石上振神宮、石上神社、或は石上社、布留社等とも呼ばれ、

延喜式神名帳には、石上坐布都御魂神社と見え、早くから官幣に預ったが 明治4年には改めて官幣大社に列し、同16年には神宮号が復称された。

古来 国家鎮護、民生安穏、百事成就の守護神として悠久に亘る御神徳は恰く国民の尊信するところである。

配祀神
・布留御魂大神は 天璽瑞宝十種に籠る霊妙なる御霊威にます。
瑞宝十種は、謂ゆる瀛津鏡1つ、辺津鏡1つ、八握劔1つ、生玉1つ、足玉1つ、死反玉1つ、道反玉1つ、蛇比礼1つ、蜂比礼1つ、品物比礼1つ、にして 神代の昔饒速日命が天降り給う時、天つ神の詔をもって、「若し痛む処あらば、茲の十宝をして、一二三四五六七八九十と謂いて、布瑠部由良由良止布瑠部。此く為さば、死人も生き反えらん」と教え諭して授け給いし霊威高き神宝なり。

その御子、宇摩志麻治命は神宝を天皇に奉り、・霊の神前に蔵めて、永く宮中に奉斎せられたが、崇神天皇の御代にFUTSU 霊と共に石上布留の高庭に鎮り給うた。

世に行われる十種祓には、「天下萬物聚類化生大元乃神宝」とも唱えられ、その畏き霊威を尊んで布留御魂大神と称え奉り、古来 病気平癒、長寿繁栄の守護神として、そのあらたかなる御霊験は、広く一般の信仰をあつめている。

布都斯魂大神
神代の昔、素盞嗚尊が出雲国簸の川上において、八岐大蛇を斬り給いし、天羽羽斬剣(別名を十握剣、蛇之麁正、蛇韓鋤之剣、天蠅斫剣という)の威霊にます。

この時、八岐大蛇の尾より出でし天叢雲剣は、天照大神に奉り三種の神器の一つとなり、天羽羽斬剣は当神宮に配祀せられ、布都斯魂大神と称え奉り邪霊退散、開運招福の御神徳を仰ぎまつる。

宇摩志麻治命は饒速日命の御子、当宮祭主の祖神にます。
御父 饒速日命は天孫瓊瓊杵尊の御兄にまし、天祖より天璽瑞宝十種を受け、河内国哮峰に天降り、その後大和の鳥見の白庭山に移り、長髄彦の妹三炊屋姫を娶り、宇摩志麻治命を生み給えり。宇摩志麻治命は御父の薨後、瑞宝を受けて その遺業を継ぎ、中州の開拓につとめられたが 神武天皇の大和御入国に際り天皇を迎えて忠誠を尽し給い、天皇御即位元年には天つ神の詔に随い、瑞宝を奉り鎮魂の神業をもって聖寿の万歳を祈り奉れり。これが鎮魂祭の始めである。

天皇は 命の忠節を喜ばれ武臣の首坐として御即位の威儀に立たしめ給い、・霊の祭祀をも主らしめ給えり。
その建国に当り樹て給いし御功績を称えて配祀せらる。

五十瓊敷命
第11代垂仁天皇の皇子、御母は日葉酢媛皇后、景行天皇の御兄にます。

垂仁天皇39年、茅淳の菟砥川上宮にまして剣1千口を作り(剣の名を川上部、また裸伴という)、当宮に蔵められた。
そののち、勅により神庫の神宝を掌られたが、晩年には妹の大中姫命に譲り給えり。
日本書紀に「神の神庫も樹梯の随に」と見えているように、命は姫の為に神庫に梯を造てられたが、姫は手弱女の身をもって高き神庫に登ることを辞み給いて、更に之を物部十千根大連に譲り、ここに物部連が再び当宮の祭主となって後世に及ぶこととなった。

白河天皇
御三条天皇の第一皇子にまして第72代の皇位を継がせらる。

当宮崇敬の御心持特に厚く、永保元年8月(1081)鎮魂祭のために、宮中の神嘉殿を遷して神門を改め拝殿を造営せられた。
同年9月には参議源俊明を勅使として遣わし、奉幣走馬十列を献って祭祀を行なわせらる。
寛治6年7月(1093)には親しく行幸あらせられ祭主以下に官位を授け給えり。毎年10月15日の例祭に行なわれる田村渡りは、これより始まるという。

