富賀神社(三宅島 阿古)

富賀神社は もともとは 峯富賀平(雄山の8合目付近)に鎮座していたと云われ 噴火により 二島ヶ山(新富賀山二富賀山古錆浜に鎮座の荒島神社)へ遷座し その後 現在地〈三宅島の南西 阿古にある富賀山(海抜60.4m)の中腹に鎮座したと伝わります 古来より伊豆七島総鎮守三島大明神として 静岡県伊豆三島神社の祭神の発祥地だとする説もあります

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

富賀神社Toga Shrine)
(とがじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

富賀さま

【鎮座地 (Location) 

東京都三宅島 三宅村阿古

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》事代主命Kotoshironushi no mikoto)
   伊古奈比咩命Ikonahime no mikoto)
   阿米都和気命Ametsuwake no mikoto)

【御神格 (God's great power)】

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

不詳

とがじんじゃ
富賀神社

富賀山(海抜60.4m)の中腹に鎮座している。
伊豆諸島の総鎮守、静岡県の三島大社の総社と言われている。三島大社は本来この地に鎮座し、そのあと、三宅島富賀神社→白浜海岸白浜神社→大仁町広瀬神社→三島市三島大社と遷したという。

當社はもと上の峯富賀平(雄山の八合目あたり)の地に鎮座していたが、噴火により本殿を焼失し、その後、二島ヶ山(新富賀山・二富賀山ともいう。古錆浜にある荒島神社のあたり)へ移り、さらに現在地へ移ったという。

当社(当社というより当島)の神主職は累代壬生氏が襲継してきた。壬生家は三宅島でも最も由緒ある家柄で、神主職とともに代々地役人も兼ねてきた。
(蓋し壬生氏は、古代皇族の御養育に奉仕した家柄で、その一族の分布も相当に廣く、近国では駿河・三河両国にもその移住がしられるから、同家も亦中央より移住したものであろうかと推定せられる。)伊豆下田、伊古奈比咩命神社誌 P168より抜粋。

《 事代主命(恵比寿様)は、父である大国主命(大国様)とともに出雲国島根半島から紀伊国に渡り、さらに、三宅島に渡ってこの神社付近に移住し、島中に漁業、農業を伝えて、この島の基盤を築いたといわれている。静岡県三島神社は本来、富賀神社より分祀された旨が事代主神の御事跡に明記されている。

また富賀神社の御本殿地下には事代主神の御陵であるといわれ、神殿の地下からは古墳時代の土器や勾玉、耳飾りなどが発掘されており、現在それが保存されている。なかでも古鏡は奈良時代初期の古神である。
事代主神三宅島に宮居し神去ります。事代主大神の諸島経営せられし憑拠(ひようきよ)とすべき「三宅記」となす。(前文略)
富賀神社宮司 壬生明彦 》

富賀神社修復委員会
http://www.miyakejima.com/toga/history.htm

【由  (history)】

富賀(とが)神社

 この神社には、事代主命(ことしろぬしのみこと)(三島大明神)、伊古奈比咩命(いこなひめのみこと)(后(きさき))及び阿米津和気命(あめつわきのみこと)(王子)の三人が祀られている。
事代主命は、父 大国主命(おおくにぬしのみこと)と共に出雲国 島根半島から紀伊国に渡り、更に三宅島に渡つてこの神社附近に居住し、島々に漁業や農業を伝えて島の基盤を築いたといわれている。伊豆七島の総守でもあり、静岡県 三島神社 発祥の地として名高い。
また、一説には、事代主命の墓所でもあるともいわれている。境内からは、古墳時代の土器や勾玉、耳飾などが発掘され、現在保存されている和鏡も平安時代にかけてのもので、古社であることがうかがわれる。
現在の本殿・拝殿・神輿堂・参道については、度重なる台風や噴火の被害を受けたために、平成19年に修復が行われたものである。
三宅村

社頭の案内板より

【境内社 (Other deities within the precincts)】

富賀神社Toga Shrine)の「四社の宮」
以下順不同 本殿向かって右側より

本殿への石段 向かって右側に

壬生Mibu Shrine)
《主》壬生御館実秀Mibu no mitachi sanehide)

