后神社(きさきじんじゃ)は 御祭神について 三島大明神の三宅島の后「伊賀牟比売命(いかむひめのみこと)」は 幼い子を抱いて 入水し石になって海中に鎮まっていると『三宅記(みやけき)』に記されます そうした訳でしょうか 三宅島の伊ヶ谷港の高台から太平洋を眺めるように鎮座します 又『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される格式ある由緒を持ちます 江戸時代に 三宅島に流された「禊教の教祖・井上正鐵の碑」もあります
目次
- 1 1.ご紹介(Introduction)
- 2 この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
- 3 【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
- 4 神社にお詣り(Pray at the shrine)
- 5 神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
- 6 伊豆国 式内社 92座(大5座・小87座)について に戻る
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
后神社(Kisaki Shrine)
(きさきじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
東京都三宅島 三宅村伊ヶ谷 大船戸
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》伊賀牟比売命(Ikamuhime no mikoto)
【御神格 (God's great power)】
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
不詳
【由 緒 (history)】
不詳
【境内社 (Other deities within the precincts)】
社殿の向かって右手
・ 長根八幡神社(Nagane hachiman Shrine)
《主》応神天皇(ojin tenno)
※長根村から遷座
社殿の向かって右手の祠
・若宮神社(Wakamiya Shrine)
《主》片菅命(katasuge no mikoto)
※『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社〈論社〉
本殿合祀もしくは 境外社 若宮神社(Wakamiya Shrine)か?
社殿の向かって右手
・恵比寿神社(Ebisu Shrine)
《主》不明
本殿合祀か?
社殿向かって左上 本殿の左には 2つの祠があります
社殿向かって左上 本殿の右側の祠
・金比羅神社(Kompira Shrine)
《主》大物主神(omononushi no kami)
崇徳天皇(sutoku tenno)
社殿向かって左上 本殿の左側の祠
・南子神社(Nago Shrine)
《主》南子命(nago no mikoto)
※『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社〈論社〉
・風神神社(Kazekami Shrine)
《主》級忌戸辺神(shinatobe no kami)
※見あたらず 本殿に合祀か?
・山王神社(Sanno Shrine)
《主》山王咋神(sannokui no kami)
市川御崎神(ichikawamisaki no kami)
※見あたらず 本殿に合祀か?
境外社 外洋に浮かぶ
・大根原神社(Onehara Shrine)
《主》天柱岩ノ海神 福徳神
※大根原島「三本嶽」と呼ばれ 阿古港の西南西約 9 km に浮かぶ大小10 あまりの岩礁の総称
三宅島からは「子安根(標高 114m)」「エビ根(標高 61m)」「大根(標高 33m)」の3つの岩礁が見えているので三本嶽と呼ばれます
阿古湾辺りから撮影
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社名 ] 伊賀牟比売命神社
[ふ り が な ](いかむひめのみことの かみのやしろ)
[How to read ](Ikamuhime no mikoto no kamino yashiro)
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)所載社の論社について
2つの境内社と1つの境外社が『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社〈論社〉となっています
①片菅命神社(Katasuge no mikoto no kamino yashiro)の論社
【 后神社(Kisaki Shrine)境内社】
・若宮神社(Wakamiya Shrine)《主》片菅命(katasuge no mikoto)
-
后神社(三宅島 伊ヶ谷)
后神社(きさきじんじゃ)は 御祭神について 三島大明神の三宅島の后「伊賀牟比売命(いかむひめのみこと)」は 幼い子を抱いて 入水し石になって海中に鎮まっていると『三宅記(みやけき)』に記されます そうした訳でしょうか 三宅島の伊ヶ谷港の高台から太平洋を眺めるように鎮座します 又『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される格式ある由緒を持ちます 江戸時代に 三宅島に流された「禊教の教祖・井上正鐵の碑」もあります