市川臣命
第5代孝昭天皇の皇子天足彦国押人命の後裔、米餅搗大使主命の御子にます。

その家は豪族 春日臣の一族にて、垂仁天皇の御代すでに当神宮に奉仕せらる。その子孫を布留宿禰と称し、祭主物部連に副って永く祭祀に奉仕せられ、当宮社職の祖として配祀せらる。

「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から

【境内社 (Other deities within the precincts)】

摂社
出雲建雄神社(izumotakeo shrine)

《主》出雲建雄神(izumotakeo no kami)

(草薙剣の荒魂とされています 神社縁起では「吾は尾張の氏の女が祭る神である」とあり 宮簀媛を示すとも云われます)

摂社
・天神社(ten shrine)

《主》高皇産霊神(takamimusubi no kami)
   神皇産霊神(kamimusubi no kami)

摂社
・七座社(nanaza shrine)

《主》生産霊神(ikumusubinokami・中央)
   足産霊神(tarumusubinokami・生産霊神の右)
   魂留産霊神(tamatsumemusubinokami・生産霊神の左)
   大宮能売神(omiyanomenokami・足産霊神の右)
   御膳都神(miketsukami・魂留産霊神の左)
   辞代主神(kotoshironushinokami・右)
   大直日神(onaobinokami・左)

末社
・猿田彦神社(sarutahiko shrine)

《主》猿田彦神(sarutahiko no kami)
《配》底筒男神(sokotsutsuno no kami)
   中筒男神(nakatsutsuno no kami)
   上筒男神(uwatsutsuno no kami)
   息長帯比売命(okinagatarashihime no mikoto)
   高靇神(takaokami no kami)

末社
・神田神社(koda shrine)

《主》高倉下命(takakuraji no mikoto)

境外末社
・恵比須神社(ebisu shrine)

《主》事代主神(kotoshironushi no kami)

・祓戸神社(haraedo shrine)

《主》祓戸大神(haraedo no okami)

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座 大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)山辺郡 13座(大7座・小6座)

[名神大 大 小] 式内名神大社

[旧 神社名 ] 石上坐布留御魂神社(名神大 月次相嘗新嘗)
[ふ り が な  ](いそのかみのます ふるのみたまの かみのやしろ)
       (つきなみ あいなめ にいなめ)
[How to read ](isono kaminomasu furunomitamano kamino yashiro)
       (tsukinami ainame niiname) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

摂社出雲建雄神社(izumotakeo shrine)は『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』の所載社です

《主》出雲建雄神(izumotakeo no kami)

延喜式内社で、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の荒魂(あらみたま)である 出雲建雄神(いずもたけおのかみ)をお祀りしています。
江戸時代中期に成立した縁起には、天武天皇(てんむてんのう)の御代に御鎮座になった由がみえます。 それによると、 布留邑智(ふるのおち)という神主が、 ある夜、 布留川の上に八重雲が立ちわき、 その雲の中で神剣が光り輝いている、 という夢を見ました。 明朝その地に行ってみると、 8つの霊石があって、 神が 「吾は尾張氏の女が祭る神である。今この地に天降(あまくだ)って、皇孫を保(やすん)じ諸民を守ろう」 と託宣されたので、神宮の前の岡の上に社殿を建ててお祀りしたということです。
江戸時代には、 出雲建雄神は当神宮の御祭神 布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)の御子神と考えられ、そのため 「若宮(わかみや)」と呼ばれていました。
例祭は1月15日に月次祭に引き続いて斎行しています。

公式HPより

【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座
…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座 大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)
・小158座(並官幣))

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)山辺郡 13座(大7座・小6座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社名 ] 出雲建雄神社
[ふ り が な  ](いつもたけをの かみのやしろ)
[How to read ](itsumotakewo no kamino yashiro)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