※御祭神は『三宅記(miyakeki)』に記される三嶋大明神の初代奉斎者「壬生御館実秀(Mibu no mitachi sanehide)」です 神職家の壬生家の始祖とされます

若宮Wakamiya Shrine)
《主》物忌奈命(monoimina no mikoto)

元宮は 若宮神社(三宅島 伊豆)(后神社の境末社)とされています 記事をご覧ください

元宮
若宮神社(三宅島 伊豆)(后神社の境外 末社)

若宮神社は 后神社の境外社です 三宅一周道路から 伊豆岬灯台へと下る道路の左側 道路と海の間にある藪の中に に小さな祠が鎮座しています

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本殿への石段 向かって左側に

見目(mime Shrine)
不詳
《主》迦具突智神(kagutsuchi no kami)とも伝わります

元宮火戸寄神社(三宅島 阿古)の記事をご覧ください

Tsurugi Shrine)
《主》剣の神Tsurugi no kami)
元宮差出神社(三宅島 錆ヶ浜)の記事をご覧ください

元宮
差出神社(三宅島 錆ヶ浜)

差出神社は 『三宅記(miyakeki)』に記されている「大蛇退治の伝承」に登場する「剣の御子」が 当社の御祭神「剣の神(Tsurugi no kami)」のこととされています 「剣の御子」は その剣で 大蛇を最初に退治したと記されていて 当社が鎮座する「錆ヶ浜(sabigahama)」の名前の由来は この 剣刀の錆 を落としたことに 由来すると云われています

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 この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(engishiki jimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 ] 阿米都)氣命神社
[ふ り が な  ](あめつ(わ)けのみことの かみのやしろ)
[How to read ]Ametsu(wa)ke no mikoto no kamino yashiro) 

国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

 

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

神職家の「壬生家(mibuke)」と『三宅記(miyakeki)』について

三宅島には 朝廷に仕えた壬生(mibu)という由緒ある家柄があります
その壬生家は 神主職とともに代々地役人も兼ねてきた歴史があり 壬生家には代々伝わるのが「三島大明神縁起(別名:『三宅記(miyakeki)』)」です

壬生家

平安時代初期、来島したとされる壬生氏は、三島大明神を奉り、大明神の代官として集団来島し、初代壬生御館から始まり、その後島長・神官としておよそ1000年にわたり三宅島の祭政を統治してきました。

壬生氏は 三宅島の神々を 三島大明神の后神・子神に再編し、代表神に雄山噴火を祀る富賀神社(とがじんじゃ)を仕立て、石の築地を作るなどしました。

 

また壬生氏は海上交通の能力を持ち、伊豆国との交易や行政的な連絡を行い、その勢力を保持したものとみられています。

三宅村役場公式HP「歴史」より
https://www.miyakemura.com/databankrekisi/

島役所跡は その壬生氏の屋敷であり 現在も壬生家が住んでいます

 

 

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)所載社の論社について

伊豆國(izu no kuni) 賀茂郡(kamo no kori)
阿米都)氣命神社Ametsu(wa)ke no mikoto no kamino yashiro)

各々の神社の記事をご覧ください

峯富賀平(雄山の八合目あたり)の地〈発祥地〉

 ※噴火の為 具体的な鎮座の地は全く不詳
(現在はカルデラの底?)(笠地の上あたりとも?)
参考まで 雄山の山頂を取り囲むように雄山林道があり 笠地観音があります

https://www.google.com/maps/place/%E7%AC%A0%E5%9C%B0%E8%A6%B3%E9%9F%B3/@34.076404,139.4913191,15.08z/data=!4m11!1m5!8m4!1e2!2s103000322469529635115!3m1!1e1!3m4!1s0x60165d3c4a352475:0xbe4ffe44c7ffa02a!8m2!3d34.0832901!4d139.5035738

荒島神社(三宅島 阿古)〈旧鎮座地〉

旧鎮座地
荒島神社(三宅島 阿古)