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もしくは
➁片菅命神社(Katasuge no mikoto no kamino yashiro)の論社
【 后神社(Kisaki Shrine)境外社】
・若宮神社(Wakamiya Shrine)《主》片菅命(katasuge no mikoto)
若宮神社(三宅島 伊豆)の記事をご覧ください
-
若宮神社(三宅島 伊豆)(后神社の境外 末社)
若宮神社は 后神社の境外社です 三宅一周道路から 伊豆岬灯台へと下る道路の左側 道路と海の間にある藪の中に に小さな祠が鎮座しています
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[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社名 ] 片菅命神社
[ふ り が な ](かたすげのみことの かみのやしろ)
or(かたすかのみことの かみのやしろ)
[How to read ](Katasuge no mikoto no kamino yashiro)
➂南子神社(Minamiko no kamino yashiro)の論社
『特選神名牒(tokusen shimmyo cho)』明治9年(1876年)に記される内容
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒(tokusen shimmyo cho)』出版 大正14年(1925年)磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155
【 后神社(Kisaki Shrine)境内社】
・南子神社(Nago Shrine)《主》南子命(nago no mikoto)
-
后神社(三宅島 伊ヶ谷)
后神社(きさきじんじゃ)は 御祭神について 三島大明神の三宅島の后「伊賀牟比売命(いかむひめのみこと)」は 幼い子を抱いて 入水し石になって海中に鎮まっていると『三宅記(みやけき)』に記されます そうした訳でしょうか 三宅島の伊ヶ谷港の高台から太平洋を眺めるように鎮座します 又『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される格式ある由緒を持ちます 江戸時代に 三宅島に流された「禊教の教祖・井上正鐵の碑」もあります
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[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社名 ] 南子神社
[ふ り が な ](みなみこの かみのやしろ)
[How to read ](Minamiko no kamino yashiro)
伊豆國 賀茂郡
伊賀牟比売命神社(Ikamuhime no mikoto no kamino yashiro)
各々の神社の記事をご覧ください
・后神社(三宅島 伊ヶ谷)〈当社〉
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后神社(三宅島 伊ヶ谷)
后神社(きさきじんじゃ)は 御祭神について 三島大明神の三宅島の后「伊賀牟比売命(いかむひめのみこと)」は 幼い子を抱いて 入水し石になって海中に鎮まっていると『三宅記(みやけき)』に記されます そうした訳でしょうか 三宅島の伊ヶ谷港の高台から太平洋を眺めるように鎮座します 又『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される格式ある由緒を持ちます 江戸時代に 三宅島に流された「禊教の教祖・井上正鐵の碑」もあります
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・物見処遺跡【后神社 旧鎮座地】
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物見処遺跡【后神社 旧鎮座地】(三宅島 伊豆)
物見処遺跡(もれんど いせき)は おおよそ中世から近世にかけての遺跡と考えられています 仏教的な経塚信仰と 三宅島在来の積石信仰が融合した特殊な施設遺跡です 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「伊豆國 賀茂郡 伊賀牟比賣命神社(Ikamuhime no mikoto no kamino yashiro)」の比定社とされる「后神社(Kisaki Shrine)」(三宅島 伊ヶ谷に鎮座) の旧鎮座地だったと伝わり 室町時代の文明3年(1471) 伊カ谷部落を創設するときに 「后神社」は現在地へ遷座したとされます
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・浅間神社(伊豆国二之宮)
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浅間神社(伊豆国二之宮)