出雲建雄神社の拝殿

元来は内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)の鎮守の住吉社の拝殿でしたが、大正3年に現在地に移築されました。
内山永久寺は鳥羽(とば)天皇の永久年間(1113~18)に創建された大寺院でしたが、神仏分離令により明治9年に廃絶しました。その後も鎮守社の住吉社は残されましたが、その住吉社の本殿も明治23年に放火によって焼失し、拝殿だけが荒廃したまま残されていましたので、当神宮摂社の出雲建雄神社の拝殿として移築しました。従ってこの建物は内山永久寺の建物の遺構として貴重なもので、国宝に指定されています。
建立年代については、はじめは保延3(1137)年に建立され、その後13・14世紀に2回の改築により現在の構造・形式になったと考えられています。

公式HPより

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

天理駅からR25号経由 約3km 車10分程度
駐車場からは北側から南へ向かいます

東西に通る参道に垂直に当たるちょうどその角に社号標「石上神宮」が建っています

石上神宮(isonokami jingu)に到着

参道の入口に建つ大鳥居を一礼してくぐり抜けます

参道の幅が広がって ゆったりとした境内になります 小砂利の境内には 石上神宮の神使とされている 沢山のニワトリが放し飼いになっています

左手には社務所があります

右手には休憩所があり その奥に手水所があり 清めます

石垣の上に廻廊が建ち その先に楼門(romon)が建っています

鎌倉時代末期の建築とされる 楼門(romon)前で 一礼してくぐり抜けます

拝殿にすすみます

拝殿は 永保元年(1081)第72代白河天皇が 鎮魂祭(chinkonsai)のために宮中の神嘉殿(shinkaden)を寄進されたものと伝えられています

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

拝殿後方は「禁足地」であり 古来 御神体が鎮まる霊域として「石上布留高庭(isonokami furuno takaniwa)」と呼ばれています

拝殿前の斎庭を取り囲むように廻廊が建てられていて 楼門横(入って左側)には 授与所・祈祷受付所・案内所があります

楼門を出て振り返り一礼します

楼門の前に古高い場所に境内社あります お詣りをします

この場所からは 神宮を見下ろすような眺めになります

裏手には大銀杏があり 石上神宮社叢が広がります とても厳粛な場所です

参道を戻り 鳥居をくぐり抜けて 振り返り一礼をします

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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『古事記(kojiki)』神武天皇の東征に記される伝承

意訳

「 神倭伊波礼毘古命(kamuyamato iwarehiko no mikoto)は その土地から南にお回りになつて 熊野に至りました時 大熊髣(okumahonoka)が ぼうつと姿を見せて 消えてしまいました
ここに 神倭伊波礼毘古命(kamuyamato iwarehiko no mikoto)は 突然に気を失われました 兵士どもも皆気を失ってしまいました

この時 熊野の高倉下(takakuraji)という者が 一つの大刀を持って 天津神の御子が伏しておいでになる所にきて奉ると お目覚めさめになられて「隨分と寢たことだった」と仰せられました

その大刀をお受け取りなさいますと 熊野の山の荒ぶる神たちは 自然に皆切り倒されていました そして正気を失っていた軍隊が ことごとく目を覚ましました

そこで 天津神の御子が その大刀を獲た詳細をお尋ねになりました
高倉下(takakuraji)がお答えするには
「わたくしは夢を見ました 天照大神(amaterasu okami)と高木神のお二柱の御命令で 建御雷神(takemikazuchi no kami)を召されて
「葦原中国(ashihara no nakatsukuni)は とても騷がしい わたしの御子たちが困っておられます あの葦原中国は あなたが平定した国ですから だから あなた建御雷神(takemikazuchi no kami)が 降って行きなさい」と仰せになりました

そこで建御雷神(takemikazuchi no kami)がお答え申し上げるには
「わたくしが 降りなくても その時に国を平定した大刀があります これを降しましよう」

この大刀の名は 佐士布都神(sajifutsu no kami)
 またの名は甕布都神(mikafutsu no kami)
 またの名は布都御魂(futsuno mitama)と言います
今 石上神宮(isonokami jingu)にあります