荒島神社は 富賀神社(Toga Shrine)の旧鎮座地です もとは 雄山の八合目あたりの地に鎮座しましたが 噴火により本殿を焼失し その後 古錆浜にある荒島神社の二島山(ニシマヤマ)あたりへ移り さらに現在の富賀神社の地へ遷座したと伝わっています

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富賀神社(三宅島 阿古)〈当社〉

 

三嶋大社(mishima taisha)の遷座について

富賀神社Toga Shrine)伝わる「三島大明神」の遷座について

噴火による「三宅島」島内での遷座の後

伝承には 
三島大社は 本来この地に鎮座し そのあと 三宅島 富賀神社
➁「白浜海岸 白浜神社
③「大仁町 広瀬神社
④「三島市 三島大社と遷したとする説があります

各々の神社の記事をご覧ください

富賀神社(三宅島 阿古)〈当社〉

一緒に読む
富賀神社(三宅島 阿古)

富賀神社は もともとは 峯富賀平(雄山の8合目付近)に鎮座していたと云われ 噴火により 二島ヶ山(新富賀山(二富賀山)古錆浜に鎮座の荒島神社)へ遷座し その後 現在地〈三宅島の南西 阿古にある富賀山(海抜60.4m)の中腹〉に鎮座したと伝わります 古来より伊豆七島の総鎮守「三島大明神」として 静岡県伊豆の三島神社の祭神の発祥地だとする説もあります

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伊古奈比咩命神社(白浜神社)

一緒に読む
伊古奈比咩命神社(白浜神社)

伊古奈比咩命神社は 神社の縁起によれば「この神 三宅島よりここに遷り 後更に 三島に遷座す」とあり 伊豆諸島の開拓神「御島神=三嶋神」と后神「伊古奈比咩命」が祀られています 鎮座地の白浜海岸にある丘陵「火達山(hitachi yama)」は 古代から伊豆諸島を祀る祭祀遺跡ですが 今でも伊古奈比咩命神社の祭祀が続けられています

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廣瀬神社(伊豆の国市(元 大仁町))

一緒に読む
廣瀬神社(伊豆の国市)

広瀬神社は 古来より 田中郷5ヶ村の総鎮守で『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)の論社です 社伝によれば 往古 社殿は 金銀をちりばめ壮大にして 禰宜36人 供僧6坊を置き 神領8町8反大50歩永80貫文を充てられ 隆盛を極めたとされ 三島大社はその昔 下田の白浜から この地に移り 後に三島に遷祀したと伝わります 

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三嶋大社(三島市)

一緒に読む
三嶋大社(三島市)

三嶋大社は 古くから伊豆諸島の噴火・造島活動を司る神として 朝廷の尊崇を受けていました もともとは伊豆国賀茂郡にあり 平安中期以降に現在の場所に移ったと考えられています 平安末期には源頼朝が 源氏の再興を願って祈願に通い 治承4年(1180)旗挙げを果たして武家政権を樹立したことから 鎌倉時代を通じて幕府崇敬の神社となりました 現在でも 伊豆国一之宮として 伊豆半島の信仰の中心となっています

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

錆ヶ浜港から 三宅一周道路を南下 約1.8km 車6分程度
三宅一周道路沿いに 参道入り口の鳥居が建っています

 

鳥居をくぐって 約2~300mほど坂を下ります 右側が開けて境内です
富賀神社Toga Shrine)に参着

 

道路と参道の際には 玉石が並んで敷き詰められていて ここから 玉石が縁石となっていて 小砂利が敷き詰められている参道が続き ご神域となっています 後方が本殿が鎮座する「富賀山(海抜60.4m)」です

 

参道を進むと 鳥居の右手前には手水舎があります

 

一礼をして 鳥居をくぐると 参道の右手には「忠魂碑」があり 拝礼をします

 

参道を傾いた陽が照らす中を進みます

 

ちょうど この位置からは 拝殿の奥 富賀山に陽が残り 最後の鳥居をくぐり抜けます

 

拝殿にすすみます 

 

扁額には「富賀神社」とあります

 

賽銭をおさめ お祈りです

 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

 

拝殿の向かって右側には「神輿殿」が建ちます

 