浅間神社(せんげんじんじゃ)は 伊豆国二之宮とされています 古くは三嶋大社の摂社「八所別宮」でした 富士講が賑わいを見せた当時は 富士登山をする三島・伊豆方面の者は 必ず立ち寄り 安全を祈願して出発した と伝えられています 同じ境内敷地内に祀られる「芝岡神社」は 世古本陣から遷座されました
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神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
阿古港から北上 約6km 車12分程度
三宅一周道路から 伊ヶ谷の港への道を下ります
道を下りきる手前のカーブには 江戸時代中期の江戸城大奥「絵島生島事件」で流罪となった歌舞伎役者「生島 新五郎(いくしま しんごろう)」の墓があります
正面の太平洋には 神津島 右手に新島が見えます
道を下りきると伊ヶ谷港になります
伊ヶ谷港から崖を見上げると直ぐ上に鳥居が見えます
后神社(Kisaki Shrine)に参着
白い鳥居の横には 松の大木が境内に横たわるように生えています
鳥居の扁額には「后神社」とあり 急な石段の上に社殿が見えます
一礼して 鳥居をくぐります
石段を上がります
途中に味のある狛犬が構えます
石段は見た目より急勾配です
拝殿にすすみます 扁額には「后神社」とあります
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿の右側奥には
「長根八幡神社(Nagane hachiman Shrine)」
社殿のすぐ右側には
境内社の「若宮神社(Wakamiya Shrine)」か
もしくは「恵比寿神社(Ebisu Shrine)」のどちらかは不明
お詣りをします
そのすぐ左には 三宅島に流された禊教の教祖・井上正鐵の碑があります
碑文
あじきなき 我がねぎ事をきこし召し
雨くだします 神そ尊し
神道禊教の由緒によれば 弘化2(1845)年 三宅島はひどい日照りに見舞われ 島民たちの強い願いにより ご教祖様は 雨乞い祈願を引き受け 伊ケ谷村后神社に籠り 島民の為に断食の祈願を行ったとあります
拝殿の左側から上にある 本殿の覆屋に行けます
本殿の様子は見れませんが 拝殿内に改築記念の写真がありました
この本殿の左側には 並列して境内社が鎮座していて しかも 参道の石段はそれぞれありますので 式内社の論社でもありますので 敬われている祠に間違いはありません
というよりは 祠に行くための石段になっています
お詣りをします
この位置から 拝殿を下に見て 海が見渡せます
石段を下りると 古い手水鉢が置かれていたことに気付きました
拝殿の左横にも古い手水鉢があります「文化2年」とありますので1805年ですから 200年以上前です
下りの石段から 鳥居の先に太平洋の白波と 遥か沖合には神津島があります
鳥居を抜けて 振り返り一礼をします
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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『三宅記(miyakeki)』に記される「大蛇退治」の伝承
三島大明神が 箱根の湖辺に住む老翁媼の娘3人を大蛇(龍神)から救い そして娘3人を后として三宅島に迎える話が記されます
意訳
ここに一つの不思議があります
箱根の湖のほとりに 翁と姥がおりました 夫婦は370歳になっておりましたが 三人の娘がいました
明け暮れと湖で釣りをして暮していましたが あるとき 一日中釣りをしていたが 一匹も魚がなかった舟の舳先に伏してお願いをしました
「この湖に主(ヌシ)が居られるならば あわれな この舟を魚でいっぱいにして頂けないでしょうか お礼に3人娘の中から 誰でもお気に召すまま 一人をお与えいたしましょう」と言い 居眠りをしてしまいました
すると16..7程の男が何処から現われて「先程の話は聞き届けました」と言いかき消すように失せました
そして その通りに 小さな魚たちが舟に飛び込み 舟は魚でいっぱいになってしまいました翁は 恐ろしくなって帰ろうとすると 水底より声がありました
「2,3日で約束の通りに迎えに行くつもりです 三女を貰おう」と言うものです翁は帰って いつもとは違い 消沈していましたので 姥や子供たちが見ておられ「何を悩んでおられますか」と聞かれましたら
「言わなくとも 叶うわけではないのに・・・今日に限っては魚を一匹も釣ることが出来ないので あまりの事だったので「あわれな この舟を魚でいっぱいにして頂けないでしょうか お礼に子供の中から 誰でもお気に召すまま 一人をお与えいたしましょう」と言ったところ たちまち舟に魚が沢山飛入りまして その後で 水底から声があって 三女をください 迎えに参上しますと言ったことがあり 嘆かわしくて この様に悩んでおります」と事の次第を語りました
娘三人は「それは たやすいことです 私たちのはかりごとに任せてください」と言われて翁も落着き「さて どうしようか」とおしゃりました
「約束の人が来たら 3人ともに後ろの家に居るとお答えください」と言って後ろに家を構えて待ちました
3日目の亥の刻に 男が迎えに来ました「約束に従いお迎えに参りました」と声があり 翁は出迎えて
「後ろの家に居ります」と答えられたので そのまま後ろの家に行きました