この大刀を降す方法は 高倉下(takakuraji)の倉の屋根に穴をあけて そのところから墮し入れましようと申しました
そこで わたくしに お前は朝 目が覚めたら この大刀を取って 天津神の御子に奉れ とお教えなさいました そこで夢の教えのままに 朝早く 倉を見ますとほんとうに大刀がありました それで この大刀を献上したのです」と申しました 」

【原文参照】『古事記』刊本 明治03年選者:太安万侶/校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブ

『日本書紀(nihon shoki)』神武天皇 六月乙未朔丁巳 高倉下の夢に記される伝承

神武天皇の御一行は 熊野で賊の毒気にあたり 全軍が壊滅寸前の状態に陥ります その時 高天原から降ろされた 横刀(たち)(布都御魂・ふつのみたま 日本書紀では韴霊・ふつのみたま)を 高倉下(たかくらじ)が神武天皇に捧げます するとこの刀の不思議な起死回生の力によって 神武天皇の御一行は蘇り 賊も退散 神武天皇は 無事に大和を平定することができました

意訳

「 天皇は 一人の皇子である手研耳命(tagishimimi no mikoto)と 軍を率いて進み 熊野荒坂津(kumano arasaka no tsu)に着かれました
  別名を丹敷浦(nishiki no ura)と言います

そこで 丹敷戸畔(nishikitobe)という賊を打ち殺しました
そのとき 神が毒気を吐いて 人々を弱らせました
このため 皇軍は また振わなくなりました

この土地にある人がいました
熊野高倉下(kumano no takakuraji)といいます

熊野高倉下(kumano no takakuraji)は その夜の夢を見ました

天照大神(amaterasu okami)が 武甕雷神(takemikazuchi no kami)に語っていました
「葦原中国(ashihara no nakatsukuni)は まだ 乱れて騒がしい あなたが行って平げなさい」

聞喧擾之響焉は左揶霓利奈離(sayagerinari)と読みます

武甕雷神(takemikazuchi no kami)は答えられました
「私が 行かなくても 私が国を平定したときの「剣」を降ろせば すぐに国は安定するでしょう」と言われました
天照大神(amaterasu okami)は 言いました
「その通りですね」

諾は 宇毎那利(ubenari)と読みます

そこで 武甕雷神は 高倉下(takakuraji)に 語りました
「私の この剣は名を「韴靈(futsu no mitama)」という それをあなたの倉の中に置いておく これを受け取り 天孫に献上しなさい」

韴靈は赴屠能瀰哆磨(futsu no mitama)といいます

高倉下(takakuraji)は「承知しました」と答えると 目が覚めました

翌朝 夢のお告げに従って 倉を開いてみますと 案の定 そこに落ちている剣がありました 倉庫の底板に逆さに刺さっていました

高倉下(takakuraji)は 剣を取って天皇に差し上げました

そのときに 天皇はよく眠っておられたが たちまち目覚めて
「私は どうしてこのように長く眠ったのだろう」と言い
ついで毒気に当っていた兵卒たちも 全員目が覚めて起き上がりました  」

【原文参照】『日本書紀』 刊本 文政13年選者 舎人親王[旧蔵者]内務省 国立公文書館デジタルアーカイブ

『日本書紀(nihon shoki)』第八段一書(二)に記される伝承

素盞嗚尊(susanowo no mikoto)が八岐大蛇を退治して 尾を割いた剣は「蛇麁正(orochino aramasa)」といい これは今 石上(isono kami)にあります と記されて この場所が石上神宮(奈良)とされています

意訳

「 別の言い伝え(第二)によると
素盞嗚尊(susanowo no mikoto)が 天から 安芸国(akinokuni)の江川(eno kawa)の川上にお降りになりました

そこに神がおられました
神の名を 脚摩手摩(ashinazu tenazu)といいます
その妻の名を稲田宮主賛狭之八箇耳(inadano miyanushi susano yatsumimi)といいます

この神は身籠って(妊娠)いました

悲しんでいる夫婦が
「私が生んだ子は沢山ありましたが 生むたびに八岐大蛇やまたのおろちがやってきて呑んでしまいます そのようなことで 一人も生き残っておりません
今から 私が生む子も 恐らくは 吞まれてしまうでしょう
それで悲しんでいます」と言いました