東京都指定無形民俗文化財(風俗慣習)である「富賀神社の巡り神輿」〈2年に1度 8月4日から9日まで6日をかけて 旧5村(阿古 伊ヶ谷 伊豆 神着 坪田)に各1泊しながら 時計回りに島内を一周し巡行する〉神輿殿であるはずです

 

神輿殿の前から拝殿を眺めると 拝殿よりも一段高い檀に 境内社が祀られています

 

拝殿の後ろに回ると
富賀神社Toga Shrine)の「四社の宮」と呼ばれる境内社があります

お詣りをします

本殿への石段 向かって右側には

壬生Mibu Shrine)
《主》壬生御館実秀Mibu no mitachi sanehide)

※御祭神は『三宅記(miyakeki)』に記される三嶋大明神の初代奉斎者「壬生御館実秀(Mibu no mitachi sanehide)」です 神職家の壬生家の始祖とされます

若宮Wakamiya Shrine)
《主》物忌奈命(monoimina no mikoto)

元宮は若宮神社(三宅島 伊豆)(后神社の境末社の記事をご覧ください

元宮
若宮神社(三宅島 伊豆)(后神社の境外 末社)

若宮神社は 后神社の境外社です 三宅一周道路から 伊豆岬灯台へと下る道路の左側 道路と海の間にある藪の中に に小さな祠が鎮座しています

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本殿への石段 向かって左側には

見目(mime Shrine)
不詳
《主》迦具突智神(kagutsuchi no kami)とも伝わります

元宮火戸寄神社(三宅島 阿古)の記事をご覧ください

Tsurugi Shrine)
《主》剣の神Tsurugi no kami)

元宮差出神社(三宅島 錆ヶ浜)の記事をご覧ください

元宮
差出神社(三宅島 錆ヶ浜)

差出神社は 『三宅記(miyakeki)』に記されている「大蛇退治の伝承」に登場する「剣の御子」が 当社の御祭神「剣の神(Tsurugi no kami)」のこととされています 「剣の御子」は その剣で 大蛇を最初に退治したと記されていて 当社が鎮座する「錆ヶ浜(sabigahama)」の名前の由来は この 剣刀の錆 を落としたことに 由来すると云われています

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拝殿の真後ろは 本殿に通じる石段になっています

 

しかし ゲートがありここから先には進めません

 

本殿への石段は 樹木のトンネルの様になっています その先には 御本殿の屋根が見えています

 

拝殿の前に戻り 改めて 本殿を遥拝します

 

夕日に照らされる参道を戻ります

 

ちょうど 太陽は 本殿の真上 南西に沈んでいこうとしています

 

夕日を背にしているので 社殿は北東向きに建っていて 参道の先には 三宅島の中心「雄山」があります 本来は この火山「雄山」を遥拝する神社とされていますので 社殿の向きは 真逆に建っていることになります

 

不思議なことに
この夕日が沈むあたりに「西之御門宮」があります

こちらから
西之御門宮に向かってみます 記事をご覧ください

 

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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本文徳天皇実録(nihon Montokutenno jitsuroku)』に記される伝承

平安時代の初頭 第55代文徳天皇(Montokutenno)の御代 850~854年に 伊豆の神々とともに 神階を授かっています 

『日本文徳天皇実録(nihon Montokutenno jitsuroku)』嘉祥3年(850年)6月4日の条

意訳

嘉祥3年(850年)6月4日の条

伊豆(イズノクニ)
 阿米都和氣命(アメツチワケノミコト)富賀神社(三宅島 阿古)
 伊太豆和氣命(イタツワケノミコト)(御蔵島)
 阿豆佐和氣命アトサワケノミコト(利島)
 佐岐多麻比咩命(サキタマヒメノミコト)(三宅島)
伊賀(イガノクニ)
 佐佐神津神(ササノカミツノカミ)〈佐々神社伊賀市音羽

等 並びに授く 従五位下

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本文徳天皇実録』元慶3年(879年)完成 選者:藤原基経/校訂者:松下見林 刊本刊本 ,寛政08年 10冊[旧蔵者]農商務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047714&ID=M2018040912122716848&TYPE=&NO=