そこで三女が出迎えると「我々は ここの者ではなく 富士の頂に住む者ですので そちらへ尋ねてきてください」といって鳩となって飛び立っていきました
その時 男は大蛇になると大いに怒り 残りの二人の娘を取ろうとしましたので 二人も共に鳩になって飛び去っていきました大蛇はいよいよ怒り 富士山に三女を探し求めようと追りました
三女は 富士の山頂の岩の中に隠れておりましたが たまたま三嶋大明神が富士の山頂に登られていて 大明神は三女を見て何処の人かと尋ねられました
三女は「私は 箱根の湖の「かきのおうち」と申す者の三女でございます 父は唐土(もろこし)においでになる時は 八大執金剛童子と申しましたが 地神五代の「あまつひこねににぎのみこ」の御時に あまりにも垂迹がすばらしいので この国に渡ってまいりました
地神の御遺言に従い「あめつちのみこと」と契りを結びもうけられたと聞いておりますまた 母は斯羅奈(しらない)國の王の三女です
父母ともに370歳でございます
この父 箱根の湖に出て釣りをされましたが 魚を一匹も釣ることが出来ませんでした あまりの事で何んとはなく「この湖の底に主が居れば魚を得させてください そのお礼に3人の娘の中で誰でも望みのままに与えましょう」と言うと 水神がこれを聞き「それならば」と魚を与え その後「約束である」と迎えに来られたので ここへ飛んで来たのですが きっとここへも来るでしょう どうすればいいでしょう」と打ちしおれておりました大明神は「私を頼りにして頂ければ 御隠し申し上げましょう」とおしゃりました「どのようにでも お計らいにお任せいたします」と答えられました
この時 大蛇はそのまま富士の山腹に登りかかっていました その時 2人連れだって大島に飛ばれると 大蛇もまた大島に追って来たので それから また2人で連れだって三宅島に飛ばれました
三女を御嶽へお隠しになられて 見目と若宮にむかって「どうしようか」と御言葉を掛けました
「それは容易いことです」といい
「二つの大穴を掘り 一つの穴には飯を盛って「あんねいこ」にお預けください これを飯の王子といたします
もう一つの穴には 酒を満たして「まんねいこ」にお預けください これを酒の王子といたします
このようにお計りになられて 大蛇が来たならば 見目がお相手となり 飯と酒とを勧め 大蛇が酔ったところを「剣の御子」に切らせて差し上げましょう」と支度をされましたこの一大事を見物しようと 島々の王子たち 后たちもおいでになりました
新島の大宮の王子も劍の御子を従えておいでになりました
残りの妃は 王子が親のかたきを打たれるのを見ようと 「イガイ(いかゑ)」の浦の石の陰に隠れてご覧になりましたそうしているうちに大蛇が怒り 御嶽に登ろうとしているのを 見目が出向いて 様々になだめて「まずは 飯と酒を差し上げましょう」と申し上げると 大蛇もその穴に向かいました あらかじめ用意していたことなので 待ち構えた飯の王子は飯を無理強いして 酒の王子は酒をさしあげると 大蛇はたちまち酔って 鱗を立てて眠りこんでしまいました
これを一番に「劍の御子(三島大明神の随神)」が斬り 二番に「大宮の王子(新島を拓いた神)」が斬り 三番に「ていさんの王子(大宮の王子の弟)」が斬りました
大蛇が斬られて 尻尾を振り回したので 岩陰から見ていた「みとくちの大后(新島の泊大后大明神)」の左の御目に当たり 打ちつぶされてしまいましたこうして大蛇はやすやすと討伐され 各島の王子・后もお帰りになられましたそこで大明神は 御嶽に登られて あの后を探されましたが姿が見えませんでした
大明神は怒って見目に探すようにお命じになると 見目はお引き受けして ツツジの花の中から捜し出されました
「どうして 隠れていたのですか」と尋ねると「小蛇がいたので 大蛇の眷属かと思い恐ろしくなって ツツジの中に立ち入れましたら 着物の紅梅色とつつじの花を見間違えられたので 逃げた訳ではございません」とおしゃりましたので
大明神は「これより この島の躑躅(つつじ)は花を咲かせないように 蛇は后を怖がらせ給う」とお言いつけになり それから 蛇はこの島にいてはならんと追い出されました大明神は残る二人の娘も見目に探させ島に招き入れ、三人の娘を后とし、三宅島の各所に置かれた
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『三宅記』鎌倉時代末期 [書誌事項]写本 ,明治04年[旧蔵者]教部省
『三宅記(miyakeki)』に記される伝承
三島大明神が 箱根芦ノ湖辺の老翁の娘3人を三宅島に迎え 后として3人を置きました
長女が 后神社(Kisaki Shrine)
《主》伊賀牟比賣命(Ikamuhime no mikoto)王子が4人
次女が二宮神社(Ninomiya Shrine)
《主》伊波乃比咩命(Iwanohime no mikoto)王子が2人
三女が御笏神社(Oshaku Shrine)
《主》佐伎多麻比咩命(Sakitamahime no mikoto)王子が8人
とされていて 王子は14人が記されています
この長女が后神社(Kisaki Shrine)のご祭神です
三宅島西方向にある「伊ヶ谷(いがい)」に鎮座され「いかゐの后」と呼ばれ
「みとのくちの大后」を妬んで 幼い子を抱いて 入水し石になって鎮まっていると記されています
意訳
又 三島大明神は 見目に
「この后の姉たちは 何処へいらしゃったのか お捜しなさい」と言いつけられました