素戔嗚尊は 答えられます
「お前は 沢山の木の実を集めて 八つの甕(kame)に酒を造りなさい 私はお前のために 大蛇(orochi)を殺しましょう」

二柱の神は教えに従って 酒を用意しました
やがて 出産の時 やはり その大蛇(orochi)が入口にやってきて その子を吞もうとしました

そこで素戔嗚尊は大蛇にと言われました
「あなたは恐れ多い神様です おもてなし申し上げます」

そして 八つの甕の酒を 大蛇の八つの口に入れました
すると大蛇は 酒を飲んで眠ってしまいました

素戔嗚尊は 剣を抜いて斬りつけました
すると 尾を斬るときに剣の刃が少し欠けました

尾を割いてご覧になると 剣が中にありました
これを 草薙剣(kusanagi no tsurugi)と名づけました

この剣は今 尾張国の吾湯市村(ayuchino mura)にあります
すなわち 熱田の祝部(hafuri be)がお祀りしている神(熱田神宮)がこれであります

その大蛇を斬った剣を 名づけて「蛇麁正(orochino aramasa)」といいます
これは今 これは今 石上(isono kami)にあります

この後に 稲田宮主簧狭之八箇耳(inadano miyanushi susano yatsumimi)が生んだ子は 真髪触奇稲田媛(makami furukushi inada hime)を 出雲国の簸ひの川の川上に移して育てました

のちに 素戔嗚尊がこの姫を妃とされて その六代の孫を 大己貴命といいます 」

【原文参照】『日本書紀』 刊本 文政13年選者 舎人親王[旧蔵者]内務省 国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

『古語拾遺(kogojui)』素神の霊剣献上 に記される伝承

素戔嗚神(susanowo no kami)が 八俣大蛇を退治した天十握剣(amenototsuka no tsurugi)は「今 石上神宮に在り」と記されます

意訳

「 素戔嗚神(susanowo no kami)に 罪過を帰せて 千座置戸(chikura okido)を科して 鬚・手足の爪を抜かせて贖わせてました その罪を祓い 天上より追放しました
素戔嗚神(susanowo no kami)は 天より 出雲国の簸之川上(hino kawa kami)に降りたちました
天十握剣(amenototsuka no tsurugi)
[その名は 天羽羽斬(ameno hahakiri)と言います 今は 石上神宮(isonokamino kami no miya)にあります 古くは 大蛇の羽羽(haha)と言います 蛇を斬る事を言いいます]

・・・・で 八岐大蛇(yamata no orochi)を斬りました その尾の中から一つの霊剣を得ました その名を天叢雲(ameno murakumo)と言います
[大蛇の上に常に雲が在った事から その名前となりました
倭武尊(yamatotakeru no mikoto)が 東征の年に 相模国に至り 野火の難に遇いました
それで この剣で草を薙ぎ 免れ得た事から 草薙剣(kusanagi no tsurugi)と言います]

それで 天神に献上しました その後 素戔嗚神は 国神の娘を娶り 大己貴神(onamuchi no kami)を生みました
[古くは 於保那武智神(onamuchi no kami)と言います]

そして ついに根国に行かれました 」

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『訂正古語拾遺』選者:斎部広成 大同2年(807年)編纂/校訂者:猿渡容盛 刊本 ,明治02年 , 木村正辞
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047473&ID=&TYPE=&NO=画像利用

石上神宮(isonokami jingu)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

社伝では 素盞嗚尊が 八岐大蛇を斬った十握剣が 石上布都魂神社(現・岡山県赤磐市)から当社へ遷されたとも伝えています
石上布都魂神社(isonokami futsumitama shrine)の記事もご覧ください

大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る

二十二社について

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」でありますので 各郡の条に「〇〇郡 神社」として 神社名の所載があります
『風土記(fudoki)』が編纂(733年)された 当時の「出雲の神社(399社)」を『出雲國風土記 神名帳(izumo no kuni fudoki jimmeicho)』として伝える役割をしています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷で 出雲国造が その任に就いた時や遷都など国家の慶事にあたって朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉としていて 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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