『日本文徳天皇実録(nihon Montokutenno jitsuroku)』仁寿2年(852年)12月15日の条

意訳

仁寿2年(852年)12月15日の条

駿河国(スルガノクニ)

三嶋太神(ミシマノオオカミ)〈三嶋大社〉 従四位下

阿波比咩命(アワヒメノミコトカミ)
物忌奈命(モノイミナノミコトカミ)
伊古奈比咩命(イコナヒメノミコトカミ) 並び加え 正五位下

阿米都和氣命神(アメツチワケノミコトカミ)富賀神社(三宅島 阿古)
伊太豆和氣命神(イタツワケノミコトカミ)(御蔵島)
阿豆佐和氣命神アトサワケノミコトカミ(利島)
波布比咩命神ヒメノミコトカミ)(大島)

従五位上 を並び加える

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本文徳天皇実録』元慶3年(879年)完成 選者:藤原基経/校訂者:松下見林 刊本刊本 ,寛政08年 10冊[旧蔵者]農商務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047714&ID=M2018040912122716848&TYPE=&NO=

『日本文徳天皇実録(nihon Montokutenno jitsuroku)』斉衡元年(854年)6月26日の条

意訳

斉衡元年(854年)6月26日の条

伊豆(イズノクニ)

 三嶋(ミシマノカミ)〈三嶋大社〉  従四位下

 阿波比咩命(アワヒメノミコトカミ)
 物忌奈命(モノイミナノミコトカミ)
 伊古奈比咩命(イコナヒメノミコトカミ) 並び加え 正五位下

 阿米都和氣命神(アメツチワケノミコトカミ)富賀神社(三宅島 阿古)
 伊太豆和氣命神(イタツワケノミコトカミ)(御蔵島)
 阿豆佐和氣命神アトサワケノミコトカミ(利島)
 波布比咩命神ヒメノミコトカミ)(大島)
 等 従五位上を 並び加える

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本文徳天皇実録』元慶3年(879年)完成 選者:藤原基経/校訂者:松下見林 刊本刊本 ,寛政08年 10冊[旧蔵者]農商務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047714&ID=M2018040912122716848&TYPE=&NO=

 

『三宅記(miyakeki)』に記される三随神(sanzuijin)」の伝承

天竺の王子が 日本に到着後
丹波の国(tambanokuni)で翁と出逢い 三島大明神(Mishima daimyojin)となるであろうこと 正体は「薬師如来(Yakushi nyorai)」であることを告げられます
翁の御子3人が「三随神(sanzuijin)」となって 三島大明神に付き添う様子が 記されています

当社の境内社「四社の宮」の 御祭神は「三随神(sanzuijin)」の3社が含まれていて それぞれ 2人は男 1人は女です

1人を「若宮(wakamiya)」と名付けました
正体は「普賢菩薩(fugembosatsu)」です

1人は「剣(tsurugi)」と名付けました
「不動明王(fudomyoo)」です

1人の女子は「見目(mime)」と名付けました

正体は「大弁財天(daibenzaiten)」です
海龍王(kairyuo)とも申します と記されています

意訳

日本に渡る中間で 海中に荒れた風がたったので 船頭と舵取りは港へ戻そうとしました
王子は「この船は 左や右を向くのではなく 日本に向けなさい」と命令をされましたが 船頭は進んでお従いを差し上げず 舵取りは あれやこれや やみくもに走らせようとして帆を引きました
王子は立ち上がられて 御扇で 扇ぎ扇がれましたので たちまち順風になって 瞬く間に 御船は日本に着きました

しかし 王子は船の中ではお供もお連れになりませんでしたので お疲れになり 人家を探されたところ 神寂びた社の前に 柴の庵があるのをご覧になり 立ち寄られると 年を取り寿命もつきそうな姥と翁がおりました

王子は 近寄って
「旅のものですが 疲れてきたので何でも良いから 頂けないでしょうか」と頼まれましたが
「ここには 少しの食べ物の蓄えもございません 他へ行ってお求めください」
と答えましたが 重ねておしゃいますには
「他に行って求める方が良いが わざわざここを目指して参りました 何でも良いのです 何でもあるものでけっこうですから」と重ねて御言葉がありました

