三ノ朔幣神社 旧鎮座地(三宅島 神着)

三ノ朔幣神社 旧鎮座地は 御笏神社Oshaku Shrine)の東北100m程に鎮座します 三宅島 神着の南方にある南子山に鎮座する「南子神社Nago Shrine)」の遥拝所であったとも 三宅島 阿古に鎮座する「富賀神社Toga Shrine)の遥拝所であったとも伝わります 現在は 御笏神社(Oshaku Shrine)に合祀されています

目次

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

三ノ朔幣神社(san no sakuhei no Shrine)旧鎮座地
 (さんのさくへいのじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

三幣Sampei sama)

【鎮座地 (Location) 

東京都三宅島 三宅村神着

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》不詳

【御神格 (God's great power)】

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社の旧鎮座地

【創  (Beginning of history)】

不詳

※現在は 御笏神社(Oshaku Shrine)に合祀されています 三ノ朔幣神社(南子神社の遥拝所)の旧鎮座地とされています

【由  (history)】

不詳

※式内報告書などとは 全く異なる説明の看板もあります
場所は 神着の バス停「土佐」のすぐ近くに 三の宮林道の入口があり 看板「三の宮」には次のように書かれています

三の宮

三の宮は明治7年(1874)の噴火によって形成された砂漠地帯である。
三の宮と呼ばれるゆえんは、かつてこの地域に熊野三社の一つ物忌奈命(ものいみなのみこと)を祀った三の朔幣宮が鎮座したことによるものである。

明治7年7月3日雄山の中腹にある大穴と呼ばれる地点から噴火して、神着東郷集落をうずめ広大な土地を瓦礫の荒廃地に変えてしまった。
以来百余年の歴史は、この瓦礫地帯に見事な黒松の群生地を造成し、盆栽型の樹型は訪れる人びとの目を楽しませてくれる。
三宅村

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(engishiki jimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 ] 南子神社
[ふ り が な  ](みなみこの かみのやしろ)
[How to read ]Minamiko no kamino yashiro) 

国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)の
伊豆国 賀茂郡 南子神社Minamiko no kamino yashiro)の4つの論社について

南子神社(三宅島 神着)
 南子神社の記事をご覧ください

一緒に読む
南子神社(三宅島 神着)

南子神社(なごじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の格式の高い由緒のある神社です 御笏神社の祭神「佐岐多麻比咩命(sakitamahime no mikoto)」の一番目の王子とされる「南子命(Nago no mikoto)」を御祭神として祀ります 神着の南方にある 南子山の原生林の中に鎮座しています 

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・御笏神社Oshaku Shrine)に合祀 三ノ朔幣神社南子神社の遥拝所
 御笏神社の記事をご覧ください

一緒に読む
御笏神社(三宅島 神着)

御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です

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三ノ朔幣神社(san no sakuheino Shrine)旧鎮座地(三宅島 神着)〈当社〉

一緒に読む
三ノ朔幣神社 旧鎮座地(三宅島 神着)

三ノ朔幣神社 旧鎮座地は 御笏神社(Oshaku Shrine)の東北100m程に鎮座します 三宅島 神着の南方にある南子山に鎮座する「南子神社(Nago Shrine)」の遥拝所であったとも 三宅島 阿古に鎮座する「富賀神社(Toga Shrine)」の遥拝所であったとも伝わります 現在は 御笏神社(Oshaku Shrine)に合祀されています

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后神社Kisaki Shrine)境内社の南子神社
 后神社(境内社の南子神社)の記事をご覧ください

一緒に読む
后神社(三宅島 伊ヶ谷)

后神社(きさきじんじゃ)は 御祭神について 三島大明神の三宅島の后「伊賀牟比売命(いかむひめのみこと)」は 幼い子を抱いて 入水し石になって海中に鎮まっていると『三宅記(みやけき)』に記されます そうした訳でしょうか 三宅島の伊ヶ谷港の高台から太平洋を眺めるように鎮座します 又『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される格式ある由緒を持ちます 江戸時代に 三宅島に流された「禊教の教祖・井上正鐵の碑」もあります