見目は御言葉に従って捜されると白根ヶ嶽(芦ノ湖と富士山の間にある白根山)におられました「大明神の言いつけですので(三宅島に)お入りください」と申し上げました
「それは出来ないことです」と返事をされました
見目は様々になだめて 2人共に誘い参上されたので 大明神は大いに喜ばれて御寵愛になりましたこうして「ちゃく(嫡)女」〈伊賀牟比賣命(Ikamuhime no mikoto)〉を 島の「酉の方角(西 方向)」に置かれました
その御腹には王子(名称不詳)が4人いらっしゃいました
この后は「みとくちの大后(新島の泊大后大明神)」を妬まれて 幼少の王子をお抱きになられて「いかゐ(イカイ)の海」(伊ケ谷の海)に飛び入られて石となって 海中にいらっしゃいますあと2人の(王子の)うち 1人は「丑寅の方角(北東 方向)」で海中にお入りになりました
もう一人は 「辰巳の方角(南東 方向)」の渚で思いつめて亡くなられました
残った1人は 大明神に付き添われています又 次の后(次女)〈伊波乃比咩命(Iwanohime no mikoto)〉は この島の「未の方角(南南西 方向)」に置かれましたその御腹には王子が 2人いらっしゃいました 1人は「うらみ子」といって 大明神の側を離れずにいらっしゃいます 又 1人は「二宮(にのみや)」といって母御前のもとにいらっしゃいました
三女〈三島大明神の第三の后神(佐岐多麻比咩命(sakitamahime no mikoto)〉は 三宅島の丑寅(うしとら)〈北東〉の方に置かれました
かまつけ(神着)という所です
その腹から8人の王子が 一度にお産まれになりました1番は「ナコ」
(南子命)〈南子神社or后神社境内社〉
2番は「カネ」
(加彌命)〈カミイノ宮〉
3番は「ヤス」
(夜須命)〈御嶽神社〉
4番は「テイ」
(氐良命)〈神澤神社or湯船神社〉
5番は「イタヒ」
(志理太宜命)〈椎取神社or志理太乎宜神社(片瀬白田)〉
6番は「クライ」
(久良惠命)〈久良浜神社【出張(でばり)】〉
7番は「カタスケ」
(片菅命)〈片菅神社or若宮神社or片菅神社(片瀬白田)〉
8番は「ヒンスケ」
(波夜志命)〈峯指神社or走湯神社(下田市大賀茂)〉
と申します又「ななはしら」と言うところでお育てになられました
ところどころに宮々を置かれました
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『三宅記』鎌倉時代末期 [書誌事項]写本 ,明治04年[旧蔵者]教部省
后神社(Kisaki Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
伊豆國 賀茂郡
伊賀牟比売命神社(Ikamuhime no mikoto no kamino yashiro)
各々の神社の記事をご覧ください
・后神社(三宅島 伊ヶ谷)〈当社〉
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后神社(三宅島 伊ヶ谷)
后神社(きさきじんじゃ)は 御祭神について 三島大明神の三宅島の后「伊賀牟比売命(いかむひめのみこと)」は 幼い子を抱いて 入水し石になって海中に鎮まっていると『三宅記(みやけき)』に記されます そうした訳でしょうか 三宅島の伊ヶ谷港の高台から太平洋を眺めるように鎮座します 又『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される格式ある由緒を持ちます 江戸時代に 三宅島に流された「禊教の教祖・井上正鐵の碑」もあります
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・物見処遺跡【后神社 旧鎮座地】
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物見処遺跡【后神社 旧鎮座地】(三宅島 伊豆)
物見処遺跡(もれんど いせき)は おおよそ中世から近世にかけての遺跡と考えられています 仏教的な経塚信仰と 三宅島在来の積石信仰が融合した特殊な施設遺跡です 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「伊豆國 賀茂郡 伊賀牟比賣命神社(Ikamuhime no mikoto no kamino yashiro)」の比定社とされる「后神社(Kisaki Shrine)」(三宅島 伊ヶ谷に鎮座) の旧鎮座地だったと伝わり 室町時代の文明3年(1471) 伊カ谷部落を創設するときに 「后神社」は現在地へ遷座したとされます
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・浅間神社(伊豆国二之宮)
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浅間神社(伊豆国二之宮)
浅間神社(せんげんじんじゃ)は 伊豆国二之宮とされています 古くは三嶋大社の摂社「八所別宮」でした 富士講が賑わいを見せた当時は 富士登山をする三島・伊豆方面の者は 必ず立ち寄り 安全を祈願して出発した と伝えられています 同じ境内敷地内に祀られる「芝岡神社」は 世古本陣から遷座されました
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