姥は翁に向かって
「普通の人とは思えないお方が 疲れてやって来て 食べ物を乞われています ✊出て見てください」と言うと 翁は立って出て 見て差し上げると 姥に云うには
「このお方は ただの人ではいらっしゃいません 薬師の化身でいらっしゃいますぞ 急いでお入りいただきなさい とはいえ 只今差し上げる食べ物も思い出しません」と申し上げると

「あそこに見えるものを 木の葉に入れてお授けください」と御言葉があったので ご希望通りに木の葉に載せて差し上げました
それを取って賞味され
「これの名前は何んというのでしょうか」と尋ねられましたので
タミという木の実であると申し上げますと
「美味しいものだから 私が住むところに植えよう」と七粒お持ちになりました

さて その夜の晩 翁は
「今宵の夢枕に 殿は天竺の王子でいらっしゃるのですが 東の海 伊豆の国の海の沖合いに 土地を焼きだしてお住まいになられるでしょう
殿のお名前は 三島大明神Mishima daimyojin)と申し奉られるでしょう
本当のお姿は 薬師如来Yakushi nyorai)でいらっしゃるとのお告げを頂きました」
と話されました

翁は 地神の5代「ウノハフキアワセズノミコト」の御代にこの国に渡ってきました
「私は 百済国では「アマノコヤネノミコト」と呼ばれていましたが 年令が320歳になりましたので 昔や今の様子もだいたい覚えています
何処に居られても 姥と翁をお忘れにならないでください

私には 3人の子供がおります 2人は男 1人は女です

1人を「若宮(wakamiya)」と名付けました
正体は「普賢菩薩(fugembosatsu)」です

1人は「剣(tsurugi)」と名付けました
「不動明王(fudomyoo)」です

1人の女子は「見目(mime)」と名付けました

正体は「大弁財天(daibenzaiten)」です
海龍王(kairyuo)とも申します

海中に住まわれるのであれば また衆生(shujo)に功徳を授けるためにも 人の知力を超越した者達でございますので 王子にさしあげましょう」
と言って付き添わされました

「あそこに見えている船こそ幸いにも富士の裾野の方角へ行く船です お乗りください」と4人を御船に乗せて
「この場所を 後には丹波の国(tambanokuni)と呼ぶでしょう」と言って 翁は柴の庵に帰りました

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『三宅記』鎌倉時代末期 [書誌事項]写本 ,明治04年[旧蔵者]教部省

 

『三宅記(miyakeki)』に記される「大蛇退治」の伝承

三島大明神が 箱根の湖辺に住む老翁媼の娘3人を大蛇(龍神)から救い そして娘3人を后として三宅島に迎える話が記されます

この中で 大蛇退治の際 大蛇を最初に退治したのが「剣の御子」と記されています この時の剣が 当社の神宝とされている「蛇切りの太刀」であると伝わります

意訳

ここに一つの不思議があります
箱根の湖のほとりに 翁と姥がおりました 夫婦は370歳になっておりましたが 三人の娘がいました
明け暮れと湖で釣りをして暮していましたが あるとき 一日中釣りをしていたが 一匹も魚がなかった

舟の舳先に伏してお願いをしました
「この湖に主(ヌシ)が居られるならば あわれな この舟を魚でいっぱいにして頂けないでしょうか お礼に3人娘の中から 誰でもお気に召すまま 一人をお与えいたしましょう」と言い 居眠りをしてしまいました
すると16..7程の男が何処から現われて「先程の話は聞き届けました」と言いかき消すように失せました
そして その通りに 小さな魚たちが舟に飛び込み 舟は魚でいっぱいになってしまいました

翁は 恐ろしくなって帰ろうとすると 水底より声がありました
「2,3日で約束の通りに迎えに行くつもりです 三女を貰おう」と言うものです

翁は帰って いつもとは違い 消沈していましたので 姥や子供たちが見ておられ「何を悩んでおられますか」と聞かれましたら
「言わなくとも 叶うわけではないのに・・・今日に限っては魚を一匹も釣ることが出来ないので あまりの事だったので「あわれな この舟を魚でいっぱいにして頂けないでしょうか お礼に子供の中から 誰でもお気に召すまま 一人をお与えいたしましょう」と言ったところ たちまち舟に魚が沢山飛入りまして その後で 水底から声があって 三女をください 迎えに参上しますと言ったことがあり 嘆かわしくて この様に悩んでおります」と事の次第を語りました
娘三人は「それは たやすいことです 私たちのはかりごとに任せてください」

と言われて翁も落着き「さて どうしようか」とおしゃりました

「約束の人が来たら 3人ともに後ろの家に居るとお答えください」と言って後ろに家を構えて待ちました
3日目の亥の刻に 男が迎えに来ました

「約束に従いお迎えに参りました」と声があり 翁は出迎えて

「後ろの家に居ります」と答えられたので そのまま後ろの家に行きました

そこで三女が出迎えると「我々は ここの者ではなく 富士の頂に住む者ですので そちらへ尋ねてきてください」といって鳩となって飛び立っていきました
その時 男は大蛇になると大いに怒り 残りの二人の娘を取ろうとしましたので 二人も共に鳩になって飛び去っていきました

大蛇はいよいよ怒り 富士山に三女を探し求めようと追りました
三女は 富士の山頂の岩の中に隠れておりましたが たまたま三嶋大明神が富士の山頂に登られていて 大明神は三女を見て何処の人かと尋ねられました
三女は「私は 箱根の湖の「かきのおうち」と申す者の三女でございます 父は唐土(もろこし)においでになる時は 八大執金剛童子と申しましたが 地神五代の「あまつひこねににぎのみこ」の御時に あまりにも垂迹がすばらしいので この国に渡ってまいりました
地神の御遺言に従い「あめつちのみこと」と契りを結びもうけられたと聞いております

また 母は斯羅奈(しらない)國の王の三女です
父母ともに370歳でございます
この父 箱根の湖に出て釣りをされましたが 魚を一匹も釣ることが出来ませんでした あまりの事で何んとはなく「この湖の底に主が居れば魚を得させてください そのお礼に3人の娘の中で誰でも望みのままに与えましょう」と言うと 水神がこれを聞き「それならば」と魚を与え その後「約束である」と迎えに来られたので ここへ飛んで来たのですが きっとここへも来るでしょう どうすればいいでしょう」と打ちしおれておりました

大明神は「私を頼りにして頂ければ 御隠し申し上げましょう」とおしゃりました「どのようにでも お計らいにお任せいたします」と答えられました

この時 大蛇はそのまま富士の山腹に登りかかっていました その時 2人連れだって大島に飛ばれると 大蛇もまた大島に追って来たので それから また2人で連れだって三宅島に飛ばれました

三女を御嶽へ隠しになられて 見目と若宮にむかって「どうしようか」と御言葉を掛けました
それは容易いことですといい
二つの大穴を掘り 一つの穴に飯を盛ってあんねいこ」お預けください これを飯の王子といたします
もう一つの穴には 酒を満たしてまんねいこ」お預けください これを酒の王子といたします
このようにお計りになられて 大蛇が来たならば 見目がお相手となり 飯と酒とを勧め 大蛇が酔ったところを「剣の御子」に切らせて差し上げましょう」と支度をされました

この一大事を見物しようと 島々の王子たち 后たちもおいでになりました
新島の大宮の王子も劍の御子を従えておいでになりました
残りの妃は 王子が親のかたきを打たれるのを見ようと 「イガイ(いかゑ)」の浦の石の陰に隠れてご覧になりました

そうしているうちに大蛇が怒り 御嶽に登ろうとしているのを 見目が出向いて 様々になだめて「まずは 飯と酒を差し上げましょう」と申し上げると 大蛇もその穴に向かいました あらかじめ用意していたことなので 待ち構えた飯の王子は飯を無理強いして 酒の王子は酒をさしあげると 大蛇はたちまち酔って 鱗を立てて眠りこんでしまいました

これを一番に「劍の御子(三島大明神の随神)」が斬り 二番に宮の王子(新島を拓いた神)」が斬り 三番にていさんの王子(大宮の王子の弟)」が斬りました
大蛇が斬られて 尻尾を振り回したので 岩陰から見ていた「みとくちの大后(新島の泊大后大明神)」の左の御目に当たり 打ちつぶされてしまいましたこうして大蛇はやすやすと討伐され 各島の王子・后もお帰りになられました

そこで大明神は 御嶽に登られて あの后を探されましたが姿が見えませんでした

大明神は怒って見目に探すようにお命じになると 見目はお引き受けして ツツジの花の中から捜し出されました
「どうして 隠れていたのですか」と尋ねると

「小蛇がいたので 大蛇の眷属かと思い恐ろしくなって ツツジの中に立ち入れましたら 着物の紅梅色とつつじの花を見間違えられたので 逃げた訳ではございません」とおしゃりましたので
大明神は「これより この島の躑躅(つつじ)は花を咲かせないように 蛇は后を怖がらせ給う」とお言いつけになり それから 蛇はこの島にいてはならんと追い出されました

大明神は残る二人の娘も見目に探させ島に招き入れ、三人の娘を后とし、三宅島の各所に置かれた

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『三宅記』鎌倉時代末期 [書誌事項]写本 ,明治04年[旧蔵者]教部省

 

『三宅記(miyakeki)』に記される壬生御館(Mibu no mitachi)」の伝承

「三島大明神の御代官」とされている壬生家の始祖である「壬生御館(Mibu no mitachi)」が 天竺から来日して 富士山の山頂で「三島大明神(Mishima daimyojin)」との出逢いが記されています

意訳

ここに 又 ひとつの不思議がございます

富士の山頂に 住んでいる人がいました
その人を壬生御館(Mibu no mitachi)と申しました

ある時「駿河の国の有度浜(udohama)」という所に 天女が8人天下り 東遊(azumaasobi) 駿河舞(surugamai)を舞っていらっしゃいました中に あの壬生御館(Mibu no mitachi)も その中に交じって その舞を舞っていらっしゃいました
そんな時に拍子をとる人が 拍子を打ち違えたので 不審に思って 自分を始めにして人数を数えると9人おりました
さては 他の人が交じっていたのかと さっと引いて天に昇られてしまいました

さて
壬生御館(Mibu no mitachi) 東遊(azumaasobi) 駿河舞(surugamai)を習得されて ここかしこと遊び巡っておられました
ある時 大明神が富士の山頂にいかれた時に ちょうど壬生御館(Mibu no mitachi)も行合わせられました

その時 大明神は
「どのような方でいらっしゃいますか」と尋ねられると
「私は はら奈国の者ですが 日本では垂迹が盛んであることを聞き それで 一日一夜で この国に来て ここやかしこを遊び巡り この山頂にも来ました」とお答えされると 大明神も
「私も天竺の者ですが ここに来て 神明に海中を所望して島を焼き出して 普段から 垂迹達を雇って 島々を広くするために焼きだしていることは 心苦しいものです それでも 末の代のためなればこそと思っています それでは あなたは旅人でおられるのですね」とおしゃいますと

壬生御館(Mibu no mitachi)
「そのように垂迹された方々が 島を焼かれるのを見させて頂きたい とおしゃり 大明神に付き添って来られました それから 年月を送られました」

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『三宅記』鎌倉時代末期 [書誌事項]写本 ,明治04年[旧蔵者]教部省

 

富賀神社Toga Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

 

各々の神社の記事をご覧ください

富賀神社(三宅島 阿古)〈当社〉

荒島神社(三宅島 阿古)〈旧鎮座地〉

旧鎮座地
荒島神社(三宅島 阿古)

荒島神社は 富賀神社(Toga Shrine)の旧鎮座地です もとは 雄山の八合目あたりの地に鎮座しましたが 噴火により本殿を焼失し その後 古錆浜にある荒島神社の二島山(ニシマヤマ)あたりへ移り さらに現在の富賀神社の地へ遷座したと伝わっています

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西之御門宮の記事をご覧ください

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