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南子神社(下田市 神子元島)

※式内社調査報告には記されていますが 現在 神子元島には神社や祠は見あたりません
波風が強く 何度も消失したとも伝わります
https://www.google.com/maps/place/%E7%A5%9E%E5%AD%90%E5%85%83%E5%B3%B6/@34.5745212,138.9420112,18z/data=!4m12!1m6!3m5!1s0x0:0x237eb1d45e96afc7!2z5Lih56We56S-!8m2!3d34.6576!4d138.966645!3m4!1s0x60175b74a0a70383:0x2858da0c91ac6c3e!8m2!3d34.5745212!4d138.9420112

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

御笏神社(Oshaku Shrine)の東北100m程

三ノ朔幣神社(san no sakuhei no Shrine)旧鎮座地に参着

溶岩(御神体)が 石積の上祭壇にあり 茶碗のようなものもあり お祭りはされているようです

祭壇の跡地にすすみます 

賽銭を置いて お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『三宅記(miyakeki)』に記される伝承

三島大明神が 箱根の翁の娘3人を三宅島に迎え 后として3人を置きました

長女 后神社Kisaki Shrine)
《主》伊賀牟比賣命(Ikamuhime no mikoto)
次女二宮神社Ninomiya Shrine)
  《主》伊波乃比咩命(Iwanohime no mikoto)
御笏神社Oshaku Shrine)
  《主》佐伎多麻比咩命(Sakitamahime no mikoto)
とされています

この三女が御笏神社(Oshaku Shrine)のご祭神です

三宅島の三女〈三島大明神の第三の后神(佐岐多麻比咩命(sakitamahime no mikoto)〉は かまつけ(神着)という所に置かれ
その腹から8人の王子が 一度にお産まれになったと記されています

1番目の御子が「ナコ」(南子命(Nago no mikoto))です

意訳

三女〈三島大明神の第三の后神(佐岐多麻比咩命(sakitamahime no mikoto)〉は 三宅島の丑寅(うしとら)〈北東〉の方に置かれました
かまつけ(神着)という所です
その腹から8人の王子が 一度にお産まれになりました

1番は「ナコ」
(南子命)〈南子神社or后神社境内社〉
2番は「カネ」
(加彌命)〈カミイノ宮〉
3番は「ヤス」
(夜須命)〈御嶽神社〉
4番は「テイ」
(氐良命)〈神澤神社or湯船神社〉
5番は「イタヒ」
(志理太宜命)〈椎取神社or志理太乎宜神社(片瀬白田)〉
6番は「クライ」
(久良惠命)〈久良浜神社【出張(でばり)】〉
7番は「カタスケ」
(片菅命)〈片菅神社or若宮神社or片菅神社(片瀬白田)〉
8番は「ヒンスケ」
(波夜志命)〈峯指神社or走湯神社(下田市大賀茂)〉
と申します

又「ななはしら」と言うところでお育てになられました
ところどころに宮々を置かれました

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『三宅記』鎌倉時代末期 [書誌事項]写本 ,明治04年[旧蔵者]教部省

三ノ朔幣神社(san no sakuhei no Shrine)旧鎮座地 (hai)」(90度のお辞儀)

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各々の神社の記事をご覧ください 

母神 三島大明神の第三の后神
(佐岐多麻比咩命(sakitamahime no mikoto)祀る神社 

・御笏神社(Oshaku Shrine)

 

・祖師堂(Soshido)御笏神社の旧鎮座地 

 

椎取神社(三宅島神着)〈古社地〉 

 

・両神社(下田市須崎) 

 

・波夜多麻和氣神社(下田市相玉) 

 

 

1番「ナコ」(南子命)祀る神社

・南子神社(三宅島 神着) 

 

・御笏神社(Oshaku Shrine)に合祀 三ノ朔幣神社(南子神社の遥拝所)
 御笏神社の記事をご覧ください 

 

・三ノ朔幣神社(san no sakuheino Shrine)旧鎮座地(三宅島 神着)
 三ノ朔幣神社 旧鎮座地の記事をご覧ください 

 

・后神社(Kisaki Shrine)境内社の南子神社
 后神社(境内社の南子神社)の記事をご覧ください 

 

・南子神社(下田市 神子元島)

 ※式内社調査報告には記されていますが 現在 神子元島には神社や祠は見あたりません
波風が強く 何度も消失したとも伝わります
https://www.google.com/maps/place/%E7%A5%9E%E5%AD%90%E5%85%83%E5%B3%B6/@34.5745212,138.9420112,18z/data=!4m12!1m6!3m5!1s0x0:0x237eb1d45e96afc7!2z5Lih56We56S-!8m2!3d34.6576!4d138.966645!3m4!1s0x60175b74a0a70383:0x2858da0c91ac6c3e!8m2!3d34.5745212!4d138.9420112 

 

2番「カネ」(加彌命)祀る神社 

・カミイノ宮 御笏神社の本殿に合祀 

 

・カミイノ宮 旧鎮座地(三宅島 神着 首山)※原生林の奥の為 未参拝です 

・二宮神社【旧地】山ノ神(三宅島 神着 東郷)〈当社〉 

 

二宮神社(三宅島 坪田)(合祀先)〈論社〉 

 

 

3番「ヤス」(夜須命)祀る神社 

・御嶽神社跡(三宅島 坪田)〈当社〉 

 

・二宮神社(三宅島 坪田)〈合祀〉 

 

・嶽比良神社(三宅島 伊豆) ※掟により入山禁止の為 未参拝 

・子安宮(三宅島 神着) 

 

 

4番「テイ」(氐良命)祀る神社 

・神澤神社(三宅島 伊豆) 

 

・湯船神社(三宅島 神着)〈論社〉
 湯船神社の記事をご覧ください 

 

・八王子社(下田市中
 八王子社の記事をご覧ください 

 

 

5番「イタヒ」(志理太宜命)祀る神社 

・椎取神社(三宅島神着) 

 

  ・志理太乎宜神社(片瀬白田) 

 

 

6番「クライ」(久良惠命)祀る神社 

・久良濱神社【出張(でばり)】 

 

・久良濱神社(三宅島 坪田)
 ※未参拝 島民は「高山さん」は非常にこわい神様だとして恐れ足を踏み入れない 

・二宮神社(三宅島 坪田)〈合祀〉 

 

 

7番「カタスケ」(片菅命)祀る神社 

・片菅神社(三宅島 神着美茂井
  片菅神社の記事をご覧ください

 

 

・御笏神社 に合祀された境内神社の勝祖神社
  御笏神社の記事をご覧ください 

 

・若宮神社(三宅島 伊ヶ谷)后神社の境内社 もしくは 后神社の本殿に合祀
  后神社(三宅島 伊ヶ谷)の記事をご覧ください 

 

・若宮神社(三宅島 伊豆)后神社の境外社
若宮神社(三宅島 伊豆)の記事をご覧ください 

 

・片菅神社(東伊豆町片瀬) 

 

 

8番「ヒンスケ」(波夜志命)祀る神社 

・峯指神社(Hoshino kamino yashiro)御笏神社の本殿に合祀 

 

・峯指神社(Hoshino kamino yashiro)旧鎮座地 

 

・走湯神社(下田市大賀茂)

 

 

富賀神社Toga Shrine)の遥拝所であったとも伝わります
富賀神社の記事をご覧ください

一緒に読む
富賀神社(三宅島 阿古)〈延喜式内社 阿米都(和)氣命神社の論社〉

富賀神社(とがじんじゃ)は もともとは 峯富賀平(雄山の8合目付近)に鎮座するも 噴火により 二島ヶ山(新富賀山(二富賀山)古錆浜の荒島神社へ遷座し その後 現在地の富賀山(海抜60.4m)中腹に鎮座したと伝わります 古来より伊豆七島の総鎮守「三島大明神」として 伊豆の三島大社の祭神の発祥地だとする説もあります

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伊豆国 式内社 92座(大5座・小87座)について に戻る       